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マヒロが修行を始めてから一週間が経ったある日のこと――。
朝食を終えるとマヒロは山マラソン(と銘打ったのはマヒロだよい)をするための準備を始めていた。マルコは食器を洗い終えた後、いつものようにソファに腰を下ろして読みかけの本を手に取り続きを読み始めた。

「日本語は大分覚えました?」
「あァ、簡単なところは何とかねい」

話す言葉は共通なのだが書物に関する文字は一部において共通では無かった。
新聞やら本に使用されている文字の大半をマルコは読めなかった。
マルコの世界で使われている文字はマヒロの世界で言うところの『日本語』と『英語』の両方を使っていることになるらしいのだが、ほとんど英語が主流なのだという。
故にマルコは全て日本語で書かれた新聞や書物を読むのに苦労していた。

マヒロが修行に出ている間、暇を持て余していたマルコはマヒロから辞書と書物を借りて日本語を読めるようになる為に勉強するようになった。そしてそれが今の日常となっていた。

マルコは辞書を膝元に置いて手に持っている本を読んでいる。

時折、辞書を取って文字を調べては「あー」と小さく声を漏らして頷きながら再び手に持っている本の続きを読む。
マヒロは出掛ける準備が整ったのだが、本に夢中になっているマルコの背中を見つめて何となく寂しさを覚えた。

「マルコさん」
「……何だい?」
「毎日勉強って飽きませんか?」
「別に苦痛じゃないよい。おれは知識を得るって行為はどっちかてェと好きな方だからよい」

マルコは本を読みながらそう返事をすると背中越しに軽い溜息が聞こえてきた為に本から視線を外してマヒロを見ようとして横を向いて停止した。いつの間にかマヒロは隣にいて腰を下ろしていたからだ。それにギョッとしたマルコは思わずマヒロから距離を取ろうとマヒロに背を向けた。すると何を思ったのかマヒロはマルコの肩に顎を乗せて抱き付いた。

「なっ、マヒロ! 何のつもりだよい!?」
「別に〜」

―― ッ、お、お前ねい、か、身体が密着してんだよい! ……胸が当たって、……嫌では無ェけどよい、……思いのほかあるんだない。結構、柔らかい…って、違ェ! アホかよい!? 自制しろいおれ!!

マルコは背中にむにっと柔らかいものを感じて一瞬だけ狼になり掛けた。悲しいかな男の性というのはそういうものだ。小さくかぶりを振って何とか理性を保ちながらもマルコは顔に熱が集まるのを否が応でも感じて軽く舌打ちをした。

「は、離れろよいマヒロ。頼むから、いい加減に学習しろよい」
「むぅ、どうせ私は勉強嫌いですもん」
「あのな」
「マルコさん、気持ち良いですか?」
「よい!?」

―― ま、まま、まさか!? 狙ってわざとやってるってェのかよい!? 確かに柔らかくて弾力があって気持ちが良い……、できるなら手でその感触を確かめてみてェよい。……ハッ!? ち、違ェ! そうじゃねェよい!!

「肩凝ってませんか?」
「……ょぃ」

動揺するマルコを他所にマヒロはマルコの肩に乗せた顎でグリグリと動かして圧を掛けた。そっちか――と、心なしかがっかりしている自分がいることをマルコは自覚して軽く項垂れた。

―― あァ、そうだ。凝ってるかもな。……ッ、本っ当に、マヒロは性質が悪いよい!

「……マヒロよい」
「ん?」
「おれは……、マヒロを恩人だと思ってるよい」
「え? ……いきなり何ですか?」
「ッ、だから、できれば、何事も無く! 綺麗な関係でいたいと、おれは心からそう願って思ってんだけどよい」
「へ?」

マルコはゆっくりとマヒロへと振り向いた。笑っているが頬が引き攣っている上に気のせいか額に青筋が若干入っている。そんなマルコにマヒロは目を丸くして軽く首を傾げた。

「けどよい、あんまりマヒロがおれを痛ぶってくれるんで……、それができそうに無ェんだよい」
「えっ、ど、どういうこと? ま、マルコ……さん?」
「一度、本気で襲っても良いかいマヒロ?」
「!?」

ニコリと笑みを浮かべている。だがマルコは自分がこんな素敵に黒い笑顔が出来るものなのかと思える程にかなり含みのある笑みを意識して浮かべていた。マヒロは戸惑いながら抱き付いていた身体を話して若干後ろへと身を引いた。

「わっ、私を襲って良いって……、ど、どうするの? わ、私を、殺すの?」

顔を青くして本気でガタガタと震え始めるマヒロにマルコは思わず絶句して頬を引き攣らせた。

「おれは妖怪か!?」
「だ、だって、マルコさんが怪童児みたいなことを言うからじゃないですか!?」
「アホかよい!? 誰が怪童児だい!? あんなゲテモノとおれを一緒にすんじゃねェよい!!」
「同じじゃないですか!!」
「そもそもおれがマヒロを襲うってェことをどうすりゃ『殺す』って解釈になるんだよい!?」
「え? ち、違うの?」
「男が女を襲うって言えば、普通やることは一つだろうがよい」
「……え? な、何をやるの?」
「……」

マルコの言葉にマヒロはキョトンとして首を傾げた。マルコの言っている意味が理解できないようで疑問符を飛ばしている。そんなマヒロを前にマルコは目を見張ると言葉を飲み込み、徐々に眉間に皺を寄せて口をへの字に曲げていった。

―― そうかい……、そういうことか。なァ……マヒロの祖母さんよ、確か幻海って言った名前だったかねい……、男女の性教育ってェ分野は教えなかったってェことかよい。

「マルコさん」
「……」
「何を……、あ、何か新しい修行とか?」
「ッ……」

―― オヤジ、目をキラキラ輝かせて期待を寄せるこの女をどうにかしてくれよい。

「学校ってェ所でも習わなかったのかよい。……こういうことは習わねェか」
「えーと……」
「赤ん坊はどうやってできると思ってるんだよい?」

マルコは眉間に手を当ててため息交じりにマヒロに質問した。マヒロはどうしてそんなことを聞くのかと不思議に思いつつ「それは男性と女性が……」と言い掛けて停止して目を丸くした。

「へ?」
「……」
「あ、あああの、ま…まさか……」
「おれが言う『襲う』ってェのはそういう意味だよいマヒロ」
「ッ〜〜!? な、何で突然!?」
「散々マヒロから ”誘っておいて” 今更嫌だとは言わせねェよい!!」
「い、いつ私がそんなことをしようってマルコさんを誘ったの!?」

マルコがじりっと詰め寄ればマヒロはじりっと後退ってマルコから距離を取ろうと図る。

―― それをしろと散々言ってきたってェのに、それをしてこなかったマヒロにお灸を据えてやるよい!

「あの! 私! 修行がありますので!!」
「無駄だよい!」
「あっ! ひゃっ!?」

顔を真っ赤にしたマヒロは慌てて逃げようとしたが、マルコがすかさずマヒロの腕を掴んで捕らえ、そしてマヒロを引っ張って小さな身体を腕の中に抱き締めると同時にソファに押し倒して組み敷いた。

「嫌なら遠慮はいらねェからおれを攻撃しろよい」
「ッ〜〜、そ、そんなこと! で、できません」
「そうかい、できねェならこのまま襲うまでだよい」
「ッ……」

マルコの言葉にマヒロが身体を一瞬強張らせた。だがマヒロは抵抗する素振りを一切見せず、間近に顔を寄せて自分を見下ろすマルコをじっと見つめた。漆黒の眼が真っすぐ見つめてくる。マルコはその視線から逸らすことなく真っすぐ見つめ返した。

トクン……と心臓が一つ大きく鳴った。それはマルコかマヒロか、それとも二人共同じか。

――……おれがマヒロを襲うなんて……、そんなことできるわけがない。できるわけ…ねェんだよいマヒロ。

少ししてマルコはクツリと小さく笑うとマヒロの肩口に顔を沈めた。

「悪い……、少しだけ、我慢してくれよい」
「え?」
「……」
「マルコ…さん?」

マヒロは直ぐ横にあるマルコの顔を見ようと視線を向けたが見ることができなかった。金色の柔らかい髪が頬に触れる。

―― ……本当は、そんな乱暴をするような人じゃない。そうでしょう? マルコさん。

自分の両手首を掴んでいるマルコの手から伝わる温もりは決して嫌なもんではない。寧ろ、温かくて心地が良いと感じる自分がいる。できることならこの手が自由に動かせるのならーー私はこの人を抱き締めたいーーそう思ってドキンと心臓が軽く跳ねてマヒロは目を丸くした。

―― ッ、何を考えてるの? 私……、マルコさんを……。

自分の気持ちに動揺し始めるマヒロの隣でマルコはマルコで葛藤していた。女の経験が無いなんてことはない。海賊で名を馳せた身であり、言い寄って来る女は沢山いて引く手数多だ。普通の女もいれば娼婦もいて、時にはどこかの令嬢にまで言い寄られたことだってある。男の欲を吐き出す為だけに女を抱いて寝たことなんて数知れない。

女を抱くことに初めて感じる抵抗感にマルコは戸惑った。

―― 傷…、つけたくねェ。泣かせたくねェよい。

真っ当な気遣いと言うのだろうか、自分が女に対して紳士的な思いを抱くようになるとは夢にも思っていなかった。一人の女をただ守りたい。大切に守りたいーーただ心からそう強く願う気持ちを持っていることに気付いたマルコは、そう簡単においそれと己の欲のままに行動することを良しとはせず、ただただ理性を働かせて男の性でいきり立つ自分を檻の中へと追いやった。

「脅しただけだよい。ただ、男と女ってェのは……、そういうことがあるから気ぃつけろって言ってんだい。どんなに人が良くても男なんてもんはすぐに変貌して女を襲うようにできてんだよい」
「……」

マルコはマヒロの肩口に伏していた顔を漸く上げてマヒロを見下ろした。少し眉をハの字に下げて微笑を浮かべている。

「妖怪より性質が悪いかもな。好きでも無い男に抱かれてガキが出来た日にはそれこそ死んだ方がマシだって思うだろい?」
「ッ……」

マルコはマヒロに諭すように言いながら掴んでいた手を放してマヒロの額に掛かる前髪を払い除けて優しく撫でた。すると突然マヒロが上体を起こすように動いた――かと思ったら首に腕を回されてギュッと抱き締められた。

「!?」

マヒロの行動にマルコは目を丸くして驚き、一瞬だが身体がビクついた。

「ッ、マヒロ、だからそういうことはーー」
「マルコさんは、優しくて、紳士ですから、女性を泣かすようなことしないですよ」
「! お、お前ねい、おれは海賊だ。海賊相手に簡単に信用なんてするなよい!」
「海賊の前にマルコさんです!」
「な、何?」
「海賊である前にマルコさんはマルコさんです! だから……、だから!! ッ、信用……、するんです」
「……止めろい。おれはマヒロが思うような人間じゃないよい」

マルコはマヒロの腕を掴んで引き離そうとした。だがマヒロは腕に力を入れて決して離れようとはしなかった。

「マヒロ」
「離れない!」
「お前!」
「マルコさん!!」
「いい加減にッ――と、」

マヒロの意地かどうかわからないがマルコは少し怒るように声を張った。だがマヒロは体重をマルコに掛け、マルコはバランスを崩してそのままソファの上で今度は自分がマヒロに押し倒される格好になって目を丸くした。

―― マヒロ、頼むから、止めろい。……頼むからよい。

「頑固もいい加減に」
「同じ色だもの!!」
「……マヒロ?」
「私と同じ色……だもん、そうでしょ? ……マルコさん」
「!!」

ポタ…… ポタ……

マヒロの瞳から涙が溢れて落ちた。マヒロの涙がマルコの涙のように変わってマルコの頬を濡らして顎へと伝い落ちて行く。

「泣かないで……、マルコさん」
「……」

―― おれは泣いちゃいねェ……、この涙はお前が流した涙だよいマヒロ。

「おれは……」
「……」

この頃は本当に散々だと溜息を吐きながらマルコは涙を零すマヒロの頬に手を添えて親指でそれを拭った。

―― ただただおれはマヒロを汚したくない一心で理性を保ってんだよい。初めてなんだマヒロ。同じ色を持った女で……、おれの心の奥底にすんなり入り込んできた女は、マヒロが初めてだい。

「脅して悪かったよいマヒロ。おれはお前を抱けねェ。抱かないからよい」
「……マルコさん」

好きだとか、惚れたとか、そういう類の気持ちがマルコ自身の中に芽生えていることをマルコは否定しなかった。だが、そんな気持ちだけで言えた言葉では無いのだ。

―― マヒロ、お前はオヤジに負けねェぐらい、おれをその気にさせたんだよい。

「おれはただお前を、マヒロを守りたい。守りたいだけなんだ……マヒロ」
「! マルコさん、私は!」
「だから……、素直におれを頼れよいマヒロ」
「ッ! ……っ…ふっ…マルコさん!」

マルコはマヒロの頬に添えた手を後頭部に回し、反対の手を背中に回してマヒロを抱き寄せた。マヒロの顔をマルコの首元に寄せて泣きじゃくるマヒロが落ち着くまで、マルコはマヒロの背中をゆっくり摩り、後頭部に回した手で頭を撫でた。

―― 甘え下手……ってとこか。散々、おれの差し出す手を意地張って突っ撥ねて来たってェのによい。

「本当は……、寂しくて甘えたくなった。大方そんなところかねい」

マルコは聞くともなしにそう呟くと、マヒロは何も言わなかったがコクンと頷きだけを見せた。マルコはそれが妙に嬉しいような気がして気持ちが高揚し、自然と笑みを浮かべた。

『同じ色だもの』

―― おれがマヒロを無条件で守りたいと思うのは同じ理由かもしれねェな。

お前は不死鳥の姿になったおれを綺麗だと言った。
能力を知ってもお前の口から出た言葉はおれ自身の苦しみを労わるものだった。

もうこれだけで十分過ぎた。

男だとか女だとかじゃない。
マヒロという人間そのものが好きにならないわけが見つからない。

おれはマヒロが好きだ。

「マヒロ」
「……はい」
「おれは海賊だからよい」
「……はい」
「欲しいと思うものは何が何でも奪うのが海賊だい」
「マルコ……さん?」
「おれは……、おれはマヒロが欲しい。男だから女のお前が欲しいんじゃない。ただマヒロというお前が欲しいんだよい」
「!!」

マルコはそう告げると頭を撫でる手も背中を摩る手も止めてマヒロをただただギュッと抱き締めた。腕の中にある温もりを感じるだけで十分な程、単純に自身の心が満たされていくのがわかる。

―― 例えマヒロがどんなに嫌がったとしても、おれはお前を奪いに行くからよい。

マルコはマヒロに顔を上げさせて覗き込むと、マヒロの頬は真っ赤に染まり、目元は未だに涙で濡れていた。指で流れる涙を拭ってやるとマヒロの顔から漸く少し照れ気味だが柔らかい笑みが零れた。

「誰にもマヒロをやらねェ。やりたくねェんだよい。だからマヒロ、おれにお前を守らせろい」

マルコはマヒロの目を真っ直ぐ見据えて思いを告げた。マヒロは一瞬目を丸くしたが紅潮させた頬をそのままに、これまで見たことが無い最高の笑みを浮かべて笑った。
その笑みを見たマルコはトクン……と鼓動が柔らかく脈打つのを感じながら、クツリと笑みを零して笑った。マヒロの頬を両手で包むようにして添えると自身の方へ引き寄せて互いの額をコツンと突き合わせた。

「その笑みを汚すことはしねェから。おれの命に代えてもよい」
「……やっぱり、マルコさんは優しくて紳士です」

お互いに笑みを浮かべると、どちらとも言わず互いにそっと唇を重ねた。単純に触れるだけの口付けだ。だが小さなリップ音を残して少し離れても角度を変えて再び重ねる。
互いに秘めた気持ちが通じ合った瞬間だった。

そして数分後――。

「はわわわっ! わっ、わわ私! 修行に行かなきゃ!」
「……」

先程までの甘かった時間は直ぐに終わりを迎えた。そしていつものパターンに戻ってしまった。軽く触れるだけのキスを何度か交わして間を持って離れると互いの目と目が合った。すると途端にマヒロはボンッと音を立てそうな勢いで顔を真っ赤にして両手で口元を覆い、突然狼狽し始めた。それを見たマルコは少し……いや、かなりイラッとしたのか、不服な表情を浮かべると自分から離れようとするマヒロの腕を掴んで引き寄せて腕に閉じ込め抱き締めた。

「ッ〜〜! まままマルコさん!」
「てめェ……、人が甘い時間を堪能してたってェのに、それを呆気なくぶち壊すかよい」
「ままま待って! とりあえず落ち着いて! は、離して?」
「……嫌だい」
「は!? こ、子供みたいなこと言わないでマルコさん!」
「ん……、思いのほか抱き心地が良いから放したくないよい」
「なっ!?」
「そうだねい……、もう少しキスしてェよい」
「!」

マルコは少し悪戯っぽく笑ってそう言うとマヒロは顔を真っ赤にして――ブチッと何かが切れた。

「こんの……セクハラァァァ!!」
「ぐはっ!?」

―― あァ、確かに嫌なら攻撃しろって言ったけどよい、だからって霊気で固めた右手の連打は無ェよいマヒロ!!

「ッ。かはっ! くっ……、悪ノリしちまったよい」
「……馬鹿」

マルコはマヒロに殴られた腹部に青い炎を灯しながら、修行の為にソファから立ち上がって出て行くマヒロへと視線を向けた。

―― ……満更でもねェって顔してんじゃねェよいマヒロ。

怒っているようでそうでは無い。どこかフワフワとした雰囲気で耳まで赤く染めて口角が上がっているのを一瞬だけ見た。マルコはクツリと笑うとソファに身体を横たえて天井を見上げて自分の腹を軽く撫でた。

「ったく……、照れ隠しの割にエグい攻撃をする女だよい」

またマヒロの新しい一面を確認したなとマルコは思うのだった。

秘め心

〆栞
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