13. 誓いの赤
年が明けて一月二日。
その日は夕方から哲ちゃんと一緒に、地元の神社へ初詣に行くことになった。私は毎年友達と行くのだが、その友達は今年、家族と一緒に学業成就で有名な遠くの神社へ行くそうだ。受験合格を意識してだろう。特にこだわりのない私は、今年も地元の神社で済ませる。
両親は昨日初詣を済ませ、将司も今日は知らぬ間に友達と出かけていた。毎年両親と参っていた将司が今年は友達と行くなんて、あいつも大人になったなぁと、思わず頬を緩める。
従って、私はただあぶれただけだ。断じて「哲ちゃんと一緒に初詣に行きたい!」なブラコンではない。
「そろそろ行く?」
「ああ」
出掛ける準備をしていると、突然居間の電話が鳴りだした。タイミングが悪い。受話器を取ると親戚からだった。声の遠い、どこか能天気な親戚の言葉に適当に相槌をうつ。
「お母さーん! おばさんから電話ー!」
「はいはい」
もうすぐお年玉がもらえるなぁと、その算段をしながらコートを着ていると、支度を終えた兄がやってきた。
「おばさんから電話か?」
「うん。あの人いつもタイミング悪いんだよ。――よいしょっ!」
建て付けの悪くなった玄関の戸を思いきり引くと、鋭い氷のような冷気が頬を刺し、私はぶるりと震えた。
「うわー、すごい寒いね。甘酒出てるかな?」
「さぁ、昨日だけじゃないか?」
「そっかぁ、残念」
私は赤いチェック柄のマフラーをきつめに巻き直した。神社までの道のりを散歩がてら徒歩で向かう。元旦の夕方、近所の人々は早々にうちの中へ引っ込み、あたりは人ひとり見当たらなかった。
兄たち野球部に与えられた休みは、年末年始の数日のみ。三日からすぐに通常通りの練習が始まる。わかっていたこととはいえ、かなりハードだ。三月の公式戦解禁までの間、ひたすら体力強化のトレーニングに励む。ランニング量は陸上部といい勝負らしい。
「冬練ってキツイんでしょ?」
「まぁな。試合ができないから余計な」
「そっか。早くあったかくなるといいね」
「ああ」
哲ちゃんは冷える両手をこすりあわせている。その兄の手は、今やまめが潰れて相当硬くなっているはずだ。この一年の努力の証だろう。
私たちは、二軒隣の元青道野球部のお兄ちゃんの家の前を通った。当のお兄ちゃんは、大学で一人暮らしをはじめたため、もうこの家にはいない。
「お兄ちゃん、部活引退したあとも『冬練』って聞くだけで胃が縮みあがるって言ってたね」
「ああ、今ならその意味がわかるな」
「もうお兄ちゃん、野球やらないのかな……」
哲ちゃんは寂しげな顔で私を見た。
お兄ちゃんは大学に入り、野球をすっぱりやめた。夏休みに帰省して、髪を長く伸ばした姿のお兄ちゃんを見た時、私も哲ちゃんも度肝をぬかれたものだ。兄もいつか野球をやめてしまうのかと考えると、少し寂しかった。
「哲ちゃんはその髪型似合うから!」
兄は不思議そうな顔で、自分の後頭部の毛をじょりじょり触っていた。
しばらく歩くと、神社の赤い鳥居が見えてきた。同じく初詣に来た人々が鳥居に吸い込まれるようにくぐっていく。参道の脇には赤と白の提灯が点々とぶらさがっていた。揺れるそれらを見ていると、私は唐突に、文化祭の時見た赤いホームランの的を思い出した。その流れで自然と、年末にうちへ来た伊佐敷さんの顔が思い浮かぶ。
「そういや、伊佐敷さんって神奈川だっけ?」
「ああ」
「そっか。全然休みないからこういう時しか帰れないもんね」
「そうだな。だが先輩達の中には、残って自主練している人もいるぞ」
「ええっ?! 年末年始くらい休めばいいのに」
兄は私の言葉に、困ったように笑った。きっと部員にしかわからない何かがあるんだろう。兄だって今日も家で自主練をしていた根っからの野球馬鹿なのだ。
東京から神奈川まではさほど遠くはないにしても、休み自体がなければなかなか帰れない。近くて遠い、神奈川。
鳥居をくぐると、あたりは参拝客でごったがえしていた。参道には様々な屋台が軒を連ねる。私の大好きな甘い匂いが鼻腔をくすぐった。
「買わなくていいのか?」
「帰りに買うよ。今は荷物になるし」
“りんご飴 大 300円”
お店のポップを視界の端で確認しながら、私は自分の財布の中身を思い出す。大丈夫、たぶん足りるはずだ。まだ親戚の人に挨拶をしていないので、お年玉がなく懐は寂しい状態。部屋には多少あるけれど、私はあまりお金を持ち歩かないのでいつもギリギリだった。
今日は元旦のため人が多く、本殿の方もきっと長蛇の列だろう。
「おい増子! 食いモンはあとだあと! 先にお参り済ますぞ!」
「うが……」
「腹の音うるさいよ」
前の集団が何やら騒がしいなぁと思って見つめていると――
「あ?! 哲? 哲じゃねーか!」
こちらに気づいて振り返った三人はなんと伊佐敷さん、小湊さん、増子さん。こんな偶然があるのかと、私はしばしの間三人を眺めていた。
「奇遇だな。こんなところで会うなんて」
「おー、哲とは年末以来だな。ま、実家でのんびりしてたら休みなんてすぐだったけどよぉ」
「俺も久々に弟とゆっくり話せたよ」
「へー、亮介弟いんだ。似てんのか?」
「性格は全然似てないよ。俺とは正反対」
「じゃあ優しいのか」という言葉が、みんなの頭の上に浮かんでいるのが見えるようだった。
「俺は……実家にいると食欲が止まらなくてな」
増子さんはがっくりと肩を落とした。おせちにお雑煮、確かにお正月は食べ物の誘惑でいっぱいだ。
「テメェはいつもだろ!」
「う、うがぅ……」
「そういやお前んち確か酒屋だったな。やっぱ手伝えとか言われんのか?」
「いや、ゆっくり休めと言われた。それはそれで調子が狂うんだが」
増子さんが首に酒屋のロゴの入ったタオルを巻いて、ビールケースを運んでいるところを想像すると、似合いすぎるほど似合っていた。私はそのやりとりを兄の後ろから眺めていた。
「あれ? なまえちゃん?」
小湊さんが私に気づいた。
「あ、こんばんは。明けましておめでとうございます」
私が頭を下げると、みんながぽかんとした表情になった。それから兄がふっと笑う。
「そういえばまだ新年の挨拶をしていなかったな」
「ま、今さらだけどよ」
「いーじゃん。じゃ、改めておめでとう」
「おめでとう」
増子さんがそう言うと同時にお腹がぐぅ〜っと鳴る。
「テメェは新年早々それかよ!」
「純も新年早々うるさい」
伊佐敷さんも新年早々盛大に吠える。そのあと照れくさそうにみんなの方を向いた。
「……んじゃあまぁ、今年もよろしく」
「ああ、よろしくな」
一同が少しぎこちなさそうに、各々新年の挨拶を交わし合う。去年、練習という名の苦行を耐え抜いた、いわば戦友同士。みんなそれぞれ思うところがあったのかもしれない。
しばし歩いて、手水舎で手と口を清める。柄杓を置くと、カコンっとどこか神聖な音がした。濡れた手が冷えてかなり寒く、はぁ〜っと息を吹きかける。それから私たちは連れ立って本殿を目指した。
哲ちゃんと伊佐敷さんは並んで歩き、ぽつぽつと言葉を交わしている。
「早めに帰ってきてヒマだったしな。どうせなら、ここの地元の神社にも参ろうっつー事になってよ」
「そうだったのか」
ざりざりと足元の砂利を踏みしめながら参拝の列に並ぶ。
「こんな所に神社なんてあったんだね。普段は用ないしさ」
「ま、俺らが外出る時はたいていコンビニだしな」
「うむ」
「純は本屋もでしょ」
小湊さんが意味ありげな視線を伊佐敷さんへ送る。
「うるせぇな……」
なぜか伊佐敷さんは少し恥ずかしそうだった。どんな本を読むんだろう。全く想像がつかない。
「む、そろそろだぞ」
前に並んでいるのはあと二組だった。私は鞄から財布を出してお賽銭の準備をする。お正月のため、目の前には大きなお賽銭箱が出ていた。私の小銭入れの中には、銀色の大きな硬貨と小さな硬貨が一枚ずつ。あれ?まさか、と思い手のひらに出してみる。財布を傾けて振るが、やっぱりその二枚だけだった。私は呆然と、その二枚の硬貨を見つめた。
「どうした? なに固まってんだ?」
「えっ?」
後ろからした伊佐敷さんの声に驚いた私は、手のひらの硬貨を落としてしまった。幸い地面は砂利だったので転がることなく足元に落ちる。伊佐敷さんがそれを屈みこんで拾った時、なるほどな、と呟いて、私の手のひらにそっと乗せてくれた。
「ありがとうございます」
「一円でもいいんじゃねーか?」
「…………」
私は困惑しながら、手のひらの一円玉と五百円玉を見つめた。
「それじゃあ安すぎますよ……」
哲ちゃんたちも何事かとこちらを覗きこむ。それを見かねた兄が提案した。
「じゃあ俺が両替してやろう」
「それは……」
「クスッ、それじゃあ値切ってるみたいだもんね。神様の前で」
「そ、そうですよね……」
私もまさにそう思っていた。小湊さんは他人の心が読めるのだろうか。ちなみに、私は毎年十五円を投げていた。ただ、今年は自分の合格祈願と、哲ちゃんたちの大会優勝祈願のため、五十円玉を投げようと思っていた。穴の空いた硬貨は縁起がいいらしい。穴は空いてないにしても、気持ち的には五百円玉の方を投げたいが、中学生にとって五百円は貴重だ。
「でも、五百円玉って『これ以上効果(硬貨)がない』って意味もあるらしいよ」
「ええっ?! そうなんですか?!」
じゃあ私は何を投げればいいのだ。絶望的な気持ちで小湊さんの方を見る。あいかわらず、ニコニコと人の良さそうな笑みを浮かべているだけで答えてくれない。
「おい! 迷わすようなこと言うんじゃねーよ!」
伊佐敷さんは小湊さんを一喝し、私の方へ向き直った。
「ようは気持ちなんだからよ。お前のやりたい金額でいいんだよ!」
「やりたい金額……」
「そうだぞなまえ。お前の願いが叶った時に、神様へ捧げたい気持ちの分だけでいいんだ」
「叶った時に捧げたい気持ち……」
別に両替したって借りたっていいと思う。けれど、なんとなくこれは巡り合わせという気がした。
前が空き、もう私たちの番になった。私は心を決めて、手のひらの硬貨を握りしめる。一同が私の手元を見つめていた。ソフトの送球の時のように、手首にスナップをきかせて少しかっこよく投げてみる。ちなみに私のポジションはショートだ。
チャリーンと、五百円玉の落ちた音がしたあと、わずかな時間差で軽い一円玉が落ちた。硬貨の丸みが、どことなくりんご飴みたいで少しせつない。
「両方かよ!」
「はい!」
今の私の全財産だ。本当に願いが叶うならもっと投げたいところだが限度はある。りんご飴のことはもう諦めて、思いきり鈴を鳴らしたあと二礼して、二回柏手を打つ。私は家内安全と自分の合格を祈った。
「今年青道が甲子園に行けますように! そして優勝できますように!」
これは声に出して祈る。五百円も捧げたのだから、本人たちに多少プレッシャーを与えたってバチは当たらないはずだ。
「テメー!『優勝』かよ!」
「はい! 当然!」
「ふーん、言うねぇ」
「これは頑張らないとな」
「うがっ」
最後に一礼して顔を上げた。うん、悔いはない。
哲ちゃんたちも真剣な顔で祈っていた。伊佐敷さんは眉間にシワを寄せて目をつむり、手を合わせている。やっぱりその願いは、野球のことだろう。けれどみんなの顔を見てふと、これは「願い」じゃない、という気がした。そんなものに運命を託すより、きっと今までの自分たちの努力を信じるだろう。だからこれはたぶん「誓い」なのだ。己の手で、優勝を掴み取るための。
「さて、帰るか」
「おー」
その時、ごぎゅるる〜〜っと何かが鳴った。
「――すまん、帰りに何か買っていいか」
「さっき寮でプリン食べたばっかじゃん」
私たちは色とりどりの屋台を見て回った。お腹を減らした増子さんは、焼きそばとフランクフルトとチョコバナナを買っていた。これでは、実家から早く帰った意味がないんじゃないだろうか。
私たちはりんご飴の屋台を通り過ぎた。
「なまえ、いいのか?」
「う、うん。夕飯あるし」
私はもう無一文だった。けれど、全財産を投げたなんて恥ずかしくて言えない。
伊佐敷さんは、りんご飴の屋台の隣のたこ焼き屋でたこ焼きを買っていた。
「オラ、ちょっと食え」
戻ってきた伊佐敷さんはなぜか、私に向かってたこ焼きのパックを差し出した。
「え、いいですよ」
私はそのままパックを押し返した。
「お前さっき物欲しそうに見てたじゃねーか」
「それは……」
さっき私が見ていたのはりんご飴の屋台だ。きっと伊佐敷さんは、私がたこ焼き屋を見ていると勘違いしたんだろう。
「ぐだぐだ言ってねーでさっさと食え! 文化祭の時の礼だ!」
「え? あ、あれは短パンへのお礼であって……」
「うるせぇな! お前は青道のために五百円も投げたんだから食う権利あんだよ!」
再び伊佐敷さんは私にパックを押し付けた。パックからは温かいほかほかの湯気が立ち上り、なんとも食欲をそそる。己の欲求に負けた私は、素直にパックを受け取った。
「すいません、いただきます」
「おう」
五百円は私が勝手に投げただけなのに、伊佐敷さんは義理堅い人だ。アツアツのたこ焼きを頬張りながら、でもやっぱり文化祭のお礼はおかしいよなぁと考えていた。短パンに対する、私のお礼のたこ焼きに対するお礼のたこ焼きだなんて。そこで私は、ん?、と首をかしげた。……とすると私は、伊佐敷さんに一つ借りを作ったことになるのか。そうだ、私はその借りをいつ返せばいいのだと伊佐敷さんの方を見ると、哲ちゃんと何やら話しているようだった。
「なまえちゃんが今年青道入れば、お礼できるんじゃない?」
私は思いきり後ろを振り返った。そこには後ろ手を組み、ニッコリ笑う小湊さん。
「え、ええと」
「違うの?」
「い、いえ」
どうやら私の意識はだだ漏れだったらしい。やっぱり小湊さんには、色々と逆らってはいけないと誓った瞬間だった。
私たちは食べながら出口の鳥居を目指していた。この人混みを抜ければすぐだ。
「おや? 哲ちゃんかい? なまえちゃんも。こんばんは」
前方から歩いてきたのは近所のおじさんだった。この人も昔からの青道ファンだ。
「こんばんは。おめでとうございます」
「おめでとうございます」
「はいはい、おめでとう。おっ、野球部御一行さまかな?」
おじさんがおどけた調子で目尻を下げる。
伊佐敷さんたちは「っす!!」と、運動部特有のあいさつを返した。
「今年のチームも強そうだね。がんばってくれよ、甲子園!」
その言葉に、みんながハッとした顔になった。
「あざっす!!!」
一同の大声が、お正月のなごやかな雰囲気の神社に響き渡ったため、参拝客が何事かとこちらを振り返った。おじさんはみんなを見てにっこり笑う。
「元気がいいね。じゃあ片岡さんにもよろしく!」
みんなは背筋をピンと伸ばし、そのまま頭を下げておじさんを見送った。野球部は元気に礼儀正しく。いつの時代もそうやって指導されているんだろう。
「は〜、なんか地元って感じ……。秋大ん時も思ったけど、こういうのってなんか慣れねぇよな」
「まぁ、面と向かって言われるとね」
「でも、ちょっと嬉しいかも」
増子さんがぽつりと本音をもらす。
「だな。なんつーか強豪校に来たって感じするよな」
「そうだね」
みんながさっき神様に誓ったことと、思いを重ねたのかもしれない。一同は歩みを止めて、しばし黙りこんだ。それから兄は、すっと顔を上げた。
「――俺たちは、色んな人に支えられて野球をやっている」
哲ちゃんはじっと目の前の鳥居を見据えていた。兄の瞳に映る赤。それは情熱の色だ。兄から視線を外すと、他の三人もそれと同じ色を、瞳に強く強く、宿していた。
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