第三十一幕


出港日となる早朝。
モビー・ディック号の甲板では船員達が出港に向けて準備を始めており、各隊長が部下に指示を出しながら与えられた役割を果たしていた。
仕事を与えられていないカノエは忙しなく動く彼らを見つめていたのだが、暫くしていつもの定位置に腰を下ろしている白ひげの元へと歩み寄った。

「オヤジ殿」
「なんだ?」
「出港される前に必ず戻る故、少しの間だけ下船の許可を頂きたいのですが……」
「理由を話せ」
「その、墓参りを……」
「墓参りだと?」
「はい。最後の一人まで弔うことができなかったのが心残りで、せめて餞別だけでもと思った故……」

身内というわけでも見知った仲というわけでも無い。ほんの一時を過ごしただけで名も知らない者達ではあるが――。
この世界にいるはずの無い幕末の人斬りの手で命を奪われた者達に、同じ幕末の人斬りだった者として代わって詫びなければ気が済まない。と、そう思うのはカノエの性分が故だ。

〜〜〜〜〜

「きっとカノエならそう言って来るだろうから、後腐れの無ェように許してやってくれよい」

〜〜〜〜〜

人斬りシドウの手で殺された者達を弔ったとの報告を受けた際にマルコからそう告げられてはいたが成程。
カノエの心情をよく見抜いてやがる。と白ひげは感心した。
その肝心のマルコはと言うと、あれから高熱を出してぶっ倒れた為、今は部屋で休んでいる(無理して動こうとするので軟禁していると言った方が正しい)のだが――。

白ひげは微笑を浮かべると徐に腰を上げた。

「カノエ、墓に行くならおれが付き合おうじゃねェか」
「え…!? で、ですが、」
「他の連中は出港準備で手が空いてねェからなァ。自由が利くのはおれだけだ」

白ひげはそう言うと近くに居たジョズに声を掛けてさっさと船を降りて行った。
呆然と立ち尽くしているカノエにジョズは苦笑を浮かべた。

「カノエ、遠慮するな」
「あ、いや、しかし……」
「オヤジはカノエの父親として気に掛けたいのだ」
「!」

ジョズはカノエの背中をトントンと叩いて軽く押した。二、三歩ほど前に足を進めたカノエは振り返ってジョズに顔を向けた。

「出港の時間も近い。早く行って済ませて来い」

ニッと笑うジョズに目をパチクリとさせたカノエは、「はい」と笑みを浮かべて頷くと軽く一礼してから白ひげの後を追うように下船した。

「本当に律儀な娘だ」とビスタが髭を弄りながらジョズの元に歩み寄って呟いた。

「だからこそ、手を差し伸べずにはおれんのだろう」

カノエが去って行った方角を見つめながらジョズが答えると、ビスタはクツクツと喉を鳴らした。

「果たして、その手は誰の手か」
「それが誰とは言わんが……、おれとて同じ気持ちだ。ビスタは違うのか?」
「いや、今となってはおれも手を差し伸べる」
「ならそれで良いでは無いか」

ジョズとビスタは軽く談笑を交わすとそれぞれ持ち場へと戻るのだった。





一般人の犠牲者は少なかったとは言え、襲撃事件はこの街に住む者達にとって大きな傷を残していた。カノエがいなければ隣島のウパニタと同じ運命を辿っていたのだから当然だろう。

最初に降り立った時に感じた活気は無く、外を出歩く人もまばらで、擦れ違う人々の表情はあまり優れず元気は無かった。
しかし、今だけだ。
時が経てばきっと再びあの頃の活気は戻って来るだろう。

街の少し外れた場所に弔った者達の墓がある。
道中にある店に立ち寄って買った花束を、彼らの墓前に一つ一つ丁寧に供えて行く。

そんなカノエの後姿を、苦渋にも似た表情を浮かべる白ひげが黙って見つめている。

墓前に花を供え終えたカノエは、一歩二歩と下がると両膝を折って腰を下ろし、ゆっくりと手を合わせた。
何てことの無い動きではあるが、一つ一つの動作に洗練されたものを感じさせ、凛とした立ち居振る舞いは見ていて美しいものだと白ひげは思った。

何も言わずに静かに、しかし、気持ちの籠ったその祈りは、きっと誰よりも彼らの魂に響くものだろう。
白ひげもカノエに倣う様に共に手を合わせ、墓前に弔いの気持ちを込めて祈った。

暫くするとカノエはまた別の場所へと白ひげを伴い歩き始めた。
海に臨むその場所。
他の墓とは別にポツンと一つだけ佇む墓があった。
白ひげは目を細めてその墓を見つめたが、カノエは黙ってその墓前に立つと膝を折って白菊の花を供えた。

「カノエ、これは誰の墓だ?」
「祠堂實穐の墓です」
「シドウ…だと? そいつは確か……」

白ひげの言葉にカノエは僅かに頷きを見せると静かに手を合わせて墓前に弔いの祈りを捧げ始める。そんなカノエを見つめる白ひげは眉間に皺を寄せた険しい表情を浮かべた。

多くの人の命を奪った元凶でさえ、お前にとっては一人の命だというのか?

この男がこの島に降り立ち狂気的な殺気に触れただけで、一時的にカノエを人斬りへと戻させた。
下手をすれば再び精神を殺して暗い闇に落ち、人の心は失われて壊れてしまい、二度と立ち直ることができなくなっていたかもしれない。
カノエにとってシドウという存在は、己の精神を左右するほどの災いでしかなかったはずだ。
なのに――。

重いな。カノエの持つ荷物は予想以上に重い。それを一人でずっと背負い生きて来たのか……。
視線を落として瞼を閉じた白ひげは、深く息を吐いた。そして、直ぐに口角を上げる。

「グララララッ!」

白ひげが声を出して笑った。
目を瞑っていたカノエはその声にふと目を開けて白ひげに顔を向けた。

「オヤジ殿……?」
「いや、邪魔ァしちまってすまねェな。カノエ、一つ聞かせてくれ」
「はい」
「何故お前はこの男にまで弔う気になったのか……」

白ひげの問いにカノエは再び墓へと顔を向けた。
その墓を見つめて暫く黙っていたカノエは徐に口を開いて静かに話し始めた。

「祠堂實穐。会ったことは一度もありませんでしたが名前は度々耳にしていました。幕府方……あァ、私達の敵方のことですが、そちら側に立つ人斬りでした」

カノエは語りながら手を伸ばして墓石にそっと触れた。

「彼は狂気的で多くの者を斬り殺した殺人鬼へと身を落としていましたが、彼もまた国の行く末を憂い、未来を案じ、志を胸に戦った武士です。どのようにしてこの世界にやって来たのかはわかりませんが、少なくとも彼の中では、命や心を賭して忠誠を誓い捧げて来た全てのものを無くし為に、絶望して壊れてしまったのだと思いました」

墓石に触れた手を離すと一呼吸を置いたカノエは、視線を落として自分が供えた白菊の花を見つめて目を細めた。

「幕府が倒れて明治維新に変わった頃には既に彼の存在はそこに無かったのかもしれません。幕末の動乱の最中に消えて、この世界に落ちた可能性は十分にあります。人斬りは、ただの殺人鬼ではない。皆、国の為、人の為、そしてその未来を案じて立ち上がった者達が、己の出来る役割としてその道を歩いた者達です。同じ国の、同じ日本人同士、お互いの志を信じて斬り合い、血で血を洗い、戦い続けた。どんなに自分の心身が傷つこうが、どんなに自分の心が壊れていこうが、望んだものは国の安定と人々の安寧の為……」

カノエは静かに立ち上がると白ひげへと顔を向けた。
憂いを帯びてはいたが柔和な笑みを浮かべながら強い意志を灯した凛とした眼を持った表情がそこにあった。
どうやら分厚い殻を一つ破ったみてェだなァ。と、白ひげは渋面ではあったが口角を上げて笑みを浮かべた。
そんな白ひげを真っ直ぐ見つめて、カノエは言葉を続けた。

「私も武士です。そして、彼と同じくして国を想い、人々を想い、剣をこの手に戦ったが故、同志と言えます。彼がこの世界で起こしたことは決して赦されることではありませんが、せめて同じ国に生まれ、同じ国を想い、自らの手を血に染める道を、同じ人斬りの道を選び歩いた彼に、私は同じ志を持った武士として、最後に労いと人の心と誇りを持って祈りを捧げてやりたいと……そう思いました」

ふぅと少し息を吐いたカノエは、視線を外して海を見つめた。
青い空と海に白波が立つこの景色は眩しいぐらいに綺麗だ。
目を細めてゆっくりと目を瞑ると故郷で見た懐かしい海を臨む景色が瞼の裏に浮かんだ。

「私達の国は世界から見れば小さな島国でした。国が安定して人々の暮らしが平和になれば、いつか海に出て広く大きな世界を見て多くのことを知り、学び、自由に生きたいと夢を語る仲間がいました。この場所に彼を弔ったのは広く大きな海と世界を望めるこの場所で、いつか生まれ変わるようなことができたなら、その時は夢や希望を持って自由を望み生きて欲しい」

カノエはそう言うと目を開けて自らの右手に視線を落とした。

「彼の命を奪った私の、せめてもの願いであり償いです」

閉じたり開いたりして見つめる右手に見えるのは、未だに多くの者達を斬って捨てた末に赤黒く染まった――血に塗れた手だ。
しかし、この汚れた手を何の躊躇も無く掴んで引き上げてくれる手があることを知った。
全身に多くの血を浴びて汚れた身体を躊躇いも無く抱き締めてくれる人がいることを知った。

「私はこの世界で自由に生きてみます。こんな私を大事に思ってくれる仲間……いえ、家族と共に生きて歩こうと、漸く納得して覚悟ができました」
「そうか……」
「失った大切な人達の分も笑って学んで自由に生きます。タチバナカノエ として、剣士として、武士として、そして……あなたの娘として生き切ってみせます」

カノエは強い意志を持った瞳を持って白ひげに顔を向けた。
真剣で、でも、どこか笑みが灯され、強く逞しく凛とした面持ちで――。

「”父上”、私の心を救い上げてくれてありがとうございました」
「!」
「こんな私を娘にしてくれてありがとう」

深々と頭を下げて礼を言われたことは勿論のこと、『父上』と呼ばれたことに驚いた白ひげは照れくさかったのか、破顔して「グララララ」と笑った。
それに頭を上げたカノエも釣られるように笑みを浮かべて笑った。

「私は父上を誇りに思います」

何ともスッキリした素直な笑顔だ。
心躍るような嬉しさを感じた白ひげは、カノエの身体をそっと懐へと抱き寄せた。

「グララララッ、まさか父上と呼ばれるとはなァ。カノエがおれの娘になってくれたことや誇りに思ってくれたことに、おれも礼を言わねェとなァ、ありがとよカノエ」

カノエは少し照れくさそうな笑みを浮かべつつもその温もりに身を任せ、素直に甘えることができて嬉しく思った。

「父上」
「何だ?」
「不出来な娘ですが、これからも宜しくお願い致します」
「不出来どころかカノエは大した娘だ」

白ひげの言葉にカノエはクツリと笑うと「あァそうだ」と言って白ひげから一歩引いてコホンッと咳払いした。

白ひげが片眉を上げて少し首を傾げるとカノエは真面目な表情で言った。

「父上、お身体にご自愛を。お酒も少しは控えて頂かなければナースの方々が可哀想です」
「は……?」
「娘が父上の健康を案じるのは当然でしょう?」

ふふっと軽く笑うカノエに、白ひげは思わずヒクリと頬を引き攣らせた。

「あー、あァ、か、考えておく」

視線を外して遠くを見やりながらその場凌ぎにコクリと頷いた白ひげは軽く眩暈を起こしそうになって思わず額に手を当てた。
ひょっとしたらこの娘は自分にとって(婦長のエミリアに次いで)最大の難敵となり得る存在になるかもしれないと思った。

何となく、何となくだが、一矢報いてやりたい気持ちになった白ひげは横目でカノエを見やる。

「…………ところでカノエ」
「はい、何でしょう?」

純粋な目を向けるカノエに少し意地の悪い笑みを浮かべた白ひげは絶大な爆弾を投下する。
マルコとは、いつ一緒になる気だ?――と。

「へ!?」

思いもよらない言葉を投げ掛けられたカノエは、途端に頭から蒸気を発して顔を真っ赤に染めた。それに白ひげは大きく笑った。

「グララララッ! 顔がやけに赤くなったところを見ると、やはりカノエにとってマルコは特別な存在みてェだなァ!」

してやったりという気持ち半分。それで良いと思う親心半分。
実に楽し気に笑う白ひげに対してカノエは顔を俯かせるとワナワナと身体を震わせた。

チャキッ……――!

不穏な音が耳に届いた白ひげは、ハッとしてカノエに視線を向けた。

「!!」
「父上……」
「ま、待て」
「例え父上と言えども勘弁ならぬ時は容赦無く……」
「――カノエ!」

たたっ斬ると叫ぶカノエの声がシドウの墓前で大きく木霊したのだった。


〆栞
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