22


潮の匂いがする。
風が頬を擽る。

ここは、どこ――?

「今度は不死鳥の姿じゃなく、ちゃんとお前ェを抱き締めてやるから。気を付けて来いよい」

―― !

懐かしい声がはっきりとした音で耳に残った記憶。
とても怖くて悍ましいものに襲われる寸前で助けられた記憶。

意識が混濁する中で、それは確かに起こったことで、決して夢等では無かった。
そう、夢なんかじゃ――。

「……ん……」
「あ、良かった。気が付いたか?」
「…エース…さん?」
「はァ…、目を覚ましてくれて本当に良かった。マジで焦ったぜ」

意識が浮上したマヒロが目を覚めすとエースが心配そうにマヒロの顔を覗き込んでいた。何度か瞬きを繰り返したマヒロは少し慌てるようにがばりと上体を起こすと額に置かれていた濡れた布がパサリと膝へと落ちた。

「マヒロ、大丈夫か?」
「あ、う、うん、大丈夫。あ、ありがとう。心配かけてごめんなさい」
「身体の調子が悪いなら早く言ってくれよ」
「う、は、はい。でも、もう本当に大丈夫だから」
「血を吐いたんだから心配するなってェのは無理があるだろ?」
「そ、そうですけど……もう何度も吐いてるから」
「はッ!? お、お前ェ…、そんなこと笑って言うことじゃねェだろ? 顔だって赤ェし、やっぱり身体の調子が悪いんじゃねェのか?」
「え? あ、赤い?」

エースの言葉にマヒロは目を丸くしながら両手で頬に触れながら考えた――というより、考えるまでも無かった。途端に脳内に響き渡る『今度は不死鳥の姿じゃなく、ちゃんとお前ェを抱き締めてやるから。気を付けて来いよい』と言うマルコの声で――。

ボンッ!

「うおっ!? ど、どうしたんだよマヒロ!?」

爆発音を奏でながら更に真っ赤に顔を染めたマヒロはパタンと上体を倒した。エースが慌ててマヒロの身体を抱き起そうとしたが、今はちょっと顔を見ないで欲しいとマヒロは両手で顔を隠した。

―― うぅ、……たかが二年。されど二年。……マルコさんの破壊力が凄まじくてヤバいかもしれない。

久しぶりに聞いた酷く懐かしい愛しい人の声が耳から離れない。すると急激に恥ずかしくなって、赤面して、狼狽して、その上で失神までしかけるだなんて、マヒロにとっては笑い話にもならない。

―― やっぱりマルコさんが好き。会いたい。早く、早く、会って……触れたい。

そう思った瞬間にまたマヒロは羞恥で身体を震わせる。

―― ふ、触れたいだなんて何!? わ、私のバカ!!

エースは心配してマヒロの身体を抱き起こしたと言うのに、肝心のマヒロは手で顔を隠したまま何やら「エヘヘ…」と笑いながら照れているのだろうか、頭を左右にブンブンと振って身悶えているように見えた。

―― ……なァ、マルコ。マヒロって本当に変わった女だな。

祖母から教わった”武道”を引き継ぎ、若くして人里離れた山奥でたった一人で生活をしている……等々、マルコはマヒロに関する話を肴に酒を飲むことがあった。何故そんな山奥で一人で生活をしているのかと聞けば色々と訳ありなのだとかで詳しくは知らない。
マヒロはとても強気で頑固な性格をしているが孤独で寂しがり屋で泣き虫で――。でも、とても優しい女なのだとマルコは話していた。ただ肝心なことが抜けていたり、割と鈍くてはっきり言わないと気付かなかったりと天然な側面もあるのだとか――。
サッチ曰くマルコが女の事を話すことは頗る珍しいことであり、あのマルコを心酔させた女はその辺の女とは違う余程変わった女であることは確実だ――と、エースはサッチ情報を真に受けていた為か『マヒロは変わった女』という認識をしていたが、実際に会うとやっぱり――変な女だと思いつつエースは頬をヒクリと引き攣らせた。そして、そんなエースに気付いたマヒロは深く息を吐くとコホンと咳払いをして冷静さを取り戻そうと努めた。

―― う〜ん……本当、私ったらどうかしてる。

軽くペシペシと両頬を叩いたマヒロはエースに向けて「ご、ごめんね」と笑って誤魔化した。
別れてから二年という月日は思ったより大きい。マルコに名前を呼ばれただけで赤面して狼狽する自信があるとマヒロは心内で拳を握り締めながら力説する。

「あ、あのね――」

何だか妙にエースが引いていることに気付いたマヒロは気を失った時のことを屍鬼に関することを省いてエースに説明することにした。

「気を失った時、夢の中でマルコさんに会ったの」
「!」

少しオズオズとしてそうマヒロが告げるとエースは目を丸くした。

―― あァ、そういうことか。

マヒロが顔を赤くして(怪しい)笑みを零した理由をエースはすんなりと納得した。

「マヒロは本当にマルコのことが好きなんだな」

両腕を組んで喉を掘るようにエースがそう言うとマヒロは恥ずかしそうに笑いながら「はい!」と頷いた。するとエースはまた目を丸くしたが、途端に赤面してマヒロから視線を外した。

「じゃ、じゃあ、早いとこ本船に合流しねェとな」

ポリポリと頬を掻きながら口を尖らせて言うエースにマヒロはクツリと笑みを零した。

―― 何だか可愛いな。

マヒロは何となくエースのテンガロンハットに手を伸ばしてひょいっと奪った。エースは「何だ?」とマヒロに顔を向けるとマヒロがエースの頭に手を置いてクシャリと撫でた。

―― !?

エースは途端に慌ててマヒロからテンガロンハットを取り返すと被り直しつつ片手で口元を覆いながらマヒロに背を向けた。きっとその顔は真っ赤だろう。だって耳や首(項)まで真っ赤だから――。

―― ふふ、きっとマルコさんの前で私が見せる反応ってこんな感じなのかな。

エースの反応はとても分かり易くて可愛い。マヒロは思わず胸がキュンとするのを感じた。

―― うん、もう止めておこう。

これ以上は双方共に色々な意味で耐えられそうに無いとマヒロはエースに話を止めて先に進もうと提案するとエースは「お、おう」と顔を向ける事無くただ頷くのだった。





数刻の時が過ぎた頃、進行先に小さな島があるのを発見した。
よく見れば町があった為、二人はその島に立ち寄ってみることにした。
小さな町ではあったが住んでいる人達は皆忙しなく働き、子供達は元気一杯に走り回っていたりと、とても賑やかで活気のある町だった。

マヒロとエースはその島にある唯一の酒場に入って食事をすることにした。マヒロとエースのテーブルの前には二人で食べるにはあまりにも多過ぎる料理の数々に、マヒロを含めて酒場にいる人々は唖然とした。

ガツガツガツガツ!

周りの視線等は一切気にもしていない当のエースは食事に夢中だ。

「ふぉうふぃはマヒロ? ふァえっ…んぐっ! 食べないのか?」

手が止まっているマヒロにエースが声を掛けるとマヒロはハッと我に返った。

「……えっと、とりあえず口に入れたまま喋るのはマナー違反よエースさん」
「ふぉふぉの、んぐっ……ふぅ、ここの飯は結構美味ェな」
「ねぇ、聞いてる?」

ガツガツガツガツ!

「……はァ」

―― ……この世界の人達ってばやっぱりスルースキルが高過ぎる。殴っても良いかしら? 今なら物凄く良い笑顔で殴れそうだわ。

ヒクリと頬を引き攣らせつつプルプル震える握り拳を抑えながらマヒロはさも普通を装って自分が注文した料理に手を付け始めた。

パクッと一口。

―― ん、本当だ。美味しい。……何だか久しぶりにゆっくり食事が出来て嬉しいな。

これまで色々なことが沢山あり過ぎた。食事をしながらマヒロはいつか立ち寄ったあの島で食した最高級料理を思い出し、結局は値段を知らないまま島を脱出したわけなのだが――。

―― いくらぐらいしたのかしら?

パクッとまた一口食べつつ最高級料理を思い出しいるとその記憶がぐにゃりと変化して生理的に受け付けないマカロニの顔へと変わった。途端にマヒロは頭をぶんぶんと振って嫌な記憶を振り払った。その時だ。

ガシャンッ!!

「え?」
「……」

目の前で料理に顔を突っ込んだままピクリとも動かなくなったエースにマヒロは目を見開いた。

「ちょっ、ちょっと、エース…さん?」

ガタンと立ち上がってエースへ手を伸ばし、肩をポンポンと叩いてみるが反応は無い。

―― え!? 嘘でしょ!? わ、私より重い病だったりするんじゃ……!

「エースさん、エースさん! どうしたんですか!? エースさん!!」

顔を青くしてエースの側へと移動すると両手でエースの肩を掴み、エースを強く揺すりながら声を掛けた。するとエースはピクリと反応を示すと同時にガバッと頭を上げた。

「ひっ!?」
「……いかん、寝てた」
「……え? ……寝て…た…?」

料理に突っ込んだ顔を布巾で拭うエースにマヒロは佇んだまま呆然とし、今しがたエースが発した言葉は聞き間違いかと考えた。だが――。

「……いかん、寝てた」
「……いかん、寝てた」
「……いかん、寝てた」
「……いかん、寝てた」
「……いかん、寝てた」

エンドレス――。

耳に残る言葉が何度も繰り返し、決して聞き間違いでは無いと確信し、再び食事を始めるエースに視線を落としたマヒロは全くの無表情でスパンッ! とエースの頭を叩いた。

「痛ェっ!? な、何だよマヒロ!?」
「どういう睡眠の取り方よ!? びっくりするじゃない!!」
「ん? あァ、悪ィ悪ィ。これ、おれの癖なんだ」
「く、癖ですって?」
「おう、よく怒られんだけど」

エースはそう言ってフォークで突き刺した肉を頬張った。絶句するマヒロは口を何とか動かして何かを言おうとしたのだが――。

ガシャンッ!!

「!?」
「……ぐがァァ…スピー……」
「……そう…癖なら…仕方が無い…よね……」

自分の席に戻ったマヒロは額に手を突いて大きな溜息を吐いた。

―― ッ、と、とりあえず食事をさっさと終わらせよう。

周囲の視線が痛い程に集まって居た堪れなくなったマヒロは急いで食事を始めた。そうして食べ終わる頃に漸く肝心なことにハッとして気付く。

―― え? 待ってよ……。この支払いってどうするの? これだけの量って結構な料金になるんじゃ……!?

マヒロが俄かにカタカタと震え始める手を動かして最後の一口を放り込み、コップ一杯の水を一気に飲み終えた頃には、何度も途中で眠りに入りながらも凄い勢いで料理を食べ尽くしたエースは「食った食ったァ」と満腹感に満たされたお腹を摩りながら満面の笑顔を浮かべていた。

「んじゃ、行くかマヒロ!」
「え? えェ…、そ、そうね」

エースはそれはそれは会心の笑顔を見せて言うのだけれども、マヒロは支払う金額がいくらになるのかが気掛かりで、とてもぎこちなく笑みを浮かべるのが精一杯だった。

―― 前の最高級料理の支払いをしていないから、これで多分足りますよね?

マヒロはベンから貰った『当面の旅の資金』が入った袋を手に取り立ち上がるとガシッと腕を掴まれる感覚に驚いて視線を向けた。すると眩しいまでの笑顔を浮かべるエースが何故か自分の腕を掴んでいる。

「……え?」

―― な、何なのその笑顔?

とても嫌な予感がしたマヒロは額から冷たい汗をタラリと流した。

「逃げるぞ!」
「はいィィ!?」

ドンッ!
ばたん! 
ズダダダッ!!!

「食い逃げだァァァ! 誰かァ! そこの二人を捕まえろォォォッ!!」
「ちょっ! ちょっと待ってエースさん!!」
「悪ィ! 美味かったぜ! ありがとな!!」

エースはマヒロを肩に担ぎながら怒鳴って追い掛けて来る店主に御礼を叫んで走った。

―― ちっ、違う! そうじゃないでしょ!?

礼を述べられた店主は更に顔を真っ赤にして怒りの形相で追い掛けて来る。マヒロはエースの背中を叩きながら止まるように叫ぶがエースは聞いてもいない。

「待てェェ!!」
「すみません!! これで足りるかわかりませんけど!!」

仕方が無いとマヒロは必死になってベンから貰った資金が入った袋を追い掛けて来る店主に目掛けて投げた。するとそれは見事に店主の手元にどさりと落ちて、怒りに満ちていた店主の顔は瞬時に花を咲かせたように笑顔になった。

―― 良かった……足りたみたい。

マヒロはホッと胸を撫で下ろした――が。

「釣りがいらねェなんて気前の良い嬢ちゃんだ!!」
「……え……?」

へぇ〜、お釣りあったんだ〜。

…………。

ナンデスッテ!?

ベンから貰った旅の資金を一気に全て無くした。
不安と怒りが一気に込み上げたマヒロはストライカーに乗船する前にエースに問答無用で拳骨を落とした。

「痛ェェ!? な、何するんだよマヒロ!!」
「何? ……何か文句あるわけ?」
「ッ! ご、ごめんなさい」

ズゴゴゴッ!

エースはマヒロに殴られて出来たたん瘤を撫でながら顔を青くして謝罪した。この時、マヒロの背後から並々ならぬ青い炎を迸らせた鳥の影を見たのだと、後にエースは語ったという。そう、まるで鬼の形相を浮かべた長男(マルコ)に怒られたような気がして、とても反論できなかったのだと――。

―― 食い逃げなんてダメに決まってるでしょ!?
(ったく、食い逃げは止めろって散々言ってるってェのによい!)
―― え、じょ、常習犯なの!?
(……よい)
―― ……よい。

項垂れるマルコの姿が容易に浮かんだマヒロはこれ以上エースを責めるのを止めた。目の前で子犬のようにガタガタ震えるエースもまた哀れに映る。

「って、何でそんなに怯えるわけ?」
「ま、まるでマルコに怒られてるみてェだと思ってよ」
「……はァ、もう、マルコさんの苦労がわかった気がする。あんまり怒らせないであげてよ」
「お、おう。ど、努力する」

溜息混じりにそう告げるマヒロにエースはコクンコクンと頷くのだった。

エース

〆栞
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