第十一幕


地を蹴り森の中を駆け抜け少し開けた場所に出た細身の剣士が急に足を止めると、追い掛けて来た男達も一定の距離を置いて足を止めた。
細身の剣士はどうして逃げるのを止めたのか――。
男達は不審に思いながら武器を片手にジリジリと間合いを詰めていく。

手練れと言えどもそのような細身で何ができる?
こっちの方が数的にも圧倒的有利だ!

「「「天剣の人斬り! 覚悟!!」」」

男達の怒声が静かな森の中で木霊した――が、一瞬でその声はプツリと消えた。
無様に地面に這い蹲る男達を前に、恐怖で踏み止まった一人の男が悲鳴を上げながら尻餅をついた。武器を捨てて逃げようと身体を反転させるも腰が抜けて立つことができない。四つん這いのまま細身の剣士から距離を取ろうと必死だった。
刀身の切っ先からポタポタと滴り落ちる真赤な滴が、ここで何が起きたのかを物語っている。

「ひ、ひ、人斬り……」

写真が無く、名前と賞金額しか載っていない賞金首リスト。所詮ポッと出のルーキーだ、と端から舐めて掛かっていた。慢心があった。実際に目にした剣士は、予想に反して細身の優男の風貌をしているのだから尚の事。
しかし、いざ容赦無く襲い掛かってみれば、攻撃を難無く華麗に躱すと同時に目にも止まらぬ速さで刀を引き抜き、男達を卒なく斬り捨てて行くではないか。
『天剣』という冠は嘘でも大袈裟なものでもなく、その名に恥じない常軌を逸した強さを誇ったまことのものだった。
四つん這いで逃げる男は、ガクガクと震える足を叱咤してやっと立ち上がることができた。

逃げなければ――!

しかし、空気を切り裂くような音が耳を突いた刹那、その男の意識は途切れた。撥ねられた首が宙を舞いゴロリと地面に転がった。指示を下す頭部を失った身体はあっけなく崩れてどさりと倒れる。
数多く転がる死体の中を一人佇む細身の剣士は、冷たい瞳で死した者達を見下ろしながら血糊を払うように刀を大きく振るい鞘に納める。

あァ、あれは正しく――
天剣の人斬り橘迅、その人だ。

*〜*〜*

「――!」

ハッとして目を見開くと視界に映ったのは木組みの天井。
驚いてガバリと身体を起こしたカノエは、呼吸を荒く乱しながら右手を胸元に衣服をギュッと握ると、頬を伝い落ちる冷や汗を無意識の内に左手の甲で拭った。

「はッ…はァ…、夢…か……」

ポツリと呟いて視線を上げると丸窓から射し込むのは弱く赤い光。外を覗けば夕日が地平線に沈んでいく姿があった。部屋に視線を戻すとローテーブルの上には着物の仕立てが途中で止まったまま放置されていた。
乱れた呼吸を整えるように深呼吸を繰り返したカノエは、ベッドを下りて洗面台へと移動した。鏡には髪が乱れて顔色が優れない自分が映っている。

「私は未だに戦う覚悟をすれば迅に戻ってしまうのか……」

蛇口を捻るとキュッと音が鳴った。無造作に顔を洗い、洗面台に両手を突いて再び鏡に視線を戻して自分の顔を睨み付ける。
ドン・ドラホスラフは強敵だ。刀を鞘に納めたまま戦うことも、峰打ちを狙って戦うことも、まずできないと考えて良いだろう。さらに暗器使いで暗殺を得意としている。標的にした獲物は命を奪うまで止めない。どんな手を使ってでも必ず殺しに来る。

「油断はできない。この緊張した状態で平常に過ごし続けなければならないのは久しい……」

周囲に向けて常に神経を張り巡らして緊張を保ち続けながら平常のように行動することには慣れている。しかし、その状態でいるということは人斬りとしているということと変わり無いようなもの。故に――あのような夢を見たのか、とカノエは思った。
蛇口の水を止めてタオルで顔を拭きながらゆっくりと深く呼吸を繰り返して意志を固める。

「大丈夫。壊れることさえ無ければやれる。これは天剣を……一迅の太刀を持つ者の宿命だ。それに――」

タオルを椅子の背凭れに掛けてソファにドサリと深く腰を下ろした。記憶に蘇る懐かしい顔と声が脳裏に浮かんでゆっくりと目を瞑った。

〜〜〜〜〜

久方ぶりに誰も居ない縁側で松蔭と二人きりになった時のこと。

「庚……」
「はい」
「――あァ、いや、」
「?」
「迅と呼んだ方が良かったかな?」
「今はどちらでも……。寅兄様のお好きなように」
「そうか。橘迅とは何度も話をしたからな。今は橘庚と話をするとしよう」

誰もいない縁側で松陰と二人きりになった時のこと。読んでいた書物をパタンと閉じた松陰が庚に向き直して背筋を正した。

「さて、一つ聞く」
「何でしょう?」
「君は、何の為に剣を振るうのか」
「!」
「教えて欲しい」
「それは……、この日本を――」
「いや、それは違う」

庚の言葉を遮るように松陰は首を振った。

「君の言わんとするそれは、あくまでも橘迅の志だ」
「それは…、そう…ですね……」
「橘庚ならば、何の為に剣を振るうのかと問うている。さて、君は何と答えられるかな?」
「ッ……」

あの時、庚としての志について問われたことに思わず言葉に詰まった。庚として考えてはみたが、やはり出て来る答えは同じだった。
橘庚として口を開き掛けた時、松蔭の妹である文と門下生の久坂がやって来たことで口を噤み答えることができなかった。

何の為に剣を振るうのか――。

それは決まっている。そこに夢だとか希望だとか己の為の望みは一切無い。素直な想いのままに、根底において橘迅の志とそう変わらないものだ。

〜〜〜〜〜

あの時、文や久坂が来なければ迅の志と同じだと答えていただろう。そうしたらあの人はきっと呆れた溜息を吐いて納得しないと首を振っただろう。でも、今なら――

「守る為。仲間を、家族を、大切な人を……。その為に私は剣を振るう。こんな答えなら……あなたは納得してくれただろうか?」

ゆっくりと瞼を開けると天井を見上げて木目をじっと見つめた。丸窓から射し込んでいた光は疾うに消えて部屋は薄暗い。
フッと息を吐き灯りを点けようと立ち上がった時、ふと松陰の声が聞こえた気がして心臓が小さく跳ねた。

『果たしてそこに君自身は入っているのだろうか。君は自分を蔑ろにし過ぎるところがある。もう少し己を厭うべきです』

自分を大事に、自分を愛してあげなさい――庚。

実際にそう告げられたことは無い。これは自分が作り上げた松蔭がそう口にしているだけにすぎない。でも、言葉は無くともそういった目を――。

「ッ……」

振り払う様に小さくかぶりを振ったカノエは、外の空気を吸おうと部屋に灯りを点けるのを止めて部屋を後にした。
廊下を歩いて食堂に差し掛かった時、右からニョキッと何者かの腕が伸びて来てカノエはギョッとした。その隙に目元を覆われ身体も捕らわれた。

「な、何!?」
「丁度良かった。カノエちゃん、ちょっとおれっちとお話しない?」
「え…、サッチ…さん?」

船員達は町に繰り出してお楽しみの時間だ。船内はしんと静まり返っていたこともあって誰にも会わないと思っていた。油断していたこともあるが、あまりにも意外な人物が船に留まっていたことにカノエは非常に驚いた。
目を塞いでいた手を退けて振り向いたカノエの驚愕めいた表情に、サッチはヒクリと頬を引き攣らせた笑みを浮かべながら眉間に皺を寄せた。

「え〜…、そんなに驚く必要は無いんじゃねェの?」
「……」

サッチがそう問うとカノエは無意識に首を左右に振った。そりゃ誰でも驚くでしょうとばかりに――。直ぐにハッと我を取り戻したカノエは弁解しようとしたが時既に遅しだ。
ワナワナと震えながら口元を手で覆ったサッチがヨロヨロと後退る。そうして壁に凭れ掛かると膝から崩れ落ちるように静かに四つん這いになると「酷い……。カノエちゃんまでそういう目でおれっちのことを見てたなんて……」と、大の男が「ひぐ! えぐ!」と嗚咽を漏らして泣き始めた。

「へ!? え、な、泣く……え? 泣く!?」

泣く程にショックを受けるとは思いもしなかったカノエは慌ててサッチの側に駆け寄った。

「す、すみません! 違うんです! サッチさん!」

サッチの肩に手を置いて必死に謝るのだが、サッチの背負う影があまりにもズドンと重くて、カノエはオロオロとして困り果てた。
サッチさんって……、意外に心が脆いんですね……、と涙するサッチの背中をトントンとあやすように叩くカノエは思った。

「悪ィって、本当に思ってる?」
「は、はい。傷付けたのなら謝ります」

涙目でジトッと見上げるサッチに、カノエは若干身を引いて頭を下げた。

「じゃあ、悪いって思うなら付き合ってくれるよな!」
「へ?」

気を取り直したようにサッチはニコッと笑った。虚を突かれてキョトンとしたカノエの腕をガシッと掴んで歩き出した。
わけがわからないカノエは、引っ張られるままに足を運ぶ。そうして船を降りて連行された先は酒場だ。

「え…?」

混乱したまま昨晩と同じ席に座らされたカノエは、周りにいる面々に目が点となって軽く停止した。

な、な、なんで他の兄様達まで……!?

カノエと話をしたいというのはサッチだけでは無かった。

「あ、あの――」
「注げよい」
「――は、はい……」

隣に座っていたマルコに唐突に言われたカノエは、テーブルにあった酒瓶に手を伸ばした。

何だかとても不穏な空気と圧を感じる……。

サッチはというと彼の定位置なのだろうか、昨晩と同じ席に腰を下ろしていた。そして、テーブルを挟んでカノエの真向いに座るのはビスタで、その隣にはイゾウがいる。隣のテーブル席に腰掛けていたラクヨウが酒瓶を呷ってカノエに目を向け、その真向いには未だに食事に夢中なエースがいて、エースの隣でテーブルに肘を突きながら笑みを浮かべるハルタがカノエを見つめている。さらにその奥の席にはジョズやフォッサ等、隊長達の面々が挙って席に座っていて、誰もがカノエをじっと見つめていた。
揃いも揃ってカノエに向ける目は鋭いもので、あまり機嫌が良く無いように思えた。
カノエは戸惑いながらマルコが持つ空のジョッキに酒を注ぎ、酒瓶をゆっくりとテーブルに置く――と同時に席を立とうとした。

ガシッ!

「うぐ……!」

酒を注がれたジョッキを片手にマルコがカノエの腕をしっかりと掴んで止めた。何を言うでもなくそのままグビッと酒を呷る。

「この状況で逃げようだなんてよく思えたねェ?」

マルコに代わってイゾウがくつくつと喉を鳴らして笑いながら言うとカノエは思わず息を呑んだ。

「い、イゾウ殿……。あ、あなたが笑いながら額に青筋を張るなんて……、この世の終わりも近い――」
「誰がそうさせたと思ってんだ? あ?」
「――のェ!?」

イゾウがギロリと睨むとカノエは思わず間抜けな声を漏らした。

「ど、どういうことでしょう……?」

恐怖に飲まれながらカノエが問い掛けると、エース以外の隊長達全員がイゾウと同様にカノエをギロリと睨みつけた。

「「「何か言わなきゃなんねェことがあるだろうが(よい)」」」
「はい!?」

白ひげ海賊団の隊長達全員が揃って凄むものだから、流石にカノエも酷く困り果てた。

な、何故このようなことに!?

どこに視線を送っても鋭い視線が注がれて目が合ってしまう。兄と慕う彼ら全員を敵に回した気分を味わうことになったカノエは、思わず泣きたい気持ちになった。

と、とりあえず、落ち着かねば!

目の前にあったジョッキにおずおずと手を伸ばして一口飲む。乾いた喉にアルコールが流れ落ちて胃に注がれた熱がドキドキと激しく脈打つ心臓に輪を掛けて早鐘を打てと命令を下した。ジョッキをテーブルに戻して視線を自身の膝上に落とし顔を俯かせる。

「こ、今宵は、そ、その、女子おなご達とは――」
「都合があってなァ」

カノエの言葉を遮ったのはマルコだ。カノエは顔を上げてマルコに向けた。だが、マルコの顔はテーブルに向けられたままでカノエを見ようとしない。

「し、しかし、彼女達にとって稼ぎ時では!」
「隊員達が喜んで相手してやってるからカノエが心配する必要は無ェよい」
「で、では、その、兄様方も――!」
「おれ達の妹が、素直じゃ無ェのが悪い」
「へ?」

『妹が』をやけに強調して、マルコが漸くカノエに顔を向けて口端を上げて続ける。

「何もかも白状してくれりゃあ直ぐに遊べるんだがなァ、カノエ……?」
「!?」

マルコの言葉にカノエはヒクリと頬を引き攣らせた――が、カノエ以上に大きな反応を示す男がいた。
手をピタリと止めてガタンと大きな音を上げながら席を立ち、口に詰め込んだまま飲み込めていない状態でパクパクと口を動かすエースだ。隊長達の視線がカノエから外れて全てエースに注がれた。
ビスタが「あァ……」と声を漏らしてシルクハットの鍔を手に目深に被った。肝心な事をエースが知らないことをすっかり失念していたからだ。

「ふがふごっ!? ふがうあっふぇふぉいうふぉごふァ!?」
「エース! 口の中のもんを飲み込んでから喋りやがれ!」

ラクヨウが思わず怒声を上げるとエースは「んぐ!」と必死に飲み込んで「ぷはァ!」と息を吐いた。そうして視線をカノエに向けようとした時、エースはまた目を丸くした。

「あれ?」
「「「ん?」」」

エースの反応に不思議に思った隊長達は、エースの視線を辿って目を向けた。

「あ”!?」

忽然と姿を消したカノエにマルコはガタンと席を立って辺りを見回した。
マルコが隣にいながらなんで逃げられてんだよ!?とサッチが叫ぶとビスタが両腕を組んで、流石は天剣の人斬りといったところか、と感心しながら「うんうん」と頷いた。

「感心してる場合じゃないだろうビスタ。お前さんの部下が賞金稼ぎに狙われているってことを忘れたか?」

眉間に手を当てながらイゾウは指摘した。その一方でハルタがお腹を押さえて笑い、ラクヨウは手持ちの酒が無くなったことに気付いて「酒が無くなった。おい追加!!」と酒を注文し、ジョズやフォッサらは「やれやれ……」とかぶりを振って、まるで自分達は関係無いかのように振舞った。

「て、てめェらもみすみす見逃してんじゃねェよい!」

マルコが周りにいた隊長達に向けて叫ぶと彼らは声を揃えて言った。

「「「おう悪ィ! エースの反応が気になったから!」」」
「ぐぬ……!」

呻くような声を漏らして歯を食い縛ったマルコは、何も言わずにカノエを探しに店を出て行った。

「じゃあ、カノエちゃんのことはマルコに任せるとして……、おれっちはカワイ子ちゃんとお楽しみタイムだぜ!」

サッチがウキウキして言うとイゾウは呆れた溜息を吐いた。

「やれやれ……。まァ、サッチらしいっちゃらしいかねェ……」

席を外したハルタが酒場の外に向けて「終わったよー!」と声を掛けると、隊員達が娼婦を引き連れてドヤドヤと酒場に入って来た。それに連なり娼婦達は、隊員の相手より隊長達を相手にする方が箔が着くというもので、我先にと隊長達の元へと駆け寄った。
定位置に座るサッチの両脇には娼婦の花が咲き乱れ、サッチは上機嫌だ。エースの真向いに座っていたラクヨウは「酒の席に女はいらねェ」と吐き捨ててどこかへ行ってしまった。未だに混乱気味で立ち尽くすエースにイゾウが席に戻るよう促し、空席となった席にイゾウが腰を下ろすとビスタもエースの隣に腰を下ろした。

「いつだ?」
「は…、いつ?」

イゾウは眉を顰めて首を傾げた。ビスタもまた「何だその質問は……?」と眉間に皺を寄せて頭上に疑問符を飛ばした。そんな二人にエースは問う。

「いつからカノエは男から女になったんだ!?」
「「何故素直に女だったのかと言わない!?」」

エースの疑問にイゾウとビスタは思わず叫んだ。ハルタはゲラゲラと笑い、隊員達は軽くズッコケた。

「あれは新手の遊びだから気にすんなってんだ」

不思議そうに見つめる娼婦達にそう説明したサッチは大いに楽しむのだった。





隊長達がエースに気を取られた一瞬の隙を突いて逃走に成功したカノエは、路上の一角で乱れた呼吸を整えてホッとしたのも束の間――。

「タチバナ様?」
「はい……?」

声に釣られて顔を向けると、途端に目を丸くしてヒクリと頬を引き攣らせた。

じぇ、じぇ、じぇ……。

驚きを意味した何処かの方言を――では無く、昼間の質素な姿から一転して再び派手な洋装に身を包んだ見知った娼婦ジェナに、カノエは顔を赤くして「あわわ!」と戸惑った。さらに慌てて後退りしたくなる要素があった。自分に向ける彼女の瞳が明らかに違っていたからだ。

ジェナ殿! なななな何故!?

それはまるで恋する女。ジェナはマルコの事が好きだったはずだ。恋する女の瞳を何度も見て来たのだから見間違うはずはない。しかし、それをどうして自分に向けるのか、全く理解できずに酷く動揺する。

「私のような女はお嫌いですか?」
「え、えェ……?」

近付いて来たジェナがそっと手を伸ばしてカノエの頬に触れた。艶めかしく笑うジェナにカノエの視線が泳いだ。

「ふふ、あなたは本当に海賊なのかしら?」
「い、一応……。あ、あの、」
「何かしら?」
「さ、酒場には行かれぬのですか? 今ならマルコ殿と会えるはずですが……」

戸惑いながら告げるとジェナの動きが一瞬だけピクリと違う反応を示した。
やはり……、とカノエは察した。表情は至って変わらないが、ちょっとした動きや雰囲気でわかる。ジェナが本当に好きなのはマルコなのだと――。

「その目は――」
「え?」
「――ジェナ殿のその目は、想いは、私に向けるべきものでは無いはずです」
「!」
「本当に恋い慕う殿方に向けるべきです。例え商売上の付き合いからとは言え、あなたが抱いたその女としての想いは大切にされるべきかと……」

カノエはそう言うと自分の頬に触れるジェナの手を掴んで下ろさせた。

「どうして私にそのような目を向けるのかは理解し兼ねるが、理由があるのなら話してはくださらぬか?」
「!」

少し困ったように苦笑を浮かべながらそう言ったカノエに今度はジェナが驚いて戸惑いを見せた。

どうして……?

ジェナの心の内で疑問が沸いた。
他者の気持ちを慮って優しく諭すような言葉を投げ掛けるような人が、果たして他者の命を奪うようなことをするのだろうか――と。
この人は本当に人斬りなの……? こんなに優しい人が本当に人斬りなんてできるの?
ひょっとしたら人違いではないだろうかとジェナの中で迷いが生じた。

「ジェナ殿……?」
「ッ……」

黙り込んでしまったジェナにカノエは不思議そうな表情を浮かべて首を傾げた。一方ジェナは顔を俯かせて深呼吸を軽く繰り返す。そうして冷静さを取り戻すと再び顔を上げて徐に口を開いた。

「タチバナ……、ジン……」
「!」

ジェナの口から発された名前にカノエは目を丸くした。

「あなたの本当の名は天剣の人斬りタチバナジンなのでしょう?」
「ッ……!」

カノエの反応にジェナは確信してクツリと笑みを零した。

「マルコは私を相手にしてくれないの。久しぶりに会ったのに凄く冷たくて嫌な人。それに比べてあなたは凄く優しい人ね。私、あなたが気に入ったの。ねェ、今夜は二人っきりで過ごさない?」

突然ジェナは甘い声音を発して甘えるようにカノエの腕に自らの腕を絡ませて色目を使った。しかし、――……何を……言うか……――と、カノエがボソリと零した。

「え?」

目を丸くしたジェナは思わず息を呑んだ。これまでの優男の雰囲気が途端に失せ、鋭く険しい真剣な面持ちを持ったカノエの様子に、人斬りの片鱗が見えた気がしたからだ。ジェナの胸中に緊張が走る。

「何を企んでそのようなことを口にされるのか些かわかり兼ねる」
「な、何も企んでなんて――」
「ジェナ殿」
「――な、何?」
「あなたがマルコ殿を心からお慕いしていることを見抜けぬ程、私は他者の心情を測れぬ者では無い」
「!」
「私もそれなりに経験がある故、あなたがマルコ殿に向けられるその想いは誠なものだと直ぐにわかった。もし、誰かの指示に従い私を陥れる為とあらば仰ってください。私が一人でその者を討ち倒します故」
「な!?」
「必ず約束する。私を信じて頂きたい。決してあなたに危害が及ぶようなことだけはさせぬ故、そしてどうか私のことはお気になさらず、あなたはこのまま酒場に向かいマルコ殿に想いをぶつけなさい」
「ど、どうして……?」

カノエが真っ直ぐに目を見つめるとジェナは困惑した。

何を考えてるの? あなたを罠に嵌めようとしている私を守るだなんて……。守るだけでは無く、想いを果たすように応援の言葉まで投げ掛けるなんて……。

胸中に複雑な思いが込み上げたジェナは、堪らずに涙を浮かべて「私は!」と言葉を発しようとした。

「少しあなたが羨ましい」
「――え……?」

ジェナの声を遮るようにカノエが言葉を漏らした。鋭く険しい表情も雰囲気も全て蹴散らして、頬を赤く照れ笑いを浮かべる元の優男に戻ったカノエに、ジェナはキョトンとして瞬きを繰り返した。

「愛しいと思う気持ちを素直に表現できる勇気と強さが羨ましい」
「!」

カノエの言葉にジェナはハッとした。

「あなたにも……、愛しい人が…いるの……?」

カノエはポリポリと人差し指で鼻の頭を掻いた。

「私は色々と複雑な者故、想い叶うことは無い。それ故か、そういう想いを持つ者を不思議と応援したくなる性分なようで……って、それは今し方気付いたことなのですが、ハハハ……」

鼻を掻いていた手を後頭部に回してガシガシと掻き、苦笑を浮かべて笑った。

「……――さい……」
「ん?」
「……ごめん……なさい……」
「!」

ジェナはポロポロと涙を零しながら謝罪の言葉を口にした。それに驚いたカノエは酷く動揺した。

ぬおお……! わ、私は、女子おなごの涙が最も苦手だ!

オロオロしながらどうしたのものかと必死に考える。

「なな涙を見せる相手を、ま、まま、間違っておられますよジェナ殿! せ、せせ折角の、その、お、お化粧が大無しに、な、な、なってしまう!」

泣き出すジェナを懸命に宥めるカノエはふと思った。

はて……? 前にも同じようなことがあったような……?

泣いている人を宥めようと必死になる自分という状況がまるでデジャヴ。何故と軽く首を捻った――が、直ぐに思い出した。

あァ、そうだ。サッチさんだ。

カノエは「失敬」と一言添えてからジェナの背中をトントンとゆっくりしたリズムで優しく叩いて慰めた。
その時、俯いて涙を流すジェナの口元が僅かに怪しく笑みを浮かべたのだが、カノエは全く気付かずに遠い目をして、今日はよく泣かれる日だなァ、と暢気に思うのだった。


〆栞
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