16


離れの部屋にいる由香の兄と母親は気疲れからか一段と窶れきった顔をしていた。マヒロが部屋に入ると焦りと不安からか涙を浮かべて凄い勢いで二人がマヒロに掻き付いた。

「由香は!?」
「妹はどうなった!?」
「まだ目を覚ましてはいませんがもう大丈夫ですから――」

”安心してください”と言い終える前に二人は由香のいる部屋へ向かう為に廊下へ駆け出して行ってしまった。マヒロは瞬きを繰り返して二人を見送ったが小さく苦笑を零した。

「……まァそうよね」

何が原因でどうやって助けたか等、彼らに説明をする必要は無いのだ。あの家族にとって大事なのは由香が無事で元気に生きてくれるかどうかだ。二人の後を追って遅れて部屋に戻れば血色の良い顔で気持ち良さそうに眠る由香を見た二人は安堵の表情を浮かべて泣いていた。

その姿を見たマヒロは心底から良かったと優しい笑みを浮かべ、部屋をそっと後にした。
廊下に出るとリビングから出て来たマルコが歩み寄って来た。

「マヒロ」
「何でしょう?」
「腹減ったろい? 簡単なもんしかないが朝飯を用意したからよい」
「そう言えば、お腹がペコペコで」
「だろい? それに疲れもあるだろうから食った後は少し寝ると良いよい」
「……ありがとう」

マルコの厚意にマヒロは素直に礼を述べた。だが視線は由香達三人へと戻したマヒロの表情はどこか寂しそうで、マルコは片眉を上げるとマヒロの頭をクシャリと撫で、マヒロがマルコを見上げるとマルコは微笑を浮かべた。

「羨ましいかい?」
「え?」

―― 何を?

マヒロが不思議そうな表情を浮かべているとマルコは顎で部屋内へと指示し、マヒロが再び視線を三人へと戻した。

「家族ってェのは良いもんだ」
「…そう…ですね」
「マヒロが『羨ましい』って顔をしてたからよい」

マルコの言葉にマヒロの身体がピクンと反応した。

「……泣いてくれる人がいるって良いなって思っただけです」
「そうかい」

マヒロは三人を見つめながらゆっくりと瞼を閉じて静かに溜息を吐き、別に大したことでは無いと気丈に答えた。それにマルコが少し気遣いながら苦笑を零しているとマヒロがマルコへと顔を向けた。

「マルコさん」
「何だい?」
「私がもし由香さんのような状態になったら…、もし最悪で死んだりしたら、……あなたは泣いてくれますか?」

マヒロには家族も友人さえもいない。マヒロがどうこうなったとしても泣いてくれる人は誰もいない。だから、由香の側で由香の無事を知った家族の安堵の涙がとても羨ましいとマヒロは確かに思った。でもそれが顔に出ていたとは思いもしなかった。だがそこはマルコだから気付いたのかもしれないとも思えた。

自分の心情を容易に察してくれるのなら――心配してくれるのなら、あなたは私の為に泣いてくれるのかな?

「……」
「っ…、なァ〜んて、そんな『もしも』なんてことはありませんけどね! ははっ!」

沈黙するマルコにマヒロは冗談ですよとばかりに気さくに笑った。

「それはないよい」

マルコの返事に少し期待して、でも不安になって、笑ってはぐらかしたらあっさり否定の言葉を投げつけられたマヒロは顔を彼ら家族に向けたままで良かったと思った。でなければ、マルコ表情を見てその言葉を聞いていたら、きっと表情を崩して情けなく泣いてしまっていたかもしれない。

―― っ…、家族じゃない…から、そうよね。

気落ちしながらもそんな風に見せまいとマヒロは静かにゆっくりと呼吸を繰り返して気持ちを落ち着かせた。そんなマヒロの背中を見つめるマルコは小さくかぶりを振った。

「マヒロ、勘違いするない」
「え?」

少々俯きがちになったマヒロの頭に再びマルコの手がぽんっと乗せられてクシャリと撫で付ける。マヒロが漸くマルコに顔を向けるとマルコは笑みを浮かべていた。そして視線が合うと更に破顔させて肩を揺らしてクックッと笑い出した。

―― 笑うってどういうこと? 私が気落ちすることがそんなにおかしいことなの?

笑うマルコにマヒロはムッとした表情を浮かべて睨んだ。だがマルコは相変わらず笑みを浮かべていたが真っ直ぐにマヒロを目を見つめて言った。

「おれが側にいればマヒロは死なねェだろい?」
「……え?」
「マヒロにどんなに嫌だって言われても、おれは意地でもマヒロを再生させて生かしてやるからよい」
「あ……」
「だから泣く必要なんて無いも同然だろい?」
「そ…うですね。そっか…そうだった。……忘れてました」

傷を負っても霊糸の転換においてマルコの再生の能力が自分にも有効であることをすっかり忘れていた。

―― ……だから、無いって言ったのね。そっか、良かった。……良かった?

ずんと重くなった気持ちが一瞬にして晴れた。
心底からホッとした。

だがその気持ちの変動にマヒロは内心で疑問に思った。
何故ここまで気持ちの落差が激しく変動するのか、マルコが薄情な人でなくて良かったから――?

―― ……。

想う気持ちが激しく変動するのは何を意味しているのだろう?

何故かわかるようでわかりたくないと思ってしまう。
どうしてか怖くて、決して認めてはならないと意識が働く。

―― どうして……?

マヒロが渦巻く思考に悩んでいる間にマルコは少し悪い表情を浮かべて言った。

「もし仮に万が一ってェことになったら、泣くのはおれじゃなくてマヒロだろうなァ」
「……へ?」

―― 待って、それってどういう意味?

マヒロがその言葉の真意を聞こうとするとマルコはマヒロの頭をぐりぐりと少し荒く撫で付けてはぐらかした。

「ちょっ、マルコさん!」
「朝飯を食べて来いよい。あとはおれが対応しておいてやるからよい」

リビングへと向かうの方へと背中を押されたマヒロが振り向いた時にはマルコは彼らのいる部屋へと入ってしまい姿が無かった。

『もし仮に万が一ってェことになったら、泣くのはおれじゃなくてマヒロだろうなァ』

マルコが何を意図してそのようなことを言ったのだろうか。
マヒロは仕方が無く一人でリビングに向かい食卓に座って食事を始めたが、頭の中でその言葉がぐるぐる回っていて考え続けた。

側にいる間は?
側にいなくなったら?

それは――

いつか帰ってしまうから。
いつかその時が訪れるから。

そうなった時に泣くのは――

ぽたっ

そうなった時に泣くのは――

「……私…か……」

箸を進めてご飯を口にパクリと頬張りながらマヒロは涙を零していた。

ぽたっぽたっ

一つ、二つと涙が溢れ出すと手をピタリと止めて箸と茶碗をテーブルに置くとボロボロと止まらなくなっていた。

じゃあ、そうなった時に彼は?
彼は何も感じないの?
何も感じてくれないの?

だが『家族』という言葉が頭に過った瞬間、マヒロは否応無く納得した。

奥さんや子供はいない。
でもきっとマルコには『家族』と呼べる大事な人達がいる。
だからきっとそうなったとしても『寂しい』なんて思わない。

だから、辛いのは――。

思考が回ると気持ちが大きく揺れた。

ダメ…、バカね。
泣いてどうするの?
最初からわかっていたことでしょう?
彼はいつか元の世界に帰るの。帰らないといけないの。
ずっとここにいるべき人じゃないことぐらいわかってる。

だから――

想う気持ちが激しく変動するのは何を意味しているのだろう?

何故かわかるようでわかりたくないと思ってしまう。
どうしてか怖くて、決して認めてはならないと意識が働く。

「そっか、……そういうことだったんだ」

先刻に抱いた気持ちの意味は無意識の内に理解していたからこそ抱いたものだったのだと理解した。

「守ってくれるのは側に居てくれる間だけ……」

ぽつりと言葉を零してそれを耳にすると胸に大きな穴が開いたような気がした。

チクッ!

「痛っ……」

―― もう…、気に病み過ぎて胸が痛むなんて……私、本当に駄目ね。

それ程にマルコに依存するようになっているのだと初めてわかった気がした。
これ以上食を進める気になれなくて、マヒロは涙を拭って席を立とうとした。

だが――。

「!?」

立ち上がると同時に視界がぐるりと回り、ぐらりと体勢を崩し掛けた瞬間に慌ててテーブルに手を突いて倒れるのを防いだ。

―― おかしい。どうしてこんなにも胸が苦しいの?

「…はっ、…はァ…っ」

息を吐くと痛みが増す異変に気付いた瞬間に急に呼吸が荒くなり始めた。

気怠い、何故?
苦しい、何故?

マヒロは胸元に手を当ててギュッと衣服を握り締めた。

「あァ、奇怪虫は良い仕事をしたようだな」
「!?」

突然、どこからともなく声が聞こえた。マヒロはハッとして気付いた時には既に遅かった。

―― 奇怪虫に気を取られて全然気付かなかったなんて……! マルコさん!!

全身から力が抜けていくのを感じながらマヒロは必死にマルコの名前を呼ぼうとしたが声が出なかった。そして未だに止まらない涙が憎らしく感じて奥歯をグッと噛み締めた。
眩暈が酷くて真面に立っていられず地面に突っ伏したマヒロは意識が朦朧とし始めていた。

「あの男の存在は予定外だったが、それでも奇怪虫の処置にはそれなりの労力が必要だっただろう?」
「はっ……、何…?」
「真尋、奇怪虫は自ずから人間に寄生することは無いことを忘れたか? それともそのような話を幻海から聞いていなかったか……、まァどちらでも良い」
「あなた……だ…れ?」

背後に誰かが立つ気配を感じるが真面に見ることができない。
懸命に目を凝らして見れば、視界に入ったのは黒い肌に金髪で額に二本の角を生やす姿で赤い瞳が特に目に付いた男だ。

「幻海に比べるとお前の実力は大したことが無いな。それでよく怪童児を倒せたものだ」
「…はっ…くっ…かい…どう…じ…?」
「あれはおれが差し向けた。仙崎真尋の実力がどれ程のものかを知りたかったんでな」

男は喉をククッと鳴らして笑った。

「あわよくば連れて来いと指示を出したんだがあっさりと返り討ちにされたのでな。相当な実力の持ち主だと踏んで奇怪虫を使ってお前の力を削ぐつもりだったんだが……、実際に会ってみればどうにも腑に落ちん。怪童児はおれからすれば大した奴ではないが人間にすれば脅威的で厄介なはずだ。幻海とて撃退はしても奴を殺すことまではできなかったのだからな」
「…うっ…くっ……」

滑らかに喋る男は地面に突っ伏すマヒロを見つめて膝を折った。

眩暈が酷すぎて吐気がする。身体から力が抜けて倦怠感に襲われ、支える力が無くなって全身が地面に接した。マヒロは最早自力で頭を上げることもできなくなっていた。

「う!」

男はマヒロの髪を掴むと無理矢理に引き上げて顔を上げさせた。薄らと視界に入る男の赤い瞳が鋭くマヒロを射抜く。そしてジュルリと舌舐め擦りをする音が嫌と言う程にマヒロの耳に大きく響いた。

「実力は幻海が勝るだろうが、お前の方が美味そうだ。我が血肉となれることを光栄に思うが良い」

ただでさえ霞む視界に涙も手伝いぼやけて見えない。それでもマヒロが認識できたのは、この男が口を開けて尖った犬歯をマヒロの喉元に宛がおうとする様だった。
苦しさと悔しさを織り交ぜた表情を浮かべるマヒロはギュッと目を瞑った。すると涙がボロボロと頬を伝い床へと落ちていった。それを見た男は愉快に思ったのか喉を鳴らして満足気な声を上げて笑った。

「はは、良い顔だ。さァ喉を掻っ切ってやろう。痛みを感じる前に死ね」

そう言葉を浴びせると男はマヒロの喉元に噛み付こうとした。

―― マルコさん……、私……。

抵抗する力も無く、こんなにあっさりと自分は殺されるのかとマヒロは思った。
脳裏に浮かぶのは他の誰でも無い、ただ、心の底から好きだと思える男だった。

異性として、一人の男として、好き。

死を前にして強くそう思った。

泣くのは

〆栞
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