20. コールマイネーム(前編)

 ああ、また来ている。
 お昼休み、私がお手洗いから教室に戻ると、あの独特のイントネーションが耳に飛び込んできた。

「わかっとんのか? お前ちゃんと先輩に謝っとけよ!」
「へいへい」

 御幸くんはへらっとした笑みを浮かべて、机に頬杖をついていた。そばには、いつものごとく倉持くんがいる。その隣には、あのイントネーションの持ち主が大げさな身振りで御幸くんに説教をしているところだった。がっしりとした目立つ体躯のうえ大声をあげているので、本人は気づいていないが、教室では少々注目の的だった。
 特に用はないけれど、私はそちらまで歩み寄っていく。
 最近、やっとクラスで席替えがあったのだが、またしても私は御幸くんと隣同士になってしまった。御幸くんが廊下側の一番後ろの席で、私がその隣の席にあたる。
 私は三人のその様子を横目に、そっと椅子を引き腰を下ろした。

「 昨日なぁ、純さんが俺のスイング褒めてくれたんや!」

“純さん”
その言葉に、私の耳がピクリと反応する。

「よかったじゃねーかゾノ」

 倉持くんはその言葉を受けて返事をしたが、御幸くんは涼しい顔で机の上のスコアブックを広げはじめた。もう話は終わった、とでも言う風に。

「いや〜、東さんも尊敬するけど、あの人もほんまかっこいいわ。いつも遅くまで自主練しとるし」
「お前最近そればっかだな」

 どこかあきれたような様子で言葉を返す倉持くん。その時突然、その大声の持ち主、前園くんがこちらを振り返った。ちょうど顔を上げた私と、ばちっと視線が重なる。

「おう、結城。そういや、哲さんが家帰ってからまだ素振りしとるってほんまか?」
「ああ、うん。帰ってから二百回ね」
「はぁ〜、どこにそんな体力残ってんねん......」
「入学した時からの日課だから」

 ほんますごいわ、と前園くんが感心する横で、私はぼんやりと別のことに意識がとらわれていた。
 “哲さん”
 最近、部内で哲ちゃんは後輩からこう呼ばれている。当の本人は表情こそ出さないものの、助さん格さんみたいだと、某時代劇を想像しながらひそかに喜んでいたのを私は知っている。それは別にいい。
 問題は“純さん”だ。
 前園くんは再び倉持くんの方へ向き直った。

「最近純さんが、ギャラリーのおっちゃんらからスピッツって呼ばれとんの知っとるか?」
「ヒャハハハ! あれピッタリだよなぁ!」

 伊佐敷さんがプレイ中にギャンギャン吠える様子が、よく吠える習性のスピッツにそっくりだと揶揄され、最近その通り名が定着しつつあるらしい。ただ、実際のスピッツは小型犬で可愛らしく、外見は似ても似つかないので、そのギャップがまたおもしろいのだ。
 そして、そのスピッツ先輩“純さん”に最近なついているのが、この前園くんである。
 当の前園くんは、どこか探りを入れるようにちらりと私に視線を向けた。

「そういや結城は、純さんの部屋に少女マンガがあんの知っとるかぁ〜?」
「ええっ?! 少女マンガ?」

 前園くんはそのゴツめの顔を、ニタ〜リと満足げに綻ばせる。その表情の中に、わずかな優越感が含まれていることを私は見逃さなかった。

「少女マンガなんて読むんだ......。すごい意外」
「あとチーズも好きやな。マネージャーにチーズおにぎりリクエストするぐらいやし」
「チーズおにぎり?!」

 前園くんを調子づかせてしまうことはわかっているのに、伊佐敷さんの新情報に食いついてしまう私は本当に学習がない。思わず見上げた先の大きな鷲鼻が、ひくひくとうれしそうに膨らんでいくのを、私はぐむむと唇を噛み締めて眺めることしかできなかった。そして私は頭の中の情報をかき集めながら、なけなしの反論を試みる。

「い、伊佐敷先輩の好きな投手は野茂英雄なんだよ......」
「はーん、そんなんもう知っとるわぁ!」
「え、えっと! あと、好きな二塁手は仁志敏久!」
「仁志?! そうなんか?!!」
「そうだよ」

 どうやらこれは知らなかったらしい。私はお返しとして、これみよがしにフンと鼻をならしてやった。以前教えてもらったため、全ポジションを熟知しているが、むざむざと敵にすべての情報をくれてやるつもりはない。

「ま〜たはじまったぜコイツら......」
「なまえもすぐ挑発にのるからな」

 そう呟いた御幸くんは、うんざりしたような様子でスコアブックから顔を上げた。
 ちなみに私は最近、御幸くんと倉持くんからなまえと名前を呼び捨てにされている。“結城”と呼ぶと、尊敬する哲さんを呼び捨てにしているようで心苦しいためらしい。けれど、その尊敬する哲さんの妹の名を呼び捨てにする行為は心苦しくないのか。
 先ほどまで、むっとした面持ちの前園くんだったが、すぐさまいつもの威勢を取り戻した。

「俺のが純さんと過ごす時間長いしな!」
「私は一年前から純さんのこと知ってる!」
「ほぉぉ? “純さん”ねぇ?」
「ええっと、“伊佐敷先輩”のこと知ってる......」

 指摘されたことが恥ずかしくなって、私は消え入りそうな声で訂正した。最近、御幸くんも倉持くんも前園くんもそう呼ぶものだから、移ってしまったらしい。たびたび、私は“純さん”と呼んでしまう失敗を繰り返していた。だが、もう虫の息だった私に、前園くんは見事にとどめの一撃を食らわせた。

「ま、お前はまだ“伊佐敷先輩”呼びやからな!」

 頭のすみっこで、カーンカーン!と高らかにゴングの鳴る音が聞こえ、私は完璧にマットに沈められた。そうなのだ。私は入学してからひそかに後悔していたことがある。
 伊佐敷さんを“伊佐敷先輩”と呼んでしまったことだ。
 入学式のあの日、私はとっさにそう呼んでしまったが、後々振り返ってみるとそれは、どこか他人行儀な響きだった。まだ“伊佐敷さん”の方がマシだ。それを後の機会にさりげなく訂正すればよかったのに、「次から、次から呼ぼう」と悶々しているうちにもう“伊佐敷先輩”呼びで定着してしまった。
 御幸くんと倉持くんも“純さん”と呼ぶので、この内輪の会話の中で私もたまに言ってしまう時があったが、本人を前にして一度も呼んだことはなかった。けれど、野球部の後輩でもないのに“純さん”と呼ぶのは少々不自然な感じがするため、現在呼び名に困っているのだ。ただ、これは私が勝手に気にしていることであって、伊佐敷さんは特にどうとも思っていないだろう。

 前園くんは基本的に、明るくて面倒見も良く、いい奴だということは知っている。裏表のない性格だから、どこか腹の底が読めない御幸くんとは違って気楽に話せる人だとも思っている。だが、こと伊佐敷さんの件となると話は別なのだ。

「そーいや、この前風呂で純さんがな」
「風呂?」
「ああ、これは女子にはわからんことやからなぁ」
「えー。続き気になるよ」
「......お前、純さんの身体の秘密、教えてほしいか?」

 前園くんは何やら意味ありげに声をひそめる。

「え? う、うん......」

 私は無意識に席を立ち、前園くんの方へ顔を寄せて、ドキドキしながらその言葉の続きを待った。ごくり、と自分の喉が鳴るのがわかる。

「それはな......」
「それは......?」

 だがその時突如、前園くんの肩のあたりからにゅっと腕が伸びてきた。突然のことに言葉を失う私をよそに、その謎の腕は前園くんの首をぐっと締め上げてゆく。そのまま前園くんの体は、私から一気に離れていった。

「あだだだだ!」
「ゾ〜ノ〜」

 背後からのその低いくぐもった声に、私は聞き覚えがあった。

「純さん!!」
「おう。ゾノがまた余計なこと言ってねぇだろーなぁ?!あ?」

 そう言って、前園くんの背後からにょきっと頭を出して返事をする伊佐敷さん。その口許は、ニヤリと三日月型に吊り上がっている。

「純ざ、ぐるじいっす......」

 涙目で耐える前園くんは、伊佐敷さんの腕を叩きながらギブアップを表明している。それから伊佐敷さんは、舌打ちしながら前園くんを解放した。前園くんの方が身長も高くガタイもいいのに、がっちりとヘッドロックを極められるのだから、伊佐敷さんも相当腕力があるのだろう。

「げほっごほっ。純さんひどいっす......」
「テメェが人のことベラベラしゃべるからじゃねーか!」

 伊佐敷さんが前園くん相手に吠える横で倉持くんが、そーいやぁ、と尋ねた。

「純さんウチのクラスになんの用ッスかぁ?」
「お、そーだった。忘れるとこだったぜ」

 伊佐敷さんははっと思い出したように、再び私の方へ体を向けた。

「私ですか?」
「おう。さっき委員の先生から急ぎの仕事頼まれてよ。放課後お前、時間あっか?」
「はい。今日は部活休みです」
「んじゃあ放課後、前に委員会あった教室な!」
「わかりました」

 踵を返した伊佐敷さんの背中に、私はとっさに声をかけた。

「あの、伊佐敷先輩!」
「......なんだよ?」

 ためらいがちに言葉を選んでいる私の顔を、伊佐敷さんは不思議そうに見つめる。

「......あの、伊佐敷先輩の身体の秘密ってなんなんですか?」
「おっ、お前も聞いてんじゃねーよ!」

 顔を真っ赤にしながら吠える伊佐敷さんを見て、私はまた失敗してしまったことを悟った。

『兄貴と姉貴は、頭より先に身体が動くのをどうにかしろ』

 絶望的な心境の私の脳裏に、弟・将司のいつかの冷めた台詞がこだまする。
 倉持くんはあいかわらずヒャハハと独特の笑い声を上げ、前園くんはどこか得意げにニタニタ笑っている。私たちのやり取りの横で、御幸くんがため息をつきながら、眼鏡を外して瞼を揉んだのがわかった。


 伊佐敷さんが教室から出て行ったあと、自分の席に戻り、ふとあることに気がついた。
 “ゾノ”
 前園くんは伊佐敷さんから確かにこう呼ばれていた。以前は普通に“前園”だった気がする。そうか、私はここでも負けているのかと、前園くんとの差を再認識させられてしまった。
 そういえば、私は伊佐敷さんから何と呼ばれていただろう。
 出会ってからこれまでの会話を、ゆっくり反芻してみる。記憶の中の会話は、なぜかするすると滑り落ちて、引っかかるところがない。結城でもない。なまえでもない。
 “お前”
 刹那、金槌で頭を叩かれたような衝撃が走った。名字でも名前でもなく、ただの“お前”だ。たかが呼び名のことなのに、なぜか自分の心がほんの少しきしんだ。私は伊佐敷さんにとって“お前”ほどの価値なのか。
 放課後の委員の仕事は、ちょっとだけ憂鬱なものに変わった。




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