第四幕


暗い森の中を宛も無く走っていた。腹部に走る激痛に時折呻きながらも捕まっていた場所から出来る限り離れるべきだと判断して、休むことを許さずに手負いの身体に鞭を打った。
そうして暫く走って森を突っ切ると崖縁に出た。底までの高さはかなりあったが、カノエは考える間も無くその崖から飛び降りた。
途中、岩肌から突き出て生える木の枝に捕まりながら落下の勢いを殺し、底へと辿り着くとそのまま道なりに只管走り続け、再び鬱蒼と茂る森が視界に飛び込んだ。

―― どこか身を隠せる場所を探さなくては……。

酷使した身体が悲鳴を上げて意識が飛びそうになる。時折視界がぼやける。その度に頬を叩いて自分を叱咤して森の中を駆け抜けた。そうして、ある程度行った先にあった岩陰に身を潜めた。疲弊しきった身体を休ませるように岩肌を背に腰を下ろす。

「はァはァはァ、くっ…、血か……」

痛む腹部に触れた手にはヌルリとした生温かい感触。見れば血が付着していた。腹部の傷が開いたのだろう。暗がりでも白い衣服が血で赤く染まっていくのが目に見えてわかる程。相当無茶をした証拠だ。

――なんとかせねば……。

そうして止血を試みようとした時だった。――ガサッ!――と、葉擦れの音が耳に届いてピタリと動きを止めた。

「だァれ?」
「!」

―― ……子供……?

刀を手に咄嗟に身構えたが、そこから姿を現したのは黒い髪と黒い瞳を持った幼い子供だった。子供はカノエを見ると驚きの表情を浮かべた。そして、急に涙を浮かべ始めると突然カノエに抱き付いて泣き出した。

「な、なに――」
「お姉ちゃん!!」
「……お…ねえ…ちゃん?」

カノエは自分に縋り付いて涙で顔を濡らす子供に戸惑いながら頭や背中を撫でることしかできなかった。

ズキンッ――!

「うっ……!」

幼い子供に抱き付かれた衝撃のせいか、激しい痛みに襲われて思わず呻いたカノエは、限界が近いことを悟った。

「ひっく……、お姉ちゃん?」

カノエの呻き声に子供は泣くのを止めると心配そうな顔でカノエを見上げた。そして、カノエの腹部が血で染まっていることに気付いて顔を青褪めた。

「ま、待ってて! ママを呼んで来る!!」
「ッ……」

霞む目で慌てて立ち去る子供の背中を追ったカノエは、呼吸を乱しながらその場に倒れるように横にると、間も無くして意識がそこで途切れた。

一方その頃――。
カノエの後を追って森に入ったマルコであったが、一向に彼女の気配を掴めずにいた。戸惑いと苛立ち、そして、焦りを滲ませた表情を浮かべながら周囲を見回している。暗い森の中で見聞色の覇気を張り巡らせてもカノエの気配が全く感じられない。

「あの怪我で森を突っ切ったってェのか……」

見聞色とて距離に限界がある。張り巡らせる範囲はせいぜいこの一体の森までだ。女の身であれだけの重傷を負っているのだ。そう遠くに逃げられるわけがないと思っていたのだが、予想は見事に外されたようだ。

「気を失ってどこかで野垂れ死にしてなきゃ良いんだが……」

しかし、その可能性は大いにあり得る。折角助けてやったというのに残念だ――と、マルコは溜息を吐きながら見聞色の覇気を消した。暗がりの森の中を捜索しようとも思ったが、範囲が広過ぎて一人では無理だと判断したマルコは、ぼったくりBARへ戻ることにした。
そして、ぼったくりBARの付近まで戻ると明かりが灯されているのが遠目からでもわかった。眠っていたサッチ達が起きたのだろう。急いでBARへと走って勢い良くバンッ――とドアを開けた。

「うおっ!? ビビった!」
「マルコ、見つかったか?」

開けられたドアの音にサッチが驚きの声を上げ、次いでビスタが髭を触りながらマルコに言葉を掛け、それに対してマルコは首を振った。

「いや、見失ったよい」

マルコの言葉にサッチは目を丸くして驚いた。

「は? お前、追いかけたんだろ? まさか、撒かれちまったのか? 重傷を負った……それも女相手に……お前が?」

それはハルタとラクヨウも同じだった。ビスタは眉間に皺を寄せ、イゾウは表情こそ変わらないが何か思案するかのように煙管を口に銜えて紫煙を吐いた。

「仕方が無い。それだけ手練れの剣士だったということだ」

カウンターに座っていたレイリーが酒を飲みながらそう言った。

「助けておいてえらく他人事じゃねェか。そもそも彼女を助けてやって欲しいと頼んだのはあんただろうが、冥王さんよい」

マルコが呆れにも似た表情を浮かべてそう言うとレイリーは表情一つ変えずに酒を呷った。

「明日、お前達の船にちょっと立ち寄らせて貰う」
「なに?」
「白ひげに、ニューゲートに話がある。彼女のことでな」
「おれ達には話せねェことかよい」
「そうでは無いが……まあいい。これは私の勘によるものだが、簡潔に言えば彼女は恐らく異世界の人間だろう」
「……異…世界…?」

レイリーの言葉にマルコを始め誰もが驚きの表情を浮かべたまま固まった。シャクヤクさえも同じ様相だった。

「レイリー、あなたこんな時に何の冗談を……?」
「イゾウ、これを」

シャクヤクがそう言うとレイリーはイゾウに向けて何かを投げ渡した。咄嗟に受け取ったイゾウはそれを見ると途端に眉間に皺を寄せた。

「こいつは……」
「ワノ国にそのような模様があるか?」
「いや……、見たことが無い。似たような模様はあるが、これはそれとは別モノだよ」

イゾウがそう答えるとレイリーは「そうか」と得心がいったように頷いた。

「金糸で施されているのは文字だろう。生地の模様はワノ国特有の模様のように見えるが、出身者であるイゾウでも見たことが無いのであれば、これは恐らくこの世界のどこにも無い代物だと言える」

マルコやサッチ達もイゾウの元に歩み寄ってそれを見た。紺色の袋状のものに『御 守』と金糸で施されているが、それが何を意味するのかはわからない。見たことが無い文字だったからだ。

「中身は……無いな」

イゾウが袋を開けて中を見ると何も入っていなかった。

「あァ、こっちだ」

レイリーが既に中身を出していたようで、カウンターの上に何やら細々としたものがいくつかあった。

「これはそれと似た形状の文字で書かれている」

レイリーが一枚の紙を手に取って広げて見せた。確かに袋に施された金糸と似た文字と思われるものが書かれていた。

「何が書いてあるかはわからんが、手紙か何かだろう」
「これは……簪だな。少し古びてはいるが……」

イゾウが簪を手にして見つめる隣でサッチは白い紙に包まれたものを手に取った。

「こっちは……って、これって人の髪じゃねェか!?」

中身を見たサッチは驚きの声を上げた。ハルタとラクヨウがその声に釣られるようにして見やった。そこには人の髪と思われる漆黒の毛を白い紐で一つに纏めたものがあった。

「なんだってこんなもんを持ち歩いてやがんだ?」
「うあ……、なんだか凄い悪趣味……」

ラクヨウとハルタが嫌悪感を露わにした表情を浮かべた。

「まァ、他人様の所持品にとやかく言うもんじゃあ無い。これは彼女にとっては大事なものなのだろう」

レイリーがラクヨウとハルタの辛辣な言葉に注意するかのように言った。

「少なくともおれ達とは反りが合わねェんじゃ話にもならねェな。おれァ先に船に戻ってらァ!」

ラクヨウは大きな欠伸をしながらそう告げると「おれも眠いし帰る」と、ハルタもラクヨウの後を追うようにして店を出て行った。

「異世界の話はオヤジが何か知っていたりするものなのか?」
「あァ、過去にそういう類の話を聞いたことがある。恐らくニューゲートも知っているだろうと思ってな」
「ならばおれが戻ってオヤジに話そう」
「そうか。ならば私がわざわざ出向いて話をせんでも済むな。頼めるかビスタ?」
「あァ。そういうわけでオヤジに報告をしに先に船に戻るぞ。後は頼んだ」

ビスタはニヤリと笑みを浮かべてマルコとサッチにそう告げて出て行った。それを見送ったサッチはテーブルに肘を突いて頬杖しながら溜息混じりに口を開いた。

「で、カノエって言ったっけ? 彼女は探さねェと結構ヤバいんじゃねェの?」
「あァ、相当な怪我だったからな」

マルコが頷くとイゾウがふぅっと紫煙を吐いた。

「その怪我人にまんまと逃げらるとはよ……」
「ぐっ……」

クツリと笑みを浮かべて軽く毒を吐くイゾウにマルコは思わず顔を顰めた。

「そ、それについては、面目ねェ……」

マルコは軽く舌打ちをして眉間に皺を寄せつつ謝罪した。

「野垂れ死んでたりしねェよな?」
「考えたくもねェが、可能性としてはあるだろうよい」

サッチの言葉にマルコがそう答えるとレイリーは首を振った。

「いや、恐らくそれは大丈夫だろう」
「何故そう言い切れるのか、理由があるのか?」

イゾウが問うとレイリーは片眉を上げた笑みを浮かべた。

「彼女を見つけた時、意識を取り戻した時、外で会った時、いずれにしろ彼女から発されるものは死に逝くもののそれとは全く異なる激しいものがあった。怪我が酷かろうが簡単に死に逝くようなタマではないということだ」

レイリーはそう言いながらイゾウに渡した袋をイゾウから受け取り、カウンターに広げた品々を丁寧に戻していった。するとイゾウは、席を立ってドアの方へと足を向けた。

「おい、イゾウ」

それに気付いたマルコがイゾウの名を呼ぶと、イゾウは煙管を口に銜えてまたクツリと笑った。

「おれも船に戻る。明日の不寝番はおれの隊なんでな。悪いが休ませてもらう」

イゾウはマルコとサッチの返事を聞くことも無くさっさと店を後にした。

「はァ……。あいつらには『協力する』ってェ言葉が無ェのかよい」
「おれっちがいるけど?」
「……」
「ちょっ、何その悲哀な表情!?」
「サッチだから……だよい」
「あァ、おれだからか! ……って、何それ!? 意味わかんねェってんだよ!?」

マルコとサッチの掛け合いに重苦しかった空気は霧散してレイリーとシャクヤクは楽し気に笑った。
それからマルコとサッチは、捜索は日が昇ってから行うことにして、BARの二階の客間で少し睡眠を取ることにした。


〆栞
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