第六幕


酒場に向かう娼婦達の中に、豊満な胸元を見せつけるような衣服を身に纏う一際妖艶な美娼婦がいた。

今夜は来てくれるかしら……。

酒場に入ると目的の場所に足を進めた。しかし、目当ての人物がいないことに残念とばかりに溜息を吐いた。
仕方が無しに空いた席に腰を下ろした彼女は、テーブルにあったボトルを手に取ると、隣に座るワノ国の出身と思われる人物に声を掛けた。

「お酒をどうぞ」
「あ、か、カタジケナイ」

あまりこういう場所に馴染みが無いのか、妙に堅い返事をするワノ国の男に、彼女は目を細めて小さく笑った。そうして堅物な男に胸を押し当てるように密着して酒を進める。
男は驚いて顔を赤くした。咄嗟に視線を下に落としたが、その先に見えたのは娼婦の豊満な胸の谷間。ギョッとして視線を明後日の方角に向けると男はピシッと固まってしまう。隣に座る娼婦と同じような出で立ちで、男達を妖艶に誘う女達が幾人もいて、ほとほと目のやり場に困ってしまった男は、胸の内で反省の言葉を絶叫した。

は、破廉恥だ! 兄様が戻れと言われた理由がわかった! よく考えれば私はこのような酒場で飲んだことなど一度も無かったではないか! い、今更気付くなんて、気が緩んでる証拠だ! しゅ、修行が足りぬ! そ、そうだ、修行せねば! 明日から初心に戻り己を律する修行をせねばァァ〜!

極限に追い込まれた男もといカノエは、もう何も見ない。私は空気だ。――と、今は無に徹することに決めた。
そんなカノエを離れた席で酒を飲んでいたイゾウがなんて顔してんだと微笑しながら観察を楽しんでいる。

あァ、あれは完全に現実をシャットアウトしたな。おっと、どうやら漸くお出ましってところか。

酒場のドアが開けられる音にチラリと視線を向ければ見知った顔で、あれは相当焦って走って来たなとイゾウは酒を呷った。そして、これで役者は揃ったとくつくつと笑う。
さて、どう弁解する?
カノエには少し気の毒かもしれないが二人には良い薬になる。
煙管を口に深く紫煙を吐いたイゾウは実に楽しそうだ。そこから対角線上に座っていたサッチがイゾウの嬉々とした表情に苦笑を零した。

実に腹黒いったらねェな。ま、気持ちはわかるけど。それにしても……カノエちゃんって本当に女が苦手なんだな……同性なのに……。

酒の席に娼婦を加えるのが嫌いなラクヨウが早々に席を立って他所に行ったが為に空席となったそこに腰を下ろした娼婦に酒を注いで貰っているカノエは、どこかに魂を落としたかのように生気が無く、まるで石仏のような凝り固まった顔をしている。
カノエの隣に座る彼女こそ、マルコと一線を越えたことがあるジェナという名の娼婦なのだが、そんなことを知る由も無いカノエは、引き攣った笑みを浮かべて御礼を言うとガチガチな動きで酒を口にした。

何で女がそんなに苦手なんだ?と疑問を抱きつつなんだかあまりにも哀れに思えたサッチは、少しだけ手助けした方が良いかと考えたが、離れた席にいるイゾウが余計なことはするなと言うかのように首を振っていた。それに気付いたサッチは静かにうーんと唸って視線を戻した。
その時、息を切らして近付いて来た男に気付いたサッチは思わず「あー…」と声を漏らした。イゾウが首を振ったのはマルコに気付いていたからだと理解した。

さァ、修羅場だ――。

果たしてどうなる?とサッチは手に持っているジョッキを傾けて酒を呷る。未だに石化しているカノエにチラッと視線を向けてマルコに目を向けると、何でよりによって隣に座ってんだ!?と言いたげに顔を顰めていた。

「あ!」

マルコの存在に気付いた娼婦ジェナが声を上げた。それに石化していたカノエが釣られるように反応して顔を上げるとマルコがいることに気付いて「ヒッ!?」と声を漏らした。

嬉しそうな表情を浮かべるジェナ。絶望的な畏怖を浮かべるカノエ。これ正に『天国と地獄』――。

「ぶはっ!」

全く対照的な二人の反応に、笑いが込み上がったサッチは堪らず酒を噴き出した。それは離れた席で傍観していたイゾウも同じで、笑いを誤魔化すように零した酒を布巾で拭っていた。
そんな邪な思いで展開を見守る二人の存在など露とも知らず、最初に動いたのは娼婦のジェナだ。嬉しそうに立ち上がってマルコの元に駆け寄る。そんなジェナにカノエは目を丸くした。

あの顔は……。

頬を赤らめて嬉しそうに微笑むジェナの表情は、どこから見てもマルコに恋する女そのもの。とても艶のある美人顔に花を咲かせる様は、同性である自分が見てもとても可愛らしいものだと素直に思える。
石化の呪縛はどこへやら、ふっと微笑を零したカノエは静かに席を立った。

「すまないエース。少し酔ったようなので私はこれで失礼する」
「ん? 大して飲んでねェように見えるけど」
「この酒は美味いのだが、私の身体にはどうも相性が悪いみたいだ。私は先に船に戻る故、エースは気にせずゆっくりすると良い」
「そっか、わかった。気を遣わせちまって悪ィな」

エースがコクリと頷くとカノエはマルコに顔を向けた。マルコは少しキョトンとした表情を浮かべて瞬きを繰り返した。
酒場に入って最初に見たカノエは追い詰められた顔をして固まっていたはずだが、どうして急に平静さを取り戻したのか、いつもと同じカノエがそこにいた。

「言付けを破ってしまって申し訳無い。直ぐに船に戻ります故お許しを」
「あ、あァ……」
「もう仕事は終わられたようで安心しました。今宵はどうぞゆるりとお楽しみください」

ニコリと笑うカノエにマルコはピクリと眉を少し顰めた。

「いや、おれは――」

飲みに来たわけじゃない、とマルコが言い掛けた時、ジェナが自らの手をマルコの腕に絡めてそれを遮った。

「マルコ、飲みましょう?」
「ッ、ジェナ!」

違う、そういうつもりじゃ無い――と、マルコが咄嗟に腕を払おうとすると、カノエがマルコの背中をトントンと軽く叩いてジェナに声を掛けた。

「ジェナ殿、マルコ殿は仕事ばかりでストレスが溜まっておられる故、私からもお相手をお願い致す」
「んなっ!?」

思わず面食らって固まるマルコを他所にカノエはニコリと笑ってペコリと頭を下げた。

((そう来たか!))

妹から兄をどうぞ宜しくお願いしますとは全く想定外だ。イゾウとサッチの予想に反して……だけでは無い。事情を知らないエースを除いた隊長達でさえも流石に唖然とした。

「ふふ、えェ、わかったわ。本当はあなたも素敵だったのだけど」
「ハハ、そのお言葉だけでも十分有難いものです。それでは私はこれにて御免」

固まる男どもを他所に、カノエとジェナは穏やかに言葉を交わし、カノエは颯爽と酒場を出て行った。
マルコが呆然としたままカノエの背中を見送っていると、ジェナに腕を引かれるままに空席となった場所へと座らされたのだった。





酒場を出たカノエは、出入り口付近で様子を窺っていたらしい人物を見るなりげんなりした表情を浮かべた。

「それはこっちがする顔だぞ」

シルクハットを目深にしてビスタが溜息を吐いた。

「全く……、不器用にも程がある」
「何のことを仰っているのか、存じかねる」

軽く肩を竦めたカノエはビスタの前を通り過ぎて行った。やれやれと鼻から息を吐いたビスタは、酒場にでは無くカノエの後をついて歩いた。

「酒場に来られたのでは?」
「このままお前を放ってはおけん」
「おかしなことを……。私は子供では無い。一人で船に戻れる故ご心配には及ばぬ」
「その”口調が”余計に心配させるのだカノエ」

ビスタの言葉にカノエはピタリと足を止めた。

いつものように平静で普段通りの雰囲気。そして、穏やかな顔――だが、口調が硬い。
それが意味することはカノエを部下として預かったビスタだからこそ容易に察するものがあった。

「本当は辛いのではないのか?」

ビスタが声を掛けるとカノエは振り返ることはせずに遠方の空を見上げた。

「男故に致し方の無い事だと心得ております。私がいた世界でも同じようなものでしたから」
「……!」

カノエは静かに答えた。それが何を意味していることか理解したビスタは軽く瞠目して口を噤む。

まさか、あの少しの間でマルコとジェナが男と女の一線を越えた関係にあったことを見抜いたというのか……。

これも天剣の人斬りと呼ばれた者の術によるものか。しかし、イゾウ曰く『そういう分野に関しては初心だろう』と言っていたはずなのだが――と、ビスタは僅かに首を捻った。

「ただ……」
「ただ、何だ?」
「あまり好ましくは……、思っていないことも事実で――」

漸く後ろにいるビスタに振り向いたカノエは、ガシガシと頭を掻いた。そして、頬を少し赤くして困ったような表情を浮かべながら言った。
私も幾度か”そういう方向に持って行かれて襲われかけた経験があります”から――と。

「ほう……、そうか……」

それは大変な経験だと髭を弄りながら同情を寄せて頷いたビスタだったが、直ぐにハッとして驚きの顔を浮かべた。

「は!? ま、待て。そ、それはどういうことだ? ま、まさか……!」
「ハハ、この手の話は誰にもしていませんが、タチバナジンは維新志士達の中でも特に人気が高かった故で」
「お、女に迫られたことがあるのか!?」
「えェ、まあ…。ですから、そ、その、」
「ま、まさか、それで女が苦手になったということか?」
「うっ……! はい……、その……、まさか……です」

コクリと頷いて顔を俯かせるカノエに対してビスタは口をぱっかり開けて愕然とした。
確かに男として見ればカノエはかなりの麗人だ。その上に生真面目で真っ直ぐな性分をしているのだから女にモテなくは無いと言えるだろう。しかし、だからと言って同性に実際に襲われたことがあるなんて思いもしなかった。
女同士の組んず解れつな図を想像してしまったビスタは、それで良いのかカノエ!?と少し危ないピンクな世界に思考が陥りそうになった頭をブンブンと左右に振って削除した。

「お前の世界の女とは末恐ろしいのだな」
「か、勘違いしないで頂きたい。それは遊女だけですから」
「ユウジョ?」
「こちらで言う娼婦のようなものです」
「あァ、成程……」

納得したように頷くビスタにカノエは笑った。何も感じていないような屈託の無い笑みに、ビスタは目を丸くした。

「本当に……、これで良かったのか?」
「何がです?」
「マルコだ」

ピクンと僅かに反応したカノエは、ゆっくりと顔を逸らして明後日の方へと目を向けた。それにビスタはグッと眉間を寄せて察した。

やはり、お前は……。

過去にあった経験や知識と照らし合わせて平気なのだと己に言い聞かせているのだろう。だがその経験はあくまでも男であるジンのものであって、女であるカノエのものでは無い。心の奥底に秘めた女としての心は決して平気であるわけがないのだ。

「マルコ殿はここのところ仕事ばかりでしたから、気晴らしには丁度良い機会ではないですか」
「お前は……本気で言っているのか?」
「どうしてそのようなことを聞かれるのか……、甚だ理解し兼ねます」
「だが本当は――」
「ビスタ殿!!」
「――ッ!」

ビスタの声を遮る様にカノエは途端に声を強くした。勢いに負けて口を閉ざしたビスタに対してカノエは背中を向けると続けた。

「少し酔いが酷い故、私は暫く夜風に当たってから船に戻ります。”あなたは” 酒場に行って頂いて結構です。ではこれにて」
「!」

カノエは船のある方角とは違う方へ走り去っていった。後を追うにしてもカノエの足は速い。仮に追い付いたとしても何を言っても無駄だ。決して目線を合わせずに、まるで逃げるかのよう去ったのだから――。

「はァ……。これ以上はどうにもできんぞマルコ」

カノエにとって最も心を置ける場所はマルコだ。
何も感じていないわけがない。
カノエの心を救い上げることができるのも支えてやれるのも、やはりマルコ以外にはいないのだ。

「おれがしてやれることはこれだけだカノエ」

カノエが走り去った道を見つめながら苦悶の表情を浮かべるビスタは踵を返して颯爽と酒場へと向かった。


〆栞
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