15. 幸福の赤いマフラー

今日は、なまえの合格発表の日だ。
 今朝は珍しく朝練が休みで、なまえと一緒に食卓に着く。俺は朝からなまえが緊張しているのではないかと思い、なまえにかける言葉をいくつか用意していた。いずれも俺の好きな囲碁の名言だ。囲碁の名言は、人生訓に通ずるところがある。
 そういえば受験の日も俺は、その日用意していた言葉をなまえにかけようと思っていたのだ。その時は確か「入界宜緩」。意味は「敵の境界に入るには穏やかであれ」だ。学校は敵ではないが、緊張しているなまえには敵のように映っていることだろう。
 けれどあの日、なまえは少し寝坊して慌ただしく準備をしていたため、俺は言葉をかけるタイミングを逸脱してしまった。

 なまえは今、俺の前に座り、トンカツにソースをかけていた。そういえばあの日の朝食にもトンカツが登っていた。受験のゲン担ぎにトンカツは分かるが、合格発表の日に食べるのはいささか疑問ではある。母はなんでもゲンを担ごうとするので、こういう事になるのだろう。
 なまえは今日も少し慌てていた。髪の毛は少し跳ねている。女性らしくとまでは言わないが、もう高校生になるのだから、年相応の落ち着きを身につけて欲しいものだ。

「......なまえ」
「哲ちゃん急須取って」
「ああ」
「ありがとう」

 なまえはもぐもぐとトンカツを頬張っている。

「そういえば受験番号を聞いていなかったな」
「哲ちゃん、合否の掲示板見るの?」
「ああ」

 なまえは難しい顔をしながらなおも口をもぐもぐさせている。何か不都合でもあるのだろうか。なまえはなまえで学校の先生から合否の通知がされるはずだろう。

「なんか自分の知らない所で先に知られてるのって......」
「嫌か?」

 本人より先に知ろうとそうでなかろうと、結果は同じだろう。

「じゃあなまえが帰ってくるまで待つか」

 気になるが仕方がない。

「う〜ん、それじゃあ私が学校帰りに青道寄るね」
「でも俺はその時間、部活中だぞ」
「あ、そうだね。どうしようかな......」
「何か目印はないか?」
「えーと、じゃあ合格してたらグラウンドの外から何か目印を振るよ」

 なまえは「何か......」と言って居間を見回している。

「あ! これ! この赤いマフラーを振るね」

 なまえが最近よく身に付けている赤いチェックのものだった。

「ああ、わかった。赤いマフラーだな」

 とある古い日本映画の中のワンシーンのようだと思った。あれは確か庭先に上がっていたか。

「なまえ、黄色いハンカチはないのか?」
「え......ないよ。私タオルハンカチ派だし」
「そうか......」

 なまえは俺の落胆には気づいていないようだった。ふと目の前のなまえの皿を見ると、トンカツは綺麗になくなっていた。

「じゃ、いってきます!」

 そう言い残し、なまえは急ぎ足で玄関へと向かって行った。引き止めようとした俺の右手は、対象を失って虚しく宙を泳いだ。

「なまえ......」

 俺はその時、既視感を覚えた。そうだ、あの受験の日もなまえはしっかりトンカツを平らげ、俺は用意しておいた名言を伝えられなかったのだ。
 妹は今日も逞しい。




 その日の昼休み、伊佐敷がうちのクラスに来ていた。伊佐敷は俺の前の席に勝手に座って、窓の外のどんよりした曇り空を眺めている。

「天気ワリィなぁ。こりゃ今日はウエイト中心コースか?」
「まだ降ってはいないがどうだろうな。伊佐敷はウエイトの方がいいのか?」

 伊佐敷は腕を組んでしばし考えている。

「まぁ、どっちもキツイけどよ......どっちかっつーとやっぱ屋外のがいいからランニングだな」
「そうか」

 俺は伊佐敷がなんとなくそう言うんじゃないかと思っていた。

「はぁ......早く試合やりてぇな」
「あと一ヶ月程の我慢だ」
「だな。ま、冬の間とことん鍛えてっから、試合で発揮できんのが楽しみだぜ」
「ああ」

 伊佐敷は俺の机に頬杖をついてニヤリと笑った。それから何かを思い出したように、こちらへ身を乗り出す。

「あ、そういや今日ってウチの合格発表なんだな。掲示板張り出してあったぜ。見に行かなくていいのか?」
「ああ、なまえが先に知られるのは嫌みたいで見に行けないんだ」
「なんじゃそりゃ!」
「でも目印があるぞ。合格していたら、部活中グラウンドの外から赤いマフラーを振ってくれるらしい」

 伊佐敷は表情を止めて俺の顔を見つめていた。

「......あいつは携帯持ってねーのか?」
「持っているが?」
「電話かメールでいいじゃねーか......」
「そうか......そうだな」

 至極もっともな解決策だった。俺もなまえもあまり携帯に頓着しないので、その存在をすっかり忘れていた。

「なんでお前ら二人共気づかねーんだよ!」

 伊佐敷が大声で吠えるので、周りの女子からの「またあの怖い顔の人来てる......」という囁きが耳に入る。だが、こいつは顔は怖いがいい奴だ。俺は伊佐敷の提案通りに、早速鞄から携帯を取り出し、なまえにメールを打ち始める。“合否はどうだった?”

「兄妹揃ってボケってどうなんだ......」

 伊佐敷が何か言った気がしたが、打つのに集中していたため聞こえなかった。文章を打ち終えたあと、なんとなくそっけない気がしたので何か絵文字でもつけようかと画面を呼び出す。その中から、良さそうなものを一つだけ打ってみた。

「こんな感じでいいか?」

 俺は伊佐敷に画面を見せ同意を求めた。

「おい......文面はいいけどその顔文字はやめとけ。そんな目ぇ見開いたの送られてきたら怖いだろーが」
「む? そうか?」
「どんなチョイスだよ」

 そういえば以前にも「哲ちゃんは顔文字のチョイスがおかしい」となまえに言われたことがある。俺はこの手のことに詳しくないので、大人しく伊佐敷の助言に従うことにした。

「よし、これでいいだろう」

 俺は送信ボタンを押し、携帯を閉じた。

「お前あんま携帯いじらねぇよな」
「そうだな。どちらかと言えば苦手な方かもしれない」

 苦笑しながらふと伊佐敷の方へ目をやると、その顎にあるものを発見した。ヒョロヒョロとまばらに生えていたので、今まで気づかなかった。

「伊佐敷、ヒゲを剃り忘れているぞ」

 俺は自分の顎に手をやり指摘する。

「お、おう......」

 伊佐敷はなぜか戸惑ったような表情を浮かべていた。中途半端に生えたそれは、なんとなく先日テレビで見たハムスターを彷彿とさせた。そういえばハムスターは鳴きはするが、吠えるのだろうか。

「電気シェーバーを使っているのか?あれは一回で剃りにくいだろう。俺はやはり安全カミソリが......」
「お!次は移動教室あんだ!ってことでワリィな。もう戻るわ」

 伊佐敷はそのまま足早に教室を後にした。安全カミソリの良さについて語りたかったのに残念だ。



 放課後再び携帯を開いたが、なまえからの返信はなかった。きっとメールに気づいていないのだろう。
 朝から続いていた曇り空は、放課後も晴れることはなく、頭上には押し潰すような雲が拡がっていた。冬の部活はトレーニングが主なメニューだ。ランニング、サーキットトレーニング、ウエイトトレーニングなどがある。冬場のキャッチボールは怪我に繋がるため、ボールを使用するのはバッティング時くらいだ。我が青道野球部のランニング量は、陸上部のそれに勝るとも劣らない。
 今俺達は、伊佐敷いわく地獄のようなランニングをしている。毎日走り込んではいるが、やはり疲れるのは同じだ。

「は〜、きちーなぁ」

 後ろから走ってきた伊佐敷が俺に追いつき並んだ。以前はランニングでよく張り合っていたが、結局体力の無駄使いだとお互い学習し、今では各々のペースで走っている。

「そうだな。ああ、あと十周か」
「言うんじゃねぇよ!キツさが倍になんだろーが!」
「む、すまん」
「しっかし、シケた天気だな。気分が滅入るぜ」

 伊佐敷は走りながら空を仰ぐ。確かに今にも降り出しそうだ。

「こういう時に、あいつがいればな」
「あ?あいつって誰だよ?」

 その時、視界の端を赤い何かがかすめた。遠くのグラウンド看板付近に視線を移すと、なまえが赤いマフラーを振り回してこちらに合図を送っている。

「お! 受かったみてぇだな!」
「ああ、よかった......」

 俺はようやく胸を撫で下ろした。なまえはなおも重い雲を払うように赤いマフラーを振り続けている。その赤は、灰色の曇り空を背景にして鮮やかに映えていた。黄色だったらもっと霞んでいただろう。
 その時、わずかだが雲間から細い光が差した。それをきっかけに、光が徐々に拡がっていく。
 ふと隣を見ると、伊佐敷は首に何かを巻くジェスチャーをしながら怒ったような顔をしていた。その視線の先には、マフラーを掲げたなまえがくしゃみをしている。あんなに天気を気にしていた伊佐敷が、この晴れ間に気づかないのもおかしな話だった。
 妹は今日も晴れ女だ。





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