19. 水面下の春

「おい結城、ちょっといいか?」

 休み時間、俺がトイレへ向かおうとしていると、廊下で珍しい奴に呼び止められた。
 ニヤっと笑いながら近づいて来るこいつは、確か野球部の高橋だ。一口に野球部といっても、青道は大所帯のため、それ程言葉を交わしたことのない奴も大勢いる。高橋は三軍だから俺とはあまり接点がない。

「なんだ?」
「お前さぁ、一年に妹いるだろ? あんま似てねぇ」
「ああ、いるが。似ているぞ」

 目の前の高橋が白い歯を見せる。その動きに合わせて、異常に整えられた眉が大げさに動いた。

「なぁ、紹介してくんねぇ?」
「紹介?」
「あ、わかんねぇ? 結城は天然だもんな。お付き合いを前提にって意味!」

 ただ聞き返しただけで、俺もそのくらいの意味はわかる。だが、交際を前提として、同級生になまえを紹介することを想像すると、それは何とも奇妙な感覚だった。

「それは、本人に聞いてみないことには何ともいえない」
「わーってるって。頼むわ」
「......ああ、一応話しておく」
「サンキュ」

 そう言ってまたニヤっと笑みを浮かべる。顔の筋肉が緩いのか、よく表情の変わる奴だ。
 けれど高橋は、肝心の会話が終了したあとも、なぜか俺の顔をじっと凝視していた。俺の顔に何かついているのだろうか。

「......お前さぁ、眉ぐらい整えたら?」
「眉?」
「んなボウボウの毛虫みてぇだとモテねぇぜ?」

 俺は自身のそれに手を当ててみる。眉を整えるなど、ついぞ考えたこともなかった。

「変か?」
「かなり濃いーだろ」
「だが、部活中に汗をかいた時便利だぞ。眉毛が汗をせき止めてくれるから、目に入らない」

 俺の言葉を受けた高橋は、どこか大げさに肩をすくめてため息をついた。

「ま、お前にゃカンケーねぇことだな。んじゃ、紹介の件、よろしく頼むわ!」

 高橋は片手を上げてさっさと踵を返し、窓際にいる女子に話しかけはじめた。

「毛虫か......」




 その日の夕食の席で、俺はなまえに例の件を切り出そうと様子を伺っていた。なまえはお腹を空かせていたのか、海老フライをぱくぱく口に運んでいる。

「なまえ......」
「なに?」
「......海老フライはうまいか?」
「うん」

 そう言ってなまえは、うまそうに咀嚼を続ける。

「なまえ......」
「なに?」
「......明日の球技大会は何に出るんだ?」
「サッカーだよ」
「そうか......」

 なぜか俺は、いっこうに例の件を切り出すことができない。喉に海老フライの尻尾でもつかえているのだろうか。

「今日の昼休み、御幸くんと倉持くんと練習したんだけどさ、御幸くんすごいサッカー下手なんだ。びっくりしたよ」
「そうなのか?」
「うん、リフティングもできないみたい」
「あいつは、何でもそつなくこなしそうな気がするがな」
「だよね」

 なまえは、サッカー楽しみだなぁ、と笑って再び海老フライに箸を伸ばした。
 その日は結局、俺はなまえにあの件を言い出せずに終わった。




 翌日は球技大会にもってこいの晴天だった。痛いほどの澄みきった空が、グラウンドの上に青々と広がっている。雲一つない、という表現がまさにぴったりだ。
 俺の今日の出場種目はサッカーだった。ソフトボールもあったが、現役野球部員が出ると試合にならないため、参加することができない。もし、野球未経験の人間が投手をつとめようものならば、きっと俺達の独擅場だろう。俺とていざ試合が始まれば、球技大会だろうと何だろうといっさい手加減するつもりはない。なぜなら野球だからだ。
 丹波たち投手陣は、指先が命のため、手を使わないサッカーを選んだと昨日純から聞いた。確かに、バスケやバレーで突き指でもされた日には大会どころではなくなってしまう。ちなみに、純たちもサッカーを選択したらしい。
 だが、その場にたまたま居合わせたクリスが、何の競技にも出ないと言っていたのは少し妙だった。あいつは真面目な奴だから、理由もなく学校行事を無下にすることは考えにくい。もしかしたら、あいつの身に何かあったのだろうか。
 そんなことをぼんやり考えながらグラウンドのそばを歩いていると、ちょうど御幸のクラスが試合をしている光景が目に留まり、俺は先ほどの思考を一旦中断した。
 俺は数分前に第一試合を終えて、今は次の試合までの休憩時間だった。しばらく御幸の下手なサッカーでも見るか、と傍らの土手に腰を下ろす。
 ちょうどその時、俺の背後から純と亮介がやって来た。

「哲のクラスも終わったのか?」
「ああ、勝ったから休憩を挟んで次が第二試合だ」
「へぇ、じゃあウチのクラスとじゃねーか」
「そうだな」

 純が好戦的な顔でポキポキと指をならしながら、俺の隣に腰を下ろした。亮介もそれに倣って純の隣に座る。いつものチームメイトと敵同士になることは、滅多にないことだろう。

「さっき哲の試合見てたけどさ、哲、走ってるだけだったじゃん」
「しかも敵にパスしてるしよ」
「最後の方なんて、危うくオウンゴールだったよね」
「あれヤバかったな!」

 純たちに矢継ぎ早に糾弾され、俺は苦笑するしかなかった。

「......球技は苦手なんだ」
「野球だって球技じゃねーか!」
「............」

 俺はつかの間、自問してみる。

「攻守が目まぐるしく変わるのが苦手なのかもしれない。その点、野球は攻撃と守備がはっきりしていてわかりやすい」
「そんなもんか?」

 俺は断定的にうなずいたが、純はわかったようなわからないような面持ちだった。
 亮介がグラウンドの方へと視線を向ける。

「へぇ、倉持サッカーうまいね。ま、ちょっとナマイキだけど」

 亮介がクスリと笑った。本人は認めたくないのかもしれないが、倉持とプレイしている時の亮介は、こころなしか楽しそうに見える。愛情表現のつもりか、多少暴力的ではあるが。

「御幸はへったくそだな! さっきからパスミスばっかじゃねーか。これが野球だったらどつき回してるとこだぜ!」

 確かに、試合中に失投や暴投をされては困る。クリスが退いたあとは、御幸は間違いなく正捕手になる器の持ち主だろう。
 その時、ピーッという試合終了のホイッスルが鳴った。御幸たちのクラスはどうやら勝利したらしい。

「おっ、なまえじゃねーか」

 次はなまえたち女子の試合だった。
 そういえば最近純は、なまえのことを名前で呼ぶようになった。以前は“あいつ”と呼んでいた気がする。俺の呼び方が移ってしまったのだろう。

「なまえちゃんフォワードか」

 早速なまえにパスが回ってきた。そこから、ひらりひらりと軽やかにディフェンスをかわしていく。途中でボールを取られたものの、あいつのサッカーの腕は衰えていないようだった。

「へぇ。あいつなかなかやるな」
「小学校の時、よく休み時間にやっていたからな」

 俺はその時、純の顔を眺めながらあることを思いついた。例の件をこの二人に相談してみてはどうだろうか。

「二人とも、少し聞いてほしいことがあるんだが......」
「なんだよ?」
「哲が相談なんて珍しいね」

 俺は、爽やかな空気をひとつ吸い込んでから口を開いた。

「実は......さる人物になまえを紹介しろと頼まれてな。俺は、希望に沿うべきか......」
「は?」

 その時純は、なぜか不機嫌そうに眉をひそめた。

「さる人物って誰だよ」
「それは、本人の沽券に関わるからここでは言えない」
「哲、『紹介』って意味わかるよね?」

 亮介が純の陰からこちらにひょいっと顔を覗かせる。

「それはわかっている」

 グラウンドの方へ視線をやると、なまえが敵からボールを奪ったところだった。あいつは昔から、俺と違ってサッカーがうまい。

「相手にもよるよね。それがわからないことには答えようがないかな」
「む、むむむ......そうだな、そいつは野球部だ」
「野球部だぁ?」

 更に顔をゆがめた純が、そばに生えている雑草をブチッとむしった。

「哲に頼むってことは二年だよね」
「まぁ、そうだな」
「じれってぇな。いっそのことハッキリ言えや!」
「純うるさい」

 亮介が純の後頭部にビシッと手刀を振り下ろす良い音がした。そのまま質問を続ける。

「三軍?」
「......そうだ」
「高橋だね」
「どうしてわかったんだ亮介?」

 亮介の口の端がわずかに持ち上がったのがわかった。

「哲、単純すぎ。何引っかかってんのさ」
「......カマをかけたのか?」
「ま、野球部の三軍でそんなこと言い出しそうなのって高橋くらいじゃん」
「あの眉いじるのが趣味みてぇなヤツか!」

 純が先ほどむしった雑草をバッと放り投げた。五月の穏やかな風に乗って、濃い草の匂いがあたりに漂ってくる。
 純もヒゲをいじるのが趣味じゃないのか、と言いかけたが一応思いとどまった。俺が監督のヒゲに憧れを抱いていることは秘密だからだ。

「でも高橋ってあんまりいい噂聞かないよね。俺、去年あいつの彼女ってコ、三人見たよ」
「そうなのか......?」
「とんでもねぇタラシじゃねーか!」

 純はギャンギャン吠えながら再びブチブチッと雑草を引きちぎる。
 その時亮介はなぜか、純の顔をちらりと見上げて口を開いた。

「なまえちゃんって色恋沙汰に免疫なさそうだし、あんなのに引っかかったら、とって食われてポイなんじゃない?」
「とって食っ......?!」
「うん、もてあそばれてポイ?」
「もてあそっ......?!」

 亮介が涼しい顔で過激なことを言うものだから、純の顔色が赤くなったり青くなったり忙しい。本当に顔に出やすい奴だ。純が今まさにマウンドに立っていたら、すぐに敵へサインがばれるだろう。ただ、亮介の方が純をもてあそんでいるように見えるのは、気のせいだろうか。
 だが他人事ではない。俺は兄として、妹の貞操を何としてでも守らねばなるまい。それを聞いて、俺の覚悟は決まった。

「わかった。この件は、俺の心に留めておくことにする」
「おう、そーしろ!」

 純が握りしめていた雑草をパッと離した。その手は、草の汁で緑色に汚れていた。

「高橋には、なんと言ったらいいだろうか......」
「好きな人がいるとかでいいんじゃない?」
「いんのかっ?!」
「例えだってば。唾とばしすぎ」
「あ〜、無難に今は部活で忙しいとかでいいんじゃね?」
「ああ、そうだな......」

 俺たちが話に夢中になっている間に、試合がかなり動いたらしかった。改めてグラウンドの方へ視線をやると、俺達の存在に気づいたなまえがうれしそうにこちらへ拳を向ける。

「なまえちゃん、今のでハットトリックだね」
「あ?」
「そうなのか?」

 俺と純の返事はほぼ同時だった。

「二人とも試合見てなかったの?」

 亮介があきれたように俺たちの顔を交互に眺める。

「いや、話に夢中だった......」
「おう......」

 なまえたちはその試合、見事大差で勝利をおさめた。




 翌日、俺は例の件を告げるため、高橋を呼び出した。廊下へと出てきた奴は、今日もあいかわらず眉が細い。

「高橋......すまん。今、妹は部活に忙しくてそれどころじゃないらしい」

 やはり嘘をついているので申し訳なく、俺はきちんと頭を下げて謝った。

「ふぅん、そっか。じゃ、いーわ」

 頭を上げると、さして気にしていない様子の高橋の顔が視界に入った。俺は弁の立つ方ではないから、もし高橋が食い下がってきたらと心配していたが、どうやら杞憂だったようだ。

「すまんな」
「いーって。またいいコいたらよろしく!」

 高橋のその軽い調子に、俺はいささか拍子抜けだった。何もあそこまで悩む必要はなかったということか。
 その時俺はなぜか、奴の細い眉を眺めながら少々いたずら心がわいた。こんな気持ちは小学生以来だろうか。
 俺は奴の左肩を指差し呟いた。

「おい高橋、肩に毛虫がついているぞ」

 その瞬間、高橋の眉は一気に持ち上がったあとハの字に下がり、ぎゃっと叫びながら一目散に俺の前から立ち去った。少し刺激が強すぎただろうか。

「お前あいつに何したんだ?」
「高橋すごい顔だったね」
「うが!」

 純と亮介と増子が、腹を抱えて笑いながら俺のそばへと近づいてくる。

「うむ、少々やりすぎたようだ」
「あいつの眉毛、こーんなんなってたぜ」

 こーんなん、と純がおかしそうに指で自身の眉尻を下げている。亮介も珍しく控えめに声をたてて笑っていた。増子はそんな二人を眺めながらえびす顔だ。
 俺はそれを横目に、良い友人を持ったとしみじみ感じていた。こいつらの誰かが、もし高橋と同じことを頼んだならば、俺は迷わず背中を押すだろう。眉など気にする奴より、がむしゃらに野球に打ち込むこいつらの方が信用できるからだ。





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