24


翌朝――。

明るい光が部屋に射し込む中、マルコとマヒロは未だに衣服を纏わぬ姿のままでお互いの温もりを噛み締めるかのように身体を抱き寄せ合っていた。

「……マヒロ」
「……はい」
「おれはマヒロが好きだよい」
「ッ…、うん…」
「おれは帰っちまうけどよい、おれの心はお前にくれてやる。だから――」

マルコはそう言葉を掛けつつマヒロを抱き締める手に力を籠めた。するとそれに呼応するようにマヒロがマルコの背中に回した手に力を込めてマルコの言葉を遮るように言った。

「私の心をあなたにあげる。マルコさん、私の心を持って行って!」

――!

マルコが言わんとしたことを感じ取ったのかマヒロはマルコにそう言った。
マルコは少しだけ目を丸くしたが直ぐに微笑を零し、自らの額をマヒロの額にくっ付けて小さく笑った。

「あァ、大事にする。大事にするよいマヒロ」

自分が去った後、マヒロが無事に後悔の無い一生を送ってくれることを願う。

もう泣くな。
泣かないでほしい。
出来るだけ笑って生きて欲しい。

こんな風に誰か一人の人に想いを馳せ、幸せを心の底から強く願うようになるなんて、この世界に落とされる前の自分には決して持ち得なかったものだ。

―― 貴重なものを得た。マヒロ、感謝するよい。

マルコはそう思った。

暫くの間はずっと抱き締め合っていたが、やがて時が来るとどちらからともなく身体を離し、何かを話すわけでもなく無言のままそれぞれが身支度を整え始めた。

お互いの想いは十分過ぎる程に伝えた。
そしてその想いは、お互いの心の中に根付いて息吹き始めた。

名残惜しい気持ちが無いと言えば嘘にはなるが、十分に納得した心は不思議と軽く晴れやかだ。

朝食を取った後、空幻坊が姿を現すまでの間もずっと無言だった。
だがそれが妙に心地が良いと二人は感じていたようで、空幻坊が来た折にお互いの視線が合うとフワリと柔和な笑みを零した。
そしてマヒロは小声でマルコに言った。

「こんな感覚は初めて。何も言わなくても通じてるって思うだけでこんなにも心地が良いものなんですね」
「あァ、そうだねい。おれもこんな感覚は初めてだよい」

何も言わずに同じタイミングで手を差し出してギュッと繋ぐ。
極々当たり前のようにとても自然的な動作で、行われてた一連の動きに二人はクツリと笑い合った。

マルコは久方ぶりに本来の衣服に身を通し、誇りを刻んだ胸元を堂々と見せるその姿をマヒロは懐かしむような眼差しで見つめていた。

「初めて会った時を思い出します」
「はは、おれはマヒロに担がれてここまで運ばれたんだったなァ。あれには流石に驚かされたよい」
「腰を抜かして立てそうになかったから」
「腰を抜かしたことなんざァ、あれが初めてだ」

初めて会った日を懐かしむように話しながら庭先に出ると空幻坊が杖をコンコンと鳴らして空間に歪みを作り出していた。
いつもの風景の中にぽっかりと開いた穴の先は真っ暗ではあるが、よく見ると薄らと道のようなものが見えた。

「時間じゃ。ここを潜って道を辿って行けば自ずと出口が開けよう。但し、ここを入ったら最後、決して振り向くでないぞ。振り向いたり引き返そうとすれば、空間はお前を排除しに闇へと引き摺り込もうとするからのう」
「ん、わかったよい」

空幻坊の忠告を素直に受けたマルコはコクリと頷いた。

「マルコさん」
「……何だいマヒロ?」
「ありがとう」
「……マヒロ」
「私は、あなたから一生掛けても得られないものを沢山貰いました。本当に感謝しています」

―― !

マルコが貴重なものを得たとマヒロに感謝していたように、マヒロも同じことを思っていた。
それはとても強く結ばれた証拠に他ならず、マルコは少しだけ目を丸くしたが直ぐに破顔して笑った。そしてマヒロの頭に手をポンッと置いてクシャリと撫でた。

「それはおれもだよいマヒロ」
「マルコさんが大好き」
「!」
「本当にありがとう」
「マヒロ……」

涙で滲む瞳。
だが決して零すことは無く慈愛に満ちた笑み湛えるマヒロに、マルコは年甲斐も無く泣きたい気持ちにさえなった。

―― とんでもねェ宝だよい。

「おれも、マヒロが大好きだ。ありがとな」

瓦解しそうな気持ちを抑えながらも後腐れの無い穏やかな笑みを浮かべてマルコは笑った。

これで最後だ。

触れるだけの軽いキスを交わす。
今生の別れ際にしては簡単なキスだ。

それでも十分過ぎる程に気持ちが伝わるのだから不思議なものだ。

「じゃあ行くよい。マヒロ、元気でな」
「はい! マルコさんもお元気で!」
「よい」
「よい!」
「ハハッ! 人の口癖を言うんじゃねェよい!」
「よい!!」

満面の笑顔で嬉しそうにそれを口にするマヒロの顔は一生忘れることは無いだろう。

開けられた空間に一歩入れば忽ち外の明かりが萎んでいき暗い空間へと姿を変える。
マルコは足元に薄らと見える道を頼りに足早に歩いて行った。

後ろ髪を引かれなかったと言えば嘘になる。
何度も振り返りたい衝動に駆られた。
だが決して振り向くことも、戻ろうとすることもしなかった。

目先に出口が見えると自然と湧き上がる思いに浮かぶ顔は大事な家族達とオヤジだった。

そして――。

出口と思われるそこを潜れば世界は開けた。
太陽が眩しく辺りを照らし、どこまでも青い空と海が広がる景色があって目を細めた。
ふと後ろを振り返るとマルコが通って来たあの空間は自ずと小さくなってスッと消えた。そして何も無かったかのように鬱蒼と生い茂る森がそこに広がっていた。

ここは見覚えのある場所だった。

偵察に訪れた時、突然の雷雨に見舞われて降り立った場所がまさにここだ。

遠くに見える海へ視線を向ければ酷く懐かしい船がそこにあり、思わずドクンと心臓が跳ねたのをマルコは感じた。

―― 遠くに行っちまったもんだと思ってたが、有難ェ。

マルコはそう思うと同時に何故か妙に辛い気持ちが胸の内に芽生えているのを感じて少しだけ眉を顰めた。

戻れたことは嬉しいはずなのに、それでもどこか満たされない。

その理由など、考えなくともわかることだ。
この痛みは、寂しさは、最初からわかっていたことだ。
この感覚もいずれ慣れるだろう。

「それに……、マヒロの心はここにあるだろい?」

自分自身に確認するかのように独り言ちると胸に手を当てて深呼吸を繰り返す。
ドクン…ドクン…と、妙に忙しなく跳ねる心臓を落ち着かせた。
そして、その場から離れようとマルコが足を一歩踏み出した時だ。
ガサッという葉擦れの音が大きく聞こえて咄嗟に振り向けば、また懐かしい顔がそこにあってマルコは目を丸くしたが、相手も同じように目を大きく見開いて驚いた顔を浮かべていた。

「マルコ!!」
「ッ…、サッチ…」

サッチはマルコを見るなり懸想を変えて駆け寄ると無遠慮にマルコの胸倉を掴んだ。

「おい、何――」
「てめェ! 今までどこに居たってんだよ!」

―― ッ!

サッチの悲痛な表情に気付いたマルコは「離せ」とは言えず、言葉を飲み込んだ。
心配掛けさせやがって――と、言葉は無くとも表情でそれは直ぐにわかった。

「それは…悪ィ…悪かった。けど…、今は話す気になれねェ……」

胸倉を掴むサッチの手にそっと手を重ねて「離してくれ」とでも言うように軽くポンポンと叩いて合図を促すが、サッチは眉間に皺を寄せて怒った。

「はァ? 何言ってんだマルコ! どれだけ皆が心配したと思ってんだ!?」
「……」

サッチはそう怒鳴るもマルコは無言のままサッチを見つめるだけで反論も抵抗すらもしない。
そんなマルコにサッチは眉を顰めた。
いつもなら「五月蠅ェよい。悪かったって言ったろい? いい加減に離しやがれ!」と逆ギレしても可笑しくない。
なのに――何も言わなければ力尽くで振り払おうとすらしない。

「……お前ェ、……マルコ…だよな?」

不審に思ったサッチは訝しげな表情を浮かべてそう問い掛けた。するとマルコは僅かに片眉を上げるとフッと笑みを零して小さく頷いて応えた。だがそれが更にサッチに混乱を与えたようで、苦悶に似た表情を浮かべてマルコを睨み付けた。

だが今は――。

マルコは真面に対応する気にはどうしてもなれなかった。

「サッチ、モビーに戻ってオヤジに報告をするのが先だよい」
「……おい、マルコ」
「何だい?」
「…お前…、大丈夫か?」

サッチはいつも軽口を叩いてふざける男ではあるが人の心情の機微に敏感に察することができる男だ。
感情をそう表に出さないマルコの心情を察することができるのは、オヤジの他に挙げるとすればこのサッチだと言えるだろう。

サッチはマルコの雰囲気で何かを察したのか不安げな表情を浮かべ、掴み上げた手を離す代わりに心配する言葉を投げ掛けた。

「サッチ」
「お、おう、何だ?」
「おれが行方不明になってからどれだけ経つ?」
「大体二ヶ月だ」
「そうか……」

二ヶ月――。

マルコがマヒロの世界で生きたのはたったの二ヶ月。
だがどんな二ヶ月よりも色濃く充実した二ヶ月だったと言える。
一日一日がどれだけ大切で、どれだけ懸命に生きなければならかったか。

マルコは徐に手を掲げると不死鳥の炎を灯した。
空間を抜けて元の世界に戻れば、例の力は失われるのだろうかと思ったがそんな節は無く、力が漲るのを感じた。又、この島に訪れた時とは違う『異質な何か』を感じることもできるのだから、例の力は決して失われていないのだとマルコは理解した。

「おれを飛ばしたのはあいつかよい」
「は? 何か言ったか?」
「いや、何でもねェ。それより早く船に戻るよい」

この島の中央位置に感じたのは明らかに人とは異なる気配。
マヒロの世界では感じることは無かったのだが、恐らくこれが『妖気』の類だろう。
その気配の主は僅かに動きを見せようとしたがそれはすぐに止まった。

―― 本能的に悟って止めたか、それともおれに手を出す気が失せたのか…。

自然と笑みが零れる。
今マルコがその主に思うのは『感謝』だった。

―― お前ェがおれを異世界に飛ばしたのかはわからねェが、良い夢を見ることができたんからねい。一応礼を言っておく。ありがとよい。

船が着岸している場所に辿り着いて甲板へと上がるとマルコは島に向けて誰にも気付かれない程度に小さく頭を下げた。

「お前ェら! マルコが帰って来たぜ!!」

サッチが意気揚々と声を上げると甲板には人がどんどん集まって盛大な歓喜の声が上がった。その集団の後方、いつもの定位置に居るだろう場所にマルコが視線を移すとマルコにとって大恩ある敬愛すべきオヤジ――白ひげの姿がそこにあった。

「……オヤジ」
「……」

マルコは首筋に手を当てながら気まずい表情を浮かべつつ、賑わう仲間達の波を掻き分けてその人の元へと歩み寄った。

「偵察に行って戻るのが遅くなっちまって…すまねェ。悪かったよい」

謝罪の言葉を口にして頭を下げるマルコにオヤジである白ひげは少しだけ眉をピクリと動かした。

「アホんだらァ、帰って最初に言う言葉が違ェだろうが」
「ッ! …た、ただいま…戻ったよい……オヤジ…」
「グララララッ! あァ、よく戻ったなァ息子! 色々あったってェ顔をしてやがるが、しかし…良い顔をしてやがるぜマルコ」
「オヤジ……」

叱責されるより優しく温かい言葉を投げ掛けられたことがズシンと心に響き、マルコは目が熱くなるのを感じてグッと堪えた。
そんなマルコの心情を察したかはわからないが白ひげはニヤリと笑みを浮かべると甲板に居る者達に向けて声を上げた。

「てめェらァ!! 1番隊隊長の無事の帰還だ!! 今夜は盛大に宴をしやがれェェ!」
「「「うおおおおっ!! 宴だァァァァァ!!!」」」
「グラララララッ!!」

誰もがマルコの無事の帰還を喜び、モビー・ディック号の甲板上で弾けるような大歓声が起きた。
白ひげは楽し気に笑っている傍らでマルコも少し気恥ずかしい気持ちになったのか少し照れ気味な表情を浮かべてポリポリと頬を掻いた。だが直ぐにその笑みを消したマルコは白ひげへと顔を向けた。

「オヤジ、話があるんだけどよい」
「あァ、後でじっくり聞かせてもらう。夜までには時間がたっぷりあるからなァ」
「なァ、その時だけどよ、おれもいちゃ悪いか?」

喜びに沸く船員の中に混じらずにサッチはマルコと白ひげの間に入って言った。
マルコは眉間に皺を寄せたが白ひげは笑みを浮かべたままサッチからマルコに視線を戻した。

「障りぐれェは隊長連中に聞かせてやりゃあいいじゃねェか」
「……わかったよい」

オヤジがそう言うのならとマルコはコクリと頷いた。

「なァ、マルコ」
「何だい親――っ!」

マルコを覗き見る白ひげは何かを見透かすような目を向けていた。
眼光には鋭さがあり、俄かに覇気までも纏っていることに気付いた。
その覇気は――『覇王色の覇気』だ。
白ひげがマルコにのみそれをぶつけていることを察したマルコは瞠目して思わず言葉を飲み込んだ。
だが直ぐにその覇気は引っ込められ、鋭い眼光は柔和になって白ひげは小さく笑った。

「お前ェ、やけに強くなったじゃねェか」
「ッ……」
「ん?」

白ひげの言葉にマルコは何も応えず、サッチは「何の話だ?」とばかりに首を傾げていた。

「お、オヤジ、おれは――」
「勘違いするんじゃねェぞマルコ。おれァ怒っちゃいねェ。嬉しいんだ」
「…嬉…しい?」
「グララララッ! これならいつでもおれは隠居できるってなァもんだ!!」
「は!? な、何言ってんだよいオヤジ!!」
「え? な、何で隠居っていきなり妙な話をオヤジが言い出しちゃうわけ?」
「「「お、オヤジが…隠居ォォォォ!?」」」
「グララララッ!!」

白ひげの言葉にサッチだけではなく周囲にいた者達も皆一様に驚いて固まっていた。
当然だろう。
マルコでさえも白ひげのその言葉に開いた口を塞ぐのを忘れたかのように呆然と立ち尽くし、完全に停止していた。

―― お、オヤジ! 冗談にも程があるよい!?

いくら強くなったと言っても『器』が違うのだ。
例え同じ覇気を身に付けたとしても白ひげのような広く深い懐を持ち合わせてはいない――と、マルコは大きくかぶりを振って否定するのだった。





宴が催される夜までの間、船長室でマルコは自分の身に起きたことを簡単に説明した。
隊長達は一様に驚いていたのは言うまでもない。

『異世界に飛ばされ二か月近くそこで生きて来た』
『世話になった恩人の名はマヒロという女だ』

――等々。

マヒロという名の女性に世話になっていたことに関してサッチが酷く敏感に反応していたが、マルコは異世界で起きた事柄を何一つ正直に話す気にはなれず、本当に障りだけの話に止まった。
その後、隊長達は異世界の話題に盛り上がりながら船長室から退室したのだが、マルコは船長室に残り白ひげと二人きりとなった。
白ひげは暫く黙ったままマルコをじっと見つめていた。
その目に宿るのはオヤジが息子に向ける『慈愛』であるということを知っているいつもの目だ。だがその目の奥には『疑念』のようなものが宿されているようにマルコは感じた。

『マヒロのこと』
『霊気のこと』
『その力の影響で強くなった自分自身のこと』

先程とは別により詳しく報告と言う形ではあるがマルコは話した。その間、白ひげはマルコから一度も視線を外すことは無く、真剣な眼差しで黙って聞いていた。

―― ……何があったかは知らねェが、随分と変わっちまったなァ。

これまでに無かった表情、纏っていなかった柔らかな雰囲気、言葉の端々に感じる情の深さ等々、確かな変化を白ひげは感じ取っていた。

「マルコ」
「何だいオヤジ?」
「辛ェだろう?」
「ッ……」

片眉と口角を上げた笑みを零してそう問い掛けるとマルコは言葉に詰まり、少しだけ表情を曇らせた。
恩人に対する感謝の気持ち――では無い、そこにある感情が何であるかを白ひげは察した。

「そのマヒロってェ女は、お前ェが一生涯愛してやまねェ女だったんじゃあねェか?」

そう問い掛けるとマルコは眉をピクリと動かすと溜息混じりに小さくかぶりを振り、首筋に手を宛がって微笑を浮かべた。

「まったく……、オヤジには敵わねェよい」
「グララララッ!! 伊達に年を食っちゃいねェからなァ!! お前をここまで変えた女におれも会ってみたかったがなァ。会って、礼がしたかったが……、こればかりは仕方が無ェな」

残念だとばかりに言葉を零すとマルコは小さく頷いた。

「オヤジ、もう部屋に戻っても良いかい? …少し…休みてェんだ」
「あァそうしろ。ゆっくり休め」

マルコは白ひげに軽く頭を下げると船長室を出て自室へと戻るのだった。
船長室に残った白ひげはマルコを見送ると笑みを消して静かに息を吐いた。

「……マルコ、マヒロを残して来ただけじゃあ無ェんじゃねェのか? 他に何かあったんじゃあ無ェのか?」

ポツリとそう零して背凭れに身体を預けた白ひげは天井を見上げるとゆっくりと目を瞑るのだった。
一方、自室に戻ったマルコは部屋の扉を開けるなり机の惨状が視界に入ってげんなりして項垂れていた。

―― はァ…、二ヶ月の穴ってェのはでけェ。当分、徹夜生活だよい。

山のように積まれている書類に顔を顰めて軽く舌打ちをするが仕方が無いことだと諦めた。そして書類の山に埋もれる机には目もくれずにそのまま真っ直ぐベッドへと向かい、力無くばたりとうつ伏せに倒れて顔を枕に埋めた。

「……無事に戻った。……けど、以前とは違ェ……」

今まで見て来た世界が一転して大きく変わったこと。
前には決して感じることが無かった異様な気配を容易に察することができる。それはこの船に戻ってからずっと感じていることから明らかに船員の中にいるのだと理解してしまう。
疑いたくは無いが無視が出来ない自分がいる。”そいつら”は明らかに自分を見る目を変えたのをマルコは見逃さなかった。怪童児や鬼雷鳥が欲する獲物に向ける獣染みた目そのものだった。

このことに関しては例えオヤジと慕う白ひげにさえも話すことはできなかった。

『妖怪のこと』

話すべきでは無いと思った。だが流石に白ひげは勘が鋭い。
当たり障りの無い説明をするマルコに終始疑いの目を向けていたことはマルコもわかっていた。
全てを話し終えた後、『まだ話すことがあるんじゃねェのか?』と口にこそしなかったが笑みを湛え乍ら鋭い眼光を向ける目はそう言いたげだった。

「……マヒロ、どうやらおれもお前と似た立場になっちまったようだよい」

もう二度と会えないマヒロの顔を思い出しながら瞼を閉じた。
トクン...と柔らかく心臓が脈打つと不思議と気持ちが落ち着いた。

―― マヒロ、いるんだな。……ここによい。

ごろりと寝返って仰向けになると天井を見つめ、胸に手をそっと当てると再びトクン...と鼓動が跳ねた。
妙に心地が良い。
マルコはそのまま少し眠ることにしたのだった。

その頃、船長室にコンコンッノックするサッチが居た。

「誰だ?」
「オヤジ、おれだ、サッチだ。入って良いか?」
「あァ入れ」

サッチは船長室の扉を開けると白ひげの元へと歩み寄った。

「宴の準備は整ったぜ」
「そうか、ご苦労だったな」
「さて、今夜はマルコに酒を飲ませてより詳しく洗いざらい吐かせてやっか!」

両手をパンと叩いて擦るようにしながらニンマリ笑うサッチに白ひげは静かに「サッチ」と名を呼んだ。

「ん?」

あまり良い顔をしていない白ひげにサッチは軽く目を丸くして首を傾げた。

「どうしたオヤジ?」
「加減してやれ。あれは以前のマルコじゃあねェんだ」

静かにそう言った白ひげにサッチは眉を顰めた。

「……オヤジ、そりゃあどういうことだ?」
「あいつは話してねェが、とんでもねェ重荷を持って帰って来ちまったらしい」
「は? 重荷って……」
「それに……」
「オヤジ?」
「いや、何でもねェ。さっさと甲板に行かねェと宴が始まらねェからなァ」
「あ、お、おう…」

白ひげは言葉を打ち切って立ち上がった。

―― マルコ、お前ェは何を一人で背負い込む気だアホんだらァ。

ここにはいないバカ息子に気持ちを向けつつ白ひげはさっさと船長室から出て行った。
少し遅れてサッチも後追うように船長室を出るのだが、白ひげの言葉尻が気になり胸の内にモヤモヤを抱えて顔を顰めた。

「……オヤジにさえ話せねェもんを抱えて帰って来たってェことか? ったく、おれ達にゃあ構わねェがオヤジに心配掛けさせるようなことだけはすんなってんだよ」

少し不機嫌な口調でそう独り言ちたサッチは食堂へと向かうのだった。





異空間の穴が小さくなって消えたのを見送ると空幻坊は顎髭を撫でながら背後にいたマヒロへと振り向いた。

「無事に戻ったようじゃ」
「……ありがとうございました」
「好いた男を手放すのは辛かろう?」
「覚悟…してましたから」

空幻坊の言葉にマヒロは寂しさや切ない気持ちを模した笑みを零した。
しかし、不思議と涙は出て来なかった。
胸の内にある温もりが『その必要は無い』と優しく脈打ち支えてくれいてるのを感じたからだ。

「では儂は再び眠るとするかのう。ではなマヒロ」
「はい」

マルコを無事に帰還させた空幻坊は再び異空間へと戻って眠りに着き、マヒロは踵を返して家へと戻った。

こうしてマルコと会う以前の変わらない日常が戻った。
だがそれはあくまで表面上での話だ。
胸に手を当てればトクン...と心臓が柔らかく脈打つ。
気持ちが高揚する感覚に伴い不思議と心が温かくなる。

「……マルコさん」

ぽつりと名を呼ぶと自然と笑みが零れて嬉しくなる。

彼は側にいない。
でも生きている。
そして彼の心はここにある。
私の命はもう私だけのものじゃない。
私が死ねば彼の心も死んでしまう。
泣いちゃいけない。
泣いたら「また泣いてんのかよい」と困った顔で悲しむから――。
泣いても一生、笑っても一生。
同じ一生なら私は笑って生きることを選ぶ。
もう一人じゃないのだから――。

愛しい人を想う気持ちがあるだけでこうも世界が変わるのかとマヒロは思った。

「さて、今日も頑張って修行しますか!」

両手を組んで上にグッと伸ばして気伸びをし、準備運動をしながらマヒロは元気良く山へと駆け出して行くのだった。

別離、そして……

〆栞
PREV  |  NEXT



BACK