第七幕


人気の無い砂浜――。空を見上げれば満月とまではいかないが丸みのある月が暗い夜を照らし、海面に落ちる月明かりがユラユラと揺れている。
カノエは砂浜に足を踏み入れると腰に差す刀を引き抜いて腰を下ろした。海を見つめていると僅かに視界が歪み始め、膝を抱えるようにして顔を伏せた。

海賊で……、男なのだから仕方が無い。別に気にする必要など無い。そういうことはあって然るべきことだ。

大きく息を吸ってゆっくりと吐いて幾分か気持ちを落ち着かせる。その内に寝転がって大の字になると後頭部に両手を組んで空を見つめた。
月の明かりと共に輝く満点の星空は、世界が異なれど遥か昔に眺めたものとそう変わらない。

「私は……、あくまでも妹だ……」

鼓動がまだ早い。ただこれはマルコが酒場に来るとは思っていなかったから驚いただけのもの。ビスタが真剣に気に掛けてくれたことに動揺しただけの……もの。――別に気にする程のことでは無い、と強く自分に言い聞かせる。
喉の奥に何かが詰まった感覚。それをグッと飲み込み、苦しく脈打つ鼓動が落ち着くのを待った。

ガサッ……――!

「!」

僅かに葉擦れの音が聞こえた。咄嗟に身体を起こしたカノエは刀を手に警戒した。
動物か何かか?――いや、違う。今この瞬間に暗闇から放たれたものが全てを証明した。

キィンッ!

刀を振るうと金属音がけたたましく闇夜に響き、弾かれたソレは地面へと落ちた。苦無にも似た武具だ――が、続けて放たれたものにカノエは目を見張った。

「ッ…!?」

苦無にも似た武具の先に伸びるのは鎖だ。刀で弾くどころか武具の重みを利用して刀身に絡まるようにぐるりと回った。
刀を奪われないように咄嗟に力を入れてグッと引きに掛かったカノエだが、相手も鎖を引っ張ったのだろうガチンと大きな音が鳴ってギチギチと軋む音を立てた。

「天剣の人斬り、タチバナジンとお見受けする」
「ッ、誰だ!?」

マルコやサッチ達とそう年齢は違わないと思われる男が暗い森の奥からスッと姿を現した。
黒く長い髪を襟裾付近で一つに束ねて三つ編みに鼻の下と顎に整えられた髭が特徴的で、黒尽くめの衣服とマントを身に纏っている。暗闇に紛れ込むには打って付けの恰好だ。

「お前は賞金稼ぎか?」
「あァ、そうだ。私はドラホスラフ。天剣の人斬りタチバナジンの首を頂戴したい」

ギリギリと引き合いながらドラボスラフはクツリと笑みを浮かべた。

「白ひげ海賊団には高額な賞金首が数多いるが、私はお前に興味があってな」
「私がッ、一番、弱そう、だからか?」
「まさか」

ドラホスラフは軽く肩を竦めた。

「お前が最も血に汚れているように見えたからだ!」
「!」

ドラホスラフは引き合っていた鎖を咄嗟に離した。カノエは後ろに倒れそうになったが咄嗟に足を出して倒れることを免れたが、ドラホスラフに目を向けた時には姿が消えていた。辺りを見渡したが影すら見当たらなかった。

「……」

深く息を吐いて周囲に気を張り巡らし気配を探ると、空気が僅かにフッと揺れるのを肌で感じた。
カノエは咄嗟に身を屈めた。カノエの首を断つつもりだったのだろう。背後に迫ったドラホスラフが振るった剣は、平行線を描くようにして空気を切り裂いた。

「私の攻撃を躱すとは流石だ」
「ッ……」

闇に紛れて悟られないまま殺しを行う暗殺者らしい戦い方だ。ドラホスラフの出で立ちからして『暗殺』を生業としているのではと予測したが間違いではなかったようだ。
カノエは鞘に納めたままの刀を返してドラホスラフの鳩尾に突きを放った。しかし、反撃を予期していたのかドラホスラフはあっさりと躱した――と同時に、マントの内側から数本のナイフを左手で引き抜きカノエに投げ付けた。
カノエが後方に飛び退くとナイフは地面にサクサクと突き刺さった。

「貴様、何故剣を抜かんのだ?」
「……」

ドラホスラフの問いにカノエは答えなかった。ドラホスラフは右手に持つ長剣を構えて左手をマントの中に隠して殺意を向ける。しかし、未だに刀を抜く気配は無い。
天剣の人斬りとは大層な名を付けられたものだと思っていたが、実力が伴わない名前だけの小物か。――ドラホスラフの表情から笑みが消えて冷酷なものへと変わった。

カノエは右腕を前に刀を差す左側を後方に引いて半身の態勢で身構え、ゆっくりと静かに深呼吸を繰り返した。
暗器か。刀を抜かずにどこまでやれるか。この男、それなりの手練れと見える。
人斬りシドウとの戦い以来、幾度か戦場に立ちはしたが、刀を手にして本気で抜刀することは無かった。全て峰打ちで軽く往なせる相手が殆どだったが故だ。
しかし、目の前にいるこのドラホスラフは、これまでの敵とは実力が異なる強さを感じる。峰打ちで等と余裕を持って戦えるような相手には思えなかった。

「行くぞ」
「ッ……!」

やはり覚悟しなければいけないのか。

――抜刀する覚悟を――

心が俄かに震えた。迷いが生じて刀の柄を持つことができない。
カノエは鞘に納めたまま刀を振るい、ドラホスラフの攻撃を往なすことしかできなかった。

「どうしたタチバナジン! 天剣の人斬りは名ばかりか!」

ドラホスラフの猛攻に押され、カノエは後ろ後ろへと引いて行く。
しかし、背中がドンッと何かにぶつかった。見れば大きな岩がカノエの後ろを塞いでいる。もうこれ以上引くことができない。
追い詰められたカノエに容赦無くドラホスラフは剣を振るう。狙う先はカノエの首筋だ。

キンッ!!

咄嗟に刀の柄を握って鞘から引き抜いた。防衛本能によるものか、カノエはドラホスラフの太刀をギリギリで受け止めた。

「漸く抜いたか。それで良い」

ギチギチと鍔迫り合いをしながらドラホスラフはニヤリと笑みを浮かべると隠していた左手を出した。

「なっ!?」

その手元にあるものを見たカノエは目を見張った。

「これはどう対処する?」
「くっ!」

ガキンッ!

「!」

ドラホスラフが力でもって剣を押し返し、カノエはバランスを崩した。その隙を突いてカノエの腹部に蹴りを放ち、ズドンッと重く鈍い痛みがカノエを襲った。

「かはっ!」

思わず地面に手を突いてその場に伏す形となったカノエに対してドラホスラフは、腰元にある火打ち石のようなもので導線に火を点けるとヒョイッと投げてその場から距離を取った。

ドォォォン!!

大きな轟音と共に爆発が起こり砂埃が大きく舞って視界が一気に悪くなる。
ドラホスラフは「ふふん」と軽く鼻で笑った。

「いきなり現れて一億ベリーの懸賞金をかけられた男がどれ程のものかと期待をしたのだが、これ程度とはな」

腰元のポシェットから賞金首リストの束を取り出して『天剣の人斬りタチバナジン』の賞金首リストをじっと見つめた。
ドラホスラフは戦うことが好きな賞金稼ぎで、相手が強ければ強い程に燃える男だった。
天剣の人斬りタチバナジンの存在を知った時、是非も無いと標的リストに加えた。写真こそ無かったが、ワノ国の衣服を纏い上等な刀を持つ男であるという情報だけを頼りにずっと探し求めていた。
そして、とうとうこの日、明るい時分にそれらしき姿を見つけた。その時はこれ以上感じたことの無い程に期待感に心が躍ったものだ。
しかし、いざ蓋を開けてみればどうだ。戦う意思は無く反撃する素振りすらも無い。とんだ腑抜けだ――といったところで、ドラホスラフは残念だとばかりに溜息を吐いた。

「まァ良い。こんなことはよくあることだ。それに……、白ひげ海賊団の連中も相当の手練れ揃い。それなりに楽しませてもらえるだろう。流石に白ひげの首は狙えんが、隊長クラスならば何とかなろう」

ドラホスラフは賞金首リストをパラパラと捲ってニヤリと笑みを浮かべた。

「成程、流石は白ひげ海賊団。化物クラスばかりだな」

ドラホスラフは戦いも好きだが金も好きな男だ。相手が強ければ強い程、更にその対象が高額賞金首だとするならばより一層燃え上がる性質だ。

ドラホスラフは楽し気に笑いながら賞金首リストを捲るとピタリと手を止め、まるで獲物を見つけたような目付きへと変えた。

「これはまた素晴らしく高額だ。流石と言ったところか。倒せれば当分は遊んで暮らせるな」

流石に四皇の男を相手にすることは己の力量としても無理があると理解しているようで、白ひげの首は諦めたのだが――。

「1番隊隊長の不死鳥マルコ。13億7400万ベリーか。この男、酒場にいたな」

真面に戦えば勝ち目は無いだろうが、暗殺を得意とするドラホスラフにとっては十億超えだろうと殺せる自信があった。過去に何度か経験があったからだ。
顎鬚を撫でながら「ふむ」と一つ頷くとガサガサとリストを折り畳んでポシェットに仕舞い込んだ。そして、マントを翻してその場から立ち去ろうとした。

ヒュンッ――!

「!?」

風を切るような音がドラホスラフの耳を突いてハッとした。振り向いた時、突如として何かが視界を奪った。

ズガンッ――!

「ぐあっ!」

激しい痛みが襲い、身体は吹き飛ばされ、激しく地面を転がって、果てにあった岸壁に全身を打ち付けた。
一瞬、何がどうなって吹き飛ばされたのかわからなかったドラホスラフは、ギリッと歯を食い縛って地面に這い蹲った身体を起こした。
風で舞い上がった砂埃が払われて視界が良好になると、そこに立っていたのは紛れも無く天剣の人斬りだ。

「く、おのれ、天…剣…!」

ドラホスラフはキッと睨み付けた――が、直ぐにその目を見開くこととなる。
手にしていた刀を腰元に差し戻し、剣の柄を握って鞘から刀を引き抜く――たったそれだけの動作で周囲の空気が一瞬にしてピンッと張り詰めた。

「ッ……!?」

な、なんだこの、い、異様な空気はッ……!?とドラホスラフはゴクリと息を飲んだ。恐怖が一挙に心を支配し始めたことに大きく戸惑い、背筋が凍り付くのを覚える。

「ここから先に行かすことはできぬ」
「な、何だと……?」

ドラホスラフは立ち上がって武器を構えた。だが僅かに足が震える。

くそっ!

ギリッと奥歯を噛み締めて何とか平静を保とうと努める。

「ど、どうするというのだ?」

ドラホスラフが問うとカノエは引き抜いた刀をユラリと動かして切っ先を天へと向け、冷酷な眼差しをドラホスラフに向ける。

「ここで私が……、お前を殺す」
「!」

掲げられた刀は月明りに照らされてキラリと輝きを放つ。
刀が描く弧の光がとても眩い輝きを放っているような錯覚に囚われ――美しい――と、一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、ドラホスラフは刀に目を奪われた。
しかし、目の前に立つカノエ――タチバナジンから放たれる天剣の名に相応しい程の威圧感に気圧されて後ずさった。

ハッ……、な、なんという殺気! なんという血の臭い! なんという圧倒的存在感!

己の心が恐怖に染まっても、それを喜びへと変えて気持ちを奮い立たせる。まさにこれこそ天剣の人斬りに相応しい男で、自分が倒すべき男なのだ――と。

「クククッ、面白い。天剣よ、私は暗殺が得意分野だ」
「……」
「今日はほんの小手調べだ。お前がどれ程の人物か見極める為のな」

ドラホスラフは手にした武器を引っ込めると衣服についた砂埃をパンパンと払い、乱れた襟元を正しく整えてコホンと一つ咳払いをした。そして、ニヤリと笑みを浮かべる。

「今日はここまでだ。だが今、この時より私はお前の命を突け狙う。いつどこでどのようにして襲い来るか……、常に気を張り詰めることだ」

ドラホスラフは胸元から取り出した白丸球を地面へと投げ付けた。ボフンッと爆発を起こして煙幕が巻き起こりカノエの視界を奪う。それを隠れ蓑に逃走を試みてその場から姿を眩ました。

「私だけを標的にするのなら、それで良い」

立ち去ったドラホスラフに向けてなのか、カノエは小さくそうポツリと言葉を零すと刀を鞘へと納めた。
久しぶりに抜刀して本気で殺気を放った。
あれだけ躊躇いがあって抜けなかった刀をあっさり抜刀した。殺気を放つことに恐怖心があったのにも関わらずあっさりと殺気を相手にぶつけた。

ドラホスラフがジョズやビスタ等、家族の名を挙げていく中で自ずと敵意を剥き出しにしていった。

私を狙ったのだ! 私だけを狙え!!

ドラホスラフの意識を自分に向かせる為に、今一度天剣の人斬りに立ち返って攻撃を繰り出す必要があるのだと自分に強く言い聞かせた。
しかし、それでも手が震えて身体が思うように動かなかった。なのに――

〜〜〜〜〜

「1番隊隊長の不死鳥マルコ。13億7400万ベリーか。この男、酒場にいたな」

〜〜〜〜〜

ドラホスラフが標的をマルコに絞って狙いを定めたとした瞬間、カノエは既に攻撃を繰り出していた。
吹き飛ばされて地面に這い蹲ったドラホスラフが立ち上がる姿に、カノエは迷わず抜刀して切っ先を天に向けて構えた。
この時、ドラホスラフを本気で殺す気だった。
ツゥ……――と、頬に熱いものが伝い落ちるのを感じた。自らの手でそれに触れると、濡れた感触に目を丸くして指先に視線を落とした。

「何を…泣くというのだ……」

恩を仇で返すことは決してしない。自分にできることは刀を振るい守ることだけだ。生真面目で堅物で面白味の無い自分ができることは、たったそれだけしかないのだ。
幕末期――幕府方の要人の殺害は勿論のこと、維新方の要人を守ることも常としていたのだ。

何も問題は無い。
誰一人として死なせない。
牙を剥く者は容赦無く斬る。

白ひげ海賊団の”家族”と共に時を過ごすうちに、カノエは自ずとそう決意していた。

己の剣技は全て家族の為に使おう。
己の命も剣も全ては――
自分を拾い、救い、家族としてくれた彼らの為に。
その為なら何でもできる。
その為なら命も剣も捧げる覚悟がある。
そして――
その為なら人斬りになることさえも厭わない。

こんな考えを白ひげ海賊団の者達が知ろうものならきっと怒るだろう。だからカノエは決して口にはしないし、そういう素振りも一切見せずにやって来た。そして今日、その片鱗がここで顔を出した。

「しかし……、私もバカで単純だな」

カノエは笑って涙を拭った。他の誰よりもその名を聞いた途端に人が変わって行動に移すのだから、自分でも単純さに呆気に取られて笑ってしまう。

それはやはり――好きだから――なのだろう。

女として見て欲しいと思う心が無いと言えば嘘になる。
しかし、これまで女として生きたことの無い自分が今更それを求めようなんて思わない。自分ができることを尽くすことが全てで、それが最大の恩返しだ。

「酔いは冷めた。もう戻ろう」

着物に付着した砂埃をパンパンと払いながら歩き出したが、思っていたよりも着物が砂に塗れて汚れている。
船に戻ったら誰にも気付かれないように部屋に戻り、早々にシャワーを浴びてこの砂を落とさなければ――。
長い髪を触ってみるとザラッとした感触に思わず顔を顰めたカノエは、短髪だった頃の手軽さを思い出して溜息を吐いた。


〆栞
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