第十七幕


暫くして落ち着きを取り戻したカノエは、マルコに抱き締められながらポツリポツリと小さな声で語り始めた。
産まれてこの方、親の優しさや温もり、そして愛情を、ただの一度も受けたことが無かった。ただ、純粋に、それだけが欲しかった。あまり思い出したくない幼少期。

叔父夫婦の元で育てられたこと。
兄《迅》のこと。
そして、実の父と母のこと。

時折、苦しそうに顔を歪ませて言葉に詰まるカノエに、マルコはその度に優しく背中を摩った。

ゆっくりで良い。
気を楽にしろ。
誰も責めないから。
落ち着け。
大丈夫だから。

口にはしないが、マルコの手から伝わる温もりがそう語っているようで、カノエの心は久しく感じ得なかった安心感に満たされていった。

優しくて、温かくて……。。

今まで養父や養母に怒られることは沢山あった。それらは自分本位でただ怒鳴るだけで、そこにカノエの為に思って叱り飛ばす言葉は何一つとして無かった。
しかし、マルコは違った。
全てカノエの為を思って叱り飛ばしていることにカノエは気付いた。そうしてちゃんと諭してくれる。間違った思考の坩堝に落ちてしまっていることに気付けとばかりに――。

初めてだった。
自分の全てを何の憂いも無く素直に打ち明けることができる人に、初めて出会えた。

カノエはそう思った。そして、マルコの背中へと手を伸ばして少しだけ服をギュッと握った。

「愚かなる吾れをも、友とめづ人は、わがとも友《ども》と……めでよ人々」

ポツリと呟いたカノエにマルコは片眉を上げた。

「破った紙に書いてあった文です」
「どういう意味だ?」

愚かな私のことでも「あれは私の友であった」と思ってくれる人がいるならば、私の友にも、私に向けてくれたのと同じ愛情を向けてほしい

「先生と慕った人が死ぬ直前の獄で記した遺書に書いてありました。塾生達の間で遺書を回し読みしていて手元には残せなかったので、印象に残ったその一文を紙に書き写しておいたものです」
「破って良かったのかよい。大事なもんだったんじゃねェのか?」
「はい……。とても大事なものでした。何度も何度も読んで……、生きる原動力にしていたぐらいですから」
「なら、」
「でも、もう、良いんです。私の嘗ての友はこの世界にいないですから。それに、もう殆どは先に逝ってしまいましたし……」

カノエはマルコの胸元にトンッと額を押し当てて目を瞑った。一方でマルコは撫でていた手をピタリと止めてカノエを見下ろした。

「この御守袋に入っていたものはもう捨てます」
「あの髪は……、誰の髪なんだ?」
「仲間が髪を切った時に渡されました」

〜〜〜〜〜

「俺の覚悟の印だ。捨てずにお前が持っておけ」
「し、しかし!」
「俺が死んだらお前が俺の意志を継げ」
「!」
「そういうことだ」

〜〜〜〜〜

「――そう言われて受け取りました」
「そいつは……生きてんのかい?」
「いえ、病で死にました。二十九歳でした」
「に、二十九!? まだまだ若ェじゃねェか。死ぬにはッ……早過ぎる」

驚いて抱き締める手を緩めたマルコに、カノエは顔を上げてゆっくりと離れると短くなった自分の髪を軽く摘まんだ。

「今の私のような髪形をした人でした。真似たわけではないんですが、髪を切ったら似てしまいました」
「だから……、いらねェって?」
「いえ、そういうわけでは……。今の私は幕末から外れたという点においては最早死んだようなものですし、仲間の墓に手向けとなる報告もできませんから」
「……。じゃあ、こいつは……誰の櫛だい?」
「!」

足元に落ちた古びた櫛をマルコが拾ってカノエに見せると、カノエの表情は途端に曇って声を詰まらせた。
その櫛からスイッと視線を外してカノエは顔を俯かせた。

「それこそ、最早いらないもの……です」

何とか言葉を音にしたカノエに、マルコは片眉を上げた。
恐らくこれは先の二つと違ってあまり良い思い出の品では無いのだろう。しかし、それでも手放せないのは――母親の櫛……か――と、マルコはそう思った。

「カノエ、逃げるな」
「ッ……!」

カノエの肩が小さく跳ねた。そうしてカノエはゆっくりと視線を櫛へと向けた。

「それは……母の…櫛です……」
「貰ったのか?」

マルコがそう問うとカノエはブンブンと頭を振って否定した。

「父が持っていました。時々、それを手に物思いに耽ていたので母の形見かと。父から逃げる前にこっそり手に取って見ていたのですが、返す前にあのようなことになってしまって……」
「……」
「辛くて嫌な時を思い起こさせるものでしかない櫛でしかないのに、何故か手放すことができなくて……」
「捨てるのか?」
「はい。もう、良いんです」

堰を切ったように溢れ出した過去の記憶は涙と共に全て流れ落ちていったから――。と、心が軽くなったのか、カノエの表情は幾分か晴れやかなものに変わっていた。

この世界をカノエは知らない。しかし、この世界はカノエを知らない。だからこそ、カノエはもう自由になれるのだ。

わかったと頷いて微笑を浮かべたマルコは、古びた櫛をベッドの近くにあるローテーブルに放った。そして――
よく話してくれたとばかりにカノエの頭に手を置いてくしゃくしゃと撫でた。

「カノエ、もう自分で自分を縛るのはこれで終わりにしろよい」
「!」

短くなったカノエの黒髪が指の間をスルリと抜ける様を見つめながらマルコはそうポツリと言った。その科白に且つて同じ様なことを自分に言った人物の声と顔がカノエの脳裏に浮かんだ。

〜〜〜〜〜

「おまんはちっくと自分を縛りすぎちょる」

〜〜〜〜〜

カノエは目を丸くした。

「生真面目過ぎんだろうなァ。もう少し気楽になれよい」
「あ……」

〜〜〜〜〜

「おまんは真面目すぎぜよ。もうちっくと気楽にしたらどうがじゃ?」

〜〜〜〜〜

マルコの言葉が懐かしい男の言葉と重なり合う。

「この船に乗る奴ら全員を信用しろとは言わねェ。だが、せめてオヤジやおれを信用してくれよい。一人で何もかも抱え込むな。もっと周りに頼ることを覚えろ」

〜〜〜〜〜

「一人で何でもかんでも抱え込むんはいかんぜよ。もうちっくと周りに頼ること覚えェ」

〜〜〜〜〜

「もうカノエを縛る世界はここにはねェんだからよい」
「……」

カノエがゆっくりとマルコを見上げた。それに釣られるようにマルコはカノエを見下ろした。
目をぱちくりと瞬きを繰り返して不思議そうな表情を浮かべているカノエに、マルコは片眉を上げた。

―― 何か……おかしなこと言ったか?

疑問に思って軽く首を傾げるマルコに、カノエはポツリと言った。海の男というのは似た思考をお持ちになるのだなと思って――と。

「は?」

似た思考とは誰と比べての話なのか、思わず少し間の抜けた声を漏らしたマルコにカノエはハッとして慌てて説明を始めた。

「あ、いえ、今しがたマルコさんが仰られたことと同じようなことを言ってくれた者がいたので……」
「あァ、そういうことかい」

納得したとばかりに苦笑を浮かべるマルコに、幾分かホッとした素振りを見せたカノエは、目を細めて懐かしむような表情を浮かべた。

「彼も海が好きな方だった故……」
「なら、おれとそいつは気が合うかもしれねェな」
「そうですね。屈託無くて誰とも話せる彼は自由を地で行くような人でしたから」
「へェ、そうかい」

兄のこと、家族のこと、仲間のこと、色々と話を聞いた。そうして異なる世界の異なる文化における話へと話題が変わる。
それは規律や決まり事があまりに多い世界で、マルコにとってはとても窮屈な世の中に思えた。
ただ感心したのは――。
そんな中でも、国や家族の為に志を掲げて懸命に生きようとした志士達の生き様だった。激動の時を、劇的で苛烈に命を燃やして生き抜く若者達がいて、三十にも満たない年で死んでいくなど想像し得ない。そんな風に『誰かの為に命を賭して生き切ることができる者』等、この世界で果たしてどれぐらいの人間が出来るのだろう。
異なる世界で生きて来たカノエの話を談笑を挟みながらカノエの気が済むまで、マルコは聞き役に徹して付き合うのだった。


〆栞
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