第二十幕


コンコンッ!

部屋にノック音が響いた。誰だろうと足早に向かってドアを開けると、カノエは目をパチクリさせた。

「え……?」
「カノエ、入っても良いか?」
「あ、は、はい、どうぞ」

予想もしていなかった人物――イゾウの訪問に少し戸惑いながら、カノエは部屋の中へと招き入れた。カノエに与えられたこの部屋は、狭いながらでもソファとローテーブルがある快適な一室で、イゾウはソファに腰を下ろすと持っていた袋をローテーブルにどさりと置いた。

「これは?」
「お前さんにやろうと思ってな」
「中を開けても?」
「どうぞ」

軽く促したイゾウは懐から煙管を取り出して口に銜えた。その様は実に優雅で、舞台に立つどこぞの人気役者のような風貌を思わせる。そんなイゾウを一瞥して袋を開けて中身を見たカノエは目を丸くした。

「これは……!」

袋の中から取り出してマジマジと見つめるそれは生地だ。感触からして良質なものばかりだとわかる。

「カノエは着物が良いのだろう?」
「え、えェ」
「島に着いて衣服を買うにしても洋服が殆どで、着物や袴なんてもんはそうそう売られてねェからな。それらはワノ国の生地だ。着物や袴が良いというのなら仕立てる必要があるんだが……」
「針と糸を頂ければ仕立てることはできますが……」
「へェ、自分でできるのか?」
「はい。小さい頃から自分の着物は自分で……。そうしなければ、着るものも満足にありませんでしたし……、ハハ……」

少しだけ苦々しい表情を浮かべたカノエだったが、直ぐにそれを打ち消して小さく笑った。
その一瞬の表情をイゾウは見逃さなかった。

―― 人斬り以外にも色々と複雑な過去を背負ってるってェ顔だな……。

だが、それについてはマルコの管轄だろうとして敢えて何も聞かずに「そうかい」とだけ返事した。だが、胸のどこかに引っ掛かりを覚えて煙管を軽く噛むとカリッと小さく音が鳴った。
カノエから視線を外して気付かれない程度に小さく溜息を吐いたイゾウは、ゆっくりと立ち上がった。

「針と糸なら持って来てやるよ。カノエの世界とワノ国と似ているようだからな。他に必要なものがあればいつでも気軽に声を掛けてくれ」
「わかりました」

広げた生地を畳んだカノエは、御礼を言って頭を下げた。クツリと笑みを浮かべたイゾウは、ドアノブに手を掛けて部屋を出ようとした――が、やはり思うところがあってピタリと足を止めた。

「カノエ」
「はい」
「今直ぐに吐き出せとは言わねェが、辛いことは溜め込むな。何でも無い会話の中でも良い。少しずつ吐き出してしまえ。おれでもサッチでも勿論オヤジと話をしている時でも構わねェ」
「!」
「それと、自分で仕立てができると言っても嫌なことを思い出しちまうぐれェなら、おれがいつでも代わりに仕立ててやるから、いつでも頼んで来い」
「イゾウさん……」

わかったな?と念を押すように言ったイゾウは、胸中で柄にも無ェこと言っちまったかと少しだけ自嘲した。

「いや、余計だったか」
「え?」

最も心を許せる相手がいるならそいつに任せれば良い話だとイゾウは言った。だが、キョトンとしているカノエにイゾウは片眉を上げた。

「あァ、自覚して無いのか」
「ん……?」

何を言ってるのかと首を傾げるカノエに、イゾウは何かを思い立ったようにニヤリと笑みを浮かべた。

「これは面白い」
「さ、さっきから何のことですか?」
「あーいや、こちらの話だ。そうそう、針と糸を早く持って来てやるよ」

意味深な笑みを浮かべて、イゾウはさっさと出て行った。パタンと締まるドアを見つめながらカノエは眉を顰めた。

―― 何か含みがある笑みだったような……。

ローテーブルの上に置かれた幾つもある生地に視線を落としたカノエは、決して悪い人では無い。それは確かだと自問自答してから再び生地を手に取って眺め始めた。

「見たことの無い柄だが、どこか懐かしく感じるのが不思議だ」

洋服しか無いのなら仕方が無いとは思っていたが、こうして生地があって、着物や袴を仕立てることが出来るのなら、やはり着慣れた和服の方が断然良い。後にイゾウが持って来てくれた針と糸を受け取ったカノエは、部屋に閉じ籠って自らの着物を仕立てることに没頭するようになった。
そうした日々の中のとある日――

「――と、診療の時間か。ついつい夢中になってしまった……」

カノエは針縫いの手を止めてローテーブルにそれらを置くと部屋を出た。船医のナキムを訪ねて腹部の傷の具合を診てもらう為だ。
ナースと出くわすとカノエは顔を真っ赤にしてパニックを起こし掛ける為、可能な限り船医のナキムだけがいる時間を狙って訪れるようにしていた。診察中にナースが戻って来ても大丈夫なようにカーテンを閉めて、ナキムと二人だけの空間を作って診察を受けるのが常――なのだが、今回は偶々ナースに出くわしてしまったようで、顔を真っ赤にして狼狽しながら診察を受けに来たカノエに、ナキムはほとほと呆れた溜息を吐いた。

「まァだ慣れんのか……」
「くっ……、斯様な格好は女子にあるまじき姿。女郎でもあるまいに……。は、破廉恥ではないか……」

腹部の傷を診る為には上半身の衣服を脱ぎサラシを外して上裸を晒すことになる。その為、最初こそ婦長であるエミリアに診てもらっていたのだが、肝心のカノエが顔を真っ赤にして狼狽えるばかりで診察どころでは無くなってしまうのだ。
結局こうして仕方が無くナキムが診ることになったわけなのだが、毎回ナキムは思う。わしも一応男なんだがなァ……――と。
きっとカノエは、ナキムを異性では無く、医者としてしか見ていないのだろう。ナキムを前にして衣服を脱いでも平気な顔をしているのだから。

「うーむ……。やはり傷跡は残ってしまうな」
「回復しているのなら構いません。痛みも消えている故、もう大丈夫かと」
「うむ、もう完治しておるようじゃ」
「なら良かった」

胸を撫で下ろすようにホッと息を吐いたカノエは、ありがとうございましたとナキムに頭を下げるとサラシを手にして巻き始めた。

「しかし、綺麗な身体をしておるというに、そのような傷が残っては勿体無い。好いた男に抱かれる時にカノエは気にせんのか?」
「…………はい?」

サラシを巻く手をピタリと止めたカノエは、ナキムに顔を向けた。完全に目が点となっている。カノエの反応が不思議に思えたナキムは、軽く首を傾げて言葉を続けた。

「おかしな反応をしおるが……、好いた男ができれば何れはすることじゃろう?」
「な、何をです?」
「む、わからんか? ほれ、好き合った男と女がすると言ったらあれしか無いだろう?」
「あれ…とは?」
「はっきり言わんとわからんか。セックスじゃよセックス」
「せっ……?」

初めて耳にする言葉にカノエは眉を顰めた。

「あァ、そうか。言葉が違うのか」

困惑したナキムは顎に手を当てて「むぅ、困った」と呟いた。

「性行為のことを何と言えば――」
「せ、性交!? 睦言のことを仰ってるのか!?」
「ほう、そういう言葉か。まァ、そうじゃ」
「ッ〜〜!?」

顎に生えた髭を撫でながら笑うナキムに、顔を真っ赤にして口をパクパクと開閉を繰り返したカノエは絶句するしか無かった。

―― 何て破廉恥なことを!! 意気揚々と斯様なことを口にするとは医者たる者が何たることか!? ……あ、いや、医者だから言えるのか。……んん?

大きく動揺したカノエは思考が纏まらずに混乱して頭を抱えた。
そもそも――
色恋なんてものに縁の無い世界を生きて来た身だ。男として生きて来た自分には好いた男なんていない。かと言って、好いた女子《おなご》なんてものは尚更いるはずも無い。血生臭い世界に身を置いていたのだ。男女の交わりなんて話は以ての外で――しかし、確かに異性の対象として好かれたことはある。何度か仲間に遊郭へ連れていかれた際は、遊女に本気で見初められて襲われかけた経験がある。中性的で端正な顔立ちをした生真面目な剣士は、兎角人気が高かったのだ。女が苦手になる切っ掛けは沢山あるが、これはその内の一つに含まれる出来事だった。
更に実を言えば、カノエ本人は知る由も無いのだが、同性愛者からの人気も高く、カノエは――いや、橘迅は、同性愛者の性欲的自慰の格好の餌にされていた。しかし、彼らも命が惜しいので彼《彼女》にバレないように隠れてしていたことで、餌とされていた当の本人は一切気付いていない。

「好いた男に傷跡が残る身体を見せるなんて、女としては気になるだろう?」
「そ、そそそのようなこと! わわわ私には縁遠いもの故 絶対にあろうはずが無い!」
「絶対に無いことが寧ろ絶対に無いとわしは思うぞ?」
「な、何故!?」
「カノエも年頃じゃし、これから先に恋の一つや二つはあったとて可笑しくは無い。まァ、綺麗な身体をしておるから腹の傷の一つあったところで支障は無いかもしれんがな。わっはっはっはっ!!」
「んなッ!?」

思わず自分の身体を隠すような仕草を見せたカノエ。これは本能的な行動だった。

―― こ、この、は、破廉恥な医者め!!

顔を真っ赤にしながらナキムから背を向けて再びサラシを巻き、着物の袖を通して合わせをきちっと引っ張ったカノエは、診察台から降りて急いで船医室から出ようと勢い良くカーテンを開いた。

「あら、カノエちゃんじゃない! 来てたのなら声を掛けてくれたら良かったのに!」
「!!」
「本当に相変わらず可愛いわねェ! あ、でも、中性的で端正な顔立ちしてるからハンサムって言葉でもイケるわね!」
「!?」
「男としても女としても素敵だわ〜。カノエちゃんとなら同性でも惚れちゃうかも〜!」
「ッ〜〜!」

またしても絶対に出会いたくないナースの、それも団体と出くわしてしまったカノエは、声にならない悲鳴を上げて絶対絶命のピンチに追いやられた。

―― あわわわっ! もう勘弁してください!

思わず涙目になるのも仕方が無い。

「し、失礼致す!!」

目を瞑って声を張り上げたカノエは、慌てて船医室を出ると駆け足で自室を目指した。そうして途中の角を曲がった時、ドンッ!――と、誰かとぶつかった。
バランスを崩して倒れそうになったカノエの腕を誰かの手が咄嗟に掴む。それによりカノエは地面に身体を打ち付ける難を逃れた。

「す、すみません!」

謝罪の言葉を口にして顔を上げたカノエは目を見張った。
ぶつかった相手はマルコだ。
顔を真っ赤に染めたまま若干涙目になっているカノエが気になったマルコは、少しだけ屈んでカノエの顔を覗き込んだ。

「顔が凄く赤いが……どうした?」
「あ、いえ、あの……」

思わずしどろもどろになっていると――トクンッ……――と、心臓が柔らかく跳ねるのをカノエは感じた。

―― な、なに……?

顔に熱が集中して赤くなっているのはわかっている。しかし、何故か身体の中心から熱くなる感覚に見舞われて戸惑った。どうしてマルコに顔を覗き込まれてそんな反応をしてしまうのか、カノエはわからなかった。

「何かあったのか?」
「い、いえ、そ、その、船医室に行っていたものですから、な、ナースとばったり会って、それで……」
「あァ、それでかよい」

カノエの言葉を聞いたマルコは納得したように頷いて笑った。その笑みを見て――トクンッ……――と、また心臓が跳ねた。

―― ど、どうしてこんな……。

身体が、心が、何かが狂っておかしい。まるで自分の身体でも心でも無いかのように、どうしても自制が効かなくて、心臓が強く脈打って体温が上がる。

「でかい船っつっても廊下は狭いんだ。そう勢い良く走ってると誰かとぶつかっちまうから気をつけろよい」

カノエの頭にポンッと手を置いてクシャリと撫でたマルコは、カノエの横を通り過ぎようとした。

ガシッ!

「っと!」

不意にカノエはマルコの腕を咄嗟に掴んで止めた。

「あ……!」

不思議に思って振り返るマルコに対して、何故こんな行動をしたのかわからないカノエは、掴んでいた手を慌てて引っ込めて顔を俯かせた。

「カノエ……?」
「す、すみません! その、な、何でも無くて……! あ、えと、そ、そうだ! わ、私は着物を仕立てている途中で! だ、だから、し、失礼する!」

酷く狼狽したカノエは、マルコから逃げる様に自室へと戻って行った。

「……ありゃあ、何かあったな……」

カノエを見送ったマルコは、食堂に行くのを止めて船医室へと向かうことにした。そして、船医室前の通路でナキムを見つけたマルコは、ナキムに声を掛けて誰もいない空き倉庫へと連れ込み事情を聞いた。

「――ってなことを話しただけなんだがなァ」

ただ単にナース達に囲まれてパニックを起こしたのかと予想をしていたが全く違っていた。まさか、男女の性行に関する話をしていたとは思ってもみなかったマルコは、額に手を当てて溜息を吐いた。

「はァ……。そりゃあカノエには刺激が強過ぎるだろい」
「刺激も何もいつかはある話だろうが」
「だからって……、カノエは普通の女とは違うって知ってんだろい?」
「年頃の娘であることには変わらんのだぞ? 色恋が無いなんてことはあり得んだろ」
「そ、それは、」
「女心というのは今日明日とて瞬時に変わるもんじゃ。大袈裟に言えば、今は無くとも数時間後には好いた男が現れるやもしれんだろう?」
「――ッ……」

言葉に詰まったマルコが眉を顰めて不満気な表情を浮かべるとナキムは片眉を上げた。

「えらく不服そうじゃな」
「ッ、別に――」
「あァ、ならばマルコがその相手になってやったらどうだ? オヤジもマルコなら文句は無かろうて」
「……は?」

また何を言い出すんだとばかりにマルコはキョトンとした。だがナキムは良い考えだとばかりに手を叩くと愈々乗り気になって言葉を続けた。

「マルコ、お前がカノエの初めての男になってやると良い!」
「なっ……、はァッ!?」
「そうだ! 名案だ! カノエはマルコに最も心を開いとるようじゃしなァ! 案外すんなりと恋愛に運べるかもしれんぞ!」
「な、何でそうなるんだよい!?」

思わず顔を赤くして狼狽えるマルコに楽しくなって来たナキムはかんらかんらと笑う。

「カノエは好みでは無いのか? あれはなかなかの美人の類だぞ?」
「ち、違ェ! おれはそういうことを言ってんじゃねェ!」

愈々怒気を含めて声を張るマルコに、全く怯むこと無いナキムは、ニヤリと悪い顔を浮かべて「ひとつ良い事を教えてやろう」と言った。

「――ッ……」

顔を赤くしたままギリッと歯を食い縛るマルコに、ナキムはコソッと耳打ちをした。

――!?

「まァ、カノエを落とした後の楽しみにすると良かろうて! わははははっ!!」
「て、てめェ……ナキム!!」

ナキムは盛大に笑いながらその部屋を後にした。

「ふ、ふざけんじゃねェぞクソジジイ……」

一人取り残されたマルコは、口元を手で覆うとドサリと力無くその場に腰を落とした。

〜〜〜〜〜

「カノエは男ウケする綺麗な身体をしとるぞ。診察してわかったことじゃが、感度も良いし艶のある声もなかなかのものじゃ」

〜〜〜〜〜

何て話を聞かしてくれんだ――と、マルコは額に青筋を張った。

「くそっ!」

どういう顔してカノエに会えと言うのか。急に異性という札を顔面に叩きつけられたような気がしたマルコは無性に腹を立てた。

助けてやりたい。
守ってやりたい。

最初こそ、本当にそういう気持ちでカノエを見ていた。勿論、異性の対象としてなんて見ていなかった。大事な妹として、家族として、そう見ていたはずだったのに――。
確かにカノエは女だ。年齢的にも年頃で、いつ好きな男ができても可笑しくは無い。可笑しくは無いのだが――。

「おれはッ……。違う、そういうんじゃねェよい」

初めてカノエと会った時、絶望と悲痛な面持ちと、どこまでも暗い瞳に言葉を失った。キッと睨み付けるその目は野性的で鋭く、しかし、どこか儚くて、どこか哀し気で、どうしてか気になって仕方が無かった。
目の前で人が次々に斬られていく凄惨な場面だったというのに、舞うように振るわれる太刀と身体捌きから神々しさを感じて、思わず見惚れて心を奪われた気がした。
強く激しく猛々しく戦う中、鋭い眼光をしていても、まるで泣いてるような――時折に垣間見た内面の顔にも自然と惹かれていった。
カノエを知れば知る程、助けたい、守りたい、そういう気持ちが強くなった。そこに異性だからなんて浅はかな理由は無い。例えカノエが男だったとしても気持ちは同じだったと思う。きっと弟として気に掛けて、助けて、守る――そうしていたはずだ。

「くだらねェ……」

カノエが誰を好きになろうが、そこに関与する気は無い。ただ兄として祝福してやるに越したことは無い。――そうだろう?と自分に問い掛けて……しかし、何故か苛立ちが更に増した。

「何でおれはイラついてんだ……」

気に喰わねェ。
気に喰わねェよい。

どこかモヤモヤする思いを抱えたまま倉庫から出たマルコは自室へ戻ろうとした。しかし、途中でばったりとカノエと出くわした。
カノエは食堂に向かおうとドアを開けただけなのだが、平常心で無かったのか人の気配を察する余裕が無かったようで……。

――あわわ、偶然にも程がある!

顔を赤くしたカノエは心の内で酷く動揺した。片やマルコは、何てタイミングの悪さだと心の内で舌打ちをした。
お互いに目が合うとお互いにカァァッと顔を赤くして視線を逸らした。二人してドキドキと激しく脈打つ鼓動に戸惑っている。
カノエはチラッとマルコに視線を向けた。マルコは口元を手で覆い隠して顔を背けている。
さっきは目を合わせてくれたというのに、どうして顔を背けているのか。そう思うと何故か胸が締め付けられる感覚に襲われたカノエの胸中が切ない気持ちへと変わった。

―― こんな気持ちが何かなんて知らない。でも……。

「!」

気付けばそっと手を伸ばしてマルコの腕を掴んでいた。今度は先程と違って自分の気持ちを理解した上での行動だった。それに驚いたマルコはカノエに目を向けた。カノエの顔が赤いのは先程と変わらない。しかし、どこか悲痛な面持ちに見えたマルコは、少しだけ眉を顰めると漸くカノエへと真面に向き合った。

「どうした?」
「あ…の……、少しだけ……」
「……」
「少しだけ、側にいて欲しい……」
「!」

まさかカノエからそんなことを頼まれるとは思ってもみなかったマルコは、ただただ驚いて目を丸くした。

「あ、い、いや、やっぱりお忙しいなら無理にとは言いません!」

やっぱり恥ずかしくなって気まずい顔を浮かべたカノエは大きく首を振った。顔を俯かせて、ただの冗談で――と言葉にした途端に身体が引っ張られた。

「あ……」

カノエの腕を引いて抱き締めたマルコは「少しだけ……我慢しろよい」と呟いた。
この行動が何を意味するのかなんて最早どうでも良くて、ただカノエを抱き締めたい衝動に駆られて自然と身体が動いていた。
マルコの言葉にカノエは黙って頷いた。すると、少しばかりマルコの腕に力が籠もった。
とても大切に、とても大事に、細く小さな身体を抱き締める。

―― 好きだとかどうとか関係ねェよい。

兄としてなのか、男としてなのか、それもどうでも良い。

ただ、助けたくて
ただ、守りたい
ただ、――

カノエは徐に手を動かしてマルコの背中に腕を回してギュッと抱き返した。マルコの身体が僅かにピクンと反応する。

―― 温かい。兄様と違う不思議な感覚。凄く安心する。

鼓動がドキドキと早く脈打って苦しいはずなのに、胸の内に広がるポカポカと温かくなる感覚がとても心地が良い。

―― 凄く……、愛しい……。

温かい、ホッとする気持ち、嬉しさ、そうして気持ちが高揚して、自然と愛しい想いがカノエの心に芽生えた。

ずっと
こうしていたい
ずっと
このまま――。

「マルコさん」
「……」
「ありがとう」
「!」

カノエは自らより一層マルコを抱き締めて、自らの頬をマルコの胸元に寄せて笑みを零した。

―― お前……。

僅かに目を見張ったマルコだったが、直ぐに抱き締め返して笑みを零した。
不思議と心が満たされていくような感覚に二人は酔い痴れて、暫くの間そうやって抱き合っていた――のだが、偶々通り掛かったハルタがそれを目撃した。
ハルタの気配に気付いたマルコは、咄嗟にパッと抱き締める腕を解いてカノエの両肩を掴んで引き離したのだが、時既に遅しだ。
ハルタは猛ダッシュで食堂へと駆け込むと、マルコにとって最も知られたくない男であるサッチに報告した。

「なァにィィィッ!?」

サッチは声を荒げて厨房から勢い良く飛び出した。しかし、ハルタの行動を読んでいたマルコは、足早に自室に移動して仕事の書類を抱えるとカノエの部屋に戻った。

「マルコさん、その書類の山は一体……」
「悪いがカノエの部屋で仕事をさせてくれ。内側から鍵が付いてるのはこの部屋だけだからよい」
「は、はァ、わかりました」

ついでにポットも持ち込んだマルコは、二人分のコーヒーを淹れてカノエに渡して、自らはソファに腰を下ろしてローテーブルの端に置いて書類を広げた。
カノエはコーヒーを飲みながらベッドの上で着物の仕立てを再開し始めるのだが、黙々と書類作業をするマルコの姿を度々チラッと見ては針仕事を進める。

―― 何だか……、良いな、こういうの。

カノエにとっては不思議な空間だった。どこか心がほっこりして温かくて満ち足りた空間に自然と笑みが零れる。そんなカノエの表情を書類に目を通しながら時折チラッと見ていたマルコもまた笑みを零した。

―― こういうのも、悪くねェな。

マルコもまたカノエと同じ気持ちだった。

「おのれマルコォォッ! どこに行きやがった!?」

蛻の殻となっているマルコの部屋で叫ぶサッチの声を耳にしながら幸せな空間を堪能する二人。そうとは知らないサッチはイゾウを見つけると声を掛けた。

「イゾウ! マルコの野郎がどこにいるか知らねェか!?」
「サッチ、今はそっとしておいてやれ」
「ってことは、どこにいるのか知ってんだな!?」

鼻息を荒くしてイゾウの元へと駆け寄ったサッチだったが、途端にイゾウの顔から笑みが消えて睨み付けられた。

「良い兄貴ならそっとしておいてやれと言ってんだが、聞こえてねェのか?」
「ッ……!」

イゾウの一瞬の変わり様にサッチは思わず言葉を飲み込んで後退った。

「可愛い妹の為だ。相手が誰であれカノエにとっては良い傾向だ。それを邪魔して覆そうってんなら、おれは例え兄弟と言えども容赦はしねェ……」

懐に忍ばせている拳銃を手にしたイゾウの目はとても鋭くて冗談抜きで真顔だった。

「お前、いつからそんなに妹思いの兄貴になったわけ?」
「カノエを見てりゃあ自ずとそうしたくなる。過酷な運命を一人で生き抜いて来た子だ。手を差し伸べたいと思うのはおれだけじゃあ無いだろう?」
「ッ……! そう…だけど……」
「それに、おれとしては下手な男とくっつかれるよりは良いと思ってる」
「んー……」
「何だかんだ言って一番納得してるのはお前だろ。それにマルコは人の機微に敏感だ。なら尚更カノエにとってはこの上ない相手だ」

イゾウの言葉にサッチは気抜けしたように鼻から息を吐いてガクリと肩を落とした。

「はァ……、んなこたァわかってんだよ」
「なら、今はそっとしておいてやんな。カノエの為にもな」
「カノエちゃんの為だって言われるのが一番辛ェ。そう言われたらおれっちは何にもできねェっての」

沈んだ気分で唇を尖らせて愚痴るサッチに、イゾウは漸く微笑を浮かべて拳銃を懐に戻した。

「何だかんだと良い兄貴ぶりじゃないか」
「しっかし、何でまたマルコなんだ……?」

納得いかない雰囲気を醸し出して不貞腐れるサッチに、当然だろうとばかりにイゾウはクツリと笑いながら煙管を咥えた。

「オヤジに聞いた話だが、精神が壊れ掛けたカノエを平静に保たせたのはマルコだそうだ」
「何それ……? 初耳なんですけど」

目を丸くするサッチを尻目にイゾウは煙草に火を付けてふぅっと紫煙を吐いた。

「見てりゃあわかるだろ。カノエはマルコの側にいる時が一番自然体だ。マルコがいなけりゃ頑なで表情もどこかぎこちない。遠慮する心も人を寄せ付けない心も常に見え隠れしている。普段からマルコの些細な心情の変化に気付くサッチなら、カノエのそういったところは簡単に察することができると思うんだがな」
「んー……」

頬をぽりぽりと掻いて視線を外したサッチに、イゾウは「それよりも――」とすべきことを提案した。くだらねェ噂を流される前に口封じをすべきだとは思わないか?――と。

「ハルタね……」
「また何を吹き込むかわかったもんじゃない」
「だな。よし、手伝えイゾウ」
「お前の為ならやらねェが」

少しムッとしたサッチが「カノエの為に決まってんでしょ」と言うと、クツリと笑ったイゾウは「遠慮無く手伝ってやるよ」と頷いた。
こうして食堂でいらぬことをあれだこれだと話してるだろうハルタを捕まえた二人は、ハルタの話を真に受けた隊員達の前で公開説教を施した。
この場合、サッチでは威力が無いので、イゾウが主体となってハルタをけちょんけちょんに説教して、最後には「くだらねェことでカノエを困らせるようなことする奴は、おれが眉間を撃ち抜いてやるから覚悟するんだな」と、満面な笑顔で周囲に向けて牽制した結果、その場に居合わせた隊員達(及び一部の隊長達も含む)全員を凍り付かせた。
カノエにとってのイゾウという存在は、最強の矛であり盾にもなり得るスーパーな兄貴であった。

「……?」

ぬいぬいと仕立てを進めていたカノエは、何となく背筋に悪寒が走った気がして顔を上げた。目をパチクリとして首を傾げたが、書類に羽ペンを走らせるマルコの横顔に、ほんの少し口元を綻ばせた。
ほんの一時の幸せな空間を堪能するように、カノエは針縫いを再開したのだった。


〆栞
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