09


怪童児との激闘から早一週間の時が経った頃、マヒロはある決意をした。

「マルコさん」
「ん? 何だいマヒロ」
「これから暫くの間、私は修行をすることにしました」
「ッ!?」

朝食後、マルコがソファに腰掛けてコーヒーを飲みながらTVをぼ〜っと見ていると、TVの前に遮るようにマヒロが仁王立ちしてそう言った。ぐっと顔をマルコの方へ近付けるマヒロにマルコは思わず身を引いて唖然とする。突然のことにマルコは思わず顔に熱が集中して動揺し、マヒロの言葉に返事するどころでなく軽くパニックを起こした。

―― お、お前、距離感が無さすぎるよい!

「ちっ、」
「マルコさん?」
「近ェ……、マヒロ、顔が近過ぎるよい!」
「え……、ハッ!? ひゃっ!?」

―― 天然過ぎるよいマヒロ。

マヒロは時折マルコが思ってもみない大胆な行動をしでかす―ーと言っても、マルコとの距離感に関することがほとんどなのだが、これに関して大体マルコがやきもきさせらえるのだ。もしマヒロが知った上での行動だったのなら娼婦並に男に慣れた女だと思うが、そういうことは一切無い。完全に無意識によるものだ。だからこそ尚更性質が悪いとマルコは思っている。
マヒロから極力身を引くようにマルコが気遣って動けば、それを逃がさないとばかりマヒロはマルコに迫って近付く。ソファに座るマルコを押し倒す勢いで迫っていることにマヒロは気付いてない。お互いの鼻先が触れそうな距離まで詰め寄るのだ。マルコが堪らずにマヒロから視線を逸らして距離を指摘すると、マヒロは漸くピタリと止まった。マヒロは自分がマルコを若干押し倒した形で迫っている態勢で、更に互いの唇が振れるまであと数センチの距離であることに気付く。途端に顔を真っ赤にすると素っ頓狂な悲鳴を上げて慌てて身を退く。

これが怪童児と激闘を終えた翌日から今日まで何度かあった光景だ。

「はァ……、マヒロ、何度も言うけどよい……」
「あ、あの、マルコさん、ご、ごめんなさい」
「マヒロ、まさか狙ってやってるわけじゃ……ねェよない?」
「な、ななっ!? そ、そんなわけないじゃないですか!!」
「おれは一応男なんでねい、こう何度も迫られると流石におれでも理性が働かなくなる。少しでも良いからその辺を意識してもらえると助かるんだけどよい」
「そ、それって……、マルコさんが私を意識しているんだって思って良いってことですか?」
「……ん?」

マヒロの言葉にマルコは目を丸くして軽く首を傾げた。

―― 待て。な、何を言ってんだよいマヒロ?

「えーっと……、何だ……、その、女として男を警戒しろってことを言ってんだがよい」
「……そうですよね。マルコさんは大人ですから、私みたいな子供っぽくて化粧気も無い女はタイプじゃないですよね。マルコさんは大人で綺麗な女性の方がお似合いですものね、えへへ……、ごめんなさい」
「!?」

マヒロは頭をポリポリと掻きながら苦笑を浮かべて言った。その言葉にマルコは更に目を見張ると顔をマヒロから背けて眉間に皺を寄せた。

―― いや、そうじゃねェ。いや、待て。……いや、違う。これは…、あれだ、……素直に喜びてェが恐らく違ェ。

「ッ、……マヒロ、そりゃ告白だと受け取っても良いのかよい?」
「え?」
「……ょぃ」

―― だろうない! 今のも天然の成せる技ってわけかよい!!

マヒロは自分で言い放った言葉の意味がわかっていない。首を傾げてクエスチョンマークを脳天付近に散りばめているのが容易に見えてしまう。マルコは「くっ」と声を漏らして苦悶に似た表情を浮かべた。

―― おれでなけりゃ世の男共は「自分に好意を抱いている!」っつって挙って喜ぶだろうよい! サッチなんざ鼻の下を伸ばして喜んで抱き付いて……、ッ、あァ止めよう、この先の展開が容易に想像できてしまって無性に腹が立つよい。

マルコは眉間に手を当てて盛大に溜息を吐いた。

マヒロの言葉に心底から喜ぶサッチがマヒロの両腕を掴んでこの場で押し倒して口付けをする。その挙句に身体を触り始めて衣服の裾から手を侵入させてマヒロの肌に直に触れて堪能し始めるのだ。そしてそのままマヒロの服を脱がし始めようとするマルコの想像世界のサッチにマルコは覇気付の蹴りを顔面に食らわしてご退場願った。

「マルコてめェ!! ぷぎゃっ!?」

頭から血を流しながら怒るサッチに更に問答無用で蹴とばして空の彼方へ吹き飛ばし、キラリンと眩い星となって消えたサッチ。

―― いや、何を想像してんだよいおれは……、良い年したおっさんがガキみてェな想像してんじゃねェよい!!

「い、いや……、なっ、何でもない…よい。で、修行するって話だったが」
「あ、そうそう」

マルコはどこか気持ちが漫ろで思考が別天地に飛んでいた。

―― なァマヒロ、朝一からおれの理性を試すようなことは止めてくれよい。

そんなマルコの心情など知る由も無いマヒロは相変わらずニコニコと笑っている。

―― その笑顔は良く無いよい。……ッ、お、襲いたくなるだろうがよい!!

マルコは今回で何十回目となる己の理性を酷使して『男の欲望』との戦いを死闘の末、何とか勝利をするに至る。

カンカンカーンとラクヨウ辺りがゴングを鳴らし、ビスタがタオルを持ってリングに上がる。
ハルタが手を交差させて試合を終わらせてマルコの勝利であることを告げると周囲にいた白ひげ海賊団の隊員達が挙って「うおお!」と祝福の声を上げ、この死闘についてイゾウが実況席で何やら冷静に語っていた。

もうこんな想像が頭を過る時点でマルコはかなりキていることを自覚した。

マルコは己の中にある理性を高めてカウンターフックで『男の欲望』を殴り飛ばした。そして気絶した男の欲望を『封印』という文字で作った鎖で雁字搦めにして押さえつけ、つい最近見たヤクザ映画でやっていたコンクリートに詰めて海に落とすというものを実行した。

これで漸く自分の隣で正座するマヒロの話を改めて聞くことができる。

「ッ……、コホンッ! で、急に修行したいってどういうことだよい?」
「怪童児とマルコさんの戦いを見て、私は全く戦えない自信がついちゃいました」
「そりゃあまた痛い自信をつけたもんだねい……おれのせいかよい?」
「ふふ、マルコさんが急激に強くなり過ぎちゃって、凄く狡いなァ〜なんて、微塵も思ってませんよ?」
「そりゃ完全に思ってるだろい」

笑いながらコテンと首を倒して語るマヒロにマルコはヒクリと頬を引き攣らせた。

―― ったく、負けず嫌いが顔を出したよい。

マヒロは天然な上に負けず嫌いだ。マルコはこの一週間でマヒロの性格を何となく把握した。次に恐らく顔を出すのは『頑固』といったところか。

「ですので、今後も怪童児みたいな強い妖怪が出てくる可能性も高いですし、自分自身の問題にマルコさんを巻き込むのは私としても不本意なので、初心に戻って修行するの」
「巻き込むわけにもいかないって……マヒロ、これも何度も言ったろい?」
「わかってます! でも、本来なら私がやらなきゃいけないことだから」

―― ほら、頑固が顔を出したよい。

「マヒロ、おれは自分から進んで戦ったんだからマヒロが気にする必要は無いよい」
「ッ、……す、……マルコさん」
「悪い、何て言ったんだい?」
「や、優しすぎます……って言いました」
「……」

―― あァ、甘え下手ってェのもあったない。

マヒロはマルコから視線を外して顔を俯かせた。

―― はァ、泣くか。

「泣くなよいマヒロ」
「……グスッ、……な、泣いてません!」

―― 割と直ぐ泣くんだよねい。

マルコは溜息を吐くと手を伸ばしてマヒロの頬にそっと触れた。そして顔を上げさせるとマヒロの目には涙が溜まっていた。

「泣いてるよい」
「目にゴミが入ったから!」
「ガキかよい」
「ッ、わ、私は、どうせマルコさんから見たら子供ですから」
「拗ねるなよい」
「拗ねてません!!」
「ククッ、マヒロ」
「!!」

マルコは堪らず笑うとマヒロの頭に手を置いてクシャリと撫でた。すると途端にマヒロから怒気がみるみる引いていく。

―― 本当……、何と言うか、扱い易いっちゃ扱い易い女だよい。

「でだ、具体的にどんな修行をするつもりだよい?」
「むぅ……、い、一応、霊力の絶対量が足りないので、その絶対量を増やすための修行と……、そうですね、マルコさん、組手とか付き合ってもらっても良いですか?」
「あァ、それは構わねェが……けどよい」
「何か問題でも?」
「いや……、無いよい」

マルコは喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。『もう少しおれを頼れ』と言えばマヒロがまた怒って拗ねそうだと思ったからだ。マヒロから目線を外して頭を掻いて溜息を軽く吐いた。マヒロはマルコのその反応が気になったのか微妙な表情を浮かべて見つめたが、特にマルコが何も言わなければ納得したのか早速修行の準備に取り掛かった。

そして、その日より早朝から夜遅くまでマヒロは修行の為に家を空けるようになった。

手首や足首や胴体に重りを付けて負荷を掛けた身体で、瞑想から始まり、体力作りと称して崖を登ったり下りたり等して山を駆け巡ったり、様々なトレーニングを行った。また、霊力強化の為に滝の麓で霊気を全力で解放したまま持続するという修行をする。それには見守っていたマルコでさえも鬼気迫るものを感じて目を見張った程だ。そして、より速いスピードに付いて行けるようにとマヒロはマルコを相手取って組手を行う。

「もっと速くても大丈夫です!」
「わかった。行くよい!」
「はい!」

修行を始めてから数日間はマルコもマヒロの修行に付き添いで共に行った。だがある日を境にマヒロは多少拗ねた表情を浮かべてマルコに言った。

「一緒に修行するとマルコさんが遥かにより強くなっちゃいますよね? 追いつこうと思って頑張ってるのに意味が無いですよね?」
「……」

マヒロはマルコに組手以外は極力構わないで欲しいと言った。

―― どこまで負けず嫌いなんだよいマヒロ。

マルコは仕方が無く「わかった」と了承した。だが、滝の麓で行う霊力強化の為の修業は別として条件を出した。マヒロが霊気も体力も使い果たして倒れてしまう為だ。その修行の時だけは側で見守る許可を貰った。でなければ、何もかも全力を出して疲れ切って倒れたマヒロはその場から動けずに野宿になってしまうからだ。数日前、二度程あったことだ。マヒロが帰って来ない日はマルコも流石に肝を冷やしたものだ。

―― ……おれはマヒロの保護者かよい。

早朝、修行に出かけるマヒロを見送るマルコはそう思って溜息を吐いた。

マヒロは強くなる為の修行を行う一方でマルコは不本意ながら理性を保つという『我慢』という修行を強いられている等、マヒロは終ぞ知らず、マルコはソファに腰を掛けてTVを付けるも胸の内や脳内で繰り広げる『煩悩』がサッチとなってマヒロを襲うシーンが何度も繰り返して苦悶の表情を浮かべる。
もう何度目の撃退だろう。そろそろサッチの顔が原型を留めていないレベルにまで来ている。だがそれだけ卑猥なシーンが徐々に増えて来ていると言える。マルコは両手で頭をガシガシと掻き乱して「あああ! クソッ!」とつい声を出して『我慢』した。

―― ッ、何でサッチがマヒロと!!

良い年したおっさんと言ってもやはりマルコも男である。
気になる女と度々悶着があれば想像してしまうのは男の性と言えるだろう。

「……これは何の為の修行だよい……クソッ」

マルコはクッションを抱えて顔を埋めてそう言葉を漏らした。

修 行

〆栞
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