第五幕


カノエは意識を取り戻した。見上げる先にあるのは、また知らない天井――。
身体を起こすと新しい包帯と新しい衣服(やはり着慣れない洋服)を身に纏っていることに気付いた。更に、右手に違和感があった。見れば森の中で出会った少女がカノエの手を握ったまま突っ伏して眠っている。
カノエは傷に響かないようにゆっくりとベッドから降りると、その少女を抱き上げてベッドへと寝かせた。

暗がりの部屋の入口に光が射し込んでいる。人がいる気配を感じた。カノエが部屋のドアを開けると中年ぐらいの女が目を丸くしていた。

「あァ、良かった。凄く危険な状態だとお医者様が仰っていましたからどうなることかと心配しておりました」
「そうですか。お手を煩わせてしまったようで忝い」

カノエは女に深々と頭を下げた。あまり聞き慣れない口調と畏まった対応に女はキョトンとしたが直ぐに微笑を零した。

「いいえ、当り前のことをしたまでです。それより……」
「?」
「あの子はあなたを見て泣きつきませんでしたか?」
「……ということは、やはりあなたはあの子の母君ということですね?」
「えェ」
「確かに、私を見るなり『姉』と呼んで泣きついてきましたが……」
「そうですか……」
「あまり込み入った話を聞かれたくないのであれば無理に聞きはしませんが……」
「本当によく似ておいでで」
「私があの子の姉君に……ですか?」
「えェ……。本当は、あの子は孤児で、人間屋(ヒューマンショップ)から逃げて来た子なのですが」
「ひゅー…まん……?」

聞き慣れない言葉にカノエは少し首を傾げた。

「すまぬ。それは一体どういったものなのかお教え願えるだろうか?」
「えェ。あ、でも」
「?」
「立ち話だとお身体に障ってしまいます。気付くのが遅くてごめんなさい」
「あ、い、いや、お構い無く」
「いいえ、ダメです」
「ッ……」
「何か温かいものでもお召し上がりくださいな。お話はその時にでも」
「あ、あァ、ではお言葉に甘えて……」
「ふふ」

女はニコリと微笑むと別の部屋へとカノエを案内した。

「あァ、そうだ。刀だが――」
「あ、それならお休みになられていた部屋の隅に立て掛けてあります」
「そうですか」
「出来ました。どうぞお召し上がりください」
「あァ、忝い」

女は湯気が立つ汁物を出してくれた。初めて見る汁物だ。金属類で作られた掬うもの(スプーン)を手に取ったカノエは、少し恐る恐る口に運んだ。

―― ……美味い。

食べたことの無い初めての味が口の中に広がる。戸惑いはしたが美味しかったので、密かに安堵しながら食を進めた。

「あァ、重ね重ね申し訳ないのだが」
「はい、何でしょう?」
「糸と針を……あと、黒っぽい生地等があればお借りできないだろうか?」
「はァ……、どうされるのですか?」
「衣を作りたいのです。私は着物と袴の方が性に合っている故、その……こういった衣服はどうしても落ち着かぬので。あ、それから、出来れば草履などがあれば有難いのだが……。こういう履物も慣れておらぬ故、どうにも歩き難くて……」
「着物と草履……と言うことは、あなたはワノ国の方なのですね」
「ワノ…国……?」

流石は異国の地か。聞き慣れない言葉が多い気がした。
カノエは眉間に皺を寄せて考えた。
この異国の地では日本のことを『ワノ国』と呼んでいるのかもしれない。そう判断して頷いておくことにした。

「出来る限りのものは用意致します」

女は快く了承してくれた。カノエは何度も頭を下げて礼を言った。

「注文が多くて大変申し訳無い」
「いいえ、何でも仰ってくださいな」
「そ、そうか。あ、」
「ふふ、まだ何か?」

可笑しそうに笑う女にカノエは少し頬を赤らめながら「ついでに――」と、もう一つ頼み事を申し出た。

「あと、サラシも」
「サラシ?」
「女の身ではあるが、わけあって男として生きている故、男装の為にサラシを……」
「まァ! お綺麗な方なのに勿体無い!」
「へッ――!? あ、いえ、その、あ、ありが、とう…ございます」

女の言葉にカノエは思わず瞠目した。

―― き、綺麗とは……。

言われ慣れない言葉に戸惑いながら少し照れ気味に頭を掻き、ぎこちの無い笑みを浮かべて顔を伏せた。カノエは気付いていないだろうが耳まで真っ赤だった。

「男装をされるのでしたら失礼かと思いますが、髪は短くした方が宜しいかと」
「髪を?」
「えェ。大変長くてお綺麗な髪をしておられるので、より女性らしく見えますから」

カノエは眉を顰めて考えた。
確かに髪は短くした方が(特にこの異国の地では)良いのかもしれない。髪を切ることは剃髪以外に考えたことも無かったが、ふと親しかった人物が脳裏を過る。

―― 真似てみるか……。

髪を軽く弄りながらそう考えに至ったカノエは、「あァ」と何かを思い出したように声を漏らした。

「そう言えば、えェっと……ひゅー……」
「あ、ヒューマンショップの件ですね」
「えェ」
「表向きは職業安定所です。ですがその実は、人類売買(人身売買)ショップで、人間や珍しい種族のオークションがそこで盛んに行われているのです」
「なっ……!?」

日本よりも先進国だと思っていた異国でさえも未だに人買い等ということが行われている事実にカノエは思わず絶句した。

「あの子は姉と共に競売に掛けられるところだったのです。ですが、姉が隙を見てあの子だけを逃がして……」

悲し気な表情を浮かべて語る女の話にカノエは引っ掛かりを覚えた。

「ま、待ってください。あなたとあの子に血の繋がりは無いのですか?」
「えェ。赤の他人です」
「!」
「ただ、私も娘を失くしておりまして……、あの子を実の娘として引き取ることにしたんです」
「では何故……、姉と私が似ているとおわかりに?」
「連れて行かれるところを見ましたから。本当に彼女自身かと思った程、よく似ておられました。ですが、あの子は既に売られていったという話を聞いてましたから……」
「……」
「もし逃げることができたとしても売られた先が先ですから、きっと背中に奴隷の焼印が施されているはずです。ですが、あなたの背中には何も無かった」
「奴隷の…焼印……?」

カノエは徐に手で口元を覆うと眉間に皺を寄せて目を瞑った。

―― 酷いことをする。まだ上士や下士の身分制度に縛られている方がマシでは無いか。

この国が一体どこの国なのか知らない。この国の実情を聞いた今では、窮屈だが平和であった日本がどれほどマシな国だったのかとすら思えた。異国にいて初めて自国の良さがわかるというものだ。

「あァ、馳走になりました」
「お口に合いましたか?」
「えェ」
「ふふ、なら良かった。さァ、お怪我に障りますからもうお休みください」
「何から何までお気遣い頂き忝い。では、お言葉に甘えてそうさせて頂きます」

カノエは深々と頭を下げると自分が眠っていた元の部屋へと戻った。刀の所在を確認してからベッドの側へと歩み寄る。
女の子が座っていた椅子にゆっくりと腰を掛け、ぐっすりと眠っている女の子を見つめた。手を伸ばして目に掛かる前髪を掻き揚げてやると、女の子はこそばゆいのか身じろいで少しだけ笑みを浮かべた。
今だけは幸せそうに眠る女の子を見つめながらカノエは、ふと幼かった日の自分を重ねた。

―― きっと兄様《あにさま》もこんな気持ちで私を見ておられたのですね。

カノエは椅子から立ち上がると刀を手にした。そして、壁際に背を預けて腰を下ろし、刀を抱える様にして眠りに就く。
本当は横になった方が幾分か楽なのだろうが、幕末動乱期の戦時下ではこうした態勢でないと眠れなくなっていた。

「世話になりっ放しだ。恩を返す為に何かしれやれることは無いだろうか……」

どれだけ力添えできるかはわからないが、血の繋がらない母子の幸せを心から願った。

翌朝――
意識が浮上して目が覚めたカノエは目を丸くした。女の子が頬を膨らませながら仁王立ちしてカノエを睨んでいたからだ。

「もう! お姉ちゃんったら! 怪我してるんだからちゃんと寝ないとダメだよ!」
「ッ〜〜、あ、あァ、すまぬ」

女の子の勢いにタジタジになりながらカノエは刀を杖代わりにして立ち上がった。すると、女の子がカノエの手を取ってベッドへと引っ張った。

「あ、いや、もう寝るつもりは」
「お姉ちゃん……」
「――ッ!」

頬を膨らませて不機嫌に睨んで来る女の子にカノエは圧倒された。ここは素直に言うことを聞くべきだと咄嗟に判断したカノエは、素直にベッドに入って横になった。

「じゃあ、ママに言ってくるね!」
「わ、わかった」

女の子は満足そうに笑いながら部屋を出て行った。カノエはそれを見届けると身体を起こした。

「……さて」

部屋を見渡して鏡を見つけたカノエは、脇差を手に取って鞘から引き抜くと後頭部で一つ括りにしていた髪の束を掴んだ。女の子が母と呼ぶ女を引き連れて部屋に戻って来た時、カノエは笑みを浮かべて長い髪に刃を通してざっくりと切り落とした。

「お姉ちゃん!? 何してるの!?」

女の子はみるみる内に懸想を変え、カノエの元に駆け寄ると今にも泣きそうな表情を浮かべた。

「どうして髪を切ったの!?」
「すまない。出来れば『お姉ちゃん』では無く『お兄ちゃん』と呼んで欲しいな」
「え?」
「君のお姉さんと似ているそうだが、私は君のお姉さんじゃないんだ。代わりをしてあげることもできない。私は男として生きると決めた身だから」

女の子の頭をクシャリと撫でてそう言ったカノエに、女の子はボロボロと涙を零し始めて顔をくしゃくしゃにした。

「ふっ…、うっ…、お、お姉ちゃんは、お姉ちゃんだもん!!」

女の子は泣きながらそう叫ぶと部屋を出て行ってしまった。女は少し困惑気味にカノエを見つめたが、カノエは苦笑を浮かべながら脇差を器用に扱って髪を整えていく。嘗て同士として懇意にしていた高杉晋作の髪を切った姿を思い出して真似てみることにした。

―― 確かこんな感じだったな……。ハハ、まるで高杉がそこにいるみたいだ。

すっきり短くなった頭髪姿の自分に思わず笑ってしまう。

「あの」
「ん?」
「衣服はこれを」

女が差し出したのは暗めの紺色を基調とした落ち着いた色の着物と袴だ。そして、サラシも――。

「これは着物では……?」
「えェ、そうです」

受け取った衣服を見つめながらカノエは少しだけ首を傾げた。

―― 異国だというのに何故……?

疑問が沸いて不思議に思ったが、縫う手間が省けたと思って有難く頂戴しておくことにした。

「恩に着ます」
「草履は流石に無かったので、これで我慢してくださいね?」

そう言って差し出されたのは(グラディエーター)サンダルだった。履き慣れない靴よりかは幾分かマシだと思ったカノエは深く頭を下げて礼を言った。

「朝食の支度をして来ますね」
「はい」

女が部屋を後にするとカノエは早速とばかりに衣服を脱いだ。そして、貰ったサラシを巻いて着物と袴を身に着けていった。

「うむ。やはり着物である方が落ち着く。しかし、髪形のせいで不格好だな」

短い髪に袴姿が何ともミスマッチに思えて似合わないと感じたカノエは、着物とは別に用意されていた西洋の衣服の中にあった白いブラウスを手に取った。

「これを下に着てみるか……」

ブラウスを羽織って一番上のボタンまできっちりと止めて襟を折る。そうして上から着物を身に付ける。

―― 少し違和感はあるが、多少はマシか。

ひょっとしたら開国した日本ではこういうスタイルが流行るかもしれないな――等と想像してカノエはクスリと笑った。あとは、慣れないサンダルを苦心しながら何とか履き終えて、刀と脇差を腰に差して完成だ。
足首を交差して包む黒革の紐感に若干違和感を感じるが、これは慣れるしかないものとして気にしないことにした。
こうしてカノエは、再びタチバナカノエからタチバナジンとして気持ちを切り替え、部屋を出ようとした。――が、廊下の先から聞こえて来た会話を耳にして足をピタリと止めた。

「本当に髪を切るなんて思いもしなかったけど上物よ? それに、彼女が持っていた刀は素人の私が見ても凄い代物だってわかったわ。兎に角、まだ中にいるから見て頂戴。報酬は弾んでよね? ”逃げた子供も”ちゃんと捕まえたんだから」
「あァ、わかってる。しっかしお前も本当に悪い女だよなァ」
「ふふ、稼ぎになる仕事をしてるだけよ」

聞き慣れた女の声と聞き慣れない男の声。交わされた会話の内容に、カノエは顔を強張らせてギリッと奥歯を強く噛み締めた。

―― 成程……。恩人だと思っていたのに……残念だ。

カノエ――いや、ジンの心は急激に冷めていった。

―― 本当に残念だ!

ジンは部屋に戻って窓から外に出ようとした。しかし、外には武器を持った男達がこの家を取り囲んでいるのを確認して踏み止まった。よく見ると集団の中に籠のようなものがある。その籠の中には、あの女の子が気を失っているのかぐったりしている姿があった。

―― あァ……、なんてことをするんだ……。

この国の実情をよくは知らない。しかし、この国のこの現状は明らかに異常で病んでいる。

数人の足音がバタバタと聞こえて部屋に近付いて来る。ゆっくりと振り向けば、武器を手にした大きな男が数人立ち並び、ジンを見るなり下卑た笑みを浮かべて部屋に入って来た。

「話には聞いたがまるで男みてェな格好だ」
「サラシを巻いてるらしいから尚更そう見えるんだろう」
「組み敷いて抱けば一端の女の反応はするんじゃねェの?」
「だが、まァ、どちらにしろ――」
「「「美人の類だぜ」」」
「案外同性にも好まれるだろうよ」
「「「ぎゃははははっ!」」」

男達は値踏みをしてゲラゲラと笑った。

―― 下衆め……。

ジンは目を瞑ると深く息を吸い、静かにゆっくりと吐き出した。

『私情による剣は振るうべからず』――
例えどのような状況においても、例えどのような相手であっても、己の為にその剣を振るうは天意に背き穢れを呼ぶ。刃を持って戦うは全て他の為でなくてはならない。決して己の為に刃を持って戦うべからず。

ジンはゆっくり目を開けると左腰に差す刀を鞘ごと引き抜いた。

「お、素直だな」
「そりゃそうだろ。こうも囲まれてりゃあ当然だろ」

素直に観念して刀を差し出そうとしているのだと男達は思ったようだ。しかし、ジンは男達に対して左足を一歩引いて半身の態勢を取ると、戦う姿勢を示した。

「おいおい、女の身でおれ達を相手にするってェのか? 外にはおれ達以外にも大勢の仲間がいるんだぜ?」
「大人しく観念しろってんだ」
「しっかしまァ大層な刀を持ってやがるぜ。おい、ちょっと寄こせ。女のお前が扱うよりおれ達みてェな屈強な男が使ってやったほうがその刀も喜ぶだろうぜ」

男はそう言ってジンに近付いて刀を奪おうと手を伸ばそうとした。次の瞬間――ヒュンッ!――と風を切るような音がしたと同時に――バキッ!――と殴られるような音がした。

「ぐあっ!!」

呻き声を上げた男は部屋の片隅へと吹き飛ばされ、壁に激突して倒れた。刀を鞘に納めたまま攻撃を繰り出した為、打撲を負う程度にしかダメージは無いだろう。しかし、衝撃は凄まじく直ぐには立てなかった。

「てっ、てめェ、やりやがったな!?」
「おい、力尽くで連れていくぞ!!」

他の男達が武器を振り翳してジンに襲い掛かろうとした。だが、ジンは相手の動きに呼応するように一歩踏み込んだかと思うと、次の瞬間には二人の男の真ん中を縫うように移動して男達の背後を取った。そして、回転するように身体を捻ったジンの太刀筋は寸分違わずに男達の首を狙い定めて直撃した。

もし刃を持ってして振るわれた太刀であれば、男達の首は確実に掠め取られるように刎ねられて即死だっただろう。

男達は低い呻き声を漏らしながら両サイドの壁にそれぞれ激突した。この時、男達の怒号を聞きつけた外にいた者達は、屋内の異変を察知して中に踏み込もうとしていた。

「おい、そのガキだけ先に連れて行け! 天竜人さんが所望した商品らしいから大事に扱えよ!」
「あァ! わかった!」

女の子を乗せた籠を数人の男が抱えて先にその場を後にした。そして、残った者達が一斉に武器を掲げて屋内へと踏み込んだ――が、先頭から順番に一人、また一人と確実にジンによって吹き飛ばされては気絶していく。しかし、後方にいる者達はそうとは知らずに後からどんどん押し寄せてやって来る。

―― 愚かだな。まるで成っていない。

狭い屋内に大の男が多人数で一人を相手に戦おう等とは、幕末に生きる志士達にとっては常識から外れた行為だ。
ジンは呆れながらも来るものを次から次へと攻撃を躱しては急所を狙って倒していく。だがそれでも敵は尚も屋敷へと踏み込んで来る。

―― 折角貰った服だ。汚したくは無い。

ジンは廊下から一旦部屋に戻ると、今度こそ窓から外へと飛び出した。ガシャンッと窓を突き破る音に気付いた男達は声を荒げて叫んだ。

「おい! 窓から逃げたぞ! 囲め! 絶対に逃がすな!」
「「「おおおおおっ!!」」」

怒号を上げ、大人数でジンに向かって一斉に襲い掛かる。

―― 数が多い。峰打ちで倒すか。

ジンは刀の柄を握って鞘から引き抜こうとして身構えた。だがその時、腹部に激痛が走って思わずその場に膝を突いた。

「くっ!」

―― こんな時に!

懸命に立ち上がって態勢を整えつつ再び身構えようとした。その時――

ボボボボッ!!

「!?」

炎が爆ぜるような音が耳を突いた。火矢か何かかと思ったジンだったが、目の前に迫った男が吹き飛ばされる姿を目の当たりにして目を丸くした。
青い炎がジンと大人数の敵との間に割り込み、爆ぜる音と共に青い炎の中から人らしき姿が現れた。

「探したよいカノエ」
「なっ!? お、お前は!」
「髪を切っちまったのか? 最初はカノエだとは気付かなかったよい」

見知った男の姿にジンは唖然とした。――炎から現れるなんて――わけがわからずに立ち尽くしていたジンだったが、妙に気が抜けて膝がガクンと折れてその場に倒れそうになった。

「おっと」
「!」

男が咄嗟にジンの腕を掴んで胸元へと引き寄せ抱き留めた。ジンは思わず頬が赤くなるのを感じて非常に動揺した。

「無理するな。これ以上悪化させてどうすんだ」
「な、情けなど無用! それに今は助けねばならん者がいる! これ以上の手出しはッ――」

ズキンッ――!

「うっ…!」

声を荒げて叫んだせいで腹部に激痛が走った。思わず呻いたジンに男は呆れにも似た表情を浮かべた。

「バカ言うんじゃねェよい。そんな身体で何ができるってんだ」
「く……、た、戦う。生きている限り、戦い抜いてみせる」
「はァ……」

何を言っても耳を貸さないジンに、男は今度こそ呆れた溜息を吐いた。
ジンはギリッと奥歯を噛み締めると自身の腕を掴む男の手を強引に振り払って目の前の敵へと足を向けた。

「カノエ!」
「カノエ……? 違うな。私はジン。タチバナ ジン……人斬りだ」
「!」

ジンは少し笑みを浮かべながら振り向いてそう言った。

刀を手に、再び戦いへと身を投じようと目を瞑って精神を整える。
ゆっくりと深い呼吸を繰り返して意識を切り替えて行く。

―― ここからは他の為の剣。あの子を助けねば。

やがて閉じられた瞼がゆっくりと開くと鋭い眼光が姿を現した。どこまでも冷酷で残忍な、獣染みた暗い色を宿して――。

「聞け。命が惜しい者は去れ。襲って来る者は全て敵とみなし、容赦無く……斬る」

ジンの声はどこまでも静かに、しかし、はっきりと響き、そして、どこまでも冷たい声音だった。


〆栞
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