第二十四幕


白ひげ海賊団の海賊船モビー・ディック号は、カノエが乗船してから初めてとなる島に寄港した。
甲板ではマルコが中心となって各部隊へ任務の指示を出し、船員達が忙しなく行き交い始める。
邪魔にならないようにと甲板の隅に移動して彼らを見つめていたカノエは、ふと視線を外して島にある街並へと目を向けた。
目の前に広がる街の様相はカノエにとって初めて見るものばかりで、色味がはっきりした世界は目を見張るものがあって新鮮だった。
元の世界にある異国でもこのような景色であったりするのだろうか?
思い起こせば幼い頃から幕末の動乱期まで、自分が見て来た景色にはこれ程に色味が無かったことに気付いた。
春になれば鮮やかな新緑。夏になれば深い緑に変わる。秋になれば真っ赤に染まって、冬になると雪化粧で真っ白な世界。晴れた日の空は真っ青で、空の色に応じて日毎に海の鮮やかさが変わる。
きっと元の世界にも同じように色はあったのだろう。しかし、カノエにとっては色味の無い暗い世界にしか見えていなかった。
白と黒、そして……――鮮明に記憶している色と言えば鮮やかな赤と褐色した赤。つまり、人が流した血の色だ。

思わず眉間に皺を寄せて目を瞑る。以前よりは幾分か心は軽くなった。だが、まだ……、まだ抜け出せてはいない。
ゆっくりと目を開けると自ずと自分の右手に視線を落とした。
今は綺麗な手をしている。だが時折、どす黒い血に染まっているかのような幻覚を見ることがある。それは多くの者達を斬り倒した返り血によるものではあるが、最も記憶に残るのは、やはり初めて人を切り殺したことになる兄《迅》の血だ。

―― ッ……。

そのような幻覚を見ては酷く動揺して呼吸が荒くなる。そして、鮮明過ぎる夢に魘されては夜中に目を覚ますことも――。
未だにそういった症状が残っているにしても、幾分か心が軽くなったと感じるのは、この船に乗る者達の存在が大きい。その中でも、最も気に掛けてくれるマルコの存在が特に大きいことをカノエは実感している。

腰に差している刀と脇差に視線を移してマルコと交わした会話を思い起こした。

〜〜〜〜〜

「刀は暫く持つべきじゃねェ思うんだが……」
「確かにそうかもしれませんが、やはりこれだけは譲れません」
「それは意地か? それとも」
「意地……も、あるかもしれませんが、これを手放すのは流石に……。どう表現して良いのかわかりませんが、己の心の安定を図る為にそうすることは何だか違うような気がする故。それをしてしまえば、本来の自分にすら戻れない気がして……、すみません。上手く言えなくて……」
「はァ……、わかった。なら無理にとは言わねェ。但し条件を付ける」
「条件?」
「当分の間、刀を抜くことは禁止だ」
「!」
「万が一戦う場面に遭遇したとしても、刀を鞘に納めたまま戦うこと。約束できるかい?」
「……わかりました。元より私情による抜刀は禁じられていますし、許可が出るまでは例え他人の為であっても極力抜刀しないように努めます」
「まァ、カノエがそんな場面に遭遇しねェようにおれ達も努力はするよい」

〜〜〜〜〜〜

自分自身のことを想って言ってくれていることはわかる。しかし、刀と脇差を離すことだけはどうしても譲れなかった。
刀は武士の魂であるが、それとは別で、そうしてしまうことはただの逃げにも思えるし、何よりもこれまでの自分の全てを否定しているような気がして、それだけはどうしても出来なかった。
古武流剣術を受け継ぐ者に代々引き継がれてきた『三日月宗近』――平安時代より長きに伝わる由緒ある刀。
その刀の柄に置いた左手をぐっと握り締めた。

「カノエ」
「!」

名前を呼ばれて思考の渦化から浮上して我に返ったカノエは顔を上げるとマルコが側に歩み寄って来ていることに気付いた。

「何か手伝うことでも?」
「いや、今からおれと一緒に島に行くよい」
「え……? あ、ですが仕事があるのでは?」
「1番隊は非番で仕事は無ェんだ。だから付き合うよい」
「そう…ですか。しかし、私は特にこれといった目的もありませんし……」

戸惑いながらカノエが渋っていると、マルコは呆れたように軽く溜息を吐いた。

「この世界を知る為に見聞を広めろっつってんだよい」
「あ、あァ、そうか。何も知らないままでは、いざという時に困ることも……」
「それに、必要なもんを買わねェとな」
「必要なもの……? いえ、今のままで十分に事足りているので特には何も……」

カノエが首を傾げるとマルコは手に持っている袋を掲げて見せた。

「それは?」
「オヤジから金を預かってんだよい」

マルコはその袋をカノエに向けて放った。慌ててそれを受け取ったカノエは目をパチクリさせた。

「洋服を買ってやれってよい」
「は……?」

少し間の抜けた声を漏らして疑問符を飛ばすカノエに対してマルコはニヤリと悪い笑みを浮かべた。

「ちったァ女らしい格好をすれば、ナースに対する免疫もできるだろうだとよい」
「え!?」
「ほら、行くよい」

カノエの手を取ったマルコは引っ張るようにして歩き出した。

「ま、ま、待って、ちょっと、マルコさん!?」

カノエが慌てて制止するように声を上げるもマルコは完全に無視だ。端からカノエが嫌がることが分かり切っているからだ。
必死に踏ん張ろうとするカノエを強制連行とでもいうようにマルコは力付くで引き摺って行く。

―― あ、あああのような、は、ははは破廉恥な姿を、わ、わわわ私が出来るわけが無い!!

青褪めた顔で必死に首を振るカノエに、周りにいた隊員達は「良いもん買ってもらえ〜」だの、「今度おれ達にも見せてくれよな〜」だのと気楽に声を掛けては笑って見送る始末で、何だかとても薄情な人達に思えて仕方が無かったカノエは、誰か助けてくれとばかりに声にならない悲鳴を上げるものの決して誰も気付いてはくれなかった。

「諦めろよいっと」

欄干に差し掛かった所で、カノエは問答無用でお姫様抱っこをされた。

「な、ななっ!?」

酷く狼狽えるカノエを他所にマルコはモビー・ディック号の欄干から飛び降りて下船した。
その時のカノエの顔は青いのか赤いのか最早よくわからない顔色で、いつもの定位置に腰掛けて見送っていた白ひげに、これでもかと潤んだ悲痛な眼差しを向けて、最後には恨みがましい殺気を放ったのは間違いではなかっただろう。
白ひげは片眉を上げたが直ぐに破顔して肩を揺らしながら楽し気に笑った。一方、マルコに連れられて街へと向かう破目になったカノエの足取りは非常に重い。

余計なものはいらぬ故、本当に勘弁して頂きたい!
生活面において、カノエは生来より貧乏暮らしが常であったが為、とにかく何でも控えめに、最低限のものだけしか持たない主義で、まさに贅沢は敵だ!を地で行く性分であった。
幼い頃より両親からは何も与えられなかったから、自分の身の回りのものは自分で調達するしかなかったが為で――まさかそれが幕末の動乱期にとても役立つことになるとは思ってもみなかったことではあった――最早カノエにとってはそれが当り前のことで、誰かに何かを買ってもらう、何かを与えてもらう等、カノエの中の辞書には存在しないのだ。

「今のままで十分だ! 本当に今のままで事が足りている故!!」

何度そう言ったかわからない。しかし、カノエの手を繋いだままマルコは黙々と足早に街の中を歩き、目的の店に辿り着くと強制的にカノエを店内へと押し込んだ。そうして店内を見たカノエは、途端に目を丸くして口をパクパクと開閉を繰り返しながら停止した。

―― あわわわっ!

そこにはカノエにとっては見たことの無い多種多様な洋服がそこかしこにあって、人形《マネキン》に着せられていた洋服に目が行くと愈々顔を真っ赤にして慌てて視線を外した。
そんなカノエの反応ぶりにマルコは肩を揺らしてくつくつと笑い、しかし、やはり耐え切れなかったようで「ぶはっ!」と噴き出して声を上げて笑った。

「ハハハハハッ! カノエ! お、お前ェ! なんつう顔してんだよい!」
「わわわ私にはこのような服は不要! か、か、帰る!」

踵を返して店を出て行こうとするカノエの襟首をガシッと掴んだマルコは、グランドラインってェのは春夏秋冬、瞬時に気候が変わるから、着物だけじゃあ全然足りねェんだよいと説明した。

「いいいイゾウさんと同じで構わぬ故!」

ぶんぶんっと必死に首を振るカノエにマルコは言った。そのイゾウさんからも是非とも洋服を買ってやってくれって頼まれてんだよい――と。

「は!?」

残念だったなとばかりにニヤリと笑みを浮かべるマルコに、口をはくはくと開閉させたカノエは頭を抱えた。

―― い、イゾウさん……、あなたって人は何故にそのような惨い言伝を!?

唯一の味方だと思っていたのに!と絶望したカノエは、愈々目に涙を溜め始めて今にも泣きだしてしまいそうな表情を浮かべた。最早とても人斬りとして恐れられた過去があるだなんて到底思いもしない程に情けない顔だとマルコは苦笑した。

「無理にナースみてェな格好をしろって言ってんじゃあねェんだから泣くなよい」
「うぅ……、し、しかし、こ、ここには、あ、あのような、いい出で立ちの衣服しか、な、無いように見受ける!」

露出が激しい洋服に身を包んだ人形《マネキン》をズビシと指差したカノエの顔は明後日を向いている。どこ見て言ってんだと呆れながら「あァ」と小さく声を漏らしてマルコは頷いた。

「まァ肌の露出は多少我慢しろよい」
「んな!?」

もうそれは非情宣告だ。わなわなと震えるカノエの頭をクシャリと一撫でしたマルコは店員に声を掛けた。こいつに似会う服を適当に見繕ってやってくれよい――と。

ここからカノエにとっては正に悪夢の始まりとなった。
満面の笑顔で「わかりました」と引き受けた女性店員が、固まっているカノエを無理矢理に試着室へと押し込んだ。
ナース達が来ている私服と然して変わらない露出した服を身に纏うナイスバディな女性店員が数人掛かりで、試着室に入り込んでは洋服の着方がわからないカノエの着替えを手伝った。試着室からは女性のキャイキャイと楽し気な声が聞こえてくるが、カノエの声は全く聞こえてこない。

「凄く綺麗な黒髪なのに短いのは勿体無いわねェ」
「そうよ。髪は伸ばした方が良いわ? あなた、凄く美人だもの」
「本当、真っ黒で綺麗な髪よね。お肌なんて白くて柔らかいし」
「あら、綺麗なお肌してるわね。凄く羨ましい!」
「まァ! サラシなんて巻いて……。これじゃあ胸の形が悪くなっちゃうわよ?」
「綺麗な形してるのに潰したりなんかしたら台無しになっちゃうじゃない!」
「上げて寄せてなんかしなくてもハリがあって綺麗ね」

カノエにとっちゃあ地獄だろうよい……。と、試着室から聞こえてくる女性店員達の声を聞いたマルコは少しだけカノエに同情した。
顔を真っ赤にして小動物のようにプルプルと震えているカノエの姿が容易に想像できる。
恐らくほぼ半泣き。いや、立ったまま失神してるかもしれない。
小さくフッと息を吐いてマルコが声を殺して笑っていると、この店のオーナーらしき男が奥の部屋から姿を現した。試着室から聞こえて来る声と色々な洋服を見立てては持って行く女性店員の様子から、男は何となく状況を把握したようで、マルコの元に歩み寄って声を掛けた。

「春夏秋冬一式を準備なさいますか?」
「ああ、そうしてくれ」
「かしこまりました!」

男は上客だとばかりに満面の笑顔を浮かべ、女性店員達に春夏秋冬一式分を用意するよう指示を出した。そして、立ったまま待っているマルコに「どうぞ」と椅子を出した。
女性店員から預かってと渡されたカノエの刀と脇差を手にしたまま椅子に腰掛けたマルコは、ふと刀に視線を落とした。
何となく柄を握って少しだけ鞘から刀を引き抜くとキラリと反射する刀身に、マルコは目を細めてマジマジと見つめた。

―― おれは刀に詳しくはねェが、それでもわかる。この刀は相当の上物だ。

刀身に三日月形の刃文が数多く見られ、サッチやビスタ、そして、ハルタが持つ剣には無い全く異質な輝きに思わず見惚れた。
暫く見つめた後、静かに刀を鞘に納めるとキン……――と、僅かに音がした。その時、視界に影が入り込んで顔を上げたマルコは、この店のオーナーである男がカノエの刀に興味を示したようで、真剣な眼差しでじっと見つめていることに気付いた。

「お客様……、し、失礼ですが、その刀は、ど、どこで手に入れられたのですか?」
「こいつはおれのじゃねェよい」
「ま、まさか、試着室に入られている娘さんが所持されているものでございますか?」
「あァ」

目を丸くした男は途端に難しい表情を浮かべて何度か頷くとブツブツと呟きながら店の奥へと引っ込んで行った。そんな男の様子に、収集家コレクターかと、マルコは何となく察した。

「ねェ、ほら、見てもらいなさいよ!」
「いいいいや! す、済んだのであらば着物に!」
「もう何を言ってるの? とっても似会ってて可愛いのに勿体無いじゃない!」
「こここのような格好で外を歩けと申すのか!?」
「着物なんかより絶対こっちの方が良いわよ!」
「よよよ良く無い! わっ、私は、着物で結構だ!」
「「「彼氏さんに見てもらいなさいよ!」」」
「かっ…かれ……!?」

試着室の中で行われ始めた問答に、外で待っていたマルコも思わず目を丸くした。

―― か、彼氏って……おれかよい!?

そんな風に思われていたのかとマルコが戸惑っていると、試着室のカーテンが勢い良く開けられた。

「あわわ!」
「!」

女性店員に無理矢理に試着室から押し出されたカノエがワタワタとしながらマルコの前へと姿を現した。
肩や腹部を完全に露出した青色のビキニに暗めの紺色の薄手のジャケットを羽織り、超ミニ丈の黒のパンツに黒のニーハイソックス、そして、暗めの紺色のブーツを履いている。

―― マジか……。

何ともレア過ぎるカノエの姿にマルコは目を見張った。一方、顔を真っ赤にして涙目のカノエは、堪らず試着室へ戻ろうとしたものの、女性店員の一人が満面の笑顔でカノエを無理矢理にマルコの前へと立たせた。

「ね、可愛いでしょ? 本当はスカートでも良かったんだけど、彼女は髪が短いからパンツタイプにしてみたの」
「明るい色も良かったけど肌が白いから暗めの色の方が生えると思って」
「彼女は何でも似会うから髪を伸ばしたらもっと素敵になるわよ」

女性店員達が口々に話す言葉を耳にしながら、マルコはじっとカノエを見つめた。

―― 思った以上に……似合ってる。

相変わらず顔を真っ赤にしたまま視線を泳がせているカノエだったが、マルコの視線に居た堪れなくなってソワソワし始め、その内に目をギュッと瞑って顔を俯かせた。

「で、会計なんだが」
「あ、はい。全部購入されますか?」
「あァ、そう」
「マルコさん! お金は大事にしないと駄目です!」
「――ッ……」

マルコの返事を遮るようにカノエは声を張り上げた。それに女性店員達は呆気に取られて目をパチクリさせると途端にクスクスと笑い出した。

「やだァ! もう本当に可愛い!」
「純粋っていうか、凄く貴重なタイプね!」
「そうそう、サラシはもうダメよ? 折角綺麗な”女の武器”を持ってるんだから、彼氏さんの為に大事にしなきゃね」
「おおおおお女の武器!? かかかか彼ッ―――!!」

ボンッ――!

「「「あ、」」」
「……」

どうやら、限界を超えたようだ。
カノエはショートを起こしてドサッと倒れた。

「あー……、とりあえず全部買うよい。それから悪ィんだが、後で船員に受け取りに来させるから預かっといてくれるか?」
「え、えェ、わかりました」
「あと、こいつが着ていた着物一式は持って行くから別の袋に入れてくれ。あとサラシも一緒にな」
「あ、はい」
「頼んだよい」

淡々と会計を済ますマルコに女性店員達は唖然とした。そして、着物一式を入れた袋を受け取ると倒れたカノエを背負って早々に店を後にした。

「素敵な彼氏だわ」
「本当、彼女のことをよくわかってるって感じね」
「あの人って白ひげ海賊団の1番隊隊長さんでしょ?」
「ん? 彼氏じゃないの?」
「さァ、どういう関係かはわからないけど……。1番隊隊長の不死鳥マルコって確か綺麗処の娼婦が挙って群がるぐらいモテるって有名らしいわよ?」
「確かに素敵な人だけど……。あの子はどう見ても娼婦じゃ無いでしょ」
「ちょっ、何だか凄く気になってきた! あの二人ってどういう関係なの!?」
「あの子、凄く純粋で可愛いのに、海賊なのかしら?」
「部下ってこと?」
「上司と部下……?」
「「嘘! 絶対に何か意味深な関係があるわよ!」」

女性店員達が色々な妄想を掻き立てて話に盛り上がる一方で、ハックション!!とマルコは盛大なくしゃみをした。

「何か……、あらぬ噂をされてるような気がするよい……」

刀を後ろ手に横にして、そこに腰掛けるような形でカノエを上手く背負って歩くマルコは、この街の裏手通りにある宿を目指した。そして、二人一室の部屋を借りて部屋に入ると、気を失ったまま「う”−ん”」と魘されるカノエをベッドに寝かせて溜息を吐いた。

「まァ、流石に急過ぎたか」

首を左右にコキコキと慣らしながら刀を直ぐ側の壁に立て掛けて、カノエが眠るベッドの縁に腰を下ろした。

「カノエ……、お前は自分を卑下し過ぎだよい」

そんなに恥ずかしがる程じゃない。
十分に似合ってる。

「カノエ、ご苦労さん」

労うようにカノエの頭を一撫でし、落ちた前髪を払い除けて再び額に手を置いた。そうしていると心の底から大切だと思う気持ちが湧き上がり「守ってやるよい」と、自然と言葉を口にした。

大切で、
大事で、
守り、
助けたい

親心のような
兄の妹に向ける思いのような
そして
愛しい女に向けるような――

複雑な心境が胸中に渦巻いている。少しだけ眉間に皺を寄せて再び溜息を吐く。そして――

「まァ……、どんな気持ちであれ、どれも同じ想いであることに変わりはねェよい」

ポツリと呟いたマルコはカノエを見つめながら彼女の頭を優しく撫でて微笑を零した。


〆栞
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