21. コールマイネーム(後編)
放課後、ほんの少しだけ沈んだ心を抱えながら、私は指定された教室へと向かった。教室のドアを開けると、五月の穏やかな風が頬を優しくなでていく。伊佐敷さんはすでに到着していて、ちょうど窓を開け放しているところだった。西日が少し眩しかったため、右半分だけカーテンがひかれていた。ペパーミントグリーンのそれが、時々やわらかい風をはらんでふわりと揺れる。
「お疲れさまです」
「おう」
席へと戻ってきた伊佐敷さんは、前方にあった机を二つ、向かい合わせにくっつけて腰を下ろす。
「アンケートの集計だとよ」
「ああ、先週やったあれですか」
伊佐敷さんは机の上にあるプリントの山をぺしっと叩いて、その一部を私の机に寄越した。
≪健康に関するアンケート調査≫と銘打たれたそれは、一週間の運動する頻度とか、一日に何時間テレビを見るかなどといったアンケートだ。
私は向かいに座る伊佐敷さんの様子をうかがった。
「部活の時間、大丈夫なんですか?」
「たぶん遅れっけど仕方ねぇだろ。......わりぃな、付き合わせて」
「いえ。だってこの量、一人じゃ終わりませんよ。なんなら伊佐敷先輩はもう部活行ってください」
「あ? これは俺が頼まれた仕事だろ。いーからはじめっぞ」
「はい」
青道高校の野球部は練習量も多くハードなため、こういった委員の仕事は、どこか優遇されている雰囲気がある。だがおそらく、この保健委員の先生は伊佐敷さんが野球部員ということを知らなかったのだろう。伊佐敷さんも部活を理由に仕事を断る性格ではない。
アンケート用紙を一枚一枚捲り集計していく。伊佐敷さんはセーターの袖をまくり、手元の用紙に没頭していた。
カサカサとプリントが風で揺れる音。カチャカチャと電卓を弾く音。ここだけ隔離されたような空間に、時折耳をかすめるそれらの音。快適な教室の温度にまどろみそうになりながら、私は自分の仕事に意識を集中させた。
「部活はどうだ?」
唐突に沈黙を破った伊佐敷さんの言葉に、私は思わず顔を上げた。
「部活? ああ、そうですね......怒鳴られてます、主に」
「あの監督も鬼だって有名だからな」
「普段は無口なのに、部活中は人が変わったみたいになるんですよね。『ヘタクソ! やめちまえ!』って」
「ま、ウチの監督も似たようなもんだぜ」
「確かに」
集計作業がおろそかになったので、私は慌てて下を向いた。
「お前、ポジションはショートだっけ?」
「......はい」
“お前”
そう呼ばれたことに対する小さなもやもやと、けれどポジションを把握していてくれたという喜びとがないまぜになって胸に去来する。どうしてこんな小さなことにこだわってしまうのだろう。伊佐敷さんが私のことをどう呼ぼうと本人の自由なのに。
「守備はなかなかだと思うけどな」
顔を動かさずに目線だけを上げると、伊佐敷さんの口許がわずかに緩んでいるのが見えた。
「ありがとうございます。......っていうか見たんですか?!」
「おう。前にグラウンドのそば通りかかった時な」
「そうですか」
野球部専用グラウンドとソフト部のグラウンドは離れているので、普段はそれほど接点がなく油断していた。まさか、エラーしているところでも見られたのではないかと、内心ヒヤヒヤしてしまう。
「入部直後の哲よりはだいぶマシだな」
「哲ちゃんは昔から守備がへたくそなんですよ」
「だろーな。『どこでも守れます!』って大見得きるから、どんな守備すんのかと思ったらアレだし」
「哲ちゃんそんなこと言ったんですか?」
「おう、一番初めのあいさつでよ」
「なんというか、怖いもの知らずですね......」
伊佐敷さんがふっと小さく笑う。
「ま、あいつはあれから努力したんだし、あながちウソでもなかったってことだろ」
「そうですね」
「『どこでも』は言いすぎだけど」
うんうん、と呟いて私はプリントを捲った。
そうだ、私と伊佐敷さんはこの一年の兄の努力を知っている。そして、伊佐敷さんの努力も。
またしばらく沈黙が訪れる。それから伊佐敷さんは、思い出したようにぽつりと呟いた。
「そういやぁ、前から気になってたんだけどよ。なんでお前、哲のこと“哲ちゃん”って呼んでんだ? 普通、“お兄ちゃん"じゃねぇの?」
「え......」
その時、視界の端で、穏やかな色のカーテンがふわぁっと揺れた。
『てっちゃん?』
『おにいちゃん?』
遠い日の記憶が、小さなヒビの隙間から、じわじわ漏れ出してくるのを感じた。目の前にあるプリントの上の無機質な文字列がばらばらになり、次第に遠くかすんでいく。
「おい?」
当惑気味の伊佐敷さんの声で、私ははっと我に返った。
「すいません......。えっと、急に眠気が」
「おいおい」
「年子だからかな。兄というより、友達に近い感覚で。同じチームに兄弟がいるのってなんか恥ずかしかったんでしょうね。チームメイトはみんな、“哲ちゃん”って呼んでたんですよ」
「へぇ、年子だとそんなもんか」
急に訪れた動悸がばれないように、下を向いてそっと胸を押さえた。そんなことしなくても、聞こえるはずなどないのに。私は一旦深呼吸をしたあと、わざとおどけた調子で訊いてみた。
「伊佐敷先輩も、昔は“純ちゃん”なんて呼ばれてたんですか?」
「なっ?!」
「え」
「なんでもいいだろバカヤロー! 集計しろ集計!」
頬にほんのりと赤みがさしたので、案外図星だったらしい。まだヒゲなんて全く生えていないつるつる顎の“純ちゃん”少年を想像すると、先ほどの動悸は次第に収まり、同時にどこか温かい気持ちがこみ上げてきた。
「“純ちゃん”はピッチャーだったんですか?」
「うるせぇ!」
伊佐敷さんはぷりぷり怒りながらわざと乱暴に電卓を叩いていく。少し調子に乗りすぎただろうか。
「つかお前、“純ちゃん”言えるんならもっと自然に呼べよ」
「え......」
ちょうどお昼休みに悩んでいた話題が出たので、私は無意識に顔を上げた。
「“伊佐敷先輩”」
そう言った伊佐敷さんの口許は、むすりと歪んでいた。
「なんかお前、いつも呼びにくそうにしてるしよ。不自然だろ」
「えっと......」
ああ、伊佐敷さんはちゃんと気づいていたのか。私が呼び名に困っていることを。前は“伊佐敷さん”と呼んでいたことを。
「じゃあ、なんて呼んだらいいですか?」
「あ? お前さっき呼んでたじゃねーか」
「さっき?」
いつの“さっき”だろうと記憶を呼び起こす。私は“さっき”なんと呼んでいたのだろう。
「ほら、昼休みんとき」
「あ」
「おう」
なんとなく口がムズムズする。本人を前にすると、こんなにも緊張するものなのだろうか。けれど私は覚悟を決めて、すっと息を吸い込んだ。
「じゃあ......“純さん”」
そう発した瞬間、呪いを解く呪文のように、囚われていた何かが一気に解放された気がした。何も深く考える必要なんてなかったのに。
伊佐敷さん、いや、純さんはどこかきまり悪そうに顔を伏せ、再び集計作業をはじめた。
窓から吹きこむ爽やかな風が、火照った顔の熱を少しずつはがしていく。するとその時、あることに気がついた。そうだ、今このタイミングで言わなければ。
「“お前”」
「ん?」
「“お前”以外で何か......私のこと呼んでください」
「あ? 呼んでんだろ」
「呼ばれてないですよ」
わずかに眉を寄せた純さんが口を開きかけた時だった。
「すまん伊佐敷! お前野球部だったのかー!」
ガラリと慌ただしくドアを開け、担当の先生が入ってきた。
「っす」
「あとは他の奴に頼むから部活行っていいぞ」
「はい。お疲れさんっした!」
立ち上がって教室を去る純さんの視線と私の視線が、刹那、重なった。けれどそれはほんの一瞬のことで、すぐに純さんは教室をあとにした。
その日の夜。学校から帰ってきた哲ちゃんが、縁側であぐらをかきながらグラブの手入れをしていた。私はその大きな背中に歩み寄り、隣に腰を下ろす。
「ねぇ、哲ちゃんはいつ純さんから“哲”って呼ばれたの?」
「む?」
哲ちゃんは更に、むむむ、と唸りながら熱心にグラブの汚れを落としていく。
「さぁ、いつだったか。気づいたら呼ばれていたからな」
「そっか。まぁそんなもんだよね」
「そんなものだ」
縁側の大きな窓にはまった網戸を、つかの間、ぼぅっと見つめる。もう網戸にしても寒くない季節になった。
「純も、最近やっと呼びはじめたな」
「え? なにを?」
哲ちゃんは不自然そうに目を瞬かせた。
「もしかして......私の、名前?」
「そうだ」
ふっと優しく目を細めた哲ちゃんが、そっと言葉を差しだした。
「なまえ」
その瞬間、哲ちゃんの口許が今日見た純さんのそれと重なった。私は両手で自身の頬を包み込み、必死に納得させるよう呟く。
「そ、そっか。そっかそっか......」
あの、ヒゲの上のいつもどこか不機嫌な形の口から、私の名が紡がれることを楽しみに、明日再び“純さん”と呼んでみよう。
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