第八幕


酒場に入ったビスタは、隊長達が陣取っている奥の席へと足を向けた。
そこには顰めっ面をして酒を飲むマルコと、そんなマルコに腕を絡めてくっつく娼婦のジェナがいて、ビスタは眉間に皺を寄せた。

「マルコ、何をしている?」
「何って……、見ての通り酒を飲んでんだよい……」

決して好んでこの場にいるわけじゃない。酒を飲もうと思ってここにいるでもない。ただ、成り行き上こうなった――と言葉にしていないが、マルコの表情がそう訴えている。
ビスタはシルクハットを深く被り直しながらマルコの隣に居座るジェナを睨むように一瞥してマルコに視線を戻した。
こうした態度や雰囲気が平常時と違って酷く険しくピリついていることに他の隊長達は目を丸くしている。割と温厚肌のビスタが珍しく怒っているからだ。
それはマルコも同じでビスタを見上げる目には戸惑いがあった。だが、ビスタが自分に何を言わんとしているのかはわかっていた。

カノエの後を追えってことだろい。
マルコは手にしているジョッキに視線を戻して小さく溜息を吐いた。

「カノエは船に――」
「まだ戻らん」
「――……何?」
「夜風に当たると言ってどこかへ行ってしまった。後を追ったところで、おれがなにを言ってもあいつの心は動かん。だから諦めてこっちに来たというわけだ。この意味がどういうことか……、お前ならわかるだろう?」

ビスタの言葉を受けたマルコは、残りの酒を一気に呷るとジョッキをテーブルにダンッと強く叩き付けるように置いて左袖で口元を拭った。

「どこに行った?」
「海岸の方角だ」

ビスタが答えるとマルコはジェナの手を引き剥がして立ち上がろうとした。
しかし、ジェナはマルコの腕を必死に掴んで抵抗した。

「おい、ジェナ! 放せ!」
「嫌よ! 折角会えたのに! やっと会えたのに……!」

ジェナは首を振って必死にしがみ付いた。

「今夜こそやっと一緒にいられると思ったのにどうして!」

叫ぶように抗議するジェナに、マルコは自由の利く手を額に当てて大きく溜息を吐きながら首を振った。

「お前ェには悪ィが、おれは最初からそのつもりでここに来たんじゃねェんだよい」
「マルコ……」
「放せ」
「ッ……」

マルコは自分の腕に絡みつくジェナの手を掴むと少し力を込めてグッと握った。
声音は低く目は鋭い。過去に夜を共にした時のマルコとは全く違う。威圧感に圧倒されたジェナは言葉を飲み込んで渋々とその手を離した。

「悪かった」

ジェナに一言だけ詫びたマルコはその場を後に酒場から出て行った。残ったジェナは震える手をグッと強く握ると何も言わずに席を離れた。
そうして空席となった席にやれやれとばかりにビスタが腰を下ろすとサッチが小さく笑った。

「名演技ってやつか?」
「……半分だな」

ビスタはテーブルにあった酒瓶に手を伸ばすと直接口を付けて酒を呷った。
距離を置いて傍観していたイゾウが「半分…か」と呟きながら近場にある空席に腰を下ろした。

「なら、残りの半分は本気だったってことか」

イゾウの言葉にビスタはニヤリと笑みを浮かべた。

「まァ、そんなところだ」

再び酒を呷ったビスタは、正面に座って食事をしていたエースが首を傾げていることに気付いた。

「エース、どうした?」
「ん”ン”…」

口の中にあったものを飲み込んでからエースは、ずっと不思議に思ってたんだけどよ、と疑問を口にする。難しい表情を浮かべるエースに、ビスタ、イゾウ、サッチの三人――だけでは無く、その場にいたハルタや少し離れた席で見守っていた他の隊長達もエースに注目した。

「マルコとカノエの間に何かあんのか?」
「「「ん?」」」

エースの疑問に隊長達は声を揃えて首を傾げた。

「マルコは1番隊の隊長だろ? カノエはビスタの5番隊の隊員で……。直属の部下ってわけでもねェのに、マルコはカノエにだけ特に厳しいだろ? そこんところも含めて何でだろうなって、よくわかンねェんだよな」

エースはそう言うと骨付き肉を手に取って「はぐっ!」とかぶりついて口一杯に頬張った。
サッチやイゾウ、それにハルタ等が目をパチクリとしながらそれぞれ答えあぐねた。エースがどうしてそのような質問をするのか、それがまず理解できずにいた。ただ一人、ビスタだけがその質問の意味するところを理解して眉間に手を当てた。
そうだった。エースの中でのカノエは……男だ。
ビスタはどう答えたものかと悩んだが、肉を頬張りながらじっと見つめてくるエースに若干気圧されながら口を開いた。

「い、色々とあったのだ」
「色々って?」
「今のカノエがあるのはマルコのおかげということだ」
「何だよそれ」
「過去の話だ。知りたければカノエから直接聞け」

ビスタはエースにそれだけ伝えるとその場から立ち退いてイゾウが座っている席の真向かいへと移動した。
腰掛けて溜息を吐くビスタにイゾウが小声で呼び掛ける。

「ビスタ、まさかとは思うが……」
「あァ、そのまさかだ」

――エースはカノエを男だと認識している――

「へェ! そりゃあ面白い!」
「イゾウ、お前……つくづく良い性格をしているな」

ビスタが眉間に皺を寄せてイゾウの性格に疑いの目を向けるも、イゾウは目を爛々と輝かせてケタケタと笑うだけだ。
ビスタの親心が『イゾウには気を付けろ』という危険信号を放つが、小さく頭を振ってただただ虚しく溜息を吐くのだった。





マルコが海岸線を目指して足を早めて歩いていると、遠くの方で何やら尋常ではないような爆発音が聞こえた気がした。足を止めて気のせいか――とも思ったが、嫌な予感が一瞬にして胸を過った。

まさか、誰かと戦ってるとかじゃねェだろうな!?

音の聞こえ具合からして距離的にはかなり遠いと思われる。
マルコは焦りを抱きながら走り出した。そうして爆発音を耳にしてから数十分ぐらい経っただろうか、海岸線へと降りる階段に差し掛かったところでカノエとばったりと出くわした。
カノエが酷く驚いて目を丸くして固まる一方、マルコはカノエの汚れた姿に目を見張ると同時に眉間に皺を寄せた。

「お前!」
「こっ、転んだのだ!」

マルコが問い質そうとする前にカノエは苦笑を浮かべて適当な嘘を咄嗟に吐いて「アハハ」と笑った。

「は…? 転んだ?」

着物の一部だけが汚れているなら納得はできるかもしれない。しかし、髪や頬が砂に塗れた上に微量の火薬の臭いがしたことから、それは咄嗟の嘘だとマルコは察した。

「爆発音が聞こえた気がしたんだが……」
「そ、それは、恐らく鬱憤を晴らそうと思って岩盤を叩き割った時の音かと……」
「何?」
「その、わ、私にも色々と葛藤があった故……!」

両手を重ねて親指同士をモジモジと動かして視線を泳がせる。照れ臭いのか頬を紅潮して話すカノエの心情は確かに"それ"もあったのだろう。だが――

鬱憤を晴らす為に岩盤を叩き割るなんて、お前ェはそんな奴じゃねェだろうよい……。

全くらしくない行動だとマルコが疑いの目を向けているが、カノエは片手を後頭部に当てて笑いながら「戻ってシャワーを浴びたいので失礼します」と頭を下げて横を通り過ぎようとした。
しかし、擦れ違う瞬間にマルコが咄嗟にカノエの腕を掴んで引き留めた。

「下手な嘘を吐くなよい」

そう言ってカノエの顔を覗き込んだマルコに、カノエは視線を逸らした。

「嘘が下手なのは自分でも自覚している。だから嘘を吐く気は毛頭無い故、嘘など吐いていません」
「なら、どうしておれの目を見ねェんだよい」
「ッ……」
「カノエ」

視線を逸らしたまま顔を俯かせたカノエは、言葉を噤み何も言わなくなってしまった。
小さく溜息を吐いたマルコは、カノエの腕を引いて胸元へと引き寄せると、カノエの頬に手を添えて顔を上げさせようとした。だが、カノエがそれよりも先に顔を上げてマルコを見上げ、マルコは思わずギョッとして固まった。カノエの目が涙で潤んでいたからだ。

「な、何で泣いて――」
「ビスタ殿に言われたのだろう!?」
「――!」
「私は一人で平気だと言ったというのに、全く信用されていないことに無性に腹が立つ! 私とていつまでも不安定なか弱い人間では無い! もう少し信用して頂いても良いのでは!?」

顔を真っ赤にしてカノエは抗議の声を上げた。これには流石に驚いたマルコは焦って首を振った。

「べ、別に、カノエを信用してねェわけじゃねェよい!」
「本当に過保護な兄様達だ! 私は船に戻って汚れを落として着替えて寝る故、マルコ殿は酒場でゆっくり楽しまれよ!」
「おれはそのつもりで酒場に行ったんじゃねェよい!」
「ジェナ殿はマルコ殿に会いたかったのでは? 彼女はマルコ殿に会えて心の底から喜んでおられたと言うに、女を泣かすは男の恥だ!」
「あ、あれは、おれの女でも何でも」
「顔を見ればわかる!」
「――ッ……、な、何?」
「好いた男を見る女の目をしておられた!」
「!」

カノエが声を荒げて言うとマルコはグッと息を呑んだ。

「ど…うして、そんなことがわかンだよい」

辛うじて吐いた科白にカノエはこれ以上無い程に顔を赤くして言った。
女子おなごに好かれて愛された経験があるからですよ!――と。

「……?」

マルコはポカンとした表情を浮かべた。
今、何だか聞き捨てならねェ台詞を吐きやがったような……。
言葉の意味を咀嚼して飲み込むのに酷く時間が掛かった。聞き間違いかと思った。しかし、意味を把握した瞬間に「はァ!?」と素っ頓狂な声を上げ、皺を刻んだ眉間に手を当てながら反対の手を挙げた。

「悪ィ……。カノエ、改めて聞くが……」
「何です……?」
「女に好かれて愛された経験っつったか?」
「えェ、あくまでもタチバナジンとしてですが」
「あァ、そうか!」

成程とばかりに手を叩いて納得したマルコだったが、直ぐにカノエに背を向けて頭を悩ました。
いや待て。あァ、そうかじゃねェだろ。納得してどうすんだ。と自らの反応を否定したマルコは、どうしてか複雑な気持ちを抱いた。
既に経験者ってことか。あー、いや、違う。あくまでも”男として”ってことだろい?
思考をフル回転させて複雑怪奇な男女間の色々を考えて、徐に振り返ってカノエに問う。

「ま、まさか、その、お、女…同士で……?」
「ッ……、ま、マルコッ…殿……」

疑問を聞いてみたいが上手く言葉にできずに両手を動かして身振り手振りを加えて意図を伝えようとするマルコに、カノエは顔を顰めて軽蔑する目を向けた。

「い、いや、そ、そりゃあ気になるよい………………じゃねェ! 違う! そうじゃなくて!」

思わずかぶりを振って顔を青くしながらマルコは弁解に走る。
最後までヤったかどうか気にならないわけではッ……て、おれはナニを考えてんだよい!?と再び頭を抱えるマルコに、カノエは小さく溜息を吐いた。

「女と知られては一大事でしたから、毎回逃げ遂せて事にまで及ぶことはありませんでした」

カノエが仏頂面で答えるとマルコは「そ、そうか……」と気の抜けたような顔をしてホッと胸を撫で下ろした。何はともあれカノエはまだ――

……待て。何でおれはこんな……。

胸の内で安堵して喜々としている自分がいることに気付いたマルコは眉間に皺を寄せる。一方、カノエは顔を俯かせて口を開いた。

「マルコ殿を見つめるジェナ殿の表情が恋焦がれた女そのものだったが故に席を譲ったというのに、あなたは私の親切心を無下にするおつもりか?」
「いや、言ったろい? おれはそういうつもりで酒場に来たんじゃねェってよい」
「仕事ばかりでは身体に毒です。気晴らしに少し遊ばれても良いではないですか」

カノエはぶっきらぼうに言うとマルコに掴まれた腕を解こうと力を入れて引っ張った。しかし、マルコがそれを許すわけもなく、逆にカノエを引き込んでがっしりと抱き込んだ。

「な、何を!」

カノエは驚いて目を見張った。思わず顔に熱が集まるのを感じた――が、

ち、違う。”そういう意味”では無い!

ほんの一瞬だけ別の意識が過った。だが直ぐに我に帰るとカノエは必死に抵抗してマルコの胸元を押したり衣服を引っ張ったりと暴れた。そんなカノエに苛々が限界に達したマルコは額に青筋を張って怒鳴った。

「妹がなんの心配してやがんだよい!」
「男は溜まるものだ!」
「んなっ!?」
「所詮は女の身である私にはそれがどういうものかはよくわからん! だが辛いものであることは聞いている!」
「ば、馬鹿言ってんじゃねェ! 何でそんなことをお前ェが知って――」
「高杉がそう言っていたからだ!」
「――た…か……すぎ……」

あー、そういうことかい。じゃねェ、カノエに男のナニを教えてんだ!? アホか!?

名前しか知らない会ったことも無い男に向けて、マルコは盛大にツッコんだ。そして、遠い目をして溜息を吐いた。

「カノエ……、おれはそんなんじゃねェ……」
「!」
「確かにジェナとは過去に一度だけ身体の関係を持った」
「ッ……」

マルコは抱き締める手を緩めてカノエを見下ろしたが、俯くカノエの表情は見えない。それでも言葉を続ける。

「好きで抱いたってわけじゃねェんだ。それこそ、何だ……」
「発散……ですね」
「あ、あァ、まァ、そう…だよい。ジェナがおれに好意を抱いたのは余程その……」
「良かったんでしょうね」
「よっ……あー……」

顔を上げないままに答えるカノエに、マルコは言葉を詰まらせた。

妙なところに理解力が高いのが怖い。
また、淡々と答えるところが尚怖い。

マルコは調子を狂わされっぱなしで視線を宙に彷徨せながらヒクリと頬を引き攣らせた。
一方カノエは不機嫌な面のままで地面の一点を見つめていた。このような話を抱き締められながら語るような内容では無い。こんなの破廉恥だ。話せば話す程に更に不機嫌と化していく一方だ。それに――

ジェナ殿と……。
やはり男と女の一線を越えた関係があった。

そうだと思った。
そうだと思いたくなかった。

気持ちが高ぶって涙が出ないように、カノエは必死に堪えてグッと拳を握ると、マルコに気付かれないように深呼吸を繰り返した。

「今宵もなさって来ると良い」
「……」
「発散とは言え、抱く時ぐらいは愛でてやるものでしょう?」

カノエがポツリと呟くように言った。

「カノエ、まずその知識は全部捨てろ」

少し声のトーンを落としてマルコが言うと、カノエは漸く顔を上げた。未だに目が潤んでいるが眉を顰めて酷く不機嫌な様相だ。

「何故? 同じではないか。遊郭の遊女と娼婦は同じようなもので性と金が付き物だ。男の欲を発散させる為に金で交渉するものであることに何ら変わりは無い」

カノエが吐き捨てるとマルコは苦虫を噛み潰した様な表情を浮かべてギリッと奥歯を強く噛んだ。

「お前ェは――」
「私はそういうものだと弁えている! 例えそれをしたからと言って別に軽蔑する気は無い! 自然的なものなのだから仕方が無いではないか!」

マルコを睨み付けて強い口調で言ったカノエは、尚も続けようと「だから――」と口にした時、マルコが「だったら――」と声を重ねた。そして――

「お前がおれの相手をしろよい」
「――………………はい?」

数秒前の勢いは一瞬にして鎮火した。無表情で言ったマルコの言葉に、カノエは目を丸めて瞬きを繰り返した。

「い、今……、何……」
「お前がおれの相手をしろって言ってんだよい」
「――へあっ!?」

予想だにしていなかった言葉に、衝撃を受けたカノエは、これまで出したことの無い間抜けな声を漏らして焦り始めた。

「ななな何故!? どうしてそのような解釈に!?」
「あ? カノエは女だろうがよい」

マルコはカノエを見下ろしながらニヤリと悪い笑みを浮かべた。カノエは顔を真っ赤にして瞠目しながらハクハクと口の開閉を繰り返した。

「ッ…、」

あまりの動揺の仕方にマルコは顔を逸らして肩を震わせた。冷静さを失っているカノエがどうしたのかと「ふぇ…?」と間抜けな声を漏らすと、マルコは堪らず「ぶはっ!」と噴き出して笑い出した。

「お、お前ッ、ハハッ! な、なんつー顔してんだよい!」

カノエの頭をポンポンッと軽く叩いてクシャクシャ撫でながらマルコは盛大に笑った。カノエは顔を真っ赤にしたまま未だに口をハクハクとしながら唖然としていたが、徐々に冷静さを取り戻してくると愈々怒りが込み上がってあからさまに顔を歪めた。

「あ、兄様なんて大嫌いだ!」
「あー、悪ィ、悪かったよいカノエ」
「私は帰る!!」

まるで子供のように拗ねたカノエがプイッと顔を逸らすとズンズンと歩き出した。クツクツと笑いながらマルコはカノエの後をついて歩いた。だが、カノエがピタリと歩を止めて振り向くと町の中心に向けて指を差した。

「兄様は向こうだ」
「いや、おれも帰――」
「って来るな」
「――……おい」

マルコの言葉尻を奪ってカノエは言った。まったく、いい加減にしろとマルコが口を開こうとすると、カノエはビシッとマルコを指差して酒場のある方角へと動かした。

「兄様の向かう先は、あっち! む・こ・う!」
「ッ……」

カノエは完全に拗ねていた。

お前は子供か!
こんなカノエを見たのは初めてだ。多少呆気に取られたものの気抜けしたマルコはフッと微笑した。

「おれが悪かった。謝るよい」
「何を謝るのか」

今度は自分の蟀谷を人差し指でトントンと当てて「私は知らん」と言い、かぶりをふっては「いー!」とした表情を見せてはプイッとそっぽを向く。

「ククッ……」

マルコは軽く笑いながらまいったとばかりに両手を上げて、眉尻を下げて反省しているといった表情を浮かべた。

「カノエ、ごめんよい」
「謝るのは私にでは無い。ジェナ――」
「カノエ」
「――ッ……」

カノエの言葉を遮るようにマルコは強い声音で名を呼んだ。思わず押し黙ったカノエの手をマルコの手が重なりギュッと握る。

「帰るよい」

軽くビクンと肩を弾ませたカノエを他所にマルコは繋いだ手を引きながら足早に歩き出した。

「は、離せ!」
「あー、迷子になるといけねェから却下だよい」
「私は子供じゃない!」
「子供みてェに拗ねてンだから説得力に欠けるよい」
「う〜〜!」
「お、どうした? 今度は動物みたいに唸り出したな」
「やっぱり兄様なんて大嫌いだ!!」
「よいよい」
「よくなァァァい!!」

ギャンギャンと吼えるカノエをマルコが楽し気にあしらいながら帰路を歩く。不寝番をしていた隊員達は、カノエの珍しい姿とそれを面白がるマルコの姿に目を丸くして唖然としている。
喧嘩をしている割にはしっかりと繋がれた手に、二人の仲の良さが垣間見えるところだが、如何せん恋人同士というよりも兄妹といった構図にしか見えない――と、誰もが思った。
そんな隊員達を他所にマルコとカノエは船内へと入って行く。

ガブッ!

「痛っ!?」
「寝る!!」

手を離してくれないマルコの手にカノエは噛みついた。
驚きと痛みで咄嗟にパッと手が離れると、カノエはぷんすかと怒りながら小走りで自室へと入って行った。
唖然としてカノエを見送ったマルコは、噛まれた手に視線を落とした。

「いや、抵抗するにしても噛むって……」

せめて刀で抵抗するとか色々あるだろうが……、とマルコは頭をガシガシと掻いた。

「エースのことを犬だなんて言える口じゃねェだろうよい」

失笑にも似た笑いを零したマルコは、少しやりすぎたかと溜息を吐いて軽く反省しながら自室に戻った。途中で放り出した書類処理の続きをと思ったが、どうにも集中できそうにない。
ソファに腰を下ろして一息付くと自ずと口角が上がった。口元をマッサージするように摩るが、嬉しい気持ちが勝ってついつい笑みが零れてしまう。
それは今まで一度も見たことの無かったカノエの意外な一面を見ることができたからだ。
ただ、果たしてこの気持ちは純粋に妹に対するものかどうかは――

〜〜〜〜〜

「だったらお前がおれの相手をしろよい」

〜〜〜〜〜

あの言葉は揶揄いというよりも咄嗟に出た言葉だ。ジェナと事に及べと言うカノエに腹が立ったのだと思う。

両手で顔を覆いながら深い溜息を吐いたマルコは、いや、違う…とポツリと呟いた。あの言葉は――本気だった――。

「アホだろい、おれは……」

揶揄いで済んだことが幸いだ。カノエはきっと本気で捉えてはいないだろう。本当に幸いだと――そう思えるのか?

「ッ……」

どさりと身体を背凭れに預けると目を瞑ったマルコは、深呼吸を繰り返し、半ば本気だった自分を責めて反省するのだった。
その一方――
カノエは刀を鞘事引き抜くと、着物やサラシを脱ぎ捨てて熱めのシャワーを浴びた。

〜〜〜〜〜

「だったらお前がおれの相手をしろよい」

〜〜〜〜〜

一瞬だけ、ほんの一瞬だけ――本気で期待した自分がいた。直ぐにバカだバカだと自分を罵った。

「本当に……、冗談が過ぎますよ……」

視界がぼやけるのはシャワーを浴びているからか、それとも涙なのか、熱い滴が頬を伝い落ちるそれの正体はわからなかった。
両手でパンパンと両頬を叩くと気持ちを切り替える。
とりあえず”嘘は突き通せた”のだ。多少乱暴に子供染みた態度を取ったが、そのおかげで何事も無かったかのように振舞うことができたのだ。

「私はできることをするまでだ」

誰も傷つけさせない。
敵の凶刃は全て自分が摘み取る。
そう覚悟したのだから――。

「あなたの為なら何だってできます。その為なら己の手を赤く染めることになろうとも厭わない」

右手を見つめてグッと握り締めた。それで後になんと言われようと、どう思われようと、全ては己が意志で決めたことだ。

もう迷わない。

「あ、でも……」

父上オヤジに怒られるのだけは流石に堪えるかもしれない。
とても大きな壁を思い出してハッしたカノエは、ポリポリと頬を掻くと乾いた笑いを零して盛大な溜息を吐き――軽く凹んだ。

「そ、それは、そうなった時だ」

父親に怒られる覚悟もしておこう、と少しだけ恐怖を抱きながら決意したのだった。


〆栞
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