17


喉元の皮膚を鋭い歯がグッと食い込む時、マヒロは目をギュッと瞑った。すると目尻から涙が一筋だけぽろりと頬を伝い落ちて行った。男は目を細めて愉快だとばかりに目を細めて愈々マヒロの喉に食らい付こうとした。

「それはお前ェがこれから味わうことを予見して言ってんだろうない?」
「!?」

男は背後から声が聞こえた時、咄嗟にマヒロの髪を掴んでいた手を放してその場を蹴って距離を取り、マヒロはそのまま力無くその場にうつ伏せに倒れ込んだ。

「…あ…うぅ……」
「マヒロ、少し待ってろい」
「うぅ…ま…マルコさ…ん…」
「あいつを倒したら身体を治してやるからよい」

マヒロの元に歩み寄ったマルコはゆっくりとマヒロの身体を抱き上げた。視線はマヒロに落とされているが警戒や意識は男に向けられ、男は眼光を鋭くしてマルコを見つめた。

―― 全く気配に気付かなかったとは…。この男、何者だ?

男が警戒する傍らでマルコはマヒロをソファに横たえさせると軽く頭を撫でて伝う涙を指で拭った。そしてマヒロは涙で視界がぼやけてマルコの顔がはっきりとは見えなかったが、マルコの優しい声音と温かい手の温もりを感じて安堵したようにそのまま意識を手放した。





マルコがマヒロに食事を摂って休むように伝えて居間へ向かわせた後、マルコは由香の側で安堵して落ち着きを取り戻し始めた彼らのいる部屋へと入った。すると由香の母親がマルコを見ると直ぐに深々と頭を下げ、由香の兄はハッとして振り向いてマルコを見た途端に泣きそうな表情を浮かべて頭を下げた。
マルコは片眉を上げると軽い溜息混じりに微笑を零し、由香の兄の側にしゃがむと彼の肩をポンッと軽く叩いた。

「男がそんな顔を簡単に人に見せるもんじゃあ無ェよい」
「すっ、すみません」
「マヒロから伝言だ。この子の身体に巣くう病原体は全て除去したから安心しろってよい」

マルコがそう伝えると母親と兄は互いに顔を見合わせるとホッと胸を撫で下ろして漸く安堵の笑みを浮かべた。

「ありがとうございました。本当に何とお礼を言ったら良いか……」

由香の母親は鞄を抱えると中に手を突っ込んで『御礼』と書かれた包みを取り出した。

「いくらお渡しすれば良いのかわかりませんでしたので……」

そう言いつつ財布も鞄から取り出して財布を開けようとしていた。

「あァ、金かい? それには及ばないってよい」
「え!? そ、それは困ります! こんな早朝から連絡も無く助けを求めたのに快く受け入れてくださって、娘の命を救ってさえ頂いたのに!」
「妹の命を助けてもらったんだ! せめてもの御礼ぐらいさせてください!!」

母親と兄の二人がマルコにそう言うもののマルコは首を左右に振って苦笑を浮かべた。

―― まァ…、常識ある奴ならそう言うだろうな。

目の前の二人から視線を外して軽く頬を掻きながらマルコは数分前にマヒロと交わした言葉を思い起こした。

「礼金とかいりませんからお断りしてくださいね?」
「よい? 何故だい?」
「そんなものが欲しくてやってるわけじゃないですし」
「けどよい、助けてもらった者からすれば礼は受け取って欲しいもんだろい?」
「命を取り留めた彼女と毎日笑って過ごしてもらえればそれが最大のお礼ですから」
「…………そうかい」

疲労の顔を浮かばせながらもマヒロは事も無げに笑ってそう言ったのだ。
マヒロは本当に無欲だ。
人の幸せを素直な気持ちを乗せて心から願い微笑むマヒロにマルコはほとほと感心したものだ。

これらのマヒロの言葉を二人に伝えると彼らは何度も頭を下げて礼を口にした。そしてそんな中――ピピピピッ! と、電子音が突然鳴り出してマルコは一瞬驚いて軽くビクついた。見れば兄がポケットから四角い物体を取り出して何やら人差し指で画面らしきものをなぞっていた。すると電子音が消えてそれをそのまま耳に宛がい話始めるのだ。

―― ッ、素でビビっちまった…。アレが前に聞いた『携帯電話』ってェ奴かねい。

街中で使っている人の手元に見かける携帯は遠くでしか見たことが無かったが、あれは何だと前に一度だけマヒロに聞いたことがあった。マヒロにとっては縁が無い代物だとかで持っていないとのことだったが、実際にこうして目の前で見ると電伝虫より遥かに便利そうだ。出来れば自分の世界に持って帰りたい機器の一つでもある。だがしかし、突然の電子音には普通に驚いてしまい、未だに心臓がバクバクしているのを感じていると無い方が良いかもしれないとも思った。

「あァ、うん、由香は無事だよ。うん、大丈夫。あァ…うん、うん…わかった。じゃあ」
「お父さんから何て?」
「車の修理が出来たから迎えに来たって。外で待ってるって」
「まァそうなの?」

兄は通話ボタンを切ると携帯をポケットに直しながら母親にそう言った。マルコはじっと携帯を目で追っていたがハッとして視線を外して口元を手で覆った。

―― ……興味が尽きねェ……。

ちょっと実際に触ってみたい等と思いつつ苦笑を浮かべて軽く頷いた。

「丁度良いタイミングだよい。このまま連れて帰って家でゆっくり休むと良い。彼女には何があったかなんて記憶には無いらしいからよい、ここで目を覚ますより家で目を覚まして何も無かったことにしてやった方が良いだろい?」
「そ、そう…ですね」
「あの、本当に御礼はいらないんですか?」

申し訳無さそうな表情を浮かべる二人にマルコは笑って「いらねェよい」と告げると母親は深く頭を下げたが兄は少し納得がいっていない様子で、静かに眠る由香をじっと見つめて考え込んでいた様だったが諦めたのか小さく頷いた。

「……あの、真尋さんは?」
「かなり疲れていたみてェだから奥で休ませてるよい」
「そうですか……。じゃあまたの機会を見て改めてちゃんと御礼に伺いますと真尋さんにお伝えください」
「わかった。伝えておくよい」

マルコがコクリと頷いてそう言うと兄はマルコをじっと見つめつつ軽く頭を掻いた。

「あと……もし良かったら」
「何だい?」
「名前……、あなたの名前を教えてくれませんか?」

少し照れくさそうに言う兄にマルコは少し目を丸くしたが直ぐに微笑を零した。

「あァ、おれァマルコだよい」
「マルコ…さん」
「よい」
「その時は……」
「ん?」
「改めて御礼に伺ったその時は、あなたともゆっくり落ち着いて話をしたいと思います!」
「!」

思っても見なかった言葉にマルコは驚いて目を丸くした。年相応に笑う兄のその姿はどこか末弟と似ているような気がして懐かしくも思えた。
マルコは目を細めるとゆっくりと目を瞑って頷いた。

「……そうかい。じゃあその時が来る日を楽しみにしてるよい」
「はい!」

自分のどこの何が気に入ったのかはわからない。だが妹を抱き上げて背中におぶる兄は嬉しそうで、マルコは片眉と口角を上げた笑みを浮かべて軽く兄の頭をクシャリと撫でつけるのだった。そして玄関から外に出ると庭先に車を止めて待っている男がいた。由香の父親だ。

「あなた!」

母親はその姿を見止めると涙声を上げて男の元に駆け寄り、それを見届けた兄はマルコへと振り向くと軽く頭を下げた。

「それでは」
「あァ」

兄が由香を抱えながら車の後部座席に乗り込み、母親はマルコに再度会釈をして助手席に乗り込んだ。その後に父親がマルコの方へと歩み寄ると年相応に刻まれた皺を寄せた笑みを浮かべながら深々と頭を下げた。

「本当にお世話になりました。また日を改めてもう一度御礼に伺います」
「あァ、マヒロに伝えておくよい。気ぃ付けて帰れよい」
「えェ、本当にありがとうございました」

父親はもう一度深々と頭を下げて御礼を告げると車へと乗り込み、漸く彼らは帰って行ったのだった。
マルコは車が見えなくなるまでその場に立って見送っていたが、姿が見えなくなると大きく息を吐いた。

何とも忙しない朝だった。太陽は既に真上に位置し、強い日差しが辺りを照り付けていた。木々の間を通して射し込む光が風が吹く度にユラユラと揺らめいているのを見止めて目を細めたマルコは軽く蹴伸びをして玄関へと入った。

だが――。

「……?」

妙な気配を感じて不信に思った。その気配の位置を探ろうと見聞色の覇気を辺りに張り巡らせるとそれはマヒロの側にあることに気付いたマルコは急いでマヒロの元へと向かった。

そして――。

「実力は幻海が勝るだろうが、お前の方が美味そうだ。我が血肉となれることを光栄に思うが良い」

聞き覚えの無い男の声がマルコの耳に届いた時、怒りとは真逆に冷めた感情が静かに心を支配していく感覚があった。

―― ……。

視界に入ったのは黒い肌に金の髪。額には二本の角が生えており、赤い瞳に際立つ犬歯を持った異様な出で立ちをした異質な男の存在だ。そして力無く地面に倒れるマヒロの髪を掴み上げて「美味そうだ」と舌舐め擦りをする様に嫌悪感が走った。

明らかに怪童児と同じ類の者、つまり妖怪だ。

だが不思議に思ったのはマヒロだ。例え奇怪虫の除去を終えた後で疲労感を漂わせていたとしてもあそこまで弱ってはいなかった。マヒロに何が起きてそうなっているのかはわからないが原因があの男にあることはわかる。
男が犬歯をマヒロの首に宛がい喰らいつこうとしている。マヒロがマルコに背を向けている為にマルコにはマヒロの様子を伺うことができなかったが、男がマヒロを見て愉快そうに喉を鳴らしながら満足気な声を上げている時点で何となく察した。

死を前にして、どんな気持ちで――泣いているのか。

「それはお前ェがこれから味わうことを予見して言ってんだろうない?」
「!?」

妙に冷めた感情だがこんな『怒り』もあるのかとマルコは知った。声を掛ければ自分でも驚く程に冷たい声音だった。
この時にマルコは無意識の内に覇気を放っていた。男はマルコから放たれる覇気に敏感に察知したのか咄嗟にマヒロを離してその場から飛び退き、マルコから距離を置いて警戒した。
マルコがマヒロの側に歩み寄るのを確認した男はそこから更に廊下の窓を突き破って外へと飛び出して距離を広げてマルコの様子を伺っていた。

どうやら逃げを講じたわけでは無いようだ。

マルコは男に警戒しつつマヒロの様子を見る為に膝を追って顔を覗き込んだ。その瞬間にドクンと何かが弾けるように鼓動が鳴ると同時に冷めた感情が一気に沸点へと上り詰めるのを感じた。

「…あ…うぅ……」
「マヒロ、少し待ってろい」
「うぅ…ま…マルコさ…ん…」
「あいつを倒したら身体を治してやるからよい」

マルコは出来る限り優しい声音で言葉を投げ掛けながらマヒロの身体を抱き起こし、ソファへと運んで横たえさせるとマヒロの頭を優しく撫でた。マヒロの目はどこか虚ろで焦点が合っていない。涙も相俟って視界がはっきりとしていないのだろう。
きっと上手く笑えていない自分の顔を見られなくて済んだとマルコは思った。そしてマヒロの頬に伝い落ちる涙を指で拭ってやると少し安堵したのかマヒロはそのまま意識を手放した。

「マヒロ……」

マルコはマヒロの頬を撫でて額に手を置くとポツリと名を呼んだ。

沸々と湧き上がる感情に自制を利かすのにこれ程にも手を焼いたことが今までにあっただろうか?

―― ……やってくれるよい。

ゆっくりと立ち上がったマルコが庭先へと逃げて様子を伺う男に視線を向けると男はニヤリと笑みを浮かべた。
唇の端の浮んだ笑みが嘲るような陰りを浮かべた笑みを見たマルコは無表情だが目を細めて強く睨み付けた。

怒りと殺意の色が覗く冷たく鋭い眼光がそこにあった。

対 峙

〆栞
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