12


急激に空気がピリピリと張り詰め始め始めると娼婦の女らしからぬ鋭い眼光に変えたミュゼはマルコに掴まれた腕を振り解こうと自由の利く腕を振り子のようにしてマルコに目掛けて拳を放った。その拳には僅かに妖気が纏い、並の女のそれとは天と地ほどに違う攻撃力に富んだものだった。

マルコは咄嗟に手を離して後方に一歩引くとミュゼは更にマルコから距離を取るように後方へと飛び、警戒心を露わにした。

―― まさか”私達の”存在を知る者がいるだなんて思いもしなかったわね。それに、私を呼び寄せる程の力も一体”何か”もわからないのだから、警戒は必要ね。

「……流石は白ひげ海賊団1番隊隊長様といったところかしらね」

まだ余裕があるのかミュゼは微笑を浮かべるとそう言って「ふふ…」と小さく笑った。
片眉を少し上げたマルコは首筋に手を当てると呆れにも似た表情を浮かべた。

「まァ、娼婦紛いにサッチを相手に楽しみながら本性を現して喰らう気だったってとこかねい」
「えぇ、相性が良かった相手なら抱き合って果てる時に喰らうのよ」
「えらく悪趣味だねい」
「あら? 気持ちの良い絶頂の瞬間に死ねるのよ?」

ミュゼはそう言うと自分の指をひと舐めしてその指をマルコへと差し向けた。

「私の体液は性欲を上長させる効果があるの。舐めてみれば直ぐに女を抱きたくなるわ?」

妖艶に笑みを零してマルコを誘うようにミュゼは少しずつマルコとの距離を詰め始めた。するとマルコはミュゼから視線を落として顔を俯けると僅かに肩を震わせ、眉を少し顰めたミュゼは足を止めた。

―― 何?

「くっ…くくっ…」
「…何なの…?」

マルコは口元を手で覆い笑うのを堪えようとしたが、やはりどうしても可笑しくてついつい声を漏らして笑ってしまった。

―― 今頃サッチの奴は苦しんでんだろうなァ。帰ったら少しばかり慰めてやるかねい。

これからという時にミュゼに袖にされたであろうサッチを想像すると笑いつつも軽く同情する。
タイミング的には恐らくキスを重ねて押し倒したぐらいか、それ以上に進んでいれば向け処の無くなった性欲に苦しんでどん底にいるだろう。
シャワールームで一人苦闘しているだろう悪友が脳裏に浮かび、腹が捩れる程に笑いたい――が、今はそれどころでは無く、マルコは大きく深呼吸をして意識を切り替えた。
ミュゼ怪訝な表情を浮かべて警戒をしたもののマルコとの距離を詰めると自身が舐めた指先をマルコの口元へと差し向けた。

「好き」

色っぽくそう呟いたミュゼは指先でマルコの唇に軽く触れると抱き付くようにしてマルコの首に腕を回し、その勢いのままにキスをしようと迫った。だがマルコの手がお互いの唇の間を遮って止めると、ミュゼは不服な表情を浮かべ、色情的に潤ませた瞳で睨んだ。

「お前ねい、そうやって色々な男を落としてきたんだろうけど、おれには通じねェよい」
「……」
「そもそも、喰われるとわかってて誰が抱くってんだい」
「心外ね。宣言しても男達は挙って喜んで私を抱いたわよ?」
「本当に喰われると思っちゃいねェからだろい」
「……」

ミュゼは少し眉を顰めた。

―― 効果が無い?

軽く唇に触れたにも関わらずマルコは変わらず平静だ。普通の男なら直ぐにでも効果が表れ、誘惑に負けて落ちるというのに、何故か全く効いていない。
ミュゼはマルコの首に回した手を解くと少しずつマルコから距離を取るように後退った。先程までの情婦の顔は消え、少し青褪める表情へと徐々に変わっていく。

「な、何なのよ? どうして効かないの?」

ミュゼがそう言うとマルコは片眉を上げて微笑を浮かべた。

「相手が悪かったと諦めるこった。悪ィが例え女だとしても、このまま見過ごしてやる気にはなれねェ」
「ど、どういうこと?」
「いつまで猫を被る気だよい? いい加減に化けの皮を剥して”妖怪らしく”襲ったらどうだい?」
「ッ…!」

途端に鋭い視線を投げつけたマルコはじりっと距離を詰めた。するとミュゼはビクリと身体を強張らせて表情をも硬くした。

「どいつもこいつもお前ら『妖怪』の餌食になると思ってりゃ大間違いだよい」

マルコは少しずつ霊気を解放し始めた。それに気付いたミュゼは愈々驚いて目を見張った。

―― な、何なのよこの圧力…? まるで妖気に似て…ッ、で、でも、違う、違う! この力はまるで…どうして存在するの!?

「お前!!」
「おれは『正義』だの『慈善活動』だのする気は更々ねェが、仲間に手を出すような奴らには容赦はしねェ。今ここで見過ごしたとしても、明日、明後日、隊員の奴らを落とし込んで犠牲が出るかもしれねェ。次にまたこの島に訪れた時、また別の奴が犠牲になるかもしれねェ」
「だ、だったらどうするって言うの?」
「おれが今ここでお前を殺すって言ってんだよい!」

――!!

「に、人間風情が私を殺せるとでも思ってるの!?」

ミュゼがそう叫ぶとマルコは口角を上げた。

―― 漸く認めやがったねい?

「あァ、思ってるから…、こうして対峙してんだろうがよい」
「!?」

マルコは不敵な笑みを浮かべると両腕に青い炎を滾らせ、足に武装色の覇気を纏った。それは一見すれば悪魔の実の力を使い、武装色の覇気を纏って戦う人間の姿と変わらない。しかしミュゼは感じていた。その奥に潜み宿る別の力――『霊気』を。

「な、何故…? その力を持つ者は”この世界にはもういない”はずよ!?」

畏怖の表情を浮かべて言うミュゼにマルコは眉をピクリと動かした。

―― この世界には…ねい。

ミュゼから視線を外したマルコは空幻に師事を受けた際に聞かされた話を思い出した。

「遠い昔の話じゃが、人間と妖怪が共存する社会もあったんじゃよ。じゃが、人間は科学の力に頼るようになり始めると途端に対立するようにもなっていったんじゃ。妖怪と対等に立てる”霊気”を放棄したことからバランスが崩れたと言えば良いのかのぅ。まァ、遥か昔、古の時代の話じゃがな」

この世界にはもういない――とは、これに関係するものと思われる。
妖怪達は人間を己の命の糧とする為に人間を餌とする。しかし、この凡そ二年の間にマルコはただそれだけではないようにも感じていた。
その奥に潜む『恨み』にも似た雰囲気を肌で感じることもあり、マヒロの世界で戦った妖怪とは少し何か違う気がして、ずっと疑問を抱えていた。
だが今はその疑問にどうこう考えている場合では無い。
マルコは小さくかぶりを振ってその思考を停止させ、目の前のミュゼに集中した。

「あなた…一体何者なの? ただの海賊じゃないの?」
「そうだねい……。ただの海賊じゃあ無いのは確かだよい」
「じゃ、じゃあ」
「おれァ……『化物』だ」
「――!!」

マルコは一瞬にしてミュゼとの距離を詰めた。
ヒュンと空気を切り裂く音と共にドシュッ! と、何かを貫く。

「かはっ…はっ…お、己ェ…ただの人間風情がァァ!!」

マルコの手刀がミュゼの心臓の位置を突いて見事に突き破っていたのだが、ミュゼは血を吐きながらも倒れるどころか自身の胸を突き破るマルコの腕を掴んだ。するとミュゼの容姿はみるみる内に変貌を遂げていく。
透ける程に白かった肌は青くなり、長く美しかったブロンドの髪は緑へと変わり、額からは長く太い二本の角が姿を現した。そして大きく女性らしい丸い目は黒目に猫目の瞳孔のような形へと変えて赤く染まり鋭い眼付に変わり、口には鋭い犬歯が、手足には凶器となり得る鋭い爪が生えていた。
あの見目麗しい美人だった容姿は跡形も無く消え、見るからに化物らしい姿へと変貌したのだった。

「……この姿を見ても驚かないとはね」

妖怪の姿を目前にしてもマルコは驚く様子は無く平然としていることにミュゼは些か胸に無言の圧力を加えて警戒した。
対してマルコはそんなミュゼをじっと見つめて「あァ」と何か納得するように声を漏らした。

「……そういうことか」

―― こいつ、心臓が二つあるな。

ミュゼの胸を突き破る手や腕にもう一つ別の鼓動が伝わって来る感触が確かにあった。冷静に分析するマルコの態度が気に喰わないのかミュゼはギリッと奥歯を噛み締めると怒りを露わにした。

「お前が私を今ここで殺しておくと言ったが、その言葉をそっくりそのままお前に返してやる!」
「!」

ミュゼは身を震わせながら甲高い声でそう叫ぶと額から生えた二本の角の間にバチバチと音を立てて紫色のエネルギー派を集めた球体を一瞬にして作り出し、ジジジジジッと激しい音を発するそれを問答無用でマルコに向けて放った。
突然の至近距離での攻撃を受けたマルコは身体ごと吹き飛ばされると同時にミュゼの胸を貫いていた腕がズボッと音を立てて抜ける感覚があった。
吹き飛ばされた先に太く立派な大木があり、そこに背中から強く激突し、大木に身を預けるように身体がズルズルと地へと落ちた。

ミュゼはニヤリと不易な笑みを浮かべると自身の口端から流れ落ちる血を腕で拭った。

「所詮は人間ね。今の攻撃を至近距離で喰らえば死んだも同然。ふふ、弱った人間相手に交わるのも一興かもしれないわね」

貫かれた自身の左胸を右手で押さえながらミュゼはマルコの元へと歩み寄った。だが間近に迫ると項垂れていた頭を上げて鋭い眼光をぶつけて来たマルコに驚いたミュゼはピタリと足を止めて息を飲んだ。

―― 嘘…でしょ?

「どうした? 来ねェのかよい?」

口角を上げた笑みを浮かべてそう言ったマルコの身体からボボボッと青い炎が発し、深手を負った身体がみるみる内に再生していった。それに目を見張ったミュゼは戸惑いの色を隠せずに狼狽えた。

「な、何故!? 悪魔の実は妖気に無効のはず! それなのにどうして再生されるの!?」
「ただの悪魔の実の力だけならねい。おれァつくづくマヒロに感謝しねェとなんねェなァ」
「……マヒロ……?」
「あァ、お前が知らなくても良い名だよい」

マルコは立ち上がると衣服に付いた砂埃をパンパンと払いつつニヤリと笑みを浮かべた。するとミュゼは「おのれ!」と顔を歪めて身構えた。

「妖怪にも性別ってェのがあるとは知らなかったよい。てっきり野郎ばかりだと思ってたが」
「……まるで過去にも妖怪と会ったことがあるみたいな口ぶりね」
「まァねい」

一人は恩人のマヒロを狙い、もう一人はやたらとマルコに固執して狙い求めて来たことを鮮明に蘇り、舌なめずりをして迫る鬼雷鳥がふと脳裏に過ったマルコは思わず背筋に悪寒が走るのを感じ、目前のミュゼをじっと見据えて眉を顰めた。

―― 野郎に求められるよかマシか。

「おれはその気は無ェから、野郎に欲しいだ何だと言われること程に気持ちが悪いもんはねェよい」
「……」

マルコは当惑の眉を顰めてそう言いつつ――あァ、やっぱり無ェな――と溜息を吐いた。

「……女とは言えお前みてェな妖怪に求められるのも、やっぱり遠慮してェよい」

性別云々では無く、妖怪に求められること自体御免だとマルコは素直な気持ちをついつい口を突いて漏らした。するとミュゼは唇を噛み締めると言った。

「なら、大人しく人の姿でいた私を抱けば良かったのだ!!」
「いや、抱く前提で言うなよい」

―― その思考は酒場で会った娼婦共と全く変わんねェじゃねェかよい。

ミュゼの言葉に思わずがくりと膝から崩れ落ちそうになったマルコは額に手を当てて溜息を吐いた。
娼婦紛いのことをしているからだろうか? 妖怪とはいえ人間の娼婦とあまり変わらない思考にマルコは呆れるしかなかった。

「はァ…、もう、とっとと終わらせるかねい。おれの気が持たねェよい」

―― 何だか頭が痛くなって来たしよい。

そもそも女の口から「やる」だの「して」だの「欲しい」だのと連呼されるのは、男としては嫌では無いかもしれないがあまり好ましいものでもない。
マルコはゆっくりとした動作で手を前に翳して身構えるとミュゼは不思議そうな表情を浮かべながら警戒した。

「な、何をする気?」
「お返しだよい」
「え?」

ドンッ!

「!?」

マルコの手から青い炎の塊が突如として放たれ、それがミュゼの顔面を捉えると容赦無くミュゼを吹き飛ばした。そして、その先の突き出た岩盤に勢い良く背中を打ち付けたミュゼの身体は地へと伏した。

「くっ…うっ…な、何…今の力は……!? 青い炎の塊が…一体どうやって…? い、いえ、そんなことは問題じゃない! 何故こんな……? さ、再生の力に攻撃力は無いはずなのに…ッ、どうして……」

うつ伏せに倒れる身体を両腕に力を込めて起こそうとするミュゼだったが思うように身体が動かず、コホッゲホッと咳き込んで血を吐いて苦悶の表情を浮かべた。そうしている内に片方の腕を掴まれる感覚にハッとした時、視界がぐるりと回転して仰向けへと変えられるとマルコの青い瞳が直ぐ目の前にあって目を見開いた。視線が交差してドキンと心臓が跳ねると思わず息を飲む。

「せめて男に組み敷かれた状態で死なせてやるよい」
「!」
「じゃあな、ミュゼ」
「まっ、待って――!」

どんっ!

「あっ…はっ……マ…ルコ……」

マルコはうつ伏せで倒れたミュゼの元に間髪入れずに駆け寄ると仰向けにしてミュゼの両手を右手で拘束して頭上へ固めた。そして左手に覇気と青い炎を纏わせた手刀を掲げるとミュゼの右胸に向けて放つと呆気無く突き破って心臓を破壊した。

ミュゼは目尻から涙を零し、ガクガクと身体を痙攣させながらマルコの名を力無く呼び、敢え無く絶命したのだった。

「……悪いなミュゼ」

妖怪とはいえ『女』だった。
少なくとも最後の絶命する瞬間の顔は、好いた男に命を奪われる女と変わり無く、とても後味の悪いものだった。
ミュゼの胸を貫いた腕を引き抜くと同時にミュゼの身体が足先からサラサラと砂上化が始まり、それはやがて全身へと広がり、風に吹かれてハラハラと散って消えていった。
マルコの腕に付着していたミュゼの血は浄化すると共にスッと消え、衣服はまるで何事も無かったかのように血による汚れは残らず、砂埃やミュゼのエネルギー派で多少焦げたぐらいの汚れだけが残った。

「……目的は終わったし、帰るとするかねい」

クシャリと自身の頭に手を置いて軽く髪を掻き上げながら、マルコは森を抜けて人通りの少ない道を歩いて船へと戻った。そして甲板から船内へ入ろうとした時、偶然にイゾウと出くわしてピタリと足を止めた。

「おや、マルコ。お疲れ様だねェ」
「ッ……イゾウ……」

イゾウはマルコを見るなり不敵な笑みを浮かべてそう言った。するとマルコは思わず眉間に皺を寄せてイゾウから視線を外すとイゾウは「ククッ…」と声を噛み殺すように笑った。

「マルコ、おれはね、少なくともお前さんがおれ達に不義を仕向ける男で無いことは知っているつもりさね。マルコがどんなに変わろうと、どんなに強くなろうと、オヤジを裏切ることも家族を裏切ることも絶対にしねェ。白ひげ海賊団1番隊隊長不死鳥マルコはそういう男だってね」
「……」
「周りの奴がマルコをどう思っているかなんてェのは興味が無いから代表して言うつもりはねェ。ただこれはあくまでもおれの個人的な意見だ。マルコ、おれはお前さんを心底から信用している」
「……イゾウ」
「気が向いた時で構わねェ。お前さんが”抱えているもの”についていつか教えてくれたなたら、その時は協力できる範囲で力になれることもあるだろうさね」
「!」

まるでイゾウの言葉は今までの全てを見て知っているかのような物言いだった。予想もしていない言葉にマルコは思わず目を丸くして唖然としていると、イゾウは煙管を口に咥えて再びククッと声を挙げて笑みを浮かべた。

「何を不安に思ったのか知らねェが、実際にマルコが何をしてきたかなんてェことは知らないよ。ただ何となくだ。おれはどこかのリーゼント男ほどマルコに対して敏感では無いが、それでもわかるぐらいに今のあんたの顔は……酷く辛そうに見えたからねェ。だから言ったまでだよ」

”安心しな”

話ながら見せるイゾウの表情はそんな顔だった。しかし微笑は直ぐに消されて真面目なものへと表情が変えられるとイゾウの眼光はマルコを射抜くように鋭くなった。

「オヤジにも言えないことか?」

イゾウの問いにマルコは何も言えずに頭を掻いて視線を少し彷徨わせた。するとイゾウは小さくかぶりを振って溜息を吐いた。
イゾウが溜息を吐く姿等あまり見ることは無い。甚く珍しい光景だとマルコは思った。

「イゾウ、いつか話せる時が来たら話す。けど、今はその時じゃあ無ェんだ」
「……そりゃあ何故だい?」
「これはおれの『至極個人的な問題』なんだよい。そこに誰も巻き込む気はねェし、おれにしか対処できねェ問題なんだよい。けど、気持ちは有難く貰っておくよい」

マルコの言葉にイゾウは眉をピクリと動かした。そして煙管を深く吸うと「ふぅ……」と紫煙を吐き、マルコの肩をポンポンと軽く叩いて自室へと帰って行った。
マルコはイゾウの背中を見送るとポリポリと頬を掻き「悪ィ…」と小さく零して自室へ戻った。
汚れた衣服を脱いでシャワールームに入ると頭から冷水を浴び、先刻あった後味の悪い思いを汗や汚れと共に洗い流した。
身体を拭いて衣服を身に付けると疲労感と共に崩れる様にしてベッドへとうつ伏せになって倒れ込んだ。

『おれにしか対処できない問題』

イゾウに言った言葉が脳裏に過るとマルコはベッドに顔を埋めて大きく息を吐いた。

「孤独だよい。マヒロ、お前はずっとこうだったんだな」

誰にも真実を話せず、秘密裏に動いて”見えない者”から皆を守る為に一人で戦い続けるも、時として精神的に堪えることもある。
今回のミュゼにしても”人を喰らうことが無ければ”無理に退治する必要は無かった。
死に際のミュゼの表情を思い出すと眉間に皺を寄せたマルコは寝返りを打って天井を見上げ、徐に腕を目元に乗せて視界を暗くした。

トクン…と柔らかく鼓動が胸を打つと安らぎをくれる声が心内に響く。

(一人じゃない。一人じゃないよマルコさん)
「……ッ、……マヒロ」
(私がいるもの)
「今日の相手は精神的に結構辛かったよい」

そう独り言ちるとまたトクン…と胸を打ち、じわりと温かい気持ちが広がった。

(大丈夫?)
「……あァ、大丈夫だよい」

自ずと口角が上がり微笑を零す。
心地が良くなって来ると次第に瞼が重くなり、マルコはやがて深い眠りへと落ちた。

一方――。

自室に戻ったイゾウは煙管を煙草盆の縁にカンッと叩き付けて灰を落として布団に腰を下ろした。

「『おれにしか対処できない問題』だって?」

誰に言うでもなくその言葉を口にしたイゾウは眉間に手を当てて溜息を吐いた。

「周りの目は騙せてもおれには目に見えてわかった。マルコ、お前さんが酒場で一瞬だけ見せたあの目は何だ? サッチが連れて行った女に向けたあの目は普通じゃなかった……」

オヤジに言うべきだろうか、それとももう少し情報を集めるべきだろうか――。

信じてる。
信じている。
決して疑っているわけじゃない……決して――。
だが、それでも――。

二年前に行方不明となった後に帰還したマルコは少し人が変わったように見受けた。

以前も確かに人との距離を置いて接する男ではあったが、それは『不死鳥の能力』が一因してそうさせていることは知っていた。それが更に一線を画して距離ができたように見える。しかし、以前と比べると他人に対して優しくもなったのだ。些細な事にも気遣いをするようにもなり、人の話を聞いてやる態度でさえ見せるようにもなったのだ。

あの男は自分の話をするような性格では無いが全く話をしないなんてことも無かった。
だが今はどうだろうか、一切何も話そうとしないのだ。

何を見て、何を感じて、何を考えているのか、何も言わない。

隊長会議での意見は極々当たり障りの無いものを述べているに過ぎないのではないのか?
本当はもっと違うことを思っているのではないのか?

時折、ビスタやジョズ、フォッサらとそういう話をしたことがある。皆それぞれにマルコに対して心配と疑問を抱いているのだ。最もその筆頭に立つのはあの男なのだが――。

目を瞑って浮かぶのはリーゼント頭の男――そう、サッチだ。

「マルコが話した言葉だけでもオヤジに報告しておこうかねェ」

ゴロンと仰向けになり天井の木目を見つめながらイゾウはポツリと零した。

『おれにしか対処できない問題』

眠りに就くまでその言葉がイゾウの脳裏にずっとこびりついて離れなかった。
そして翌朝――。
イゾウは船長室で白ひげと二人きりになると昨晩にマルコが話した言葉を報告した。すると白ひげは皺を寄せた眉間に手を当てて目を瞑った。

「あァ、わかった」

そう一言イゾウに伝えるとイゾウは何も言わずに頭を下げて部屋を去って行った。
パタンと船長室の扉が閉まると白ひげは天井を仰ぎ見て溜息を吐いた。

「一度二人きりで面と向かって話をしてみるか……なぁ、マルコ」

白ひげもマルコの変わり様については何となく察していた。

二年前の行方知れずとなった二ヶ月間にマルコの身に何があったのかをより詳しく問い詰める必要がある。
マルコが戻って来た時に確かに本人から報告を受けたが当たり障りの無い説明のように思ったのは確かだ。
異世界で世話になったマヒロのこと、聞いたことの無い『霊気』とやらの話、それが原因で急激に強くなった等――それ以外にも『何か』があるように思えるのだ。

『大きな重荷』

それが何か――いつか話をしてくれるだろうと暫く黙認することにしたが、話す気配は微塵も無く時間だけが過ぎていった。
この二年、先程のイゾウのようにジョズやビスタ等、数名の隊長からマルコの様子が以前と違うようだと報告を受けることがあった。
特にマルコと最も付き合いが長いサッチが食事を持って来る度にマルコに関して同じような見解を口にするのだから隊長達の報告は信憑性が高いものと確信できる。
更に、新たな島に寄港する度に一人で下船してどこかに出掛けるようにもなったことも知っている――が、果たして何をしているかまでは誰も知らない。

さて、果たしてマルコを呼びつけたとしても話してくれるかどうか――まずそこが問題だ。
確かに度量が深くなり柔和になったマルコだが、妙に一層頑なになったようにも思えるのだ。

―― 何か切っ掛けがあれば良いんだがなァ。

白ひげは難しい表情を浮かべると一人思案するのだった。

隠れた戦い

〆栞
PREV  |  NEXT



BACK