第二十八幕


隊員の報告を受けて飛び出したのは、マルコ、イゾウ、ハルタ、ビスタ、ラクヨウ、そして、サッチだった。
異様な殺気を察知した彼らが向かった先には、海兵達と女の斬殺死体が泥と血に塗れて転がる姿がそこかしこにあった。
この光景を目にしたハルタとサッチが思わず口に手を当てて顔を顰めた。又、イゾウやビスタはピクリとも動かない海兵の首筋に指を当てて生存を確かめたが脈は無く首を振る。更にラクヨウは、正義の文字が入ったコートを着た首の無い死体を見つけて舌打ちをした。

「こいつは恐らく中将クラスだろうぜ」
「こんな風に首を断ち切られるようなレベルじゃねェだろうに……」

ラクヨウとサッチが言葉を交わしている間に、マルコは女の死体を仰向けにして顔を確認した。

「こいつは……」
「彼女を知ってるの?」

ハルタの問いにマルコは何も答えずに明後日の方角に顔を向けた。その先にあるのはカノエを連れて行ったあの店だ。二階のガラス窓が突き破られていることに気付いたマルコは、その建物の中へと入って行った。ハルタ達はお互いに顔を見合わせたが何も言わずにマルコの後を追って中に入った。
薄暗い店内は商品と思われる衣服がそこかしこにあるが酷く散乱していた。レジの奥には二階に続く階段がある。サッチは二階に上がった。通路に沿って部屋が幾つかあって、奥から二つ手前辺りで佇むマルコの姿を見つけて歩み寄った。

「マルコ、何か見つけたか?」

声を掛けてマルコが見つめる先を覗いたサッチは、ギョッとして思わず言葉を失った。
海兵達の死体よりも惨い有様で転がる二人の女の死体。ラクヨウとハルタが遅れてやって来たが、彼らもサッチと同様の反応を示して顔を顰めた。

「恐らくオパナスやウパニタであった斬殺事件と同じだよい」
「「「!」」」

マルコがポツリと零すとサッチ達は目を見張った。

「マルコ! こっちに来てくれ!!」

別の部屋を探索していたビスタが声を張り上げてマルコを呼んだ。マルコはそれ以上何も言わずにビスタの元へと向かう。少し離れた一室に入ると、イゾウが死体の具合を見ているところだった。

「酷い有様だ。臓物を引き摺り出されちまってる」

頭をガクリと落とした死体の側に腰を下ろして顔を覗き込んだマルコは、眉間に皺を寄せて小さく溜息を吐いた。
宿の部屋に押し掛けて来てまでカノエの刀を欲したこの店のオーナーだった男だ。

「この部屋にある刀はどれも一級品だ。だが無残にも破壊されてしまってどれも使い物にならなくなってしまっている」

破壊された刀を手にしたビスタは、勿体無いことだと哀れ気な表情を浮かべた。その時だ。ここから少し離れた場所で異質な気配を全員が感じ取った。

「何だ……?」
「外だな」

窓に目を向けるイゾウと同じようにビスタも視線を外に向けた。

「ッ……!」

この異質な気配をマルコは鮮明に覚えている。通路からドタドタと慌てた足取りでサッチが飛び込んで来た。

「マルコ! やべェ、この気配は!」
「あァ! わかってるよい!!」
「おい、何だと言うんだ? この異様に張り詰めた空気は、」

眉を寄せてビスタが問い掛けるもマルコは返答せずに急いで出て行った。サッチを追って来たハルタとラクヨウがマルコと擦れ違って訝し気な表情を浮かべる。

「サッチ!」

マルコの後を追おうとしたサッチをビスタが呼び止めた。サッチはハルタとラクヨウの前で足を止めると苦々しい表情を浮かべた。

「この気配はカノエだ」
「な、何?」

思わず顔を強張らせるビスタに、サッチは「誰かを殺す気だ」と言った。

「えっ!?」
「殺気だってェのか? これが……?」
「おれ達も行くぞ!」

ハルタが驚き、ラクヨウが戸惑っていると、イゾウが声を掛けた。その声に弾かれるようにして彼らは急いで外に出ると異様に張り詰めた気配の出所へと向かった。





天剣の人斬りタチバナジン。彼から発する身震いする程の脅威的な威圧に、シドウはニタリと笑みを浮かべて肩を震わせた。

「フフ、フハハハッ……! イイねェ。我以上の狂気的な剣気!」
「……」
「だが、その目は気に入らないねェ」

殺しに快楽を求めるシドウは己の為の剣。対してジンの殺しは誰かの為に振るう他が為の剣。
同じ人斬りらしく狂気的な殺気を伴った剣気ではあるが、全く対照的な色を持っていることにシドウは不愉快だとばかりに睨み付ける。

「どうやら我とは少し違う壊れ方をしているようだねェ」
「言いたいことはそれだけか?」

シドウは喉を鳴らして小さく笑った。そして、ワザとらしく「あァ、そうだ」と、何かを思い出したとばかりに口を開いた。

「天剣の橘。会津藩士のクズがお前の命を欲していることは知っているか?」
「会津……、私と共に落ちた男か」
「ンフフフ。実はねェ、この世界に落ちた人斬りはもう一人いるんだよねェ」
「何……?」
「天剣が表舞台に立つ前に最強と称された人斬りなんだがねェ」
「!」

幕府方に最強の人斬りと称された男がいたことは知っている。天剣と遜色無い人間離れした驚異的な剣術を扱う人斬りだったと。天剣の人斬りとして表舞台に立つ頃、その人斬りは忽然と姿を消したと聞いた。故に、対峙したことは一度も無い。
しかし、まさかこの世界に落ちていたとは思いもしなかったことで、ジンは驚愕の色を示して表情を強張らせた。

「あれは我以上に本当に狂った男でねェ。狂暴且つ粗暴な上に凶悪で狡猾」
「ッ……」
「天剣の人斬りである君の先輩に当たるのかなァ。彼は誰よりも壊れた人間だよ」
「まるで見知った口ぶりだが……」
「ンフフフ……。我も何度か殺されかけたからねェ」
「!」
「我のこの性癖は彼の影響を少なからず受けているかもしれないねェ」

シドウはケタケタと笑いながらタチバナジンを観察する様にじっと見つめた。そして、鼻腔をピクピクと動かした。

―― んー……? この匂いは……女?

短髪で着物に袴姿は男の様。発する威圧は女とは到底思えない程に鋭い。しかし、これまでの経験からしてタチバナジンは――。

「あー……、成程……」

左手で目元を覆ったシドウは顔を俯かせた。

―― まさか、天剣の人斬りが女だったとはねェ……。

無意識に舌なめずりをしてくつくつと笑う。

「橘迅」
「何だ……?」
「君は……、女だねェ?」
「!」
「イイ匂いだ。我を煽るイイ匂いがするよ。ンフフフ」

ニタニタとニヤついた笑みをそのままに、シドウは眼光を鋭く変えて徐に構えた。橘迅が女であると気付いた途端にシドウの悪い性癖が顔を出したのだ。

「君はどんな声で啼くのか……、聞かせてもらおうか!」

それがまるで合図だったかのように、シドウは地を蹴ると同時に刀を振り上げてジンに襲い掛かった。

―― 先手を取った!

シドウはそう思った。初撃は完全にジンを捉えていた。しかし、ヒュンッと風を切る音にシドウは目を見開いた。
ほんの寸分、数ミリの差だ。シドウの攻撃を躱したジンが同時に刃を振るう。

 斬!!

右腰から左肩に向けて斬り上げる軌道を描いてシドウの胴体を斬った。

「かっ…はっ…、や、や…はり…、化物ッ…だねェ……」

血飛沫が激しく噴射する中で舞うように回転したジンは二撃目を放った。

ヒュンッ――ザシュッ!!

シドウの首は宙を舞った。そして、ゴトッと重たい音と共に地面を転がり、身体は敢え無くドサリと倒れた。

ほんの一瞬。
あっという間の出来事だった。

海兵は唖然として立ち尽くしていた。また、そこから少し距離はあったが、ハルタとラクヨウ、ビスタとイゾウ、そして、サッチもこの戦いの一部始終を目撃していた。彼らでさえも天剣の人斬りを見つめたままその場から動くことができずにいた。ただ一人の男を除いて――。

血を振り払うようにして刀を強く振るったジンは、ヒュンッ――と、空気を切り裂く音を鳴らして刀を鞘に納めた。そして、踵を返してその場を後にした。
ジンが向かった先は、シドウにより無残に殺された海兵達の死体が転がる広場だった。
側道に立って再び刀の柄を握って引き抜き、力の限り刃を振るって地面にいくつかの亀裂と穴を作る。そうして刀を鞘に戻したジンは、素手で更に穴を広げるように掘ると汚れを気にするでも無く海兵の遺体を担ぎ上げた。

「あいつ、まさか……」
「全員を弔う気でいるの……?」

ラクヨウとハルタの言葉を耳にしながらビスタ、イゾウ、サッチは、黙ってジンの行動を見つめていた。
一人、また一人と担いでは作った穴へと丁寧に運び入れて素手で土を被せ始める。雨に濡れて頬に落ちる滴は涙のようで、まるで泣きながら弔いをしているように見えた。
その姿を違う場所から見ていた海兵は、仲間や上司の死体を丁寧に弔うジンに目を、心を奪われて、何も言葉にすることができなくなった。

―― この人は……、兼ねて得ていた情報に基いた人物像とも人斬りシドウとも全く違う。……違う人だ。

海兵は自ずと帽子を取ってジンに対して深く頭を下げた。
本来ならば自分がしなければいけないことだ。
しかし、彼の側に近付くことがどうしてもできなくて、申し訳無くて、ただこうして頭を下げて礼を尽くすことしかできなかった。
恐怖では無い。
決して畏怖を抱いて近付けないんじゃない。
ただ、共に行動することが凄く恐れ多くて近寄れないと思った。
天剣――神の御剣を目の当たりにして、彼はジンに畏怖では無く『畏敬の念』を抱いたのだ。
「ちゃんとした報告をしないと……」

海兵は帽子を目深に被ってギュッと唇を噛んだ。そして、踵を返してその場を立ち去った。それから暫くして全ての遺体を弔い終えた頃、ふと背後に人の気配がしてジンは振り返った。

パンッ!!

「ッ……」
「……」

雨音が降りしきる中でも一際大きく響いたその音は、マルコがジンを、いや、カノエの頬を叩いた音だ。
頬に痛みが走って叩かれたことに少しだけ目を丸くしたカノエだったが、虚ろな目をそのままに顔を俯かせた。その一方、マルコの行動にハルタやラクヨウ、そしてビスタが驚いた。

「ちょっ、どうして叩いたりなんか――!?」

仲裁に入ろうとしたハルタを、他の誰でもないサッチが腕を掴んで止めた。

「な、何だよサッチ!」
「介入はしねェほうが良い。ここはマルコに任せるべきだってんだよ」
「けど……!」

反論しようとするハルタの頭をビスタが宥めるようにポンポンと叩いた。まるで子供扱いにも似たビスタの行動にムッとしたハルタはビスタを睨み付けた。しかし、ビスタの表情に笑みは無く真面目な面持ちであった為、ハルタは抗議の声を上げるのを止めた。

「せめて、あの店の者達だけでもおれ達が代わって弔ってやるとしよう。ラクヨウ、手伝え」
「おう」

ビスタはラクヨウと共に店の中へと向かった。

「イゾウ、オヤジへの報告を頼めるか?」
「あァ、わかった」

静かに返事したイゾウを残してサッチは、不貞腐れるハルタと共にビスタ達の後を追ってその場を離れた。

「やれやれ……、また振り出しか……」

ポツリと独り言ちてカノエを一瞥したイゾウは、深い溜息を吐いて船へと向かった。
一方――
顔を俯かせて黙り込むカノエに怒りの色を模した表情を浮かべたマルコが口を開いた。

「何故おれに叩かれたのかわかるかよい」
「……」
「ジン」
「!」

ジンの名を呼ぶとは思っていなかったカノエは、目を見開いて顔を上げた。眉間に皺を寄せて睨み付けるマルコと視線がぶつかる。

「何故……、どうしてジンだと……?」
「今のお前の目を見ればわかる。あと雰囲気でもな」
「な、何……?」
「ジン、お前は妹を、カノエを、守りてェって思うなら、もっと違う守り方を考えやがれ」
「な、何を…言って……」

戸惑いを隠せないでいるジンはマルコから離れるように後退ろうとした。しかし、逃げるなとばかりにマルコがジンの腕を掴んで足を止めた。そして、逆に引っ張られる感覚に身体を強張らせた。

「カノエを本当に大切だと思うなら、これ以上カノエの手を汚してやるな! 泣かしてやるな! そう言ってんだよい!」
「ッ……!」

額に青筋を張ったマルコがこれまでに無い程に大きく怒鳴り付けた。
心の底から怒っているのだ。
思わずマルコから視線を外したジンは、少し怯えたようにして目を伏せた。

―― 何故、どうして反論も抵抗もできない? 何故、彼の言葉がこうも胸に突き刺さる? どうして……。

心臓を鷲掴みされたかのように痛んで、苦しくて、鼓動が早鐘を打ち始めて呼吸が短く乱れ始めた。

「人…斬り…は……」
「所詮人斬りか」

僅かな声で呟くジンの言葉を引き継ぐようにマルコは言った。ジンの唇が僅かに震えるとマルコは鋭い目で睨み付けた。

「そんなもん誰がいつ決めた」
「!」
「こいつは、カノエは! 人斬りである前に、ただのか弱い娘だろうがよい!!」
「ッ……」

顔を真正面に向かせてマルコは叱り飛ばした。ビクンと身体を震わせたジンに対してマルコは尚も言葉を続ける。

「いつまでも悔やむな」
「!」
「タチバナジンは人斬りじゃねェ。お前はただの妹想いの優しい兄貴だ」

だからもう――赦してやれ――と、マルコは言った。
まるで”ジンが生きている”かの様に言葉を投げ掛けるマルコに驚きを隠せないでいたカノエは、眉尻を下げてギュッと唇を噛んだ。

―― な……んで……?

怯えた表情から泣き顔へと変わって行くカノエに溜息を吐いたマルコは、今度は落ち着いた声音で宥めるように語り掛けた。

「カノエ」
「!」
「おれも重荷を背負ってやるって言ったろい。一人で何もかも抱え込むな」
「何故……? どうしてジンって……」

カノエの問いに片眉を上げたマルコは、カノエの頭をくしゃくしゃと撫でた。

「んなもん、おれはお前の兄貴だからわかるんだよい。カノエの中に燻るジンが何であるかなんてな」
「!」
「お前を人斬りの道に引き摺り込む黒い影がその胸の内にいるなら、おれが引き摺り出して消してやる」
「あ…ァ……」
「だから――」

瞳が大きく揺れ、ポロポロと涙が溢れ、頬を伝い落ちて行く。

もう、泣くな――。

優しい声音で告げたマルコは、カノエの腕を引いて抱き締めた。

「ッ……」

酷く驚きはしたものの抵抗する気が不思議と起きなくて、カノエは大人しくマルコの懐に身を預けた。

トクン……――トクン……――。

自分の中で大きく脈打った鼓動はとても苛烈で痛みすら感じる程だったのに、マルコの胸から聞こえてくる心音はとても柔らかくて優しい。
不思議と気持ちが落ち着いて行くと奈落の底に落ちた心が温かくて明るい世界に引っ張り上げられていることに気付いた。

『やっと居場所を見つけた』

酷く落ち着いた、しかし、どこか寂し気な迅の声が胸の内に響いた。

『もう、良いのだろうか?』

その言葉の意味がどういうことか、カノエはわからなかった。

『私の罪はもう赦されるのだろうか?』

迅が犯した罪――?

『庚に全てを背負わせた私の罪を、お前は赦してくれるのか、庚……』

赦しを乞う迅の言葉に目を見開いたカノエは思わず息を呑んだ。人斬りとして迅を生ある世界に止め置いたのは他の誰でも無い自分。本物の迅は既に死んでいるというのに、迅という名の青年を生かし続けて人斬りという名を背負わせたのは――赦さないのは、赦せなかったのは――カノエ。

「ッ……」

自分の中に巣食う闇が人斬りの殺気に敏感に反応して増幅するのは、師の志と仲間の志を貫く為に決して死んではいけないとした意識の現れで、防衛本能として闇を起こして弱い自分を覆い隠し、人斬りとしての迅となって生きることに固執した。
迅として生きれば誰かが喜ぶ。迅として名を残せば誰かが誇りに思ってくれる。そうしていつかは――。

―― 私は……。

庚としては生きていけない。
庚としては居場所が与えられない。
人斬りとして闇に落ちても迅だから許される。
迅であれば戦えるし居場所も与えられる。
だから――
どんなに自らの手を汚しても平気。
だって、その手は――

〜〜〜〜〜

とある宿場で迅《庚》は、高杉と酒の席を共にしたことがあった。

「おれは人斬りなんざいらねェって思ってる」
「もう決まったことです」
「新しき世を作る為に一人の女の手を汚させるなんて、おれは反対だ」
「私は男ですが……」
「お前は女だ。庚ってェ名前の良い女」
「高杉さん、酷く酔ってますね」

出来ることならこの話はさっさと止めて別の話題に移して欲しかった。酒を飲んでも酔っ払って乱痴気を起こすような人では無いのに、酷く酔っているのだと決めつけて相手にしないように背を向けた。けれども高杉は、一向に止める気は無くて、自分に背を向けた迅《庚》に向けて尚も話し続けた。

「真面目な性分がそうさせてんだろうが、お前は少し一人で何でも抱え込んで自分を縛り過ぎだ。”迅としての”お前を含めてな」
「あなたが何を仰りたいのかわかり兼ねますが……」
「庚として生きたいのにそれをさせて貰えない世を恨んでる」
「!」
「誰からも愛されなくて認めてもらえない庚を、誰からも愛されて認められた迅が命を捨てお前を生かしたことを恨んでる。違うか?」

迅《庚》が目を見張って何も言い返せずにいると高杉は酒を呷って席を立った。

「おれは出来ることなら人斬りの迅から庚を救い出して、限りある命を尽くして生きて行ける道を歩かせてやりたいと思ってる」
「な、に……?」
「松陰先生が以前にそう話してくれた。だからこれからは、おれがお前を迅としてではなく庚として接するからそのつもりでいろ」
「!」
「少し酔った。夜風に当たって冷まして来る」

高杉はそう言って部屋を出て行った。
この時はあくまでも酒の席でのこととして深くは考えないようにした。ただ後々に坂本竜馬からも似たような言葉を掛けられたことがあって、彼もまた松陰から聞いたと言っていた。
君は良い目をしているね。――出会った時にそう言った松陰は何かを感じ取ったのかもしれない。と、この時になって初めて考えるようになった。

〜〜〜〜〜

男として、迅として、生きると決めた。
でも本当は――
心の底で沸々と湧き上がる声無き声に蓋をした。

本当の気持ちを殺して気付かないふりをして生死の狭間に身を置けば、何も考えなくて済むことがわかった。気付いた時には黒ずんだ赤い血に染まった心が暗闇に囚われていた。
人斬りとして覆う闇の心を父に変え、人斬りとして命を奪うのを迅のせいにして、庚である心を奥底に閉じ込めて守ろうとした。心の底で沸々と湧き上がる声無き声に蓋をするように――。

「わた…しは……」

こんなに汚くて弱い人間だから、誰も愛してくれなかったんだ――と、自責の念を抱いたカノエは身体を震わせた。しかし、それを知ってかマルコの腕に力が込められてより強く抱き締められた。その感覚に暗い思いが一瞬にして霧散した。

「おれが思うに」
「……?」
「お前はただ真っ直ぐなだけだ」
「!」
「馬鹿正直なぐらいに真っ直ぐで、不器用で甘え下手なのに頑固で意地っ張り」

カノエが顔を上げるとマルコは「あァ、生真面目過ぎた堅物もあるよい」と言ってくつくつ笑った。目を丸くしたカノエからジンの気配は無い。漸く本来のカノエが戻って来たとマルコは思った。

「もう良いだろい」
「え?」
「肩の力を抜いて気楽に、少しぐらい欲を張って我儘に、縛りを解いて自由に、カノエの好きに生きりゃあ良い」
「!」
「カノエの肩に乗った責任はもう必要無ェもんだ。それに文句を言う奴はこの世界にはいねェんだ。今度また今回と同じようなことがあったら遠慮無くおれ達を頼れ」

おれ達は家族なんだからよい――。
柔らかい笑みを浮かべたマルコに、カノエは眉をハの字に唇を噛んで泣きそうな表情を浮かべた。

やっと見つけた居場所を失くして、もう二度と得ることは無いと思われた”許された居場所”を与えてくれて、手を差し伸べてくれる人の温もりを、心から心配して本気で叱ってくれる人の愛情までも――この人は与えてくれる。
迅では無く庚として見てくれた二人の志士がくれた言葉と共に、心の底から欲していた何もかもを察して与えてくれた先生と同じように――。

「ふっ…うっ…あァ……」

奥底に閉じ込めた心の蓋が瓦解して崩れると剥き出しとなった感情を露わにしてカノエは泣き出した。

「あァ、もう泣くなよい」

困ったように言いながらも優しい笑みを決して崩さないマルコはカノエの涙を手で拭った。
ひっくひっくとしゃくりを上げて涙を零しているカノエは、マルコの笑みを見つめると気持ちの赴くままに――笑顔を零した。

「!」

それは何の憂いも無く満面に喜色を湛えた女らしい笑みだった。
目を丸くしたマルコは少しだけ安堵するかのようにフッと息を吐くと、カノエの背中を優しく擦って抱き締めた。


〆栞
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