第四幕


春島ランディス――。
中都市を要した港を中心に活気のある島に近付くに連れて気候が安定し始めた頃、甲板に姿を現したカノエは部下に指示を出しているビスタの元へと向かった。

「ビスタどっ、ビスタど隊長殿……」

何度も呼び直すカノエにビスタは咄嗟に顔を背けて口元を押さえた。

「む、無理するな…クッ…!」

ど隊長殿ってなんだ?と、肩を揺らして僅かに噴き出し声を漏らすビスタ。それでも、笑うな。決して笑うな。紳士の名折れだぞ。と謎のプライドにかけて何とか気を落ち着かせると、漸くカノエに顔を向けた。
しかし、ビスタの頬が引き攣りを起こして表情を歪ませていることから笑うのを必死に堪えていることは明白で、カノエはカァッと赤らめた頬を膨らませてプイッとそっぽを向いた。

「無理せずに大いに笑っては如何か……」
「ぶはっ!!」

頭の中で『ど隊長殿』のフレーズが何度も繰り返したせいで妙なツボにハマってしまったビスタは、カノエの呟きが起爆剤となって盛大に噴き出し大いに笑った。

「ぐぬっ……!」

そこまで笑うか!?
紳士とは武士に近しいものがあると思っていたが勘違いだったのかと、カノエの胸中は波風が立つ程の嵐を巻き起こして大いに荒れた。
それを察したビスタはお腹を抱えながら笑うのを必死に抑えようと努める。――が、やはり涙が浮かぶし頬は引き攣ったまま。無理やり声を押し殺そうとして咳き込んだ。

「次の島に到着次第5番隊は見張り番だということで宜しいか!?」

クアッと怒りの形相を浮かべてカノエは叫んだ。それに身体がビクッと強張り軽く弾んだビスタは「お、おお、そ、そうだとも!」と慌てて答えた。

「承知! では失敬!!」

ぷんすかと怒りながらも丁寧にペコリと頭を下げる辺りは流石だな。と、ビスタはその場を離れて行くカノエを見送った。
カノエは怒らせたら遠慮が無い。マルコが風邪を引いた時のアレが良い例だ。ほんの一瞬だけ本気の殺気を当てられたビスタは視線を船首に向けた。ランディス島の偵察から戻って来たマルコが1番隊の隊員と話をしている姿を見とめるとポツリと零す。

「あれは一生忘れん」

大きく胸を撫で下ろして安堵の溜息を吐くビスタの顔色が少々青く見えるのは、きっと気のせいでは無いだろう。

そうこうしている内にモビー・ディック号は春島ランディス付近に到着し、港から少し外れた奥まった場所に停泊した。
この島には常駐する海軍は無く、他の海賊船が寄港している様子も無い。のんびり過ごせそうだと誰もがウキウキ気分で、課せられた仕事を今日中に終わらせるぞと忙しく動いた。
彼らの目当てはどうせ酒場だろう。
腰に差していた愛刀を引き抜き甲板の隅で欄干に背中を預けて腰を下ろしたカノエは、忙しなく働く船員達を何をするでも無くぼ〜っと見つめて少しだけ溜息を吐くと同時に空を見上げた。すると、フッと人影に覆われて視線を寄越した。
欄干の上に立って腰を屈めながらカノエの顔を覗き込むのはエースだ。

「暇そうだな」
「エース、顔が近い」

カノエの指摘にテンガロンハットを押さえながらエースはニシシと軽く笑うと、「よっと!」と声にしながら欄干から飛び降りてカノエの隣に腰を下ろすと話し掛けた。
島に着いたらどうするのか、飯はどうするのか、酒場に行くのか、等々。
どうしてか他の誰よりもエースに懐かれたカノエは、どう返事をしたものかと苦笑を浮かべながら小さく溜息を吐いた。(因みにこの『懐く』という表現をするのは、カノエ個人の見解によるものである)

エースがこの船の一員となって早一月。第一印象はまるで――と、カノエはエースを初めて見た時の記憶を呼び起こした。

〜〜〜〜〜

最初の頃は仲間になることを頑なに拒み、敵意を剥き出しにしていた。常に白ひげの命を狙い、襲い掛かっては返り討ちに遭ってボロボロになった。それでも『諦める』という言葉を知らないかのように何度も挑み続けた。
誰が声を掛けようとも決して靡かない。まるで猛獣のように狂暴で、誰の言葉も受け入れない。そんなエースがカノエを初めて見た時、不思議と声を掛けたい気持ちになって「お前……」と言葉を発した。

「ん?」

反応したカノエは目をパチクリさせてエースの元に歩み寄った。

「お前もこの船の奴か?」
「あァ、まァ、一応そうではあるが……」
「他の連中と比べて強そうに見えねェ」
「ハハ、そう見てもらえるのは逆に嬉しく思う」
「弱そうだって言ってンのになんで喜ぶんだよ」

エースの問いに苦笑を浮かべて答えたカノエに、周囲にいた隊員達や偶々そこに居合わせたサッチとハルタが楽し気に笑う。
自分達の仲間が貶されてるのにどうして笑うのかと眉を顰めるエースに、欄干に腰を掛けたサッチが言う。

「そう思うなら攻撃してみろってんだ。きっとあっさり返り討ちに遭うと思うぜ?」

そうそう、と頷くハルタは続いて言った。
試したことないからわかんないけど、カノエはこの船で一番強いかも――と。

「おいおい、それはちと言い過ぎだってんだよ」
「事実でしょ?」

サッチとハルタの言葉を聞いたエースは目を丸くしてカノエに視線を向けた。軽く頬を掻いて困ったように微笑を零したカノエは小さく首を振った。

「あれは冗談故、真に受けないで頂きたい」

エースの頭にポンッと手を置いて軽くくしゃくしゃと撫でると、失礼する。と言葉を残してカノエは去って行った。
エースは抵抗するどころか呆然としてカノエを見送る。その一方、抵抗一つしなかったエースと、猛獣に等しいエースに臆することなく普通に接したカノエに、周りにいた隊員達は驚いていた。

それから幾日か過ぎて、ある日の夕刻時――。

「なァ……、何でオヤジって呼ぶんだ?」

食事を持って来てくれたマルコに、エースは疑問を口にした。
立ち去ろうとした足を止めて振り向いたマルコは、クツリと笑うと踵を返してエースの前に腰を屈めた。そして、目線を合わせて理由を語った。
マルコの話が終わる頃、「マルコ殿」と声を掛ける人物がいて、マルコと同じくしてエースは目を向けた。

「!」

声の主はカノエだ。

「何だい?」
「オヤジ殿がお呼びです」
「あァ、わかった。直ぐ行くよい。そういうことだエース」
「!」

ぽんっとエースの頭に手を置いてくしゃくしゃと撫でたマルコは、微笑を浮かべて立ち上がると足早に去って行った。
不意を突かれたエースは唖然としてマルコの背中を見送ったのだが、その様子を傍で見ていたカノエがクスクスと笑っていることに気付いた。
一転して不快な表情を浮かべたエースがカノエを睨み付けると、「いや、すまぬ」とカノエは小さく首を振った。

「わかっているのだなと思ってつい笑ってしまった」
「どういう意味だ?」
「逆らえる者と逆らえない者がいるということをだ」
「ん……?」
「いや、わからないのなら良い。私が傍で見てそう思っただけのこと故……」

首を傾げるエースにカノエは気にするなとばかりに首を振った。
初めて接した時もそうだったが、壁も無く普通に話せる空気感が何とも不思議に思えたエースは、徐に口を開いた。

「なァ……」
「何か?」
「お前ェ、どうしておれと平気で話せるんだ?」
「どうして……とは?」
「おれは鬼の子だ。知ってんだろ?」
「鬼の子……? んー、そのようには見えないが」
「おれは、」
「私からすれば君はどちらかと言うと……犬?」
「――は!?」
「うん、君は犬だ。鬼の子とは程遠い。君を見ていると不思議とこうしてみたくなる」

カノエはエースの前に腰を屈めると真剣な面持ちで手を差し出して言った。

「お手」
「……」

流石にエースはポカンとした。

「まァ、冗談だ」
「じゃねェだろ。今のは結構本気だったじゃねェか」

エースがムッとしてカノエを睨むのは当然の反応だろう。頬をポリポリと掻いてカノエは苦笑した。

「ハハ、すまぬ。しかし、鬼の子など怖くは無い。私はな」
「!」
「この船には鬼の子一人居たぐらいでどうってことは無い。それ以上に厄介な人間が既に居る故」
「厄介な人間?」
「人斬りと言えば分かり易いか」
「ひと…きり……?」
「多くの者達を斬り殺してきた殺人者だ」

エースは眉を顰めた。

「海賊ならそんな奴はざらにいるだろ?」

エースの言葉にカノエは「そうだな……」と微笑を零した。

「真っ当に……、志を胸に気高く生きた者達を相手とするなら話は変わる」
「!」
「まァ、”この世界で”は人斬りも海賊も然して変わらないな」

ほんの一瞬だけ見せた憂いを帯びた顔にエースは言葉に詰まった。自分とは違った別の重い何かを背負っている。と、そう直感した。
カノエは軽くハハッと笑った。

「鬼の子と言うが、あくまでも鬼は父親が、であって、エースが、というわけでは無いだろう?」
「!」
「気に病むことは無い。親がどうであろうとエースはエースだ。それ以外の何者でも無い。周りがどうこう言おうが関係無い。もし、その声が気になるというのなら、それに最も囚われているのはエース自身であろうな」
「ッ……!」
「仲間を守る為に自ら身体を張った行為は称賛に値する。その行為は、意志は、エースの父の名がしたことでは無く、エースの持つ志がそうさせたんだ」

エースの頭に手を置いてポンポンと軽く弾ませたカノエは、立派だった。よくやったよ。と言って優しく撫でた。

「……」

そんな風に、おれに言ってくれた奴は……初めてだ。

ただ黙ってカノエの言葉を受けたエースは、その言葉に含まれた優しさを噛み締めた。
そして――
エースは白ひげ海賊団の一員となることを決意し、家族として快く迎えられた。

〜〜〜〜〜

チラリとエースを窺ったカノエの脳裏には、頭に犬の耳、尻には尻尾が生えて、これでもかと大きく左右に振られている様子が浮かび上がる。

やはり犬だ。

カノエの視線に疑問を持ったエースは少しだけ眉を顰めて首を傾げた。

「なんかあるのか?」
「え? あ、いや、別に」
「で、」
「で?」
「一緒に飯を食いに行こうぜって話、……聞いてなかったな?」
「あ、あァ、すまん」
「……どっちだ?」
「え?」
「その『すまん』ってェのは、話を聞いてなかったことに対してなのか、それとも断る意味での」
「聞いてなかった!」
「――そっちか」

しどろもどろになるカノエがエースに押され気味になっている頃、隊員達に指示を出し終えたマルコは、甲板の角でカノエとエースが座って話している姿を捉えてピタッと足を止めた。
カノエは少し困り気味の表情で、エースはカノエに寄り掛かるぐらいに身を寄せて、傍から見ると仲睦まじい恋仲のような光景に見えなくもない。

「カノエの例え通りに、あれは犬だな」
「……」

立ち止まっているマルコに髭を弄りながらビスタはクツリと笑って声を掛け、チラリとマルコの横顔を見やった。
明らかに面白く無いといった表情で実にわかりやすい。

「気になるか?」
「……何を言ってンのかわからねェが、それより不寝番はビスタの隊だろい?」
「あァ、そうだ。まァカノエのことはそう心配するな」
「おれが心配してンのは留守の間の船のことだよい!」

眉間に皺を寄せて吐き捨てるように言ったマルコは、踵を返して船内へと入って行った。
どうやら島には降りる気は無いようで、恐らく書類仕事に追われているのだろうとビスタは思った。

「我慢せずとも良いだろうに……、まったく」

カノエが5番隊に配属されて以来、仕事や何かの前に必ずマルコが声を掛けてくるようになった。わざわざ別の隊に配属したというのに――だ。
本人曰く、兄として過保護になっているだけだと言っていたが、ここ最近は兄としてというよりも一介の男としてカノエを気に掛けているように思えてならない。それがまた全くの無自覚なのだからほとほと呆れるな――と、ビスタは静かに溜息を吐いて視線をカノエとエースに戻した。

「今日が駄目なら明日はどうだ?」
「あ、あァ、仕事が無ければ」
「よし、じゃあ約束だ」
「りょ、了解致した」

約束を取り付けたエースは、立ち上がると颯爽と船から飛び降りて町へと繰り出して行った。それを見送ったカノエは溜息を吐きながら立ち上がるとビスタの存在に気付いて苦笑を浮かべた。

「あの犬はお前にぞっこんだな」
「ハハ……。私が女とも知らずに困ったものです」
「む……? 今、何と言った?」
「エースは私が女だということを知らないのです」
「なッ!?」

カノエの言葉にビスタは目を丸くした。

「エースは私を男として認識しているようです。カノエの名はこちらでは珍しい名前故か、女とは思ってもいないのでしょう」
「良いのかそれで……」
「はァ、まァ、聞かれぬ故、別に良いかと」
「……」

頬をポリポリと掻いて答えるカノエに眉を顰めたビスタは視線を外して明後日を見つめた。

マルコ、お前の気苦労は全く意味が無いぞ。良かったではないか! あァ……、んん……、果たして良かった…のだろうか……?

カノエが女であることは何れエースも知ることになるだろう。――と言うよりもだ。誰も教えてやらんのか?と、ビスタは遠い目をして空を見上げた。

あァ、雲が白い。

この時、何故だかわからないが、ビスタは不思議と詩人になりたい気持ちになったとか何とか。


〆栞
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