第十九幕


いつものように、太陽が顔を出さない内に起床して準備を整え始める。誰よりも早く起きてやらねばならないことは、大所帯である海賊団の腹を満たす為の朝食を作ることだ。
黄色のスカーフをキュッと結んだサッチは、目覚めの風に当たろうと甲板へと足を運んだ。
新鮮な空気を鼻から吸い込んで、両腕を上にグッと背中を伸ばして蹴伸びをしながら口から息を吐き出す。ふと見張り台に視線が向いて、おいおいと呆れた表情を浮かべた。

―― 見張りが寝てんじゃあ意味ねェだろ。

「サッチ」
「ん?」

頭をカクンカクンとして船を漕ぐ見張り番の隊員を一瞥してサッチが振り向くと、据わった目の下にクマができたマルコが「くあっ」と欠伸をした。

「マルコ、また徹夜したな?」

やれやれとばかりにサッチは溜息を吐いた。

「あのね、仕事が大変なのはわかるけど、ちゃんと寝ろってんだよ。肝心な所で1番隊隊長様が寝不足で戦えませんでしたとか洒落になんねェっての」
「コーヒー」

サッチの小言を軽くスルーするマルコに、ヒクリと頬を引き攣らせたサッチは、コーヒーに睡眠薬をぶち込んでやろうかと思った。
仕方が無ェと食堂に向けて踵を返そうとした時、そこから離れた場所に、ある人物の姿があることに気付いたサッチはピタリと足を止めた。片眉を上げたマルコもサッチが見つめる先に目を向けると目を丸くした。

「あれって、カノエちゃん……だよな?」
「あァ……」

真剣な表情で両手を合掌して精神統一を図っていたカノエは、勿論二人の存在に気付いていない。
刀を持たずに丸腰のままでゆっくりとした動作で身構えると、指先まで真っ直ぐ伸ばされた手刀をゆらりと上下に回転させるようにして動かした。腕の動きに連動して腰、そして、膝から足へと無駄のない動きで円を描くようにゆるりと動く。時には軽く飛び跳ねると向きを変えて着地と同時に左膝を地に突けて、それを軸に再び回転の動きを見せる。

「あれはひょっとして『舞』ってェやつか?」
「たぶん、そうだろうよい」

動作の繋ぎに一切の無駄が無い。流れが途切れることなく舞う様は、東から昇り始める太陽の光に照らされるのも相俟って神々しさを感じた。
手先からは何かを訴えかけるように、一つ一つの動作の中に潜む所作が様々な顔を覗かせる。

静かに、されど機敏に――。
可憐に、されど力強く――。

男とも女とも取れる中性的で端正な顔立ちをしたカノエが舞う姿は、何ものにも犯し難い気品さえ感じられる程に凛とした空気を纏っていて、思わず見惚れてしまう。
サッチは思わずゴクリと喉を鳴らした。片やマルコはただ静かに目を細めてじっと見つめていた。

こんなに美しく、気高く、神々しい舞を間近で見ることなど無い。

やがて一連の動作が終わりを迎え、最後は正座をして地面に両手を突くと誰に対するわけでもなく深々と頭を下げた。少し長めに一拍置いてから漸く頭を上げてゆっくりと立ち上がると、今度はその場で二拍手して一礼を行った。
再び頭を上げると、ふぅと息を吐き、真剣だった表情が漸く解けて柔和な表情に変わったカノエは、船内に戻ろうと踵を返してピタッと動きを止めた。

「あ、」

サッチとマルコに気付いたカノエは笑みを零して軽く頭を下げた。

「おはようございます」
「カノエちゃん! おはよう!」
「おはよい」

ハルタとラクヨウと彼らが率いる隊員達との間で一悶着あった日から数日の時が経っている。あれからカノエは、少しずつではあるが柔らかい表情を浮かべる様になった。頑なで人を寄せ付けなかった心も少しずつだが解れてきたようにも思える。

「さっきのは舞ってやつか?」
「あ、はい。日が出ると共に起床する生活をしていた故、運動がてらに少し……」

後頭部に手を当てて少し照れ臭そうに答えるカノエに、マルコは両腕を組んで小さく溜息を吐いた。

「無茶だけはするなよい。昨日もナキムやエミリアに怒られてたろい?」
「あ、あれは、その、ラクヨウ殿の隊と稽古をしただけで……」

不味い表情へと変えたカノエが弁解した。ラクヨウから強引に誘われて断れなかったのだろうと容易に想像が付いたサッチは、眉尻を下げた笑みを浮かべて小さく首を振った。

「カノエちゃん、断る勇気も大事だってんだ」
「い、いえ、腹部の傷も、そ、そんなに大したものでは無い故、だ、大丈夫かと思」
「「どこが大した傷じゃねェって?」」
「――ッ……! た、大した傷でした」

凄む様に宥める言葉を一言一句違わず声を揃えて言ったサッチとマルコに、流石にカノエも言葉を飲み込んでシュンと小さくなって「スミマセン……」と謝罪した。
ハハッと軽く笑ったサッチが手を伸ばしてカノエの肩をトントンと軽く叩いた。その一方で、マルコがカノエの頭にポンッと手を乗せてクシャリと撫でる。それにカノエは目を丸くした。

「動いたら喉が渇いたろ? 美味いドリンクを用意するから食堂においで」
「あ、はい」
「おれはコーヒー」
「へいへい」

マルコの注文に面倒臭そうな表情を浮かべたサッチは、足早に食堂に向かって厨房へと入って行った。遅れて食堂に入ったマルコとカノエは、まだ誰もいない食堂の一角に腰を下ろして待つことにした。
テーブルを挟んで向かい合って座ったカノエは、眠たげなマルコを見て眉間に皺を寄せた。極々自然的な表情の変化だ。それに片眉を上げたマルコは少しだけ口角を上げた。

「また、徹夜……ですか?」
「書類整理が終わらなくてなァ」
「寝不足は身体に毒です。規則正しくあらねば、いざという時にちょっとしたことでも注意力が散漫になる故、徹夜は止めるべきかと……」
「あァ、忠告ありがとよい。けど、まァ、そういう時はカノエに助けて貰うから大丈夫だろうよい」
「え!?」

驚いたカノエに、マルコは軽く笑った。

「ハハ、冗談だよい。おれはカノエを守りはしても守られるようなことにはならねェからよい」
「ッ……!」

少しだけムッとしたカノエは背筋を伸ばして口を開いた。

「私は自分の身は守れる故、助けが必要とあらばお助けします。この船の方々は、私にとっては恩人で大事な方々ばかり。どのような時でもどのような場合においても必ず助けて守る覚悟はあります。オヤジ殿の為にも――」

真剣な面持ちで語るカノエに、笑みを消したマルコはカノエを見据えた。何を言い出すかと思えば――と言ったところだろうか。マルコの青い瞳を見つめるカノエは、両膝の上に置いていた両手を自ずと拳に変えると再び口を開いた。「壊れかけた心を救い上げてくれた。あなたの為にも……」――と。

「!」

冗談でも何でもない本気の言葉だ。
少し目を丸くしたマルコに、カノエはフッと表情を崩して微笑んだ。

「言葉では言い表せないぐらい感謝しているのです。礼を尽くしても尽くし切れない程に。私ができる恩返しは行動でしか返せないでしょうから、必要な時は尽力を尽くすのみです」

それに――
心配してくださる兄様《あにさま》が沢山できましたから大丈夫ですよ――と、頬を少しだけ紅潮させてカノエは笑った。優しい女の笑みがそこにあった。マルコは思わず固唾を飲み込んだ。

―― お前ェのそんな笑顔……初めて見たよい。

ほんの少しの間を置いて、カノエ用に作った特製フルーツジュースとコーヒーを乗せたトレイを持ったサッチが厨房から出て来た。

「ほらよ」

コーヒーカップを置くサッチにハッととして我に返ったマルコは、コーヒーカップに手を伸ばすとカノエから視線を外して少しだけ口に含んだ。

「カノエちゃんには、おれっち特性のフルーツジュースね。飲み易いようにあっさり目にしてっから、どうぞ」

特性フルーツジュースなるものを見たカノエは目を丸くした。そして、少しだけ眉間に皺を寄せて怪訝な表情を浮かべながら恐る恐る口にした。

ゴクンッ……――。

「…………美味しい」

目をパチクリさせてジュースを見やったカノエは、不思議な表情を浮かべてサッチを見上げた。

「だろ?」

サッチは満面の笑顔でカノエの頭をクシャリと一撫ですると「んじゃあ、おれっちは朝食の準備があるから失礼するぜ」と言って、再び厨房へと戻って行った。
厨房には4番隊の隊員達がちらほらと集まっていて、「隊長おはようございます」と挨拶をする声が聞こえて来た。

「おう! おはよう!」

いつものように笑顔で応えながらサッチは、先程カノエがマルコに見せた笑顔を思い浮かべた。
きっと自覚はしていないだろうが、カノエにとって恐らくマルコだけは特別なのだ。他の誰にも見せたことの無い最高の笑顔をマルコに見せた。恐らく無意識で、だ。
あれにはマルコも予想だにしていなかったのだろう。コーヒーを差し出した時に見たマルコの表情は、呆気に取られて固まっていたのだから――と、サッチの中でふと疑問が沸いた。

―― そういやァ、何でマルコもあんな反応してんだ?

朝食用のスープを煮込みながらサッチは軽く首を傾げた。

あれ?まさかだけどよ、ひょっとして、
いつか兄妹の関係を越えんじゃねェか?

何となくそう思うと少し複雑な気分になった。しかし、この兆候はカノエにとって大事なことかもしれない。女としての幸せを願うのならば、まずは恋をするべきだ。例えその相手が悪友でもあるマルコだったとしても――だ。

思考がそこまで差し掛かるとサッチはブンブンと頭を振った。

いやいや、それだったらそこはおれっちも立候補してェってんだよ。今は髪が短くて中性的だけど、髪が長かったカノエちゃんはマジで美人だったしよ。マルコにゃ勿体無ェ!――と、スープをかき混ぜるお玉を止めて強くそう思った。
しかし――
そうは言ってもカノエは普通の女では無い。例え表情が柔らかくなったと言えども頑なな心はまだ健在しているのは確かで、それを最も溶かして接することができているのは他の誰でもないマルコであることを皆が知っている。あのオヤジでさえも、カノエのことに関してはマルコに一任している節があるのだ。

―― 伊達にNo.2と言われるだけあるってか。あいつはおれっち負けず劣らず人の機微に敏感だからなァ。

だからと言って、どこに行ってもモテるのがマルコばかりでは面白く無い。少しだけイラッとしたサッチは別の料理に取り掛かる。

―― あのパイナポーのどこが良いんだ!?

ムキーッとする思いを乗せて視線を天井に向けた時だった。

「ポゲッ!?」

コーヒーカップとカノエが飲んで空になったコップを戻しに来たマルコによって後頭部を蹴られたサッチは壁に軽くめり込んだ。

「てめェ……、くだらねェこと考えてんじゃねェよい」
「ッ……」

色々思ってはいたのは事実だけども、決して口に出していないのに何故にわかるのか。

―― マルコ、てめェエスパーか!?

顔面からピューッと血を流しながら怒りの表情を浮かべてマルコを睨むサッチだったが、マルコはふてぶてしい笑みを浮かべながら鼻で笑って去っていった。

「相変わらずッスねェ隊長」
「めげないところが凄ェわ」
「「パイナポーなんて言ったら誰のことかなんて直ぐにわかりますって」」

あ、そこだけ口に出してたのか。
納得したサッチだったが、4番隊の隊員達の呆れた口調に冷たさを感じて心が折れそうになった。

―― くうぅっ! おれっちに春は来ねェのか!?

痛む頭を撫でながらどんよりとした影を背負って落ち込んだ。

「あ、あの、サッチさん」
「!」
「頂いた飲み物は凄く美味しかったです。また次の機会に良ければ作ってください」

マルコの後に付いて厨房に入って来ていたカノエが御礼がてらに声を掛けると、サッチは恍惚とした笑顔を浮かべた。

「カノエちゃん! まさに君は俺の天使だ!!」

目尻にキラリと光る涙を零しながらサッチは両手を伸ばしてガシッとカノエの手を握った。

―― あれ?

おかしいなとサッチは笑顔のまま首を傾げた。女の手の割にはゴツゴツと骨ばった手をしているなと不思議に思った。

「おい、何しやがんだよい。さっさと離せ」
「ハッ!?」

カノエの手を握ったはずだったのに、サッチが握っていた手は、何故か厨房から出て行ったはずのマルコの手だ。わざわざ戻ってカノエの横から手を差し出して邪魔をしたようだ。

「マルコ! 何を邪魔してくれてんだよ!?」
「悪玉菌から妹を守って何が悪い?」
「んまー! 誰が悪玉菌だコラァッ!! おれっちだってカノエちゃんの兄貴だぜ!?」
「どこに兄貴がいるって?」

わざとらしくキョロキョロと辺りを見回すマルコに、頭にカッチーンと来たサッチは目を炎にしてマルコの胸倉を掴もうとした。――が、腕をガシッと掴まれたサッチはそれができなかった。

「「!」」

見ればマルコとサッチの間にカノエが割って入ってサッチの腕を掴んでいた。そして、カノエはキッと二人を睨み付けた。

「カノエ……?」
「カノエ…ちゃん……?」

目を丸くして息を呑んだマルコとサッチに、カノエは呟いた。

私にとって御二方は大切な兄様故、この様なくだらない喧嘩はお止めて頂きたい。もし喧嘩をすると言うのなら――と、腰に差している刀に左手を伸ばした。そして、「私がお相手致す故、今直ぐに甲板に出られよお二方!」と、親指で鍔を持ち上げてチャキッと鳴らして怒鳴った。

「さァ! どうなされるか!?」
「わ、悪かった! 喧嘩はしねェよいカノエ!」
「ごめん! 止める! 止めるから落ち着いてカノエちゃん!」

両手を上げて降参ポーズをしたマルコとサッチは、「「ほら止めた!」」と、お互いに肩を回して仲良しアピールをして苦笑を浮かべた。少しだけ鼻息を荒くして二人を睨み付けていたカノエは、肩の力を抜いてホッと息を吐き出すと笑みを浮かべて「よし」と頷いた。
少し離れた所で一部始終を見ていた4番隊の隊員達は呆気に取られていた。そして、お互いに顔を見合わせた途端にドッと笑った。

あの1番隊隊長と4番隊隊長ですら、おれ達の妹には勝てねェみたいだ!

この話は瞬く間にモビー・ディック号内を駆け巡り、それからというもの、船員達と擦れ違う度にカノエは声を掛けられるようになった。そして――

「カノエ、おれ達にも偶には叱ってくれよな!」
「へ?」
「いやァ、なんか妹に叱られるって良いよなァと思って」
「お兄ちゃんってェ自覚できるしさ。何か良いよな」
「「「頼んだぜ妹よ!」」」
「は、はァ、はい……はい?」

筋骨隆々で強面の男達がデレる姿に、首を傾げながらもとりあえず頷いてその場をやり過ごしたカノエだったが、部屋に戻ってベッドに腰を掛けると腕を組んで更に首を捻って考えた。

「どうして叱ってくれ等と……。彼らは一体何かを仕出かしたのだろうか?」

悪いことをしたというのなら、その時に謝るべきである。しかし、叱るとしてもそれは年長者が叱るべきであり、つまりは船長であるオヤジに叱ってもらうべき事案だろう。――なのに、どうして新参者で海賊団の末席に座る妹に叱ってくれと頼むのだろうか?

この疑問を当面の間抱えることになったカノエは、一人で悶々と悩む日々を送るのだった。


〆栞
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