第十五幕


誰もが庚を嫌う。
誰もが庚を恨む。

本当に生きるべきは迅だ。
だから、
迅の代わりに迅として生きる。
そう決めた。
だって、
庚はもう、あの日に死んだのだから――



海を望める海岸線をトボトボと歩き、波が打ち寄せる音を耳にしながら――、ふと遠方の海に視線を向けた。
遠く離れた沖合には見たことの無い黒くて大きな物体が浮いている。船であることに間違いは無いだろうが、あんなに大きくて黒い船は初めて見る。何度か瞬きを繰り返した後、視線を近くの浜辺に移した。
そこには庚と同じように船をじっと見つめている男がいた。衣服に砂が付こうが構いもせずに、どっかりと腰を下ろしたのだろう。そのせいで着物の裾は砂まみれだ。
その様に、どうしてだろうか。不思議と声を掛けたくなる衝動に駆られた庚は、ゆっくりとした足取りでその男の元に歩み寄った。

「……ねェ」
「!」

人の気配が無いひっそりとした浜辺で声を掛けられるとは思っていなかったのだろう。
男は驚いて勢い良く振り向いた。
細い声音だった為に役人の類で無いことは瞬時に察したが、全く予想してもいなかった幼い姿に、男は戸惑いがちに頬を掻いた。

「こんな所で何をしているの?」
「んー……、異国の船に乗り込む算段を考えていてね」

軽く苦笑を浮かべて、男は視線をまた海へと向けた。

「異国の船?」
「知らないのか? あそこにある船がそうだ」

男が指を指す方角に目を向けた庚は、自ずと男の側に歩み寄って隣に腰を下ろした。そして、沖合にある船をじっと見つめてから庚は隣の男を見上げた。

―― !

男は情のある優しい笑みを浮かべて庚の方へと顔を向けた。大人が見せるそんな表情かおを庚は初めて見た気がして、僅かに胸の内が温かくなるのを感じた。

「どうして……?」
「ん?」
「こんなことが知れたら罰を受けたりするんじゃ……」

庚の言葉に男は「そうだね」と小さく笑った。

「承知の上だ。私には志があるからね」
「こころ…ざし?」

耳慣れない言葉に反復するように呟く庚を、男は優しい笑みを浮かべたままじっと観察した。
どうしてこんな夜遅くに、このような人気の無い浜辺に、幼い子が一人で出歩いているのか疑問に思った。
よく見れば、衣服は綺麗とはとても言い難く、端々にほつれが見られ、土埃も被ってボロボロだ。幼い腕に大事そうに抱えられている刀だけがとても立派な様相で、この子が持つには違和感があって、更に疑問が深まる。
ただ――、
何故か故郷で待つ妹とどこか被る気がして、疑問を抱きながらも警戒することを忘れて、こうして普通に言葉を交わしているのだから、何とも妙な気分だと男は思った。

「私から質問しても良いかな」
「うん」
「君こそ、こんな夜にここで何をしている? 子供が一人でこんな所にいるのは普通じゃないように思うのは私がおかしいのかな」

男の質問に初めて視線を逸らした庚は、小さく首を振って「わかんない……」と答えた。

「立派な刀だね。君はどこかお武家のご子息かな?」
「ううん、そんな立派なもんじゃないよ。それに私は――」

顔を上げて否定を口にした庚は、ハッと何かに気付くようにして言葉を切ると顔色を変えて俯き「ううん、何でも…無い……」と首を振った。
迅として、橘迅として生きることを決めたのだ。だから、男の問いに間違いは無い――はずなのに、自ずと首を振って否定してしまったことに、どうして?と自分に問い掛けた。

男として、迅として、生きると決めた。
でも本当は――
心の底で沸々と湧き上がる声無き声に、庚は奥歯を噛み締めてギュッと目を瞑った。刀を持つ手が僅かに震える。
急に何も話さなくなった庚の様子に男は少し考えた。そして、俯いている庚の顔を覗き込むように、地面擦れ擦れに頭を倒して見上げた。

「あー、君は……、女の子か」
「!」

男は上体を起こして納得したように笑みを零した。

「刀を持っていたから男の子かと勘違いしてしまったよ」

頭を掻きながら「すまない」と男は謝った。それに庚は目を丸くした。

「もし良ければ君のことについて話を聞かせてくれないか」
「え?」
「いや何、話を聞いてどうこうってわけじゃあない。君に興味が沸いたんで、詳しく知りたいと思った」
「!」
「あー、でも、嫌なら無理強いはしない」

自分の非を認めて素直に頭を下げて謝る男に、庚は目をパチクリさせた。そうしてあまり変わることの無かった表情が自然と緩んで、「ふふ」と、少しだけ笑うことができた。
不思議な人だと思った。
頑なだった心もいつの間にか絆されていて、この人になら何でも話せると、庚は思った。

「私は剣士だよ。男として生きることを決めた剣士。剣を極めたけど、色々と嫌になって逃げて来た」

偶々通り掛かって、偶々声を掛けて、偶々話をした。
決して自分から声を掛けることも話すこともない人見知りの自分が、どうして自ら声を掛けようとその気になったのか、今でもわからない。

とても温かくて優しい不思議な人。
素直に自分の話をしていることに気付いて戸惑うと頭を撫でてくれた。その手がとても温かくて心地が良くて、まるで兄と――迅と話をしているかのような錯覚さえする程に、とても近しい人に思えた。

「名前を聞いても良いかな?」

橘迅だと答えた庚に、男は小さく笑って首を振った。

「本当の名前は?」

その問いに庚はドクンッと心臓が大きく唸るのを感じた。そして、無意識に唇をキュッと噛んだ。

「庚……、橘…庚……」

自分の名前を口にした時、僅かに声が震えた。

「庚か、良い名だ」

頭に置かれた手をポンポンと軽く弾んでクシャリと優しく撫でる。その感触がとても懐かしく思えた庚は、眉をキュッと顰めて男を見つめた。

「君は良い目をしているね」
「え……?」

男はクツリと笑うと立ち上がってグッと気伸びをした。そして、再び海へと顔を向けた。

「橘君、できることならもっと早く君に会いたかった」
「!」
「君はきっといつかこの国の運命を左右する存在になる」
「どういうこと……?」
「ハハ、幼い君にはまだわからないだろうね。だが、その年で名だたる剣術を身に付けた君は凄い剣士になるよ」
「剣を振るってないのにわかるの?」
「いや、まァ、何となくだ」
「変なの……」

庚がポツリと零すと男は声高らかに笑った。

「さて、帰る家が無いのなら私と共に来なさい」
「え? で、でも、あの……」

思ってもみなかった言葉に庚は大きく戸惑った。

「沢山話を聞かせてくれたじゃないか。今更何も遠慮することなんて――」

男はそう言い掛けてハッとした。

「あァ、そうだった。私のことを話していなかったね」

信じろと言う方が無理かと笑う男に「名前も知らないよ」と庚が言うとピタリと笑うのを止めた男はポリポリと頭を掻いた。

「まだ名乗っていなかったことも忘れていたよ。すまない」

また丁寧に頭を下げる男に、謝らなくて良いよと庚は小さく首を振った。

「庚は優しいな」
「!」

男はそう言って笑うとコホンと一つ咳払いしてから再び口を開いた。

「私の名は吉田寅次郎。あ、んー、吉田松陰と言った方が良いかな。私に師事する門下生からは『松陰先生』と呼ばれているんだが、まだこの名には慣れていなくてね……」
「しょう…いん…せんせい……」

覚えようと口にして呟く庚に、吉田松陰と名乗った男は苦笑を浮かべながらコクリと頷いた。

「一緒に来てくれるかな」
「うん」

本来ならば警戒してもおかしくないはずなのだが、心の底から信用できる人だと確信した庚は、素直に松陰に付いて行くことにした。
道中、松陰は庚の前を歩くようなことはしなかった。ずっと歩調を合わせて庚の隣に並んで歩く。そんな優しい気遣いが嬉しくて、庚は自然と笑みを浮かべるようになった。

「私には年の離れた妹がいるんだ。その子は私を「寅兄《とらにい》様」と呼ぶよ」
「寅兄…様……」
「何ならそう呼んでもらっても構わないよ」
「え?」
「君が庚ならばね」
「?」

松陰に連れられて向かった先は長州藩邸だった。松陰は仲間の志士達に庚のことを説明した。最初こそ渋っていた彼らであったが、松陰の説得によって庚は藩邸内に入ることを許された。

「庚、まずは綺麗にしないとな」

明るい場所で見る庚の姿は、みすぼらしい乞食の様で、とても見れたものでは無かった。
松陰が庚の全身を洗って優しく拭う。そうして共に食事をして、寝床へと向かうと共に並んで眠りへと就いた。
緊張してなかなか眠れなかった庚に、「大丈夫。寝なさい」と松陰が優しく諭すように呟いて、何度も何度も頭や背中を優しく撫でてくれた。

優しくて、温かくて、偽りの無い愛情をくれたことが、何よりも――凄く嬉しかった――。

〜〜〜〜〜

私の存在を許し、私を認め、私が心を許した人達は、私を置いて先に逝く。
迅兄様も、先生も、久坂も、高杉も、皆、先に逝った。
もう無くしたくない。
それが私に課せられた罰と言うのなら、私は一人を選ぶ。
もう失くしたくない。
決して赦されず、与えられ続ける罰ならば、私は一人でいい。
もう亡くしたくない。
もう何もかも亡くしたくないんだ。

〜〜〜〜〜

ポタッ…ポタッ……――。

涙が零れ落ち行くのをじっと見つめたカノエは、グッと呼吸を止めて漏れそうになる嗚咽を飲み込んだ。

「……一人で…良い……」
「カノエ……?」
「もう……良いんです」

自身の腕を掴むマルコの手にそっと触れたカノエは、下げていた頭を上げてマルコに顔を向けた。
憔悴、疲弊、そして、絶望――。
心がまた深い底へと堕ちて分厚い壁で囲いを作って引き籠る、そんな表情だった。

目を丸くして思わず絶句したマルコは「お前!」と口を開くとカノエが「すみません」と声を被せてそれを打ち消し、「私は表に出るべき人間では無い故、やはり失礼する」と言った。そして、甲板に集まる船員達に顔を向けたカノエは再び頭を下げた。

「次の島に着くまでの間、お借りしている部屋で大人しくしている故ご安心を。数々の無礼を致したことで皆様には不愉快な思いをさせてしまったことを心よりお詫びを申し上げる」
「「「ッ……!」」」
「申し訳ッ……ございませんでした」

そうして静かに立ち上がったカノエは、無言のまま踵を返して船内へと足早に去って行った。
甲板にいる者達は誰一人とてカノエを呼び止める者はいなかった。それどころか、カノエが去る折には誰一人とてカノエと目を合わさなかった。――否、合わすことができなかった。

「ハルタ! ラクヨウ!!」

重苦しい空気が漂う沈黙の中、第一声を放ったのはマルコの怒声だった。

「な、何さ?」
「お、おう、何だマルコ……?」

僅かに覇気すらも感じる怒りに満ちたマルコの声に、ハルタとラクヨウは流石に身体をビクリと硬直させて顔を引き攣らせた。

「お前ェ達の隊の怪我人を船医室に運んでさっさと治療を受けさせろ」
「う、うん、わかったよ」
「お、おう、了解」

マルコの指示にハルタとラクヨウは素直に従うことにした。反論の余地も言い訳も聞きたくないとでも言うかのように、ピリつくマルコに異論を唱える勇気は流石に無かった。

「ビスタ、悪ィがあいつらを手伝ってやってくれ」
「う、うむ、わかった」
「他の連中はさっさと持ち場について仕事しやがれ!」
「「「あ、アイアイサ―!!」」」

恐怖で凍り付いていた船員達は、マルコの怒声による指示によって蜘蛛の子を散らすかのようにその場を離れて忙しなく働き出した。

「イゾウ、悪ィんだが」
「ああ、おれからオヤジに伝えておくよ。一言一句全てな」

指示を貰うまでも無ェよと言わんばかりに、イゾウは颯爽と船内へと入って行った。

「何か美味ェもん作って持って行くよ」

マルコがサッチに視線を向けると、何も言わなくてもわかってると言うかのように苦笑して頷いたサッチは、首を左右にコキコキと慣らしながら船内へと入って行った。

「ジョズ、フォッサ」
「あァ、修繕は任せておけ」
「マルコ、早く行ってやれ」
「……悪ィ」

ジョズとフォッサに促されるように、マルコは急いで船内に入るとカノエに与えた部屋へと急いだ。
眉間に皺を寄せて苦虫を噛み潰したような表情に焦りを滲ませながら、マルコはカノエを甲板に連れ出した自分の浅墓さに腹を立てた。

思っていたよりも強い。
しかし、想像以上に壊れやすい。

今、カノエを一人にすることは良く無い。
不安と危機感が沸々と湧き起こる。

「カノエ、お前は一人で良いって言っておきながら何でッ……!」

憔悴、疲弊、そして、絶望――。
心がまた深い底へと堕ちて分厚い壁で囲いを作って引き籠る、そんな表情だった。しかし――、
絶望して、死にてェって顔しながらどうして、おれに縋るような目を向けたんだ。
涙で濡れる瞳の奥に助けを求めるカノエの心が確かに存在していたことを、マルコは見逃さなかった。


〆栞
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