第三幕


『妹』と『兄』という言葉――。
いつからかマルコはそれを頻繁に口にするようになった。
決して嫌というわけでは無い。
他の隊長達や隊員達も「兄貴だからな」と口にするそれは、妹として大事に思ってもらえている証であって、家族として迎え入れられているからこその言葉だ。
心の底から嬉しく思うし、とても有難いと思っている。
しかし、やはりマルコからそれを口にされると気落ちして辛く苦しいと感じてしまう。
その度に、他の兄弟達とは一線を画してマルコという存在は『特別な人』であるということを自覚させられる。
気持ちに比例するかのように足は重たくて、甲板に降り立った時に「はァァ……」と、カノエの口から自然と溜息が零れた。

船内に入って自室に戻ると、着替えを手にして再び廊下に出たところでイゾウと出くわした。その途端にカノエは眉尻を下げた笑みを零し、それを見たイゾウは溜息を吐いて小さく首を振った。

「ったく、そんな情けねェ面するぐらいなら好きだと言えば良いだろうに」
「い、言えるわけない……」
「今の関係が壊れるのが怖いから言えない。大方そのような所か」
「ッ……」

図星を突かれて言葉に詰まったカノエは、更に泣きそうな情けない表情を浮かべて俯いた。
手にしていた煙管を咥えたイゾウは、視線を明後日の方へと向けて呆れにも似た溜息を吐いた。カノエの気持ちに気付いていないわけじゃないだろうに何を拘っているのか。と、不器用でお堅い気質の男に向けて軽く悪態を吐く。

「いらねェってんなら、おれが貰うんだが……」

ポツリと呟いたイゾウが苦々しげに軽く煙管を噛むとカリッと音が鳴った。
それにパッと顔を上げたカノエだが、首を傾げただけで反応も薄いことからイゾウの呟きを上手く聞き取れていなかったようだ。
しかし、だからといって改めてそれを口にするわけでも無く、イゾウは軽く喉を鳴らして笑った。

「今の関係が大事だと思ってんなら、あいつから妹って呼ばれてもいちいち凹むんじゃねェ。気にするだけ無駄だ」
「うっ……」
「我慢ができねェんなら想いをさっさと伝えるこった。おれが言ってやれるのはこれぐらいだ」
「そ、それは、はい……、すみません」

すっかり気落ちしたカノエの様子にイゾウは手を伸ばしてカノエの頭をクシャリと撫でた。そして、真面目な顔付きへと変える。

「カノエ、一度ぐらい本気になって落としに掛かってみろ」
「へ?」
「それぐらいの器量は十分あると思ってんだがな……」
「……はい?」

イゾウの言っていることがよくわからない。そんな顔を見せるカノエにクツリと笑ったイゾウは耳を貸せと手招きした。
カノエは怪訝な表情を浮かべて躊躇したもののイゾウの方へと素直に顔を近付けた。そうしてカノエの耳元でイゾウがコソッと耳打ちをする。

「は!?」
「そん時はおれに言いな。いくらでも協力してやるから」

顔を真っ赤にして口をパクパクするカノエを置いて、イゾウはカンラカンラと笑いながら去って行った。
思わず持っていた着替えをバサリと落としてしまったカノエは、ハッとして慌ててそれを拾い上げて胸に抱く。

〜〜〜〜〜

「洋装した格好で誘惑すりゃあマルコは簡単に落ちる」

〜〜〜〜〜

イゾウの言葉が脳内に響き渡ってカノエに激しく動揺を誘う。

「は、破廉恥な! わ、私は、に、二度と、洋装はしないと、こ、心に、ちちち誓った身だ!」

耳まで真っ赤に染めながら頭をブンブンと大きく振ったカノエは、ヨロヨロとした足取りで浴場へと向かった。そして、浴場の前に立つマルコの姿を見るなりドキンと心臓が跳ねると同時に身体が硬直して足を止めた。
カノエに気付いて顔を向けたマルコと視線がかち合うと、カノエは更に顔を真っ赤にして軽く狼狽した。

「どうした? 顔がやけに赤ェな」

立ち止まるカノエに近付いたマルコは、俄かに涙目を浮かべるカノエに目を丸くした。
身体が冷えて風邪を引いたのかとマルコはカノエの額に手を当てた。だが、その途端にカノエが慌てて口を開いた。

「あァ兄様あにさま、お待たせしてすみませぬ!!」

これ以上無い程に赤くした顔を隠すようにして、カノエは浴場へ逃げるように駆け込んだ。

「何だよい……?」

唖然として立ち尽くしたマルコだったが、カノエの反応からして何かを察し、またか……と溜息を吐いた。
このようなことはこれまでにも何度かあった。その度にチラホラと浮かぶのは隊長達の面々だ。
今回は誰に吹き込まれたんだ……と、マルコは腕を組みながら浴場のドアに背中を預けて天井を見上げた。

カノエを妹と呼んで自身を兄だと口にするようになったのは、あくまでも自分に対して自制を促す為だ。
ただ、それを口にする度にカノエの表情が曇ることに気付いたのはごく最近で、本人は自覚していないのだろうが、時には本当に泣きそうな表情さえ浮かべることもあった。
今日、今しがたもまた然り。

「はァ……」

意識せずして溜息を漏らしたマルコは頭を掻いて瞑目した。

それはそうと――
今日はよく我慢したなと自分で自分を褒めてやりたい気分だとマルコは思った。よく冷静に対応したと。
男装しているとはいえども髪が伸びた分だけ女の色気が以前より明白に見え隠れするようになった。
そこに来て先刻のあれだ。
びしょ濡れになった髪から滴り落ちる水滴が首筋を伝い胸元へと流れ落ちる。それを見た時、正直に言うと本当に危なかった。

口元を覆うと眉間に皺を寄せて再び大きく溜息を吐いた。そうして浴場のドアに背中を預けたままズルズルとその場に腰を下ろして軽く項垂れた。

「まるで拷問だ……」

いつだったか宴の席でイゾウと二人だけになった際にイゾウから言われた言葉をふと思い出した。

〜〜〜〜〜

「素直に男としてカノエを見てやったらどうだ?」

〜〜〜〜〜

何でお前にそんなことを言われなきゃならねェんだと、あの時は酒を呷りながらイゾウから視線を外して黙秘した。
最初からそれができていれば今のこの苦境から脱することはできるだろう。しかし、今のカノエとの距離は妙に心地が良くて手放したくないというのが正直なところでもある。

カノエは色恋沙汰から遠かった女だ。
急に女として扱われたら酷く戸惑いうだろうし、羞恥に耐え切れずに却って距離を取られてしまう気がしてならない。
守ると約束したとういうのにそうなってしまっては傍にいて守ることもできなくなってしまう。
近過ぎず遠過ぎず程良い距離感は必要だと思った。だからこそカノエをビスタが率いる5番隊に配属させたのだ。

隊長達の誰もがカノエを1番隊に配属させるものだと思っていたようで、その決定には誰もが驚いていた。
イゾウの言葉が切っ掛けだったかはわからないが、考えた末にそれが”お互いの為に”一番良いだろうと思ってのことだった。

〜〜〜〜〜

「マルコ、本気か?」
「あァ、お前はカノエのことをよく理解しているし同じ剣士だから丁度良いと思ってよい」
「おれが言っているのはそうではない。カノエはマルコの隊に……、マルコの側に置いておくのが良いのではと言っているんだ」
「……何でだよい」
「おれを見縊るな。わからないとでも思ったか? カノエは誰よりもマルコに心を置いている。いざとなった時にカノエが助けを求めるのは他の誰でも無いお前だマルコ」
「もうそうでもねェだろい」
「はァ、まったく……。どこまでも不器用で堅い男だなお前は!」

〜〜〜〜〜

まさか後でビスタに諌められることになるとは思ってもいなかったが――。

最初こそぎこちがなかったが、カノエが白ひげ海賊団の一員となって早一年の時が過ぎた頃にはすっかり打ち解けて、誰とでも自然に話してよく笑うようになった。
拗ねたり、焦ったり、照れたり、楽しんだり――と、初めて会った時のことを思えば実に変わった。あれだけ凝り固まっていた心が解けて感情を素直にはっきりと表現できるようになったのだ。
そんなカノエに対してマルコは時折こう思うようになった。
もう自分でなくてもカノエを助けて支えてやれる奴は、この船の連中なら誰でもできるだろう――と。
久しく酒に酔った席でジョズにそんな本音をポロリと零したら怒りの形相で胸倉を掴まれて怒られたこともあったが、実際に普段の様子を見ていてそう思うのだから仕方が無いことだと開き直ったような記憶がある。

温厚なジョズに怒られる――そんな記憶がポッと蘇った瞬間にマルコは思わず苦笑を零して小さく笑った。

今のままで良い。今のままの距離感で十分だ。
隊長達や隊員達と同様に大勢いるカノエの兄貴達の内の一人として――。

ガチャ……――と、ドアが開く音が聞こえたことで思考の渦化から現実へと意識を戻したマルコは振り向いた。

「あ……、お待たせしました」
「しっかりと温もったかい?」
「はい……」

おずおずとしながら廊下に出たカノエは、「あの、ありがとうございました」と頭を下げて礼を言った。
礼はいらねェよいと言いながら立ち上がったマルコは、カノエの首元に掛けられていたタオルを取ってバサリとカノエの頭に被せた。

「わぷっ!!」
「ちゃんと拭かねェと本当に風邪引くよい」
「い、いや、髪が長いですから部屋で乾かそうと思って……」
「じゃあ部屋に行くか」
「え!?」
「拭いてやるよい」
「!」

マルコがそう言うとカノエは頬を赤らめてしどろもどろになりながらも「お、お願い、します……」と言って小さく頷き顔を俯かせた。

こういうやり取りはこれまでにも何度かあったことで、当然のようにマルコが「拭いてやる」と告げるとカノエは必ず素直に頷く。
それはカノエがマルコの手で拭いてもらうのが、否、触れられるのが好きだったから故だ。それが例え兄として妹を甘やかす行動なのだとしても――。

〜〜〜〜〜

「――好きだと言えば良いだろうに」

〜〜〜〜〜

先刻にイゾウから言われた言葉が脳裏を過る。それがカノエの胸にツキンと痛みを与えた。

無理だ。この関係が無くなるのは……嫌だ。

今の距離が、関係が、凄く心地が良い。しかし、本当の気持ちを言ってしまったら、これらの全てが無くなりそうで怖い。

苦しい。胸が痛い。
例えそう感じても堪えるしか無い。

傍にいてくれることが嬉しい。
傍にいれることが嬉しい。
この距離は――手放せない。

カノエは先を歩くマルコの背中を見つめながら何度もそう思った。

部屋に戻ればマルコがソファに腰を下ろし、カノエは当然の様にマルコの両足の間に腰を下ろして座った。そうしてマルコがカノエの髪を拭き始める。

時折ふわりと触れる指先が擽ったくて、温かくて、それが嬉しいと感じる。その度にトクンと心臓が跳ねるのだが、それがまた心地良く感じてしまう。

自然と顔を綻ばせるカノエにマルコも同じように和らいだ笑みを零す。
この心地の良い空間は二人にとっては貴重なもので大切にしたいと強く思う。

やはり手放したくない。
手放せない。

口にはしないがお互いにそう思うのだ。
とても静かな二人だけの時間を過ごしていると僅かだが遠くから賑やかな声が聞こえて来た。

「宴が始まってしまいましたね」
「あァ」
「すみません。付き合わせてしまって」
「良いよい。気にするな」

クツリと笑うマルコにカノエは小さく溜息を吐いた。

「妹の世話をするのが好きな人が多いせいで甘え癖がついてしまって困ります」
「ハハ、みんなカノエが可愛いんだよい」
「それは……」
「ん?」
「マルコさんも……?」
「……あァ、そうだよい」
「ッ……」

視界が潤んで涙が零れ落ちそうになる。被せられたタオルで顔が見えなくて良かったとカノエは思った。
髪を拭うマルコの手付きが少し変わった気がした。しかし、それが何を意味するかはわからない。ただ涙がこれ以上零れ落ちないように懸命に我慢することを努めるのみだ。

マルコは拭う手を緩めた。敬称が『殿』では無く『さん』付けに変わった時点でカノエの心情が何を訴えているのか、わからないわけでは無い。
しかし、兄として徹する以上は応えることはできない。――としているはずなのに、妹の世話をするのが好きな兄達の一人ということに、ほんの少しだけ不満を抱いた自分に内心で舌打ちをした。

「妹思いの兄様方は今頃その妹を置いて楽しんでおいででしょうね」

カノエは空元気を出してわざと明るく振る舞う。
そうでもしなければ、苦しくて痛む胸が張り裂けて奥底にしまい込んでいた気持ちが溢れ出てしまいそうで怖かったからだ。

「マルコ"殿"もついでに置き去りです」
「ハハ……、妹を置いて楽しむぐれェなんだ。おれのことなんて二の次だろうよい」

外から僅かに聞こえて来る賑やかな声に耳を傾けながら他愛の無い言葉を交わしていると雑多の中に混じる子供達の声が聞こえた。
カノエはハッとして「あ、そうでした」と急に立ち上がった。
キョトンとするマルコを尻目にカノエは濡れた着物からゴソゴソとあるものを取り出して手の平の上に乗せてマルコに見せた。

「こいつは……」
「これは綺羅星貝っていうそうです。子供達に御礼にって貰いました」
「綺羅星貝……」
「対になっていますから片方をマルコ殿にあげます」
「おれに……?」
「はい。一つあれば良い…の…で……」
「……カノエ?」

ニコニコしながらも言葉を途中で切って固まったカノエは、不思議そうに見つめるマルコからゆっくりと顔を背けて明後日の方へと視線を向けた。
何の気なしに対となっている片方の綺羅星貝をマルコに差し出して「あげる」と言って片方をマルコに渡したところで気付いた――というか思い出した。

〜〜〜〜〜

「好きな人がいたら対になってる貝の片っぽをプレゼントしたらいいよ」
「え?」
「綺羅星貝はね、想い人にプレゼントすると恋が実るって言われてるの」
「!」
「だからお姉ちゃんにあげるよ。これは僕達からのお礼!」
「あ、ありがたく頂戴する」

〜〜〜〜〜

至極当たり前のように「良いお土産があるんです」と、そんな軽い気持ちだったが綺羅星貝に纏わるおまじない要素をすっかり忘れていた。

ち、ちちち違う、そういうつもりじゃなくて、そういうのでは無くてェェ!!

酷く動揺したカノエは眉尻を下げて目をグルグルと渦を巻き、真っ赤に染まった顔を俯けた。
マルコはカノエのそんな反応に目を丸くしつつも受け取った貝へと視線を移した。

綺羅星貝は対となっている貝だ。その片方を誰かに渡すということがどういうことを意味するのか。片方の貝を好いた相手に渡すことで恋が成就するといった類のまじないがあることをマルコは知らないわけじゃ無い。

カノエはきっと子供達から綺羅星貝に纏わる所以を教えてもらったのだろう。
片方の貝殻を渡してからその意味を思い出した途端に口を噤み、真っ赤にした顔を俯かせて黙りこくってしまえば容易に察してしまう。

まるで当たり前のように片方の貝を外して渡して来た。
渡す相手は端から決まっているとでもいうかのように、極自然に、満面の笑顔で、嬉しそうに――だ。

カノエは懸命に隠しているつもりなのだろうが、本当に素直な単純明快なド直球な想いを向けられると、流石にマルコも心が大きく揺さぶられてしまう。

お前のそういうところがおれを自覚させちまうんだよい。と、マルコは口にこそしないが抗議の意を持って溜息を吐いた。だが、直ぐにフッと微笑を浮かべてコクリと頷く。

「……貰っとくよい」
「え!? あ、あの!」
「おれにくれるんだろい?」
「あ、は、はい、そ…う…ですけど……」
「ありがとよい。カノエからの貴重な土産だ。大事にする」
「ッ……」

お互いに遠慮し合っていることもあって”そういう関係”にまで発展することは、今はまだ無い。
だがいつか――、いつかこの壁を取っ払ってお互いの気持ちが通じ合った関係になれるのなら、これはとても小さな一歩だが、これを最初の大きな一歩にしようとマルコは思った。

まだまだ先の話になるだろうけど……。

目を丸くして固まっているカノエの腕を掴んで引っ張ったマルコは、自身の足の間にカノエを座らせるとクシャリと一撫でしてから再び髪の毛を拭い始めた。
カノエは黙り込んでしまって何も言わなかったが、それでも時々擽ったそうに反応し、それでいて幸せそうな笑みを零した。

「本当に甘ったれだよい」
「妹ですから、兄様に甘えたいんです」
「そうかい」

お互いに顔を見合わせると、どちらとも無く噴き出して笑った。
そして――
髪を結い直したカノエは、マルコと共に宴が催されている町へと向かった。
賑やかな広場に着くと探したぞとばかりにラクヨウに絡まれたカノエは、遠慮の無い酒の相手をさせられる破目になり、片やマルコはラクヨウに酔わされたサッチの介抱をさせられる破目になった。

「まだまだ飲みやがれカノエ! 今日こそお前を酔わせてやるからなァ! ガハハハハッ!!」
「も、もうこれ以上は無理です! ラクヨウ殿!」
「う”ぅ”〜、気持ち悪ィ〜……、おれっち死ぬうぅぅ……」
「おれはまだ一口も飲んでねェんだけどよい……」

あァもう! 絡み酒はどの世界でも性質が悪い!
あァくそ! 何でも良いからおれにも酒を飲ませろ!

宴は大盛況だった。
二人を除いての話だが――。


〆栞
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