13


広い大海の中を颯爽と走る小船がある。その小船の舵を握るのは小柄な女――マヒロだ。
表情が強張り、唇は少し青く、どうにも様子がおかしい。

「さ、寒い。さっきまで凄く爽やかだったのに……」

ガタガタ震える身体を両腕で抱き締める様にして肩を摩り、三つ編みで結った長い髪を首に巻きつけてマフラー代わりにしてみるも一向に温かくならないので意味は無い。

―― こ、凍え死ぬ!

つい先刻までポカポカと陽気な日差しを浴びて心地の良い風に吹かれて楽しく航海をしていたというのに、急に雲が現れ太陽が陰ると一気に気温が低下して今に至る。
グランドラインについてベンから色々と教わり、貰ったログポースの指す方角を頼りに航行していたのだが、本当にこんなに急激に天候が変わるとは、初めて体験したマヒロはこの海の厳しさを知った。

「し、島は――あ!」

ログポースの指し示す遠方に島影を発見した。その島影が徐々に大きくなるにつれ、そこに港町があることを確認したマヒロは「は、早く」と寒さと戦いながら港に到着するのを待った。そして、無事に港に到着すると船を固定してお金を持ったマヒロは急いで服屋へとダッシュした。

バンッ! と大きな音を立てて開けられる扉に若干ビクついた店主が振り向いた。
小柄な女が入って来る姿を見つけると店主は営業スマイルを全開に接客に当たろうとした。

「いらっ」
「さ、寒い! 何か羽織るものをください!」
「――お、お客様!?」

あまりに寒くてガチガチと口元が震えて歯と歯がぶつかる音は盛大で、店に入った先にあった鏡で今の自分の顔を見たマヒロは青白い顔に唇も青くて物凄く残念な人になっていたことに気付く。しかし、そんなことは最早どうでも良く、とにかく暖を、暖がいるのだ――じゃないと凍えて死んじゃう!――とマヒロは必死だった。
そして――。
グランドラインを航海するに辺り必要と思われる衣服類を店員の説明を聞きながら最低限の一式を購入するマヒロに、店主は多少苦笑を浮かべながら商品を包んだ。

「まさか冬島にそんな薄着で来る人がいるなんて初めて見ましたよ。しかもこの海を渡るのにお金と食料だけしか持っていないって、無謀ですよ」
「ッ…、そ、そうね。世間知らずでした」

異世界から来た人間だから予備知識しか知らないの――とは言えない。
店内の試着室を借りて冬島らしい衣服に着替え終えると、購入した衣服一式と自分が着ていた衣服を袋に包んでくれた店主に苦笑いを浮かべながら礼を言いつつ会計を済まして店を後にした。

厚手の毛皮で作られたコートと手袋に耳当てもして暖かい幸せを噛み締めながら町を歩いているとチラチラと雪が舞い降りて来た。

「ここはどの辺りになるのかな?」

この港町にある宿を取ったマヒロは部屋に入るなりベンから貰った地図を広げて確認することにした。

よくやっていると思う。
本当に一人であの海をよく越えていると思う。

こんなにも気候が不安定で、更に見たことも無い巨大な生物がうようよしていて、とんでもない海だと思った。
幾つかの商船と擦れ違うこともあれば海賊船もいくつもあって、時々海賊船同士が争っているのも遠方ながら目撃して、本当にとんでもない世界だと思った。
海の藻屑になるか、巨体な海の生物の餌になりかけたり、何度かピンチがあったが思い出すだけでもゾッとする。

「妖怪にやられる前に海に負けそうだわ」

大きな溜息を吐いてマヒロはポツリと零して項垂れるのだった。すると、ぐぅ〜っと空腹の虫が鳴った。

「こうマイナス思考になるのは空腹のせいもあるわ。まずは腹ごしらえしなきゃ」

お腹を摩りながらマヒロは宿の食堂へと向かい食事をすることにした。

この世界の文字が読めないことは赤髪海賊団にお世話になった時に何となくわかっていた。
マルコがマヒロの世界の文字を読めなかったのも頷ける。
差し出されたメニュー欄に書かれている文字は全くのちんぷんかんぷんでマヒロは眉間に皺を寄せた。

自慢では無いがマヒロは英語が大の苦手だ。

普段の生活の中で全く関わりの無い言語なのだから当然と言えば当然。
英語より妖怪語(と言うのが実際にあるのかはわからない)の方がわかると自負したくなる程に英語は全くダメなのだ。

恐らく簡単な中学レベルの英語でさえマヒロはわからないだろう。

これ程に英語力が乏しいのだから、メニュー表に書かれている文字が何か等、わかるわけが無かった。

「あ、あの人が食べているのと同じのをお願いします」
「え? あ、あちらのお客様と同じで?」
「は、はい」
「かしこまりました」

これは常套手段である。
文字が読めないのなら周囲を見渡して美味しそうなものを食べている人と同じものを頼めば良いだけだ。
しかしこれはある種ギャンブルに近い。
何せそれが何という料理であるのかわからない為、値段を知らずに頼むのだからリスクが高い。

―― 多分、あれはそんなに高く無いと思う。

マヒロはそう思って注文した――はずだった。しかし、まさかこの港町一番の高級料理だとは思ってもみなかった。
凄く嬉しそうにホクホクした笑顔でウェイターがその料理を運んで来た際に言ったのだ。

「この町、いえ、この島きっての一番の高級料理でございます。どうぞごゆっくりご堪能くださいませ」

ニコッと眩しい笑顔を浮かべて深々と頭を下げるウェイターにマヒロは一瞬にして白黒(所謂線画状態)に変貌して口をパクパクさせた。(因みに少女漫画風に黒目は描かれていない)

―― うううう嘘!? 一番高いの!?

マヒロは慌ててメニューを借りて値段表を見た。
この料理が一体何という料理なのかはわからない。
とりあえずメニューの中で最も高い値段を探す――と、マヒロは目の前が真っ白になった。

―― 旅資金を沢山貰ってて良かった。……ありがとう、ベンさん。

物価の度合がよくわからなかったが、何となくどっさりくれた金貨を見て、最初こそ「こんなには受け取れません」と断りを入れたのだが、それでもベンは「十分過ぎるぐらいに持っておいた方が気が楽だろう?」と無理矢理持たせてくれたのだ。
今思えばベンはこのことを予見していたのかもしれないとマヒロは思った。

あまり使い慣れないナイフとフォークを使って一口サイズに切ってパクリと頬張る。

―― うぅ、物凄く美味しい。でも、どうしてかな? 美味しさに反比例して私の精神がどんどん弱って行く気がするんだけど。

黙々と食べながらマヒロは一日でも早くマルコと再会しなくては――と、危機感が募ったのは言うまでもない。

暫く食事をしているとその店の扉が突然に大きな音を立てて開け放たれた。
店内にいた店員や客達と共にマヒロも挙って視線を向けた。するとそこには制服らしき衣服を身に纏う男達が店の中へ入って来る姿があった。その男達の中心には彼らの上司に値する男なのか、他の男達とは違う立派なコートを羽織っていた。しかしマヒロからすると人の上に立てるような男では無く、どうにも胡散臭い顔立ちをしているように見受けた。

―― ……まァ、関係無いか。

マヒロは視線を戻して食事を続けた。するとカツカツカツと足音が近付いて来たかと思えばピタリと直ぐ側で止まり、マヒロの視界の先には見慣れないブーツを履いた足があってキョトンとした。

―― え、何?

「ふふん、相席しても構わないかね?」
「はい?」

胡散臭い顔立ちをした男と評した男に声を掛けられたマヒロは驚いて目を丸くした。

―― え、何を言ってるの? 周りに空席が沢山あるのにどうして?

マヒロは若干眉間に皺を寄せて怪訝な表情を浮かべた。

「おい女、マカロニ中尉がお声を掛けているのだ。ちゃんとお答えしろ」

彼の後ろには制服を纏った男達が整列しており、その中の一人がマヒロに命令口調で言った。
彼らの帽子や肩には『MARINE』の文字が入っている。

「……海軍さん?」
「ふふん、何故疑問形で聞くのか不思議ではあるが、まァ良い」

誰も許可をしていないにも関わらず、胡散臭い顔立ちをしたマカロニという名の男は、マヒロの前の席に腰を掛けた。そしてテーブルに両肘を突いて顎を置き、頬を紅潮させながらニヤニヤと笑みを浮かべて見つめて来る。
何とも言えない程に生理的に受け付けないその笑みにマヒロは堪らず明後日の方へと視線を外すとマカロニは「ククッ」と喉を鳴らして笑った。

「恥ずかしがらなくとも良いでは無いか」
「……そんな風に見えます?」
「ふふ、美しく可憐な女だ」
「……」

―― え、これってまさか……軟派?

マヒロは恐る恐る横目でマカロニに視線を向けるとマカロニは目尻を垂れ下げ、ニンマリと締まりの無い表情を浮かべてじっと見つめていた。

―― ッ!

ぞわっと全身に悪寒が走る。
心の中で危険警報が鳴り響く。

マヒロは急いで残りを口に放り込んで食事を終わらせると席を立った。すると何故かマカロニも一緒に立ち上がり、マヒロは驚いて少しだけ固まった。

―― な、何なの?

訝し気にマヒロが視線を寄越すとマカロニは得意気に懐から財布を出し、ウェイターにマヒロの食事代を支払った。

「え?」
「私の驕りだ」
「ちょっ、こ、困ります!」
「あァ、礼なら今宵に返してくれれば良いのだ」
「はい?」
「白く美しい柔肌に漆黒の髪がよく映えて……とても美しい」
「……」
「私の身体に組み敷かれ、どのような表情で喘いでくれるのか楽しみだ」
「は…!?」

マカロニは恍惚としながらとんでもないことを仄めかした。

―― え、正義を掲げる海軍でしょ? 何これ? 食事代金の肩代わりで売春強要ってこと?

マカロニの背中には大きく『正義』の文字があった。
いつしか『正義』についてマルコと話をしたことがあったが、やけに正義を嫌うマルコの気持ちがわかった気がした。
この『正義』は本当に頂けない。

「バカじゃないの?」

マヒロは冷たい目を向けて棘のある声音でそう言った。するとマカロニの部下の男が「おい貴様!」と声を荒げたのだが、マカロニが手を上げて制止した。

「そう怒るな。彼女は恥しがり屋なのだよ」
「ッ…は、はァ」

戸惑う部下を他所にマカロニはマヒロの側に歩み寄って来た。

―― な、何なのこいつ……気持ち悪い!

マヒロはマカロニが近付いて来た分と同じ距離を取るように下がった。するとマカロニは更に大きく一歩を出して近付く――が、同じ距離分の大きな一歩でマヒロが下がる。

「そう逃げなくても良いではないか」
「変態。売春強要って何? 海軍ってそういうことをするわけ?」
「何を言っているのかね? 私は君を口説いているだけなのだがね」

マカロニはそう言って強引にマヒロの手を取ろうと手を伸ばした。マヒロが咄嗟に手を引いてそれを躱すとマカロニは頬をヒクリと動かした。――かと思うと突然に凄い勢いでマヒロに抱き付いた。

「ちょっ!?」
「一目惚れだ! 悪いことは言わん! 私の女になれ!」
「はぁ!?」
「自慢では無いが私は夜のテクニックに自信がある! 安心してその身を委ねなさい!」
「!?」

公衆の面前で公の職に就くはずの人間がとんでもないことを口走りながら女を口説くとは、開いた口が塞がらないとはこのことかと思う程に唖然としたマヒロは大きくかぶりを振った。

―― こ、この!

「離れろォォッ!!」

ミシッ!

「げはっ!?」
「ああ! マカロニ中尉!!」
「貴様ァ! 海軍に歯向かうとは良い度胸しているじゃないか!!」

マヒロの正拳突きがマカロニの顔面に見事にめり込んだ。
顔を凹ませたマカロニは白目を剥いて鼻血を流しながら仰向けにズダンと倒れて気絶した。すると側にいた部下達が一斉に怒声を上げてマヒロを囲んだ。

「正義を掲げている割に真面な判断もできないの!?」
「何だと貴様ァ! 我々海軍を愚弄する気か!!」

マヒロの言葉に激高した一人の男が武器を手に突進してきた。その攻撃を皮切りに次から次へと武器を振り上げて襲って来る。
マヒロはひょいひょいと身軽に躱し続け、隙を見てその場から逃走した。

「くそ! なんてすばしっこい女だ!! 追え!!」
「マカロニ中尉! 大丈夫ですか!! 中尉!!」

マヒロは宿を離れて暫く身を隠すことにした。そして折を見て宿泊予定の部屋の窓から侵入し、荷物を手に取ると停泊している船へと戻ってこの島を出ることにした。

「はァ…、運が無いというか何と言うか、何なのよ全く……」

ゆっくり休めるどころじゃなくなったじゃない!――と、文句を言いながら闇夜の中を照らす月明かりを頼りに、マヒロは港町から無事に出港したのだった。

そして翌日――。

帽子を被った一匹のカモメが船の帆柱に留まっていることに気付いたマヒロは目を丸くした。
何やら鞄のようなものを引っ提げていて不思議に思って見ていると、カモメは嘴で鞄から器用に冊子を取り出し、パタパタと飛んでマヒロの方へと飛んで降りて来た。
腕を差し出して留まらせてやると、カモメは冊子を受け取れとばかりにクイックイッと首を動かした。
見ればその冊子はどうも新聞のようで、マヒロは戸惑いながらそれを受け取った。

「あ、思い出した! これがベンさんの言っていた『ニュース・クー』というやつね?」

コインを支払うとそのカモメはパタパタと何処かへと飛んでいってしまった。
新聞を購入したところで文字が読めないマヒロには不要なものなのだが、何となくバサリと開いてみると中に挟んであったと思われる一枚の紙切れがヒラヒラと足元に舞い落ちた。そして、その紙切れを拾い上げようとして腰を曲げたマヒロは一瞬にして硬直した。

『WANTED - DEAD OR ALIVE - 100,000,000 ベリー』

「え? こ、これ……私じゃないの?」

いつどこでどのようにして撮ったのだろうか。
マヒロがマカロニに正拳突きを食らわす直前と思われる写真がそこに載っていた。

「な、ななな何なのこれ?」

軟派を振り払い、危うく食費代金として売春を強要され掛けて、撃退した末の報復がこれ。

「はァ!?」

愕然としたマヒロはヘナヘナヘナと腰を落としてがくりと項垂れた。
視界の端には風で煽られて紙面がばさりと捲られた新聞があり、そこに掲載されていた写真には鼻がへしゃげて前歯が欠けた間抜け面のマカロニが写っていた。
どうやら昨日のことが書かれている記事らしいのだが、何が書かれているのかはわからなかった。しかし、きっと恐らく彼らの都合の良いように好き勝手に書かれているに違いないとマヒロは思った。

「最低最悪だわ。海軍なんて大っ嫌い」

マヒロの中で海軍は『最低集団』という印象が植え付けられたのだった。

海軍

〆栞
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