第三十幕


カノエにとって初めて抱いた感情の意味を知ったところで、イゾウはカノエの頭に乗せた手をポンポンッと軽く弾ませた。

「さて、さっさと着替えな。あァ、そうだ。今の時間なら浴場に人はいないだろうから風呂に入ると良い」
「よ、浴場? 船の中に…ですか?」

驚くカノエに知らなかったのかとイゾウはキョトンとした。

「時間帯によって男と女と分けてるんだが……。あァそうか、カノエはナース達が苦手らしいから敢えて教えなかったのかもしれないな」
「あ、あー……、そ、そうですね……」

一瞬だけビクついたカノエは何とも気まずい表情を浮かべて視線を右から左へと泳がせてガクリと項垂れた。
よっぽど苦手なんだな。同性だってェのに……――と、イゾウは苦笑した。気にはなるがこれに関してはまた別日にでも聞かせて貰うとして、まずはカノエに着替えを用意させて浴場に連れて行くことにした。
部屋を出て浴場に向かう通路を曲がった時、浴場の前にサッチの姿があってイゾウが声を掛けた。

「サッチ、今から入る気か?」
「んー、まァ、そのつもりだったけど……」

イゾウに連れられたカノエに目を向けたサッチはガシガシと頭を掻いて苦笑を浮かべた。

「カノエちゃんが入るならシャワーにするわ」
「あァ、そうしてやってくれ」
「え!? で、ですが!」
「気遣い無し。浴場は初めてだろ? 偶にはゆっくり湯船に浸かれってんだ」

手をヒラヒラさせながらサッチは踵を返して自室へと帰って行った。申し訳無さそうな表情を浮かべるカノエに、兄貴の好意を素直に受けて甘えてやれとイゾウは軽く小突いた。

「小突かなくても……」
「しけた面してたんでな。ほら、見張っててやるからさっさと入って来な」
「え……? そ、そんな見張りだなんて」
「おれが見張ってなきゃあ誰かが入って来るぞ? 例えば――」

イゾウはそう言うとニヤリと悪い笑みを浮かべた。

「マルコとか」
「へァッ!?」

果たして驚嘆なのか悲鳴なのかよくわからない妙な声を上げたカノエに対して、さも名案を思い付いたとばかりにイゾウはポンッと手を叩いて笑みを浮かべた。

「逆にその方が良いかもしれねェな。裸の付き合いから始めるのも一興だろ」
「んなッ!?」

わざとらしくイゾウが煽るとカノエは顔を真っ赤にして逃げるように浴場の中へと入って行った。

「クク…、まァ、ゆっくりして来な」

ニコやかに軽く手を振って見送ったイゾウの元に、部屋に戻ったはずのサッチが廊下の先からひょこりと顔を出して歩み寄った。眉間には皺が寄せられていて、怖さというか恐れというか、負の感情を滲ませながらサッチは呆れた表情を浮かべていた。

「イゾウ、マジでそりゃねェわ」

サッチの言葉にイゾウは軽く肩を竦めた。

「サッチも煽る派だろうに、カノエのこととなると妙に慎重だな」
「マルコが聞いてたら怒ると思うぞ?」
「いや、逆に好都合だ」

クツリと笑って余裕を見せるイゾウに、サッチは「えー……」と漏らしながら当惑顔を浮かべた。

「無理矢理にでも押し込んでやるさ」
「本当にやりそうで、おれっちマジでイゾウが怖ェわ」

顔を青くしたサッチは――しかし、どこかわざとらしくガタガタと身体を震わせる素振りを見せてから去って行った。
いざとなればサッチだって強行手段を取るタイプだ。人が良さそうに振舞っておきながら途端に強硬に走るお前の方が余程怖いとイゾウはクツリと笑った。





カノエが浴場に入ってから暫くした頃、ハルタとラクヨウ、そしてビスタとマルコが船に帰還した。
雨に打たれてずぶ濡れになっただけでは無く、血だらけの遺体を運んで弔いをした為に、血生臭く泥にも塗れていた彼らは、すっかり冷えてしまった身体を震わせながら早々に自室へと戻った。そうしてハルタとラクヨウが颯爽と浴場へと足を運んだのだが――。

「カノエが使用中」

浴場の前にいたイゾウが満面の笑みで言った。ハルタとラクヨウは愕然とした。問答無用で退去させられた後にビスタが来たが、彼もまた已む無く自室に戻ってシャワーを浴びることとなった。

「さて、あとはマルコ一人……か」

あいつはシャワーでさっと済ませる派だから来ない可能性もあるが……と、暢気にそんなことを思ってふと視線を横に向けたイゾウは、珍しいものでも見るかのような表情を浮かべて目を丸くした。

「イゾウ、こんな所で突っ立って何してんだい?」
「入るのか?」
「ん……? まァ、偶にはな」
「マルコはシャワーで済ますと思ってたが」
「思いのほか身体が冷えちまってなァ。それに少し…な……」

言い難そうにしながら頬をポリポリと掻いてマルコは視線を外した。片眉を上げて軽く首を傾げたイゾウだったが、鼻に突く血生臭さに気付いて「あァ」と納得したように頷いた。

「だから皆して浴場に入りたがったってことか」

ポツリと呟いたイゾウにマルコはキョトンとした。

「ってことは、今は使えねェってことか?」
「あァ、いや、何も問題無い」
「誰か入ってンのか?」
「構わねェだろ。とりあえず臭いがキツイからさっさと入れ」

わざとらしく鼻を塞いだイゾウが浴場の前から立ち退いた。

「……」

無言のままイゾウを見つめたマルコは思案顔を浮かべた。

「どうした?」

イゾウが問い掛けるとマルコは少しして頭を振った。

「いや、遠慮しておくよい」
「何故だ?」
「お前ェ、何か企んでるだろい?」

マルコの問いにイゾウは心外だとばかりに笑った。

「企むも何も率先して応援してやってるつもりなんだがな」

笑みを浮かべるイゾウに、マルコは益々眉間に皺を寄せて怪しんだ。こいつのこの笑みは碌でもねェことを考えてる時だ――と。
これまでの経験を踏まえて危険信号が赤を灯したマルコは踵を返した。

「どこに行く?」
「部屋に戻ってシャワーにするよい。浴場はまた別の機会に入る」

マルコは手をヒラヒラさせながら自室へと戻って行った。煙管をカリッと軽く噛んだイゾウは、さも面白くないといった表情を浮かべて軽く舌打ちをした。そして、またまたそんな場面に遭遇していたサッチがひょこりと顔を出してイゾウに近付いた。

「お前って結構な性格してんのな……」
「サッチに言われたくは無いな」
「な〜んでよ?」
「お前さんも相当捻じ曲がってると思ってるからだよ」
「おいおい、おれっちのどこをどう見てそう思うのよ?」
「マルコをブチ込んでカノエと鉢合わせする瞬間をあわよくば自分も楽しもうと思ったから戻って来たんだろう?」
「おっとバレてたか……」
「サッチは単純だからな、捻じ曲がってても解りやすい」
「ケッ! どうせおれっちは単純だってんだ」

サッチは不貞腐れたように唇を尖らせた。

「へェ……、そういうことかい」
「「!?」」

背後から聞き慣れた声が飛んで来てイゾウとサッチは停止した。ゆっくりと振り返るとゆらりと歩いて来る男を見るなりイゾウとサッチはヒクリと頬を引き攣らせた。
眉間に皺を寄せて額に青筋を張りながらヒクヒクと頬を引き攣らせた笑みを浮かべているマルコだ。

「「(あ、やべェ、マジモードだ)」」

イゾウとサッチは二人して危険信号が真っ赤に染まるのを察知した。そして、一瞬だけお互いに目配せをすると慌しく動いた。

「そうだ! そろそろ厨房に行かなきゃなんねェ時間だった! じゃ、おれっち失礼するぜ!」
「オヤジに報告し忘れたことがあるのを思い出したところで丁度良かった。マルコ、見張りを代わってくれ」

二人は一気にそう捲し立てるとマルコの返事も聞かずにさっさとその場から逃走した。

「チッ!」

逃げる二人を見送ったマルコは、超絶不機嫌な表情を浮かべながらイゾウが立っていた所に腰を下ろした。
タオルで拭いただけの身体は冷え切っていて少し寒い。

「あー、こりゃあ本当に風邪を引ィちまうかもしれねェな……」

持っていたタオルを頭に掛けて天井を見上げながらマルコは溜息を吐いた。
それから暫くして浴場のドアが開いた。
ひょこりと姿を現したカノエは目を丸くした。見張りをしているはずのイゾウがいつの間にかマルコに代わっていたことに驚いたようだ。

「十分温もったかい?」
「あ、はい」
「なら良かった。晩飯まで少し時間があるから部屋でゆっくり休むと良いよい」

マルコは立ち上がってそれだけ伝えると自室に戻ろうとカノエに背を向けて歩き出した。

「あ、マルコさん!」
「ん?」
「あの、空きましたから入られた方が良いかと」
「……」
「身体が冷え切ったままだと風邪を引いてしまいます」
「あァ……、そう…だな。ん、なら入らせてもらうよい」

諦めて自室のシャワーを浴びるつもりでいたが、カノエが心配して勧めてくれた気持ちも無下にはできないと思ったマルコは浴場を使うことにした。

「っつぅか、ちゃんと拭けよい」
「え?」

擦れ違い様にカノエの髪が濡れていることに気付いたマルコは、カノエの首に掛かっていたタオルを取ると頭に被せてワシャワシャと拭き始めた。

「あわわわっ!」
「ったく、折角ちゃんと拭かねェと却って身体に悪いだろい?」

マルコの手で乱暴気味に頭を拭かれたカノエは、ふとイゾウの言葉が脳裏に過った。

〜〜〜〜〜

「……本当はマルコにして欲しかったんだろうが」

〜〜〜〜〜


ドキッとして思わず息を飲んで固まったカノエだったが、乱暴気味に拭いていたマルコの手付きが変わっていることに気付いた。柔らかくて優しい手付き。それがより強く意識をさせることになって、カノエは激しく鼓動が脈打ち始めて顔に熱が集まるのを感じた。

「マルコ…さん……」
「ん? どうしっ――!?」

カノエに呼ばれて視線を落としたマルコは思わず言葉を飲み込んだ。見上げるカノエの表情が妙に女らしくて、風呂上がりのせいか血色が良くて濡れた髪が更に艶を与えて色っぽく見えた。

「あ、いえ……、な、何でも無い…です」

何だか弱々しい声にマルコは少し首を傾げた。

「何でも無いって声じゃねェだろい」
「そ、その――」

意を決したかのようにカノエは言った。「夕食を、ご一緒させてもらっても、か、構いませんか?」――と。

「あ、あァ、それは…構わねェが……」

勢いに押されて戸惑い気味にマルコは言葉を漏らした。これまでも一緒に食ってたってェのに、改めてどうした?――と少し首を捻るマルコだったが、カノエが嬉しそうにはにかんだことで思わず目を丸くした。

何とも純粋な可愛らしい笑みだ。

これには流石にドキンと心臓が大きく跳ねたマルコは顔が熱くなるのを感じた。カノエを先に船に帰らせてから自分が帰還するまでの短い間に一体何があったというのか。徐に口元を手で覆ったマルコは堪らずにふいっとカノエから視線を外した。

「じゃ、じゃあ、おれは風呂に入るからカノエは部屋でゆっくり休んでろよい」
「はい!」
「ッ……」

満面の笑みを浮かべて返事をしたカノエに、またしても心臓が大きく跳ねたマルコは、愈々ドキドキと早鐘を打ち始める感覚にグッと息を呑んだ。

やばい……。今の笑顔は何だよい……?
とりあえずカノエと別れて自室に戻ったマルコは、着替えを手に取りながら深い深い溜息を吐いた。

何故か急に柔らかい笑みを零すようになったカノエに酷く動揺している。兄としての気持ちが確実に揺らいでいるのがわかる。何とか自制を利かすもののカノエの笑顔が頭に浮かぶ度に大きく気持ちが揺らいでしまう。

「風呂……、さっさと入るよい」

これは身体が冷え切って風邪を引く一歩手前にあるからだ――とか何とか理由を付けて、マルコは無理矢理に結論付けた。
明日の朝、本当に熱を出して寝込むことになるとは想像する余裕すら無かった。


〆栞
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