01


真っ青な海と空が広がる中を白鯨を模した船が優雅に航行している。
その船の甲板上には船番をする者達がいれば広い場所で鍛錬を行う者達もいれば、海に向けて針と糸を垂らした釣竿を手にして暇そうにしている者達がいる。

「くあァ…、眠ィ」

釣竿を持ちながら大きな欠伸をしてそう零すとゴチンッと容赦の無い拳骨を浴びた彼は目深になったオレンジ色のテンガロンハットの唾を持ち上げて振り向いた。
余程痛かったのか涙目で睨むも直ぐに顔色を変えた彼はヒクリと頬を引き攣らせた笑みを浮かべた。

「集中して釣れってんだよ」

額に青筋を張ったサッチがエースに圧力を掛けると、エースと呼ばれた彼と共に釣りをやらされている者達が「エース隊長、ちゃんとしてくださいよ」と嘆いていた。

「はは…、悪ィ悪ィ」

苦笑を浮かべて謝るエースは殴られて痛む頭を擦りながらテンガロンハットを被り直し、改めて海に視線を向け釣竿をクイクイッと動かした。

「お前ェら悪ィな。これも連帯責任ってェやつなわけ」
「はい…、サッチ隊長の仰る通りなので反論はありませんっす」
「止められなかったおれ達にも責任があるんだ。仕方が無いことっす」
「「「エースの食欲にはおれ達もずっと悩まされてきたんで慣れっこです」」」

連帯責任によってエースと共に釣りをやらされている彼らは元々エースが率いていた『スペード海賊団』の一員だった。
今は元船長だったエースが白ひげ海賊団の2番隊の隊長となったことから彼らは2番隊の隊員として白ひげ海賊団の一員となっていた。
彼らが白ひげ海賊団の一員となるまで色々あったが、今となってはすっかり馴染んでいる。

「美味そうな肉がそこにあったら食い付かねェのは肉に失礼だろ?」
「どういう理屈だってんだ!?」

今夜の夕食に出すはずだった肉を腹を空かせたエースが食べてしまい、それに気付いたサッチの怒声が響いたのはほんの数十分前の話。

この光景も最早白ひげ海賊団の名物とも言える程に見慣れたものとなっていた。

この船に新たな家族としてポートガス・D・エースという名の男が迎え入れられたのは行方不明となっていたマルコが帰還してから間も無くのことだった。
当初、エースは何度も白ひげの命を狙っては返り討ちに遭い、事あるごとに船は壊れた。その度に隊長達を筆頭に隊員達が修繕に追われていたわけなのだが、誰もがエースの敵意が消えるまで何も言わずにただ見守っていた。
どうあっても白ひげに触れることすらできずに苦杯を飲み続けるもエースは決して心が折れることは無く、鋭い眼付きで『諦める』という言葉を知らない様相で、誰もが長丁場になると思っていた。
だが、ある日を境にエースの狂暴染みた敵意の心がすっかり消え失せ、エースは白ひげの申し出の通りに彼の息子となることを決めた。何が切っ掛けだったのかは誰もわからないが、一度決めたことは決して曲げない真っ直ぐな気質のエースがこの船の一員として馴染むのにはそう時間は掛からなかった。

2番隊の隊員達に「十五時までにしっかり釣ってくれよ」とサッチは念押しでそう告げると船内へと向かった。そして船内へと入る際に釣りを続けるエース達の背中に視線を向けると彼らが家族となるまでの経緯をふと思い出してクツリと笑みを零した。

船内に入って食堂に向かうとカウンター越しで厨房内を覗き込む人物を見付けたサッチは肩を上下に動かして大きく息を吐いた。

「マルコ、コーヒーか?」
「…あァ、外に居たのかよい」
「ったく、また徹夜したな?」
「仕方が無ェだろい…。どこかの誰かの文字も意味不明な暗号系なんだからよい」
「…あー……」
「サッチ、濃いめに頼むよい」
「……」

眠気からか不機嫌な様相を見せるマルコが手に持っている書類に視線を落としたサッチは何も言わずにただただ同情の眼差しをマルコに送ると静かに厨房奥へと向かい、ご指名通りに濃いめのコーヒーを淹れてやることにした。

マルコが無事に帰還した当初の事だ。

行方不明となった二ヶ月もの間に溜まった仕事は兎角膨大で、それを消化する為にマルコは不眠不休で書類処理に追われることになった。
誰かが代わりにやってくれているなんて可能性は無いにしても流石に少しぐらいは――等とどこか多少期待はしていたマルコだったが見事に打ち砕かれた。
当然のようにマルコは不機嫌の鬼と化したわけで、その間は隊員達から恐れられるだけでは無く、隊長達でさえも軽口を叩けない程に散々だった。

「ほい、コーヒー。あと…まァ、頭の回転の為に糖分を取っとけ」
「悪ィな」
「あんま無理すんなよ」
「無理しねェと終わらねェんだよい」
「お前ェの不機嫌の鬼事件は皆に軽くトラウマを残してっからね? 限界寸前まで行ったらマジで休んでくれ。頼むから」
「…………善処するよい」

サッチからコーヒーと軽食となるサンドウィッチが乗ったトレーを受け取ったマルコは踵を返して自室へと戻るのだった。

部屋に戻ったマルコはソファの前に置いてあるローテーブルにトレーを置くとソファに腰を下ろして大きく息を吐いた。
手に持っている書類を半ば投げ捨てるようにテーブルに放るとコーヒーカップを手に取って一口飲んだ。そして半永久的とも思える程にずっと皺を刻んでいる眉間に手を当てて小さくかぶりを振る。

「文字の訓練をさせるのが一番手っ取り早いか…。いや、机にかじり付くタイプじゃねェし、真面になるとは到底思えねェ…。やっぱりおれが覚える方が早い…か」

そう独り言ちて二口目を飲むとコーヒーカップを戻し、背凭れに身体を預けると天井を見上げてゆっくりと目を閉じた。

『不機嫌の鬼事件』

サッチの言葉でマルコは帰還した当時のことをふと思い出していた。

〜〜〜〜〜

あの時、マルコが船に乗船した際に奴らが直ぐ側に居たことに気付いた。
二、三人程だったが船員として船に乗っていた彼らは戻って来たマルコを見るなり目の色を変えたのを今でもはっきりと覚えている。

白ひげ海賊団には『鉄の掟』というものがある。
仲間殺しは最大の罪とし、それを犯した者は命を持って罰せられる。

例え奴らが人間で無いにしろ船員として潜り込んでいる為にマルコからは何もすることができず、暫くの間、警戒しながら静観を決め込み放置することとなった。

だがある日――。

そこそこできる海賊団が白ひげ海賊団相手に喧嘩を吹っ掛けて来た。
その戦いは重傷者多数、死者も数人出す程の乱戦に次ぐ乱戦となったのだが、そんな中でどさくさに紛れて奴らはマルコを殺そうと襲い掛かったのだ。
傍から見れば人の姿ではあったが、指先が異様なカギ爪に変貌していたり、牙が異様に鋭く生えて目の色が黒かったりと間近で見れば異形であり、彼らが『妖怪』の類であることを明白にマルコは思い知った。

その時は運の良いことに島に停泊していたこともあり、その乱戦の最中にマルコは彼らにわかるように敢えて小さな霊気を纏いながらおびき出すように人目の無い場所まで逃げた。
彼らは余程腹が減っていたのだろうか、人目が無いとなると堂々と変形してマルコに容赦無く襲い掛かったのだ。だがこれはマルコからすれば絶好のチャンスと言ったところだ。

「これは正当防衛ってことで悪く思うなよい!」
「「「何!?」」」

マルコもまた堂々と霊気による力を解放して反撃した。すると直ぐに決着し、彼らは砂上と化して瞬く間に浄化して空気中に消えていった。
それを見届けたマルコは未だに続く乱戦の中にこっそり戻り、何事も無かったかのように参戦したのだった。

だが、そこでもある問題が浮上した。

人間相手となると今度は大きく手加減をしなくてはならないことに気付いたのだ。その為に思った以上に苦戦を強いられることとなったわけなのだが、それも何とか適当に捌いて海賊達を撃退することができた。

そして――。

失った仲間の中には爆弾で殺された為に遺体として残らない者も居たこともあって、マルコが返り討ちにした『彼ら』もその類で死んだとして処理されることとなった。――と言っても、そう処理したのはマルコ自身なのだが――。

仲間内に潜まれること程に厄介なことは無かった。

『鉄の掟』を破る等したいわけが無い。
だからと言ってあのまま放置をすればこの船の中の誰かが餌食に遭うのは確実だった。
彼らはいつから居たのか。
想像したくは無いが、もう既に何人かは彼らの犠牲になっていたかもしれない。

マルコが船に戻ってからは彼らは他の誰を狙うでも無くマルコだけを執拗に狙っていたように思える。その為、その間での犠牲者は居ない。しかしそれより以前となると――。

妖怪はマヒロの世界だけの存在だと思っていたが甘かった。
まさかこんな身近に潜んでいるなんて思ってもみなかった。

これより以降、マルコは表向きでは常日頃と変わらぬ様相を保ちつつ、裏方ではこれまでと全く異なった過酷な日々を送ることとなった。

〜〜〜〜〜

深い溜め息を吐きながらゆっくりとした動作で上体を起こしたマルコは、テーブルに放った書類に手を伸ばすとサンドウィッチを口に放り込んでコーヒーで一気に流し込んで立ち上がった。

「ッ……」

右手首にツキンと僅かに痛みが走って顔を顰める。

「はァ…、早いとこ慣れねェと身体が持たねェってのに……」

本当なら簡単な書類処理のはずなのだが、新しく入った末弟の文字に苦戦して中々終わりが見えないことにマルコは苛立っていた。

「修行しねェと……な」

悪魔の実の力と霊気の力、そして覇気。

鬼雷鳥の一件からと言うよりはマヒロと身体を重ねてからと言った方が正しいか、あれから全ての能力が急激に向上して強くなっていた。
白ひげ海賊団の一員として紛れ込んでいた彼らに反撃に出た時、思った以上に強い攻撃を繰り出したことにマルコ自身も唖然とした。
更にはその強過ぎるが故の力の代償とも言うべきだろうか、マルコ自身の身体に掛かる負担があまりにも大きく、こうして後遺症のように痛みを発するようになったのだ。

流石にこのままではダメだと思ったマルコは人知れずひっそりこっそり修行をしようと決意した――のだが、未だに実行できていない。

「…あ”ー、限界だよい!」

悩みに悩んだ末にギブアップだとばかりにマルコはガタンと席を立つと書類を片手に部屋を出て行った。
盗み食いを働いてサッチにこっぴどく叱られていた末弟の元へ、意味不明な文字が何なのかを聞く為に――。

「えーっと……」
「おい、まさかとは思うがよい……」
「ん”ー???」
「自分の字が読めねェなんてこと…あるかい?」
「はは! 悪ィ! わかんねェ!」

後頭部に手を置いて楽観的に笑う末弟エースを前にマルコは愕然としてガクリと頭を落とし、盛大な溜息を吐きながら膝から崩れ落ちた。

(が、頑張ってマルコさん!)

唯一救いとなるのは、心内に居るマヒロがこうして励ましてくれることだけだった。

「やっぱり文字の訓練をさせるべきかねい……」
「マルコ隊長…、お言葉ですがエースには完全に不向きな訓練かと」
「エースがじっとしてるわけないっすよ」
「おれ達でもエースの文字って読めねェもんな!」
「だから言ったろマルコ? おれ、文字を書くのは苦手だって」

ニシシと笑って話すエースにマルコは眉をピクリと動かすと視線を2番隊の隊員達に向けた。

「なら、誰か代わりに――」
「「「エース! 引いてる!!!」」」
「うお! マジか!!」
「……ょぃ」

2番隊の彼らはエースの持つ釣竿の糸がクイクイッと引いていることに目敏く気付いて声高らかに言った。明らかに『拒否』を示す感じで――。

自由を求めて海賊をやってるのに誰が好き好んで書類仕事なんてするんだ――と、言いたい気持ちはマルコもよくわかっている。
だが白ひげ海賊団は千六百人をも有する大所帯なのだ。嫌でもこれをしなくてはグランドラインで生き抜くのは厳しい。

「あ、思い出した!」

エースは釣竿を上下に動かしながら糸を巻いているとピコンと脳裏に灯りが点いたようにハッとして言葉を零した。

「マルコ!」
「……何だい?」
「大工道具の調達に行ったのを思い出したぜ! 多分それはHAMMERって書いてんだ!」
「……ハンマー…?」

マルコは書類に視線を落として確認した。

『AAMM区さ』

―― マジか…。ハルタやラクヨウ以上に…酷ェ。

『世の中上には上がいる』とはよく言ったものだと、マルコは必死に魚と格闘している末弟エースの背中を見つめて切実に思うのだった。

激変した日常

〆栞
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