第二十九幕


赤くなっているカノエの頬に弱ったなと零したマルコはそっと優しく撫でた。

「カノエ、悪かった。思いっきり叩いちまったから少し腫れるかもしれねェよい」
「いえ……」

カノエは小さく首を振った。

「人斬りから、暗い闇から私を引き戻す為にしてくれたことですから謝らないでください」
「カノエ……」

自身の頬に触れるマルコの手にそっと重ねるように手を添えたカノエは、少しだけ指先に力を入れてキュッと握ると直ぐに離して御礼のつもりで頭を下げた。マルコはカノエの頬に触れていた手を引いて自身の首筋に当てると小さく溜息を吐いた。

「まだ少し……」
「え……?」
「固い。他人行儀な辺りがまだまだだよい」
「!」

マルコの言葉にパッと頭を上げたカノエだったが、心が委縮しているのか身を小さくするようにして顔を俯けた。

「カノエ、もう一度言う」

頭上から落とされる言葉にカノエは小さく「はい……」と返事した。見るからにシュンとしている様にマルコは眉尻を下げて微笑を零すと後頭部にポンッと軽く手を乗せた。その感覚にカノエは目を丸くした。

「おれ達は家族だ。家族に遠慮はいらねェ」

くしゃくしゃとカノエの頭を撫でたマルコは、少し膝を曲げて俯くカノエの顔を覗き込んだ。思わず「うっ…」と声を漏らして顔を上げたカノエと目線の高さを合わせるマルコは言った。

「おれを信用して頼れ」
「あ……」

真っ直ぐ向けられた言葉に、トクン……――とカノエの胸に鼓動が脈打つ。片眉を上げて微笑を浮かべるマルコにカノエの胸はトクン……――トクン……――と何度も鼓動を柔らかく打ち続けた。

身体から力が抜け落ちる代わりに安堵感が広がって満たされていく心。カノエとして、女として生きることを、この時に初めて許されたように思えた。
本来のカノエは『巫女舞』を舞う者であり、人を誅する者ではなく、人を愛でる者だ。きっともうちちの言葉に耳を貸すことは無いだろう。何故なら本当に聞くべきは――

「カノエ」

落ちた心を掬い、気持ちを受け取ってくれる、この人の声なのだから。

「帰るよい」

柔らかい笑みを見せるマルコに少し照れるように目を伏せたカノエはコクンと頷いた。そして、港に向けて先に歩き出したマルコの背中をじっと見つめる。

―― マルコさん……。

自分にだけでは無く、義兄であるジンにも心を寄せてくれた。自分が作り上げた虚像のジンでは無く、本当のジンに――。
こんな人は初めてだった。
ちゃんと見て、聞いて、理解して、心をくれて、心の底から頼りたいと思わせてくれた。そして、トクン……――と柔らかく脈打つ胸に手を当てたカノエは目を瞑る。

胸の内に広がる初めて感じる不思議な気持ち。
苦しくて切なくなるけど決して辛くは無い感覚。

この気持ちはなんだろうか……?
以前にも感じたことはあったが、その時は知ろうともしなかった。しかし、今はどうしても知りたいと思うようになった。

知りたい。
この気持ち、想いは――なに?

カノエは一呼吸置いて目を開けた。先を行くマルコから距離が生じていることに気付いて後を追うように足を動かした。
マルコは歩きながら両腕をグッと上に上げて軽く蹴伸びをした。

「あー、早く帰って身体を温めねェと風邪を引ィちまうよい」

そう独り言ちた途端にマルコはハッとしてはたりと足を止めた。

「……忘れてた」

ポツリと零したマルコが踵を返して来た道を戻り始めた。

「え?」

後を追っていたカノエは、どうしたのかと不思議に思ったが、パッと手を取られて反対の方向へと引っ張られた。

「どこへ……――あ、」

どこに向かうのかと聞こうとした時、例の店に向かっているのだと気付いて声を漏らした。そうしてマルコに連れられるままに店内へと入った。

「ここでちょっと待ってろ」
「あ、はい……」

カノエに入口付近で待つよう指示したマルコは店の奥へと向かった。不思議そうな表情を浮かべて首を傾げたカノエだったが、雨の匂いに微かに混じる血の臭いを感じてハッとした。

―― まさか……、この店の人達全員……?

店内の荒れ具合からして恐らくそれは間違いでは無い。ここで自分の衣服を見立ててくれたあの人達は、人斬りシドウの手によって殺されたのだと察した。

ズキンッ!

「ッ……」

胸に痛みが走ってカノエは顔を顰めた。途端に視界が歪んでボロボロと涙が零れ落ちる。堪らなくなってその場にしゃがみ込んだカノエは、両手で顔を覆うとヒックヒックと嗚咽を漏らしながら必死に声を殺して泣いた。
誰かが二階から降りて来た。しかし、途中で足音が止まった。
サッチだ。
嗚咽を漏らすカノエの姿を見るなり目を丸くしたサッチは、足早に歩み寄ると戸惑い気味に声を掛けた。

「あー、カノエちゃん……大丈夫?」
「ふっ…う…、サッ…チ…さん……」

しゃくり上げながらも素直に顔を上げたカノエにホッと胸を撫でおろしたサッチは笑みを浮かべた。

「良かった。元に戻ったんだな」
「……?」
「あ、悪ィ。それどころじゃなかったな。とりあえずモビーに帰ろうか」

カノエと目線を合わせるように両膝を曲げたサッチが涙で濡れたカノエの頬を手で拭った。少しこそばゆいように目を瞑ってからカノエは口を開いた。

「でも、マルコさんは……」
「あいつが言ったんだ。カノエを連れて帰ってくれってな」
「え……?」
「代わりに弔うから安心しろだと」
「!」
「あと、もし泣いてたら、泣くな、だってよ」

マルコの伝言にカノエは眉尻を下げた。

「マルコさん……」
「あいつはカノエちゃんのことは何でもお見通しって感じだな。妬けるぐれェに」
「え?」
「それだけカノエちゃんのことを大事に思ってんだなァ」

兄貴として――と言い掛けた時、サッチは小さく首を捻って「あー、違う」と小さく零した。そして、少し考えると軽く手をポンッと叩いた。

「ここは男としてって言った方が正しいかも」
「え……、そ、それって……」

目を丸くするカノエにハッとしたサッチはブンブンと顔を振った。そして――

「な、」
「?」
「なーんて、冗談」

顔を背けて誤魔化すように笑いながらカノエの腕を掴んで立ち上がったサッチは強引に歩き出した。

「さ、サッチさん、さっきのは」
「深い詮索は無しだってんだ。それよりもさっさと帰って身体を温めねェとマジで風邪引いちまうぜ」
「――ッ……」

強引に会話を断ち切って歩き出すサッチにカノエはそれ以上は何も言えずに押し黙った。
雨脚は先程より大分弱まっていて、どんよりとしていた空も徐々に明るさを取り戻していた。戦場の横を通り掛かった時、カノエは生き残った海兵の存在を思い出して辺りを見回した。しかし、海兵の姿はどこにも無かった。そして、先を歩くサッチの背中へと視線を移した。

「……サッチさん」
「んー?」
「サッチさんは……私のこと、怖いですか?」

背後から投げ掛けられた問いにサッチは行く先に見える海をじっと見つめながら「んー……、そうね……」と呟きながら少しだけ首を捻った。

―― どう答えたもんか……。

この場合は下手な慰めは不要。思ったことを素直に言葉にした方が良いような気がした。

「正直に言うと怖いっていうよりは戸惑うって感じ?」
「戸惑う?」
「マルコのビンタにはマジでビビったけど、おれっちにアレはとてもじゃねェができねェ」
「……」
「おれっちは女の扱いに慣れてるつもりだったけど、カノエちゃんは特別なんだわ。繊細なガラス細工みてェな感じで壊れないように丁寧に扱わないといけねェってよ」
「そ、そんなことは」

眉尻を下げながら少しか細い声でカノエは否定を口にしようとした。そんなカノエの声を耳にしたサッチは漸く振り向くと苦笑を浮かべて首を振った。

「悪い意味に捉えンなよ。そんだけ大事に思ってるってェことなんだから」
「!」
「おれだけじゃねェ。イゾウもビスタもハルタやラクヨウだって、カノエちゃんのことを大事に思ってんだ」
「ッ……」

思わず言葉が詰まったカノエは、胸がキュッと締まる感覚に小さく息を呑んだ。足を止めて俯いたカノエにポリポリと頬を掻いたサッチは、手を伸ばしてカノエの腕を掴んで歩き出した。

「あ…りがとう……ございます…」

カノエはサッチに腕を引かれるまま足を運びつつボロボロと涙を流した。マルコとはまた違ったサッチの優しさと温もりが痛んだ胸に染み入って我慢ができなかった。

「ハハ、もう泣くなってんだよ」
「ふ…う…、はい……」

船に戻って甲板に上がった時、カノエが無事だったことに、そして、普段のカノエに戻っていたことに、待機していた隊員達が挙ってホッと胸を撫で下ろし、笑みを浮かべて出迎えてくれた。それがまた嬉しくてカノエは思わず笑みを零した。
甲板での話はそこそこに、カノエはサッチと共に船長室へと直行した。
きっと酷く叱られるだろうと思っていたカノエは、顔を俯かせて酷く緊張していた。しかし、身体がふわりと浮いたと思うと白ひげの懐に抱き寄せられていたことに気付いて目を丸くした。そして、顔を上げると白ひげは優しい笑みを浮かべてカノエの頭を撫でた。

「このバカ娘が、どんだけ親を心配かけさせりゃあ気が済むんだ」
「オヤジ…殿……」
「よく無事で……、よく耐えて戻って来たカノエ」
「あ……、ふっ……、あァァ………」

白ひげの懐に抱かれたままカノエは身体を震わせて白ひげに抱き付いた。温かくて優しい親の温もりを初めて貰った気がして、まるで子供の様にボロボロと涙を零し、何もかも忘れて泣いたのだった。

暫くしてカノエが落ち着きを取り戻すと優しく抱き締めていた身体を離した。しかし、カノエは顔を俯かせたまま上げようとしない。
片眉を上げた白ひげはグラグラと笑った。
感情の赴くままに泣いた手前、どうにも気まずくて顔向けができないのだろう。

「身体を冷やしちまったな。温めて来い」

白ひげの膝から降ろされたカノエは、やはり気恥ずかしかったようで、顔を紅潮させながら頭を軽く下げて船長室を出て自室へと向かった。
自室のドアを開けて中に入るとカノエは目を丸くして足を止めた。

「あ、」
「世話の焼ける妹のお帰りか」
「い、イゾウさん……」
「振り出しに戻ったかと思ったが、流石はマルコといったところか」

ソファに座っていたイゾウは立ち上がると、ドアを開けたまま立ち尽くしているカノエの元へと歩み寄った。
カノエの目元が赤いことから大いに泣いたのだろうと察したイゾウはフッと笑った。

「しけた面だな。とりあえず頭を拭きな」

カノエの頭にタオルをフワリと被せたイゾウは、ぐわしゃぐわしゃと力付くで拭きに掛かった。

「い、痛!? いィたた痛いです!」
「あァ、ワザと痛くしてんのさ」
「何故!?」
「お仕置きを兼ねてるからな」
「えェ!?」

頭を拭くイゾウの手を払おうとしたカノエだったが、「兄貴に心配をかけさせた罰ってェやつだ。ちったァ手を掛けさせな」と、イゾウは言った。

「ッ……」

抵抗を止めたカノエにフッと笑みを零したイゾウは、荒々しかった手付きを止めて優しくカノエの頭を拭き始めた。

――なんて……、なんて恵まれた場所を与えられたんだろう。

妙に擽ったくて、それでいて温かくて、カノエは嬉しそうな笑みを零した。

「……本当はマルコにして欲しかったんだろうが」
「え?」

頭上からポツリと零されたイゾウの科白にカノエはキョトンとした。それにイゾウは片眉と口端を上げた笑みを浮かべた。

「素直に女としての喜びを知る良い機会だ」
「そ、それってどういう……?」
「マルコからの愛情を素直に受けとりゃあ良いって言ってんだよ」
「はい!?」

予想だにしなかった言葉にカノエは思わず素っ頓狂な声を上げた。その一方で、予想通りの反応にイゾウは「ふはっ!」と、堪らず噴き出して笑った。

「普段は兄貴として接してンだろうが、時々あいつはカノエを男の目で見てる時があるからな」
「へ……?」
「不器用なあいつらしいと言やァそうなんだが、見てるこっち側としては何ともじれったくて仕方が無ェ」

くつくつと楽し気に笑いながらカノエの濡れた髪を拭っていたイゾウは、途端に手を止めてタオルの隙間から見えたカノエの目を覗き込んだ。

「カノエから積極的に接してやんな」
「え、」
「女としてな」
「ふぇっ!?」

顔を真っ赤にしてこれ以上無い程に目を大きく見開いたカノエは口をパクパクさせた。

「はは、顔が酷く赤くなっちまって……。こりゃあカノエも脈有りだな」
「な、ななななにを仰っているのか、わ、わかり兼ねます!」

強く否定しているが酷く動揺しているのは明らかだ。軽く吹っ掛けて試してみるつもりで言ったのだが、思っていたよりも女の心が芽生え始めていることに気を良くしたイゾウはニコリと笑った。
カノエからすれば含みのある不敵な笑みに見えたのだろう。今度は何を言われるのかとカノエは警戒心を露わにして軽く身構えた。イゾウは呆れたように大きく息を吐いた。

「自覚してねェみたいだからこの際はっきり言ってやるよ」
「は……?」
「カノエはマルコのことが好きなんだろう?」
「え……? え、えェそれは……、彼は恩人ですから……」

違うだろうとイゾウは小さく首を振った。

「愛しくて堪らない」
「!」
「――だろう?」

カノエは目を丸くした。
トクン……――トクン……――と心臓が柔らかく脈打ち始める。それが少しずつドキドキと鼓動が早くなって、身体が妙に熱くなり始めた。

「時々……、胸が高鳴って……」

徐に手を動かして自身の胸元に当てたカノエは、「苦しくなる時がありますと呟くとギュッと衣服を握った。

「凄く切なくて……。でも、それが辛いというわけでもなくて……」

俯いたままポツリポツリと素直に語るカノエに、イゾウは目を細めた。

「それはどういう時に起きてるのか、冷静に考えてみな。そういう時、お前の側には誰がいる?」
「……マルコ…さん……」
「マルコがそこにいてどう思う?」
「温かくて、優しくて、心地が良くて……。側ッ…側に、いて欲しいって、思い…ました……」
「兄に対して抱く感情だと思うか?」

イゾウの問い掛けにカノエは小さく首を振った。

「違う……、そんなんじゃ……」
「愛しいか?」
「ッ……」

カノエは声を詰まらせてグッと固唾を飲んだ。

知りたい。
この気持ち、想いは――なに?

―― あァ……、きっとこれが……。

「愛しい……。凄く、愛しい…です……」

カノエが答えるとイゾウはコクンと頷いた。

「あァ、それが女として男を愛する想いってェやつだよカノエ」
「!」

トクンッ……――!

イゾウの言葉にカノエの心臓がまた跳ねた。

「あ……」

カノエは思わず両手で顔を覆うと目を瞑った。
顔が、身体が、熱い。
でも、そんなことはどうでも良かった。抱き始めた気持ちの意味を知った途端に溢れ出す想い。カノエは堪らずに涙をポロリと零した。イゾウがカノエの頬に手を添えて零れ落ちる涙を優しく拭う。

「今日は……」
「ん?」
「よく泣く日です……」
「あァ、そういう日もあって良いさ」

涙を零しながら自嘲するカノエにイゾウは笑みを零した。
女としての気持ちが強くなれば人斬りへと誘う闇の心はきっといつか消えるだろう。
口にこそしなかったが、イゾウはそう確信したのだった。


〆栞
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