14. 登る犬

 その日はなんとなくツイてなかった。
 受験の日の朝、いつもは起きる携帯のアラームに気がつかず少し寝坊してしまった。おそらくこれは緊張からだろう。けれど、かなり早めの時間にセットしていたため、時間にはまだ余裕がある。私は心持ち急ぎつつ準備をはじめた。ちなみに、今日は野球部の朝練は休みのようだった。
 朝食には案の定トンカツが出た。ゲン担ぎの好きな母らしい。哲ちゃんの受験の時もそうだったなぁと、デジャヴを感じながら食べはじめる。向かいに座った哲ちゃんが何か言いたげにこちらをチラチラ伺っていたが、ゆっくり聞いている時間はないので適当に受け流す。そうこうしているうちに、意外と時間が経っていたことに気づき、私は急いで自宅を後にした。

 真冬の空には薄汚れた綿のような雲が重く垂れ込め、私から吐き出される白い息は、それに吸い込まれていくように感じた。まるでやる気まで奪われているみたいで、少し気分が萎える。おまけに強い向かい風が吹いていて、自転車のペダルが重い。びゅうびゅうと唸るやっかいな風が、進むたびに私の頬に当たる。
 試合や行事ごとの時は、比較的晴れることが多いのに、今日は本当にツイてない。
 その時、うちから百メートルあたり進んだところで後ろからかすかに声がした。思わず振り返ると、家の前で母が何かを振りながら大声で私を呼んでいる。私は何か重要なものでも忘れたのかと思い、自転車を全速力でこいで引き返すと、母は満面の笑みでガッツポーズを作りながら私に赤い箱を差し出した。

「はい、がんばって! キットカットよ!」
「......うん、ありがと」

 気持ちはうれしいけれど、全力で戻るほどでもなかった。

 強い風に煽られながら、やっとのことで青道の駐輪場に自転車をとめて歩き出した。試験開始までまだかなり時間があり、受験生は少ない。今日は土曜日のため在校生はいなかった。私は緊張した気分を落ち着けるため、一旦野球部のグラウンドに寄ることにした。普段見慣れている所を見ると、気持ちが安定すると思ったからだ。
 グラウンドの近くには大きな木が等間隔に植えられているが、冬なので葉をほとんど落としていて少し寂しい感じがする。
 しばらくそれらを見ながら散歩していたが、ふと足を止めた時唐突に、自分がちゃんと受験票を持ってきていたか気になりだした。鞄を開けて、ファイルから受験票を取り出して確認する。

「よかった。うん、大丈夫だよね」

 ほっとしたのもつかの間、私の正面からものすごい突風がびゅおーっと吹き上げた。

「わっ!」

 びゅうーという轟音と共に受験票が一気に舞い上がる。受験票は私の手から離れはらはらと踊った。焦った私はそれを掴もうと躍起になるが、かなり高い位置に飛んでゆく。

「ちょっ?! えええー?!」

 私の必死の行動をあざ笑うかのように、あろうことか受験票は、無常にも木の枝に引っかかってしまった。葉の落ちた、細かい枝が無数に分かれたところになんともまぁ器用に張りついている。

「なにこれ、マンガ......?」

 私はあまりマンガは読まないけれど、この展開はマンガのようだと思った。ピョンピョンとジャンプをして手を伸ばしても、位置が高すぎて届かない。
 ああ、まずいことになった。この場合、試験は受けられるのだろうか。助けを呼ぼうにも、グラウンドは校舎からは離れていて人が通らない。なくした時は何らかの措置があるのか、それとも......。そこまで考えてぞっとした。なんとなくバレてはいけない気がする。

「よ、よし......!」

 私は目の前の冬枯れした木を見上げた。大丈夫。昔は木登りが得意で、よく男子と虫を取るために登っていた。スカートの下にはちゃんとスパッツをはいている。
 私は覚悟を決めて木の枝に手をかけた。握ると手のひらが少し痛いけれど、今は我慢してそのまま足をかけよじ登る。よし、順調だ。この調子この調子。
 その時、背後からかすかに気配がした。

「お、お前......何やってんだ......?」

 明らかに動揺した声色に、どこか聞き覚えがあった。けれど、私の知っているそれはいつもはもっと大声だったはずだ。そのままの態勢でゆっくり振り返ると、驚愕の面持ちの伊佐敷さんが私を見上げていた。

「あの、これは......」

 私は急に自分のしていることが恥ずかしくなり、頬がかーっと熱くなった。この位置ならスカートの中も見えているかもしれない。

「いいから降りろ!!」

 今度はいつものように大声で吠えた。

「は、はい......」

 私はとりあえず地面に降りて、伊佐敷さんと向かい合った。ジャージにダウンを着て、コンビニの袋を下げているから買い物の帰りだろう。

「何やってんだお前は!! 今日は試験じゃねーのか?! つーか学校にサルでも出たかと思ったぜ!!」
「うう......」

 伊佐敷さんのきついノックのような怒声を浴びながら、それでも私は受験票をチラチラ気にしていた。

「だって......」
「おぉう......? ど、どーした?」

 私はもう半泣きだった。それに気づいた伊佐敷さんがわずかにたじろぐ。「あれ」と言いながら、私は木の上の受験票を指した。

「あ?」
「あれ、私の受験票なんです」

 伊佐敷さんは私の顔と受験票を交互に見た。私は寒いのと半泣きのせいで鼻水がひどい。

「あーー!? あれかぁ?!」
「ズズッ......ぞうでず......」
「いやぁ、なんつーか......マンガみてぇだな......」

 伊佐敷さんも呆然と木の上を眺める。

「だから登って取ろうと思って。昔は、木登りのなまえちゃんと呼ばれるほど得意だったんです」
「ああ? 木登りって......」
「なんですか」

 なんだか伊佐敷さんの私を見る目が、珍獣を見る目つきだった。

「いや、さすがにこの高さは危ねぇだろ」

 眉をひそめながら木を内側から覗きこむ。

「大丈夫です! だから止めないでください!」

 私はマジックテープのごとく木に張り付いた。そのまま登ろうと足をかけはじめる。

「だからやめろっつの!」
「離してください!」

 伊佐敷さんは、後ろから私の両肩を掴んで木から引き剥がした。力を込めて抵抗したけれど、男の人の力には敵うはずもなく地面に戻される。
 私が振り返ると、伊佐敷さんは頭を掻きながらしばしの間、何かを迷っているようだった。けれど、すぐ決心したように私の顔をまっすぐ見つめた。

「......よし、俺が登る」
「え?」

 そう言い放ったものの、一瞬目が泳いだのを私は見逃さなかった。

「伊佐敷さん。木登り経験は?」
「......いや、ねぇ」
「やっぱり私が」

 と幹に手をかける。

「やめろっつの!」

 それを伊佐敷さんは再び引き剥がす。私は試験時間が迫ってきた焦りと、自分へのふがいなさに気が動転していた。

「じゃあどうしろって言うんですか! これじゃ試験受けられませんよ!」
「バカヤロー!! それで落ちてケガでもしたらどうすんだ!!」
「......!!」

 伊佐敷さんの剣幕に驚いた私は押し黙った。確かにその通りだ。私は周りの人に多大な迷惑や心配をかけるところだった。頭がすっと冷えていく。

「すいません、軽率でした」
「や、こっちこそ悪かった......」
「いえ......」
「『落ちる』とか言ってよ」
「............」

 私はびっくりして、気まずそうに視線をそらす伊佐敷さんを見る。今の伊佐敷さんの謝罪は、私を怒鳴りつけたことに対してだと思った。どうやら受験生に「落ちる」というワードを使ったことを気にしていたらしい。怒鳴ったことを謝らないということは、それだけ本気で私を心配してくれたということなのだ。もう学校の人を呼ぼう、そう思った時だった。
 伊佐敷さんは、打席に立つ時のようにふーっと深く息を吐いた。そして木に近づき、感触を確かめるようにして幹に手をかける。

「木登り得意だったんだろ? お前が下から指示しろ」
「えっ? あっはいっ!」

 そのまま慎重に登りはじめた。けれど、やはり手足がどこかぎこちない。伊佐敷さんは歯を食いしばって枝を掴む。

「くっ......」
「あ! 右足はその上の方の太い幹に!細い方じゃ危ないです!」
「わかった」
「もっと根元の方を持って!」

 いくつか指示を飛ばしながらゆっくり登っていくのを見守る。元々運動神経がいいのだろう。コツを掴みはじめると登るペースはぐんと上がった。

「いい感じです! その調子!」
「おー」

 伊佐敷さんの声が遠くなった。その声に重なるように、びゅうという強い風が吹く。もうかなり上の方まできている。あと少しだ。左手で枝を掴んで体を支え、右手をギリギリまで受験票へ伸ばす。もう少し、もう少し。
 そして、その手は受験票の端をしっかりと掴んだ。その瞬間、自分でも無意識に歓声が上がっていた。

「おい、すぐ受け取れるように下から手伸ばしとけ」
「いえ! 伊佐敷さんが地面に下りるまで見届けます! 木登りは下りるのがやっかいなんです!」
「間に合わねーぞ!」
「ダメです! 下りるまでが木登りなんです!」
「遠足かよ!!」

 こんな必死な状況でも伊佐敷さんのツッコミは色褪せない。「家に帰るまでが遠足ですよ〜」と、遥か昔小学校の先生の優しい声が頭をよぎったが、今は振り払った。
 受験票を握りしめた伊佐敷さんが、慎重に足場を確認しながら下りてくる。

「ゆっくりです、ゆっくり」
「おう」

 私には、登ったはいいけれど下りられないという苦い経験があった。だから、伊佐敷さんが下りるまで見届ける義務がある。

「っと!」

 伊佐敷さんは無事、着地した。そして、若干しわくちゃになった受験票を私に差し出す。

「オラ、ちゃんと掴んどけ。今度は飛ばされるんじゃねーぞ」
「ありがとうございます!」

 受験票をしっかり握って胸元に引き寄せる。

「間に合うか?」
「足には自信あります!」
「うっしゃ! ならブッ飛ばせ!!」

 私はその言葉を合図に一気に駆け出した。



 その後、私は無事に試験を受けることができた。これもひとえに伊佐敷さんのおかげた。開始前、私が緊張で身を固くしていると、隣の席の優しそうな男子が「大丈夫?」と声をかけてくれた。今日の恩人第二号だ。入学できたらまた会えるかもしれない。
 そして試験は滞りなく終了した。私の前の席の男子の、「俺今日、受験票忘れたんだけど、係りの人に言ったら再発行してもらってよ。ははは」という言葉に、私の顔は再びぼあーっと熱くなった。まさかそんなシステムがあったなんて。
 帰りに何かお礼をしようと鞄の中を見ると、今朝母に持たされたキットカットが出てきた。受験シーズンの特別パッケージで、裏面にメッセージ欄があったので、私は伊佐敷さんへの感謝の気持ちを書き込んだ。



 私が帰る頃には、野球部はいつものように練習していた。伊佐敷さんもグラウンドにいる。邪魔しては悪いし誰に渡そうか。
 その時、グラウンドのそばに見知った顔を発見し駆け寄った。

「小湊さーん!」
「あ、なまえちゃん」

 練習着の小湊さんも私に気づいて歩み寄る。

「ああ、試験お疲れさま」
「はい、ありがとうございます」
「で、何?」
「あの、これ伊佐敷さんに渡してもらえますか?」

 私は小湊さんにキットカットを差し出した。小湊さんが少し怪訝な表情を浮かべる。確かに、受験生らしいアイテムのキットカットを、受験生の私が在校生に渡すのは若干おかしい。

「えっと、お礼って言っておいてくださ、あーーっ?!」
「ふーん?」

 小湊さんは裏面のメッセージをしげしげと見つめていた。

「『木登りありがとうございました。このご恩は一生忘れません』か。ね、木登りって何のこと?」

 別に見られても構わないけれど、何も本人の目の前で声に出さなくても。そうだ、この人はそういう人なのだ。私はその質問を無視できるはずもなく、ことの顛末を話した。

「受験票なんて再発行してもらえるでしょ。純もなまえちゃんも相当慌ててたんだね」
「はい、あとから知りました......」
「なまえちゃん、『猿に木登り』ってことわざ、知ってる?」
「............」

 私の顔は、この日一番の熱でもって沸騰していた。

「ああ、でも登ったのは犬か。クスッ」




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