第二十六幕
島に辿り着いた時は天気が良くて晴れやかだった。しかし、船に戻る頃には雲行きが怪しくなりポツポツと雨が降り始めた。
船に戻るとマルコは直ぐに船長室へと足を運んだ。そして、現在船に残っている隊長達だけが緊急に船長室へと呼び出され集まっていた。
一方、甲板に残ったカノエは雨が降り始めたにも関わらずその場に佇んで街をじっと見つめていた。
「カノエ! 風邪引いちまうぞ!」
隊員の呼び掛けに頷いたカノエは、船内へと足を向けようとした。だが、ピタリと足を止めて再び街に視線を向けた。
―― 何故……?
心が、身体が、震える。
止めようとしてギュッと拳を握る。
庚……――。
もうすっかり忘れていたはずの酷く懐かしい声音が頭に響いて心臓がドキンと跳ねた。――父の声だ。
ズクリ……――と、胸の内に何かが蠢く感覚に襲われたカノエは、「ハッ…」と短く息を吐いてその場に立ち尽くした。
震える手を動かして胸元をギュッと握ると「ハッ…、ハッ…、」と呼吸を短く繰り返し乱れが生じる。やがて乱れが消えると僅かに震えていた唇は真一文字に結ばれ、目はどこを見るでも無く、しかし、自然と目線が下に落ちて、どこか虚ろ。
降り始める雨の中で甲板を忙しなく行き交う隊員達は、カノエの小さな変化に気付かない。そうして小粒だった雨は愈々本降りになり、甲板にいた隊員達は船内へと引き返して人影が疎らになった。
ポタポタと滴が落ち行く音が酷く耳に突く。
まるで剣先から落ち行く血沫の音のようだ。
『何をしている。庚、戦いなさい』
ドクンドクンと鼓動が激しく脈打ち始めて息が詰まる。
胸の内が苦しくなってヒュッと小さく息を呑み込んだ。
あの時と同じ。
戦時中と同じ。
――疾うに忘れていた。あの現象が再び始まる――
強い殺気に呼び起こされるように響き始める父の声。たった一度でも敵と認知した者に容赦はするな。必ず仕留めろと命令が下される。
嫌だと抵抗する意思を見せた時、父は必ず呼び掛ける。もう一人の人斬りの名を――。
『目覚めよ、迅』
全身を支配する父の声は酷く冷たく非情なものだ。
ドクン……――。
ドクン……――。
カノエは額に手を当てた。
違う…! 違う…!
私は、私は、庚!
小さく呟きながら頭を振った。しかし、心の底に沈んだ暗い穴に棲む者の声が響いた。
『庚』
「!」
ビクンと身体が僅かに跳ねた。とても懐かしく優しい声が言う。庚を守る者は誰でも無い。私が庚を守っているんだ――と。
兄らしく妹を優しく諭す言葉を投げ掛けるが、それらは庚に接する全てを拒絶させるような物言いでしかない。
「や……、違…う…」
目をギュッと瞑った庚が否定を言葉を零した。それでも――
『死なせない。兄として必ず庚を守る。ずっと、ずっと、私はそうして守って来た。だから、今回も安心して眠りなさい』
全身を支配する父の声は酷く冷たく非情なものだったが、対照的な迅のその声は今になれば父と変わらない非情さを含んでいたことに気付く。
「わ…たしが掴むのは、もう、迅の手じゃない」
拒絶の意思を口に出した時、それは無理だと兄の声は言った。
『庚は迅であって、迅は庚だからだ』
「!」
本来の迅なら、本物の兄なら、きっと妹の手を汚させる事はしないだろう。しかし、庚の内に潜んだ人斬りとしての迅が庚の心に迷いを生じさせる。
何の為に剣を振るい戦って来たんだ。
私を殺してまで得た剣でお前は――。
「わ…たしは……」
頬に伝う滴は雨水か、それとも己の涙か――。
『橘君、君の志は何ですか?』
「ッ!」
過去の記憶が蘇る。
最も慕った人の姿と声。その時の景色までもが鮮明に広がる。そして、その人の姿が揺れて別人へと変わると自分の腕の中で瀕死に陥った仲間の姿。
『橘……。新しい日本を見ることもなく死を迎えるなんて想像していなかった。松陰先生や久坂の元に先に逝くことになるが、おれは本当は悔しくて仕方が無い』
ゴホッゴホッと咳き込み苦しそうな表情を浮かべる男には、もう血の気が無くて――。
『なァ、橘。志を同じくした者達はみんな死に、残ったのはおれとお前の二人だ。橘、いや、迅……』
男は震える手を伸ばしてカノエの着物を握り締めた。
『生かせよ。もう誰も、誰も死なせるな。辛く重い荷を背負わせることになるだろうが、長州藩士達を生かすのはお前にしか出来ないことだ。新しき日本に、人斬りも武士も必要無い。お前の手で終わらせてくれ』
ギリッと歯を食い縛って懸命に、まるで遺言のように言葉を紡いだ。
『限りある命を……尽せ、……庚』
「……高…杉……さん……」
死に際の彼の姿が歪むと薩摩と長州が手を組み幕府方との戦が始まる景色へと変わった。薩摩と長州の本陣で、嘗て敵だったはずの男が密かにカノエを呼び出して命令を下した。
『橘、人斬りは人斬りの手で。残酷だがお前にしかできん仕事だ。新たな世に脅威として残るだろう人斬りを全て葬るのがお前の最後の仕事だ。戦の中で紛れ込んでいるだろう人斬りは発見次第全て殺せ』
人斬りは人斬りの手で。それが己に与えられた最後の仕事。”自分を含めた”人斬りを排除せよと、暗にそう言っていることはわかっていた。
「……承知…しました。…………大久保さん」
どこを見るでも無く、雨風が激しくなり始める中、ポツリと口にした。
『庚、覚悟しろ』
「……」
人斬りは所詮人斬りだと、いつか誰かがそう言った。
その誰かも又、人斬りだったことだけは覚えている。
『敵を斬れ』
「…………はい」
今、島から漂い始めた狂気的な殺意が、庚の中に潜む人斬りを呼び覚ました。そして、少しずつ光を取り戻していた瞳が暗く澱み始め、人らしい感情が徐々に薄れていった。
「何してんだカノエ! ずぶ濡れじゃねェか! 早く船内に入れよ!」
「…………いや」
「あ?」
「私は、行かねばならない」
呼び掛ける隊員に振り向くことなくカノエは静かに言った。キョトンとした隊員はカノエの背中を見つめて首を傾げた。
「どこに行くんだ? 船に戻れってマルコ隊長が言ってたろ? 何があるのかわかんねェけど勝手に船を離れるなよ」
な? と、隊員はカノエの肩を掴んだ。しかし、カノエの表情を見た瞬間、隊員は咄嗟にその手を離し、明らかに畏怖を模した表情へと変えた。
「見つけた……。これは……、私の仕事だ」
「お、お前ッ……!」
戸惑う隊員を他所にカノエはそれだけ言い残すと甲板を駆けて欄干を飛び越え街へと姿を消した。
船内の入口付近でそれを見ていた隊員が「何で止めねェんだ」と、カノエに呼び掛けていた隊員の元へと駆け寄った。
「あ、あれは……、」
「あン?」
「は、初めて…会った時の…カノエ…だ……」
「どういうことだ?」
殺伐とした空気の中に鋭い殺気を潜ませて、まるで感情の無い人らしからぬ人。少しでも触れようものなら即斬り殺してしまう冷酷な人斬りが、そこにいた。
◇
庚……――。
お前に差し伸べる手など無い。自らの手で自らの足で立たねばならない。例えそれが血に塗れた道であったとしても、それがお前の運命だ。
何故、神の御剣を携えた者が、そんな過酷な道を歩まねばならないのか。
それはお前が迅では無く庚だからだ。神に愛されし子、迅を殺した罰だ。庚は迅であって迅は庚。そう思うことで罪から逃げるお前を誰が赦すというのか――。
その命、永遠に他人の為に尽せ。
己の為に決して使うな。
お前は永遠に孤独の中で一人戦い続けるのが運命。
愚かで憐れで醜い。……赦されざる我が娘子。
生まれながらに人を殺す才に長けた殺人鬼よ――。
ズクリ……――。
ズクリ……――。
全身に流れる血が騒ぎ始める。
ひくりと鼻が反応した。
「血の…匂い……」
誰もいない道の中を一人、ゆっくりと歩き出した。
「私は……迅。橘…迅。……人斬りだ」
誰に言うでもなく、悲しく、儚く、重い――その言葉を無機質な声音で口にした。
「人斬りは所詮人斬り。はい、殺します。人斬りを、私が、全て、排除します」
そうして全てを排除した後は――私も人斬り故、自らの命を絶ちます。そうすることで新たな世が幕を開ける。新しき世に人斬りは要らない存在なのだから――。
船に戻るとマルコは直ぐに船長室へと足を運んだ。そして、現在船に残っている隊長達だけが緊急に船長室へと呼び出され集まっていた。
一方、甲板に残ったカノエは雨が降り始めたにも関わらずその場に佇んで街をじっと見つめていた。
「カノエ! 風邪引いちまうぞ!」
隊員の呼び掛けに頷いたカノエは、船内へと足を向けようとした。だが、ピタリと足を止めて再び街に視線を向けた。
―― 何故……?
心が、身体が、震える。
止めようとしてギュッと拳を握る。
庚……――。
もうすっかり忘れていたはずの酷く懐かしい声音が頭に響いて心臓がドキンと跳ねた。――父の声だ。
ズクリ……――と、胸の内に何かが蠢く感覚に襲われたカノエは、「ハッ…」と短く息を吐いてその場に立ち尽くした。
震える手を動かして胸元をギュッと握ると「ハッ…、ハッ…、」と呼吸を短く繰り返し乱れが生じる。やがて乱れが消えると僅かに震えていた唇は真一文字に結ばれ、目はどこを見るでも無く、しかし、自然と目線が下に落ちて、どこか虚ろ。
降り始める雨の中で甲板を忙しなく行き交う隊員達は、カノエの小さな変化に気付かない。そうして小粒だった雨は愈々本降りになり、甲板にいた隊員達は船内へと引き返して人影が疎らになった。
ポタポタと滴が落ち行く音が酷く耳に突く。
まるで剣先から落ち行く血沫の音のようだ。
『何をしている。庚、戦いなさい』
ドクンドクンと鼓動が激しく脈打ち始めて息が詰まる。
胸の内が苦しくなってヒュッと小さく息を呑み込んだ。
あの時と同じ。
戦時中と同じ。
――疾うに忘れていた。あの現象が再び始まる――
強い殺気に呼び起こされるように響き始める父の声。たった一度でも敵と認知した者に容赦はするな。必ず仕留めろと命令が下される。
嫌だと抵抗する意思を見せた時、父は必ず呼び掛ける。もう一人の人斬りの名を――。
『目覚めよ、迅』
全身を支配する父の声は酷く冷たく非情なものだ。
ドクン……――。
ドクン……――。
カノエは額に手を当てた。
違う…! 違う…!
私は、私は、庚!
小さく呟きながら頭を振った。しかし、心の底に沈んだ暗い穴に棲む者の声が響いた。
『庚』
「!」
ビクンと身体が僅かに跳ねた。とても懐かしく優しい声が言う。庚を守る者は誰でも無い。私が庚を守っているんだ――と。
兄らしく妹を優しく諭す言葉を投げ掛けるが、それらは庚に接する全てを拒絶させるような物言いでしかない。
「や……、違…う…」
目をギュッと瞑った庚が否定を言葉を零した。それでも――
『死なせない。兄として必ず庚を守る。ずっと、ずっと、私はそうして守って来た。だから、今回も安心して眠りなさい』
全身を支配する父の声は酷く冷たく非情なものだったが、対照的な迅のその声は今になれば父と変わらない非情さを含んでいたことに気付く。
「わ…たしが掴むのは、もう、迅の手じゃない」
拒絶の意思を口に出した時、それは無理だと兄の声は言った。
『庚は迅であって、迅は庚だからだ』
「!」
本来の迅なら、本物の兄なら、きっと妹の手を汚させる事はしないだろう。しかし、庚の内に潜んだ人斬りとしての迅が庚の心に迷いを生じさせる。
何の為に剣を振るい戦って来たんだ。
私を殺してまで得た剣でお前は――。
「わ…たしは……」
頬に伝う滴は雨水か、それとも己の涙か――。
『橘君、君の志は何ですか?』
「ッ!」
過去の記憶が蘇る。
最も慕った人の姿と声。その時の景色までもが鮮明に広がる。そして、その人の姿が揺れて別人へと変わると自分の腕の中で瀕死に陥った仲間の姿。
『橘……。新しい日本を見ることもなく死を迎えるなんて想像していなかった。松陰先生や久坂の元に先に逝くことになるが、おれは本当は悔しくて仕方が無い』
ゴホッゴホッと咳き込み苦しそうな表情を浮かべる男には、もう血の気が無くて――。
『なァ、橘。志を同じくした者達はみんな死に、残ったのはおれとお前の二人だ。橘、いや、迅……』
男は震える手を伸ばしてカノエの着物を握り締めた。
『生かせよ。もう誰も、誰も死なせるな。辛く重い荷を背負わせることになるだろうが、長州藩士達を生かすのはお前にしか出来ないことだ。新しき日本に、人斬りも武士も必要無い。お前の手で終わらせてくれ』
ギリッと歯を食い縛って懸命に、まるで遺言のように言葉を紡いだ。
『限りある命を……尽せ、……庚』
「……高…杉……さん……」
死に際の彼の姿が歪むと薩摩と長州が手を組み幕府方との戦が始まる景色へと変わった。薩摩と長州の本陣で、嘗て敵だったはずの男が密かにカノエを呼び出して命令を下した。
『橘、人斬りは人斬りの手で。残酷だがお前にしかできん仕事だ。新たな世に脅威として残るだろう人斬りを全て葬るのがお前の最後の仕事だ。戦の中で紛れ込んでいるだろう人斬りは発見次第全て殺せ』
人斬りは人斬りの手で。それが己に与えられた最後の仕事。”自分を含めた”人斬りを排除せよと、暗にそう言っていることはわかっていた。
「……承知…しました。…………大久保さん」
どこを見るでも無く、雨風が激しくなり始める中、ポツリと口にした。
『庚、覚悟しろ』
「……」
人斬りは所詮人斬りだと、いつか誰かがそう言った。
その誰かも又、人斬りだったことだけは覚えている。
『敵を斬れ』
「…………はい」
今、島から漂い始めた狂気的な殺意が、庚の中に潜む人斬りを呼び覚ました。そして、少しずつ光を取り戻していた瞳が暗く澱み始め、人らしい感情が徐々に薄れていった。
「何してんだカノエ! ずぶ濡れじゃねェか! 早く船内に入れよ!」
「…………いや」
「あ?」
「私は、行かねばならない」
呼び掛ける隊員に振り向くことなくカノエは静かに言った。キョトンとした隊員はカノエの背中を見つめて首を傾げた。
「どこに行くんだ? 船に戻れってマルコ隊長が言ってたろ? 何があるのかわかんねェけど勝手に船を離れるなよ」
な? と、隊員はカノエの肩を掴んだ。しかし、カノエの表情を見た瞬間、隊員は咄嗟にその手を離し、明らかに畏怖を模した表情へと変えた。
「見つけた……。これは……、私の仕事だ」
「お、お前ッ……!」
戸惑う隊員を他所にカノエはそれだけ言い残すと甲板を駆けて欄干を飛び越え街へと姿を消した。
船内の入口付近でそれを見ていた隊員が「何で止めねェんだ」と、カノエに呼び掛けていた隊員の元へと駆け寄った。
「あ、あれは……、」
「あン?」
「は、初めて…会った時の…カノエ…だ……」
「どういうことだ?」
殺伐とした空気の中に鋭い殺気を潜ませて、まるで感情の無い人らしからぬ人。少しでも触れようものなら即斬り殺してしまう冷酷な人斬りが、そこにいた。
◇
庚……――。
お前に差し伸べる手など無い。自らの手で自らの足で立たねばならない。例えそれが血に塗れた道であったとしても、それがお前の運命だ。
何故、神の御剣を携えた者が、そんな過酷な道を歩まねばならないのか。
それはお前が迅では無く庚だからだ。神に愛されし子、迅を殺した罰だ。庚は迅であって迅は庚。そう思うことで罪から逃げるお前を誰が赦すというのか――。
その命、永遠に他人の為に尽せ。
己の為に決して使うな。
お前は永遠に孤独の中で一人戦い続けるのが運命。
愚かで憐れで醜い。……赦されざる我が娘子。
生まれながらに人を殺す才に長けた殺人鬼よ――。
ズクリ……――。
ズクリ……――。
全身に流れる血が騒ぎ始める。
ひくりと鼻が反応した。
「血の…匂い……」
誰もいない道の中を一人、ゆっくりと歩き出した。
「私は……迅。橘…迅。……人斬りだ」
誰に言うでもなく、悲しく、儚く、重い――その言葉を無機質な声音で口にした。
「人斬りは所詮人斬り。はい、殺します。人斬りを、私が、全て、排除します」
そうして全てを排除した後は――私も人斬り故、自らの命を絶ちます。そうすることで新たな世が幕を開ける。新しき世に人斬りは要らない存在なのだから――。
【〆栞】