第三十二幕


出港の準備は整った。あとは下船している二人が帰って来るのを待つだけだ。
欄干に両肘を突いてぼ〜っと待っていた隊員が、隣で欄干に背中を預けて空を眺めている隊員に「なあ」と声を掛けた。

「なんだよ」
「あれってオヤジだよな」
「あン?」

言われて振り向けば、こちらに向かって走って来る我らが船長オヤジの姿があった。

「青い顔して凄い必死に走ってるな……」
「何つーか、珍しい光景に思えるのはおれだけか?」
「「何があったんだ?」」

暢気に首を傾げる二人の隊員を前に、白ひげは地面を蹴って甲板へと降り立った。
歳に見合わぬ軽快な身のこなしでの上船に、隊長達や隊員達は「お帰り」と言う言葉を投げ掛けることは無く、両膝に手を突いて息を切らしているオヤジの姿に誰もが驚いて言葉を失っていた。

「はァはァ……、良い運動になった。偶には走るのも良いもんだなァ、グララララッ!」
「「「お、オヤジ……?」」」

明るく笑って汗を拭う白ひげに誰もが首を傾げた。そして、白ひげがいつもの定位置に腰を下ろした頃、遅れて戻って来たカノエの表情はえらく不機嫌で、誰もがまたしても言葉を失って呆然と見つめていた。
そんな中、辛うじて平静を保っていたジョズがカノエにそっと声を掛けた。オヤジと何かあったのか――と。

「いえ…何も…、ござらぬ」
「ッ……」

多少の殺気を漂わせた返事にジョズは押し黙ってしまった。それを見ていたサッチとイゾウが白ひげに何があったのかを尋ねた。

「ただの運動だ。健康の為になァ、グララララッ……」

疲労感と哀愁を漂わせた笑みを浮かべて答えた白ひげに、サッチとイゾウは顔を見合わせると首を捻って疑問符を頭上に飛ばした。
一方――
カノエはジョズに軽く頭を下げると足早に立ち去って船内へ入って行った。そして、食堂に差し掛かる手前でビスタとバタリと会った。

「あァ、帰ったのか」

沸々とした怒りを鎮めようと、フシューと大きく深呼吸をしてからカノエは「はい、ただいま戻りました」と答えた。
片や”何も知らない”ビスタは髭を軽く弄りながら丁度良いとばかりに微笑を浮かべた。

「カノエ、戻って来て早々悪いんだが」
「ビスタ殿、用向きでしたら何でも遠慮なく申し付けてください」

カノエが軽く首を振ってそう言うとビスタはキョトンとした。

「なんだ……『殿』を付けて呼ぶことに戻すのか?」
「えェ、私はこれから自分らしく生きて行こうと決めたもの故」

カノエは苦笑を浮かべて頬をポリポリと掻いた。

「長年染み着いたものは早々には取れませんし、無理した所で却って壁を作ってしまう気がした故、自然体で行こうと決めました」
「そうか」

良い顔になって戻って来たな。とビスタはカノエの頭に手を置いてくしゃくしゃと軽く撫でて笑った。
少し照れくさい気もしたカノエだが、ビスタの厚意を素直に受けたことで沸々とした怒りが消えて幾分か落ち着きを取り戻した。

「ところで、何か御用があったのでは?」
「あァ、そうだった」

カノエの声にビスタは撫でていた手を引っ込めてコホンと咳払いを一つしてから改めて言った。

「すまないがマルコの様子を見てやってくれないか」
「え?」
「熱が出ていようが寝ずに書類仕事をしているのでな、カノエが側にいれば素直に床に就くだろうと思って」
「今朝方かなり熱が高く苦し気だったというのに、寝ずに仕事をされていると!?」
「――う、うむ」
「わかりました。私が見張る故にご心配なされぬよう皆にお伝えください」
「わ、わかった。頼んだぞカノエ」
「承知致した」
「……」

カノエはビスタに頭を下げるとマルコの部屋へと足早に向かって行った。

自分らしくと言っていたが、今のはどことなくジンのような気がしたんだが……気のせいだろうか?

鼻息荒く去って行ったカノエを見送りながらビスタはそう思った。
しかし、長い時間を男して生きて来たのもある。偽りを自ら解こうとしているのだから長い目で見るとしよう――と、微笑を零したビスタは食堂へと入って行った。

ビスタは厨房にいる4番隊にマルコに何か滋養になるものをと声を掛け、食堂にいたナースに風邪薬を手配するように指示を出した。
それから暫くして粥と水と薬が乗ったトレーを持ってマルコの部屋へと訪れたビスタは軽く目を丸くした。

あのマルコが素直にベッドに入っている。そして、直ぐ側で濡らしたタオルを手にしたカノエがマルコの汗を拭っている。

何とも微笑ましい……。あのマルコが素直に従うとはなァ。と、ビスタは思わず笑みを零した。
それを他所にカノエはベッド横に椅子を引いて腰を下ろすと説教を始めた。

「高熱で苦しそうにしておきながら仕事を続けるなど、これでは治るものも治らぬではないか。もう少しご自分のお身体をご自愛ください!」
「カノエ……、お前ェ何でッ……口調が硬く戻ってンだよい……」
「私の口調など今はどうでも良いこと。大人しくちゃんと寝てください。でなければ……仕置きを致す」
「は!?」
「んな!?」

不穏な空気を漂わせながら徐に腰に差す刀に手を伸ばしたカノエ。
チャキッ……――と金属音がぶつかり合う音が聞こえたことで、マルコとビスタはギョッとした。

「わっ、わかった! 寝る! カノエの言う通りに大人しく寝るから、は、早まるなよい!」
「カノエ! 相手は病人だぞ! やっ、止めておけ!」

焦るマルコと冷や汗を垂らしながら慌てて止めに入るビスタにカノエは刀から手を離した。そして、ビスタに向けてニコリと笑みを浮かべた。

「ビスタ殿、お粥とお薬まで持って来てくださったんですね。これは忝い。私が食べさせる故、そちらのテーブルに置いておいてください」
「う、うむ」

途端に態度を翻すカノエに戸惑うビスタは、トレーをサイドテーブルに置いた。

「で、ではなマルコ。だ、大事にな」
「ビ、ビスタッ……」

待て、行かないでくれ――と、ビスタに訴えかけるような目を向けるマルコだったが、薄情にもビスタは視線をスイッと逸らし、苦笑を浮かべながらそそくさと部屋を出て行った。
パタンとドアを閉めて安堵の溜息を吐いたビスタは、カノエ……、反省を促すにしてもそれは少しやりすぎだ。と、軽くマルコに同情した。
一方、どちらかというと精神的に崖っぷちに追いやられた気分になったマルコは、恐る恐るカノエに視線を向けた。
サイドテーブルに置かれたトレーの上に乗せられた粥が入ったお椀とスプーンを手にして、食べられますか?と声を掛けるカノエに、「あー…」と声を漏らしたマルコは小さく首を振った。

「今はあまり欲しくねェよい……」
「少しだけでも食べて下さい。でなければ薬も飲めません。早く良くなって頂かなければ、仕事も溜まる上に隊員達にも示しが尽きません」

カノエは粥を掬ってマルコの口元へと運んだ。それに少し気まずげにしながらマルコは口を開けて一口食べた。
その時、間近で視線がかち合った。
安堵するかのような柔らかな笑みを浮かべたカノエに、額に置かれたタオルに手をやりながらマルコは眉をピクリと動かした。

少しずつ砕け始めていた口調がここに来て再び硬くなって元に戻った。人斬りとして、ジンとして戻ったが故の後遺症だろうかと思った。
しかし、カノエの笑みにそれは直ぐに打ち消された。

「墓参りで……、何かあったのか?」
「ご存じでしたか」
「サッチから聞いた。オヤジと二人で行ったんだろい?」
「えェ、父上がお付き合い下さいました」
「ち、父…上……?」

額に置かれたタオルを熱い頬へと動かしていたマルコの手がピタリと止まった。
『オヤジ殿』から『父上』に呼称が変わっていることに驚いて固まるマルコに対してカノエは照れくさそうにクツリと笑った。

「父上は父上です。どうもオヤジと呼ぶのは私の性には合わぬ故」
「……」
「はい、もう一口」
「いや、一口で十分だよい」
「ダメです。せめてあと二口は食べてください。そうしたら薬を飲んで、ゆっくりとお休みください」

カノエは粥を掬ってマルコの口元へと運ぶが、マルコは口を開こうとはしなかった。

「マルコ殿」
「……」

自分らしく――そう思ったら口調が武士として生きて来た時のように硬くなったことにカノエは自覚していた。
それがどうも気に喰わないのか、マルコが途端に素っ気無い態度を取った。
グッと息を呑んで胸が苦しくなるのを感じたカノエは、唇を噛んで手を引いて顔を俯けた。

「……嫌い……ですか?」
「何……?」
「こんな、私は……嫌ですか?」
「!」

先程の様相はどこに行ったのか、眉尻を下げて寂し気な表情を浮かべるカノエにマルコは溜息を吐いた。

「馬鹿……言うなよい」
「……」
「嫌とかそういうんじゃねェんだ」

マルコは深呼吸をすると微笑を浮かべた。

「漸く、家族の一員になってくれたと思って」
「!」
「感傷に浸ってた。冷たい態度に見えたんなら悪かったよい」

マルコはそう言うと手を伸ばしてカノエの手に触れた。
ピクリと反応したカノエはお椀をトレーに戻してマルコの手を両手で握り返した。そして、身体を折ってその手に額をくっ付けた。

「私は……、ずっとここにいたい……」
「カノエ……?」
「いさせてください……、マルコ…さん……」
「……」

カノエの両手にギュッと握られた手に力を込めて、これが答えだとばかりにマルコは握り返した。

「カノエ」

マルコに呼ばれてカノエは漸く顔を上げた。マルコは自由の利く反対の手でカノエの目にかかりそうな前髪を横に払うと口を開いた。

「食わせてくれねェのか?」
「え……?」
「あと二口で良いんだろい?」
「あ、は、はい」

カノエは慌てて身体を起こすとお椀を取って粥を掬いマルコの口元へと運んだ。
素直に粥を二口ほど食べると水と一緒に風邪薬を飲んだマルコは、熱で浮かされて気怠く重い身体をベッドに預けながら側にある椅子に座ったカノエに視線を向けた。
カノエの手が徐に伸びてマルコの頬に添えられる。
ひやりとして気持ちが良い。
カノエの手を頬に感じながらマルコはゆっくりと瞼を閉じて深い眠りへと落ちた。
それから暫くしてコンコン……――と、ドアをノックする音が部屋に響いた。

カノエは立ち上がってドアを開けると、そこにはサッチがトレーを持って立っていた。
どうやらカノエの分の食事を持って来てくれたようだ。
部屋の中に入ったサッチはローテーブルにトレーを置くと、ソファに腰を下ろして眠っているマルコを見つめて溜息を吐いた。

「やれやれだぜ。マルコは誰が何を言っても寝やしねェんだから」

サッチのぼやきを耳にしながらカノエはイゾウから貰ったお箸を手にして食事を始めた。

「これからはこいつがぶっ倒れた時はカノエちゃんに任せるのが一番だな」
「サッチ殿、それは、」
「んー、おれっちは『サッチ殿』って呼ばれるより『サッチさん』って呼ばれる方が好きだな」

カノエの言葉を遮ってサッチは言った。それに食事の手を止めたカノエは少し思案顔を浮かべて、確かに……、と呟いた。

「え、納得しちゃう?」
「私も何故か違和感があった故……。サッチさんは『サッチ殿』という感じがしないって、何だか不思議ですね」
「それってさ、何つーか……どう受け取ったら良いわけ?」

褒められてるのか貶されているのか良いのか悪いのか、サッチは頬をヒクリと引き攣らせた笑みを浮かべるが、カノエはカノエで眉間に皺を寄せて「何故……?」と独り言ちて首を捻っていた。

ある意味でおれっちは特別ってわけだ。ある意味で……。喜んで良いのかよくわかんねェけど。
とりあえずプラス思考で捉えておこうと、楽観的な性分をしているサッチらしい結論に至って気にするのを止めた。

「馳走になりました」
「おう」

何事も無かったようにサッチは笑って立ち上がると、カノエの頭をクシャリと一撫でしてからトレーを手にした。そして、先刻にビスタが持って来た分のトレーにも手を伸ばした。

「じゃあ後は宜しく。何か必要なもんとかあったら声を掛けてね。おれっちは大抵厨房にいっからよ。あ、あと、看病も良いけどカノエちゃんも寝ろよ?」
「はい、ありがとうございますサッチさん」
「ん、やっぱりサッチさんの方が良い」
「ですね、これからもサッチさんはサッチさんで」
「おう」

両手が塞がっているサッチの代わりにカノエがドアを開けた。

「お、悪い、ありがとよ」

サッチはそう言って部屋を後にした。
ドアを閉めて椅子に戻ったカノエは、マルコの額から落ちたタオルを拾うと水を含ませてギュッと絞ってマルコの額に置いた。
少しだけピクリと表情を動かしながらも深く眠るマルコをじっと見つめる。

〜〜〜〜〜

「グララララッ! 顔がやけに赤くなったところを見ると、やはりカノエにとってマルコは特別な存在みてェだなァ!」

〜〜〜〜〜

白ひげの言葉が脳裏に浮かぶとカノエは微笑を零して静かに頷いた。

「えェ、父上の仰る通りです。私にとってマルコさんは……誰よりも特別な人です」

カノエは眠っているマルコの左手を両手で握った。

「早く……、早く元気になってください、マルコさん」

愛しい目を向けて、カノエはそう呟いた。
その時、様子を伺いに来たイゾウがそっとドアを閉めてクツリと笑みを零した。

「殻を破った……か。なら、これでもう大丈夫だ」

マルコの手を握って愛し気に見つめていたカノエに満足したイゾウは、おかえり、カノエ……。と、そう言葉を残してその場を後にした。

翌日――
目が覚めたマルコは左手を握られている感覚に視線を向けた。マルコの左手を両手で握ったままベッドに突っ伏して眠っているカノエの姿に目を丸くする。

熱は下がったようだが、身体は少しまだ怠い。けど、動けないことは無い。
マルコは身体を起こしてカノエが握っている手を外そうとした。

「ん……」
「!」

カノエが声を漏らして身を捩った為にその手を止めた。
だが起きる気配は無い。手を離そうとする気配も無い。

「……」

仕方が無い。起こすか。

「カノエ」

マルコは声を掛けた。だが、眠っているカノエの表情を見ると思いのほか気持ち良さそうで――

「……」

起こすのを止めた。
どさりと身体を仰向けに倒して天井を見上げると、握られた手に力が込められた感じがして、軽く握り返したマルコは顔を横に向けてカノエの顔を覗き込んだ。
先程より表情が柔らかくなって笑みを零している。

「あァ……、まいったよい……」

これは完全に特別視されている――。
それは決して妹が兄に向けるものでは無く、女が男に向けるものだと察するマルコは溜息を吐いた。

甘えて来る時は常に妹として兄を求めるような顔をしているから、兄として妹を想う気持ちを持って接しているのは確かだ。
しかし、そんな中で時々カノエが女として見つめて来ることがある。その途端にどう接して良いのかわからなくなって、カノエを女として見ている時があることを自覚せざるを得なくなったのも――。

マルコは右手を宙に翳して見つめた。
あの時、加減も無しに本気でカノエの頬を叩いた。
兄としてでも、男としてでも無く、一介の人としてカノエの頬を叩いた。

あの子の頬を叩いて目を覚ませてやってくれ――と、そんな声がどこからか聞こえた気がして背中を押されたからだ。

誰の声なのかはわからない。ただその声の主はカノエを想い、カノエの行く末を案じた男の声だったように思う。
どうか庚を……、この子を頼みます――と。

「誰かはわからねェが……頼みは引き受けた。カノエはおれが守る。絶対に手を離したりねェから安心してくれよい」

マルコはポツリと零して右手を降ろした。

――橘君、君の志は何ですか?――

庚、生きなさい。
カノエ、生きろよい。

この時カノエは、自分を案じてくれた大切な人達が声を揃えてそう呼び掛けてくれる夢を見ていたのだった。

第一章 終幕

〆栞
PREV  |  NEXT



BACK