第十六幕


パタンとドアが閉まると同時にカノエはビクンと身体を強張らせ、マルコは呆れて溜息を吐いた。

「何もしねェって言っただろ。コーヒーでも飲むか?」
「は……、はい……」

何となくシュンとして大人しく頷いたカノエにマルコは片眉を上げた。

「何だ、残念そうに見えるのは気のせいか?」
「え?」
「本当は襲って欲しかったとか……」
「い!? いいえ! まったく!」

必死に首を振るカノエに苦笑したマルコは、冗談だよい、と部屋の奥にある備え付けの戸棚の方へと歩いていった。
揶揄われたのだと気付いたカノエは、おずおずと移動してソファに腰を下ろした。備え付けの戸棚からカップを二つ取り出してコーヒーを淹れるマルコの背中を見つめると、何故か寂しさに似た思いが胸に去来するのを感じて視線を手元に落とした。どうしてこんな気持ちになるのか、と目を瞑って小さく溜息を吐く。

まさか、本当は少し期待した……?
――等と、そんな思考が脳裏に過った瞬間、左手の甲を強めに抓ってそれを打ち消し、馬鹿者、と罵る言葉を己にぶつけた。
ふわりとコーヒーの香りが鼻先を掠める。それに釣られるように顔を上げると、目の前にあるローテーブルに二人分のコーヒーカップが置かれ、カノエの隣にマルコが腰を下ろした。

「熱いから気ィつけろよい」
「あ、は、はい。い、いただきます」

慌てて手を伸ばしてカップに触れたものの「熱ッ」と声を上げてパッと手を離した。

「人の話を聞く余裕すらねェのか」
「う……」

熱いコーヒーをズズッと飲むマルコを尻目に、カノエはコーヒーが冷めるまで待つことにして両膝の上に手を置いた。手持無沙汰でそわそわしながら視線はコーヒーの水面に一点集中。その間、お互いに何も言わないまま沈黙が流れる。

き、気まずい……。

居た堪れない気持ちに突き動かされるように改めてカップに手を伸ばした。先程より熱くは無かった。視線を左右に泳がせながらゆっくり飲んで小さな溜息を吐くとクシャリと頭を撫でられる感覚に目を丸くしたカノエは顔を上げた。
マルコの手がカノエを気遣わし気に優しく撫でている――が、マルコは無表情のまま視線を明後日に向けてコーヒーを飲んでいる。
特別に緊張しなくて良いように、普段通りに話ができるように、カノエの気持ちが落ち着くまで待つから――そう言ってくれているように思えた。
優しい温もりが手先から伝わって来るのを感じると、トクン……と心臓が柔らかく脈打つ。そして、この気遣いはきっと他の意味もある。
それは――
思わずクッと固唾を飲み込んだカノエは、少し悲し気な表情を浮かべた。

「後悔……されていますか?」
「後悔……?」
「ジェナ殿のこと……」
「……」

マルコは何も言わずにコーヒーを一気に飲み干してカップをローテーブルに置いた。

「後悔か……。どちらかと言えば半ば強引にカノエに手を出したことの方がでけェかもなァ」
「へ?」

マルコの言葉にカノエは目を丸くして少し間の抜けた声を漏らした。

「殺されかける前に少し…色々な」

ポリポリと頭を掻いて言い難そうに零したマルコは、ソファの背凭れに背中を預けて片手で口元を覆った。
みなまで言わなくともジェナと何があったのか、カノエは何となく察していた。だとしても――だ。

「何故……、私にあのような」
「あの時のカノエが、あまりらしくなかったからよい」
「――!」
「平静を取り戻させる為の一種の劇薬みてェなもんだ。よく効いたろい?」
「あ、そ、そう、ハハ、そうか、あァ成程!」

苦笑を浮かべながらマルコから視線を外したカノエは、それなら納得ですとばかりに何度も頷いた。そんなカノエの反応に片眉をピクリと動かしたマルコは少し鋭い目を向けた。

「カノエ」
「うむ、私は男として生き、血で汚れた身故、マルコ殿のお相手に見合うわけがないというのに、何を勘違いしたのやら、ハハ、とんだ失礼を致した。マルコ殿にはより相応しい女子おなごが」
「落とすなよい」
「――ッ……」

最後まで言わせない。そんな強い口調でマルコはカノエの言葉を遮った。驚いて口を噤んだカノエは、マルコに顔を向けると目を丸くした。

どうしてそんな怒って……。

不機嫌、不満、それとも――表情が険しいマルコにカノエは笑みを徐々に消して俯いた。

「砂浜で、」
「え……?」
「――好きな人ができたって言ってたな」
「!!」

マルコの言葉に驚いたカノエはバッと顔を上げた。

「な、何故それを!?」

船を降りて行く姿を見掛けたから後をつけた、とマルコが答えるとカノエは愕然とした。
あの日、早朝に人知れず船を降りたはずだったのに、まさか気付かれていたなんて、全く思いもしなかった。人の気配を敏感に察する能力に長けることは、剣客としての習いで得意中の得意としていたのに、後をつけるマルコの気配に全く気付かなかったなんて――。
さらに、遠い昔に見た景色とよく似たあの砂浜で、嘗て自分に生きる道を示してくれた恩人に語り掛けていた話まで聞かれていた――それもマルコに――とあっては、流石に動揺するのは当然で酷く狼狽えた。

「あ、あぁの、あ、あれは、」
「誰だよい」
「――え!?」
「カノエの好きな人ってェのは誰だって聞いてんだよい」
「そ、それは……!」

焦りが生じて思考が追い付かない。マルコに見られて知られて聞かれていた事実が何よりもカノエの心を大いに掻き乱した。
あ…、う…、と声を漏らした末に眉尻を下げて閉口したカノエは、堪らず俯いて両手をギュッと握り締めた。

恩を仇で返すことは決してしない。己にできることは刀を振るい守ることだけだ。生真面目で堅物で面白味の無い己にできることは、たったそれだけしかない。
己の剣技は全て家族の為に使おう。命も剣も全ては己を拾い、救い、家族としてくれた、彼らの為に。

その為なら何でもできる。
その為なら命も剣も捧げる覚悟がある。
その為なら――
人斬りになることさえも厭わない。

白ひげ海賊団の”家族”と共に時を過ごすうちに自ずと決意していたことだ。剣士として義を尽くすことが己の全てで、それが最大の恩返しだ。――と胸に深く刻み付けたはずの志。
それなのにぐらりと揺れて崩れそうになるのは何故?
この人には敵わない。守ろうとした人は己よりも遥かに強くて聡い人。守りたいのに守られている事実を思い知らされたからだ。
自分に課した使命と思いを抱く胸にツキンと痛みが走る。剣士としての志が大きく揺らぎ、根底に潜む女としての想いをマルコの言葉で引っぱり出される。しかし、それを決して認めず受け入れられない剣士としての自分が必死に押さえ込む。それがまた――酷く苦しい。

「カノエ」

頬にふわりと触れる手の温もりにハッとして顔を上げたカノエは目を丸くした。表情から怒りの色は疾うに消え失せ、温かく優しい柔和な笑みを浮かべているマルコに息を呑んだ。
そんなカノエにマルコはもう一度言う。自分をあまり落としてやるな――と。

「もう、自分を縛るのは止めにしねェか?」

お互いに、とカノエの頬に添えたままマルコは告げる。

「おれは、お前が良いんだよい」
「!」
「カノエが自分を卑下して逃げてようとしても、おれは絶対に逃がさねェし離さねェ」
「な、に故……」
「言っただろ? おれにとってカノエは特別だってよい」

ドクンッ――!と高鳴る鼓動に胸を締め付けられ眉尻を下げたカノエは、無意識に唇を震わせながら言葉を告げようとした。
しかし、その前に背中をグッと押されて前のめりになると額にトンッと小さな衝撃を受けた。見慣れた紺色の刺青を間近にしてギュッと抱きしめられる感覚に一段と大きく胸が高鳴った。

「おれは、」

義兄として、義妹のお前を。
そして、
男として、女のお前を。

「――カノエが好きだ」

耳元に優しく穏やかな声音で素直に想いを告げたられたカノエは、震える口元を両手で覆い隠すとギュッと瞼を閉じた。

顔が熱い。早鐘を打つ胸が熱い。
どこもかしこも――熱い。

胸元に抱き寄せたカノエに視線を落としたマルコはクツクツと喉を鳴らして笑った。
羞恥の念で耳たぶまで真っ赤に染まっている。何とも素直で可愛らしい反応に「まるで茹で蛸みてェだ」とついつい口を衝く。

「うぅ…、」

それに対してただ呻き声を漏らすだけとは色気の無い返しだ。このまま甘い雰囲気へと移行するには、まだまだ程遠く時間が掛かりそうだ。だが――

これがカノエだ。
彼女らしくて良い。

――マルコはそう思う。

「まるで、辱めの刑だ」
「辱めたつもりはねェんだがなァ」

軽く笑ったマルコは「で、」と一言。

「え?」

顔を上げたカノエにマルコは改めて問う。誰が好きなんだ?と意地の悪い笑みを浮かべながら。

「ま、あ、お、う」

そこは有耶無耶のままにしてくれぬか!?
ほんの少しだけ気を抜いた隙を突かれたカノエは、口をパクパクと開閉を繰り返し、堪らずマルコの胸元に額を押し当てて真っ赤な顔を隠した。
マルコのシャツを両手でギュッと握り締めてギリギリと歯軋りをする。そして――

限界値を超えた。

渦を巻く目をひん剥いてカノエは叫んだ。

「いぃぃ言えぬ! 言えるわけがない!」
「ハッハッハッ! わかったわかった、もう良いよい」

マルコはただただ楽しげに笑いながら抱き締めて、カノエの背中を優しく撫でてはトントンと軽く弾ませて落ち着けとばかりに宥めた。

「意地の悪い戯れだ」
「ハハッ、反応があまりに面白ェからよい」
「むう……、」

唇を尖らせてムスッとしたままカノエはポツリと呟く。

「聞かずともわかってる癖に……」

とても小さな声だった。しかし、それをしっかりと聞き取っていたマルコは少しだけ目を丸くすると直ぐに目を細め、何も言わずにくしゃくしゃとカノエの頭を撫でた。

『この人は私の大事な人だ。簡単にお前の好きなようにはさせぬ』

あの時はどちらかと言えば人斬りに近い気勢だった。けれども、カノエの気持ちが強く前面に顔を出していた。そう、ジンでは無く――カノエだった。

「義兄様」
「何だい?」

不満な顔を消して見上げたカノエは、マルコの目をじっを見つめた。
空とも、海とも、また不死鳥の炎ともとれる青い瞳。そこに映るのは、漸く平静さを取り戻したいつもの顔をした自分がいる。

幼い頃に切望して恋焦がれた温もりをいつも与えてくれる人。とても大切で何ものにも代え難い。恋しくて愛しい――私の好きな人。
この気持ちは女としての気持ちだけでは無いはずだ。逃げるな。素直になれ。一介の剣士として尊敬する思いの強さと等しく、決して恥じることでは無いではないか。

鼓動がドクンと脈打つ。
自ずと口が開いて言葉を紡いだ。

義妹として、義兄のあなたを。
そして、
女として、男のあなたを。

「いつも、心からお慕いしております」
「!」

真っ直ぐ目を見て想いを告げたカノエは、気持ちがすっきりとして晴れやかな色を顔に浮かべて笑った。
先程まで頑として言えないと口にしていたのはどこの誰だ。まるで狐に摘まれたような気分だ。一瞬だけキョトンとしたマルコは、次第に顔が熱くなるの感じて右手で顔を覆いながら天を仰いだ。

「納得……して頂けました?」
「あー、十分だよい」

大きく溜息を漏らしてガクンと項垂れたマルコは未だに右手で顔を覆っている。しかし、耳や首元が明らかに赤く色付いていることから照れていることがわかる。

やべェ、何だよい"お慕いしております"って……。そんな言葉を貰ったのは初めてだよい。

若干意趣返しも含まれているような気もしないが、好いた女から真っ直ぐな言葉を向けられたらこうも乱れるものなのか。ドキドキと激しく踊る心臓が五月蝿い。落ち着けと自身に言い聞かせながら指の隙間からカノエを見れば、何ともスッキリとした顔して冷めたコーヒーを嗜んでいる。

「カノエ」
「はい」
「いつか……、抱かせろよい」
「え?」

最後の一口を口に含んだままカノエがキョトンとしてマルコに目を向けると、まだ多少赤みが残るが顔を覆う手を外したマルコはニヤリと悪い表情を浮かべた。

「睦言って言えばわかるってナキムが言ってたな」
「ゴフッ!?」

ゴホッ!ゲホッ!とカノエは咽せながら噴き出して濡れた口元を手で拭いながらマルコを睨み付けた。

「な、何を急に!?」
「据え膳を食えなかったからなァ」
「あ、あれは、ジェナ殿に対する牽制で」
「よく我慢したとおれは自分を褒めてやりたい気分だったよい」
「はっ!?」

ゆらりと動いたマルコはカノエの両腕を掴んで押し倒した。

「ま、ま、待たれよ!」
「やっぱり待てねェし、やっぱり手を出すことにしたよい」

マルコはニッと笑みを浮かべた。しかし、カノエははっきり見えていた。何故かマルコのこめかみに青筋が張っているのを――。
え、何か怒ってませんか?
青褪めながらもどこか冷静な自分が疑問を抱いてカノエは目をパチクリとした。

「義兄様、嘘は良くないかと」
「五月蝿ェ、今は義兄じゃねェ、ただの男だ」

そこはただの狼と言った方が正しいのではないだろうか。マルコに組み敷かれている状況下で冷静な自分がいることにカノエは不思議に思う。

「カノエ」
「!」

見下ろすマルコの表情は、先程の悪びれたものでは無く、青筋もすっかり消えて、優しさに満ちたものに変わっていた。

〜〜〜〜〜

「何だ、残念そうに見えるのは気のせいか?」
「え?」
「本当は襲って欲しかったとか……」
「い!? いいえ! まったく!」

〜〜〜〜〜

本当は欲しているのだろうか。この様な展開になるのを心のどこかで望んでいたのだろうか。

「好きだ」
「あ……、」

言葉を返す間も無く唇が重ねられた。カノエは得も言われぬ気持ちを抱き、抵抗することも無く素直にそれを受け入れた。
マルコは触れるだけの接吻を何度か繰り返すだけに止めてカノエを見つめた。閉じられた瞼をゆっくりと開いて見上げるカノエに、フッと笑みを浮かべてコツンと額同士をくっつけた。

「お前にしては上出来だよい」
「自分でも、そう思います」

最初こそ恥ずかしさで狼狽したものの、抵抗することも逃げることも無く、素直に応じたのは大きな進歩だ。
額をくっつけたままクツクツと笑い合う二人は、何と無くこのまま終えてしまうのが惜しいと感じて、どちらとも無く再び唇を重ね――ようとした所でズバァァンとドアが開け放たれた。

「悪ィマルコ! 書類が遅くなっちま……」

意気揚々とやって来たサッチは、笑顔のままゆっくりとフェードアウトするようにして部屋を出て行った。
静かにパタンと音を鳴らしてドアが閉まる。
その瞬間にカノエから勢い良く飛び退いたマルコは部屋を飛び出して急いでサッチの後を追った。
ぽつんと残されたカノエは、ゆっくりと起き上がると徐に指先で唇に触れた。その途端にボンッと煙を蒸しながら赤面して両手で覆った。
嬉しい気持ちはあるものの素面になると途端に『嬉しい < 恥ずかしい』と理性の図式がピコンと変わる。

「あわわわ、は、は、破廉恥な!」

いつもの安定的なカノエに返って振り出しに戻り、急いで自分の部屋へと逃げ込むこととなった。そして、一方その頃――

「カノエちゃんがとうとうマル」
「鳳凰印!」

ドゴン!

「――ぷぎゃッ!!」

サッチの背中に容赦なく蹴り技を放ったマルコは、壁に激突して撃沈したサッチのひしゃげた勲章を鷲掴んで耳打ちする。

「いらねェ噂を流しやがったら次は鉤爪立てて蹴り殺してやるよい」
「お…鬼……」

一言漏らしてガクリと気絶したサッチの手から書類を奪い取ったマルコは、ふんっと鼻を鳴らしてその場を去って行った。
これはいつもの安定的な光景なので、船員達は然して何も思うことは無く、今日は平和だなァ、と日常を過ごすのだった。


〆栞
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