第十六幕


部屋に戻り背中をドアに預けたまま暫く虚空を見つめていたカノエは、徐に懐から取り出した御守に視線を落とした。

この世界には何も無い。
この世界には誰もいない。

御守の中に収めていた髪の束を取り出して左手でギュッと握り締め、折り畳まれた一枚の紙を震えた右手で取り出した。その時、少し古びた櫛が袋から落ちて床に転がったが、カノエは気にも留めずにベッドへと移動してゆっくりと腰を下ろした。

『愚かなる 吾れをも 友とめづ人は わがとも友《ども》と めでよ人々』

紙に書き記された文字を指で辿るとジワリと涙が浮かんでポロポロと零れ落ちる。

この世界で死んだとしても、きっと、もう――

「先生……、みんな……」

生きても一人。
死んでも一人。

「あに…さ…ま……」

二度と味わいたく無かった孤独と絶望がカノエの胸に去来した。手にしていた紙が指から零れ落ちるようにハラリと離れて床に落ちた。
絶え間なく襲う吐気と嗚咽に苦しくなって、胸元を強く握り奥歯をギリギリ噛み締め、蹲るように上体を前に倒し、声を押し殺して泣いた。





カノエの部屋に来たマルコは、ノックも無しにドアを開けた。
ベッド上でシーツを頭から被って包まったカノエが、まるで何かに怯えるかのように小さく震えながら身を小さくして蹲っている。足元には無造作に投げ捨てたように刀が転がっていて、御守の中に入っていたはずの古びた櫛と、折り畳まれていたはずの紙が床に落ちていた。
部屋に入ったマルコは、ドアを閉めて内側から鍵を掛けるとベッドへと歩み寄った。そして、声を掛ける事も無く静かに腰を掛けた。
ギシッ……と、軽く軋んだ音がやけに大きく聞こえた気がした。だが、反応を一切示す事も無ければ包まっているシーツから顔を出す気配も無いカノエに、マルコは視線を外して足元に落ちていた紙を拾い上げると読めない文字を見つめた。その時、ごそっと動くのを感じたマルコは、視線をカノエに移した。
ゆっくりと身体を起こしてシーツから顔を出したカノエは、マルコが手にしていた紙に目を向けた。

「カノエ、」
「…――い」
「なに……?」
「いらない! もう、もう! 私には何もかも不要なものだ!!」
「お、おい!」

マルコの手からそれを奪い取ったカノエはその紙をビリビリビリッと破り捨てた。

「カノエ! そいつは大事なもんじゃねェのかよい!」
「五月蠅い!」

マルコが咄嗟にカノエの腕を掴んで制止するもののカノエはその腕を振り払い、シーツをギュッと握り締めてギリギリと歯を食い縛った尚も声を荒げた。

「この世界に友はいない! この世界には誰もいない! 死んでもきっともう会えない! 兄様も松陰先生も久坂も高杉も坂本も誰も、誰にも、会えないんだ!」
「!」
「私は、私はッ――」

唯一残った志を、大義さえも奪われた。
何もかも――。
無くして、失くして、亡くして……。

声を震わせたカノエは、苦しさに耐え切れなくなって、掴み掛かるようにマルコの衣服をギュッと握った。

「どこまで身を落とせば良い!? どこまで私は苦しめば良い!? 何故! どうして!? 何もかも与えらえずに我慢して生きて来たのに! 手にしたものはどんどん零れ落ちて行く! 私は何の為に戦い生き抜いて来たんだ!? 私は、私はッ――!」
「落ち着けよいカノエ!」
「どうしてッ……! どうして……、私は……」

 なぜ、生まれたのかな

「ッ……!」

頭を落として俯いたカノエは、マルコの衣服を握り締めていた手を離して流れ落ちる涙を何度も腕で拭った。力無く吐き出された最後の言葉に、マルコは胸が疼いて痛ましく感じた。

ひっく…ひっく…と、しゃくり上げながらカノエは、自らの頭を掻き毟るように荒く掻き始めた。何度も、何度も、髪がボサボサになるのも構わずに――。

「おい、やめろ!」

カノエの腕を掴んだマルコは、叱責するように「いい加減にしろ!」と強い口調で言った。バッと頭を上げたカノエはマルコを睨み付けた。

「お前に何がわかる!!」
「カノエッ……」
「大事な人を自らの手で殺したことはあるか!?」

カノエはマルコの胸倉を掴むと泣きながら怒鳴った。

「大切に想ってくれた人を、生きろと告げた人を、直ぐその場で斬り殺したことはあるか!? 優しさと温もりと居場所を与えてくれた人を! 何も出来ずにただただ見殺しにしたことはあるか!?」
「ッ……!」

最早それは怒鳴るというよりも絶叫に近い悲痛な叫びだった。マルコの胸倉を掴んでいたカノエの手からフッと力が抜けるとトサリと落ちるように離れ、カノエは頭を落として項垂れた。
ポタポタと落とされるカノエの涙がシーツを濡らしていく。それをじっと見つめたマルコは、小さく溜息を吐いた。

「話せ」
「……」
「全部、教えろ」
「何を……?」
「お前のことを」
「何故……?」
「知りてェからだ」
「話せることなんて何も……」

張りの無い小さな声で返される言葉に、まだ意地を張る気かと、マルコは苛立ちを隠せずにカノエの肩を掴んだ。

「話せって言ってんだ! 何もかも全部ぶちまけりゃあ少しは気が楽になるだろうがよい! この世界にお前を知る奴は誰もいねェんだ! どう生きて来たのかを話したところで、お前に不利益なことなんて何も無ェだろ!」
「もう……、もう良い。もう、もう放っておいてくれ!」

頭を振ってカノエが叫ぶと、今度はマルコがカノエの胸倉を掴んだ。

「放っておけねェから言ってんだよい!」
「ッ……」

素直になれないカノエにマルコは愈々声を荒げて怒鳴った。思わず身体がビクンと跳ねたカノエは、声を詰まらせて押し黙ると顔を俯かせた。その様子にマルコは小さく息を吐いて一呼吸置いた。そして――
無くしたのならまた作れば良い。仲間を作れば良い。この世界はお前を知らねェんだ。自由に、好きなようにできる。と、落ち着いた声音で話し掛けた。

「私にッ……、私にそんな資格は無い……」

首を振る#カノエ#に、マルコは呆れにも似た溜息を吐いて「おかしなことを言う奴だよい」と頭をガシガシと掻いた。

「仲間を作るのに、資格なんざァ必要無ェだろ」
「……」
「それに、カノエが生きる糧はもうとっくに存在してんだろい」

口端を上げてマルコは言った。その言葉にピクンと反応したカノエは、ゆっくりと頭を上げてマルコを見上げた。

「カノエはオヤジの娘になったんだ。お前は一人じゃねェ。それにおれは言っただろ。カノエの重荷を一緒に背負ってやるってよい」
「!」

だから、何もかも吐き出せとマルコは言った。カノエは少しだけ眉尻を下げると再び黙ったまま顔を俯かせた。

「はァ……」

マルコは深い溜息を吐いた。

「おれはカノエのことをもっと知りてェんだ。これが理由じゃダメかい?」
「どうして……」

顔を俯かせたままポツリと零すカノエに、マルコは眉をピクリとさせて少し奥歯をグッと噛んだ。意地なのかどうかはわからないが、いつまでも素直になれないカノエにマルコは痺れを切らして

「何故そう思ッ――」

言葉を遮るようにカノエの腕を強引に引っ張った。

「!」

マルコの胸元に身を寄せる形で抱き締められたカノエは思わず身体を強張らせた。だがマルコは、構う事無く抱き締める腕に力を籠めて、カノエの後頭部や背中を優しく撫でた。

「あ、の……」

突然の事に驚いたカノエは、身体がこれまでに経験したことの無い熱を発するのを感じて酷く戸惑った。鼓動がドキドキと早鐘を打ち始める一方で、マルコの温もりに強張った身体から力が徐々に抜け落ちて行く。不思議な感覚だった。

「カノエ」

優しい声音で名前を呼ばれ

―― あ……。

心臓がトクンッ……――と優しく脈打った。
視界がジワリと歪む。

「ッた……」
「……」
「欲しかった…だけ…なのに……」

唇を震わせながらカノエは、マルコの衣服をギュッと握った。

「これが欲しかっただけなのにッ……」

枯渇した心に優しさと温もりが籠った情愛が注がれて満ちて行く。

「オヤジ程でかくはねェが、おれでも良いなら、いくらでもくれてやるよい」

くつりと笑ったマルコは、腕に力を込めてカノエを強く抱き締めた。溢れ落ちるカノエの涙が、マルコの胸元を濡らして行く。そして、カノエの口から嗚咽が漏れ始めた。

「ふっ…うぅ…、うあァァァッ!」

気持ちが溢れて堰を切ったように声を上げたカノエは、マルコの腕の中で泣いた。恥も外聞も全て捨てて思い切り泣いた。心の拠所としていた兄に泣き縋った子供の頃のように――。
我を忘れて只管泣き続けるカノエをマルコは何も言わずに抱き締め続け、慰めるように背中をトントンと一定のリズムで優しく叩いては撫で続けた。

―― 大事な人を自分の手で斬り殺した……か。

心の根底に潜んだ傷は思っていた以上に深刻で、そう容易く癒えるようなものでは無いとマルコは思った。それでも――

「大丈夫。カノエはもう自由だ。友ならここにいる。おれだけじゃない。サッチもイゾウもビスタもいる。皆、カノエのことを気に掛けてんだ。だから、何もかも無くしたなんて、もう言ってくれるなよい」

カノエの耳元で諭すように優しく話した。
心に残るように、支えになるように――。


〆栞
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