第十四幕


甲板に集まる人の多さにカノエは改めて感心した。それと同時に、この船に乗り込んだ時の自分は全く余裕が無くて、視野がどれ程狭かったかということを思い知り、心の内で静かに反省した。

カノエに向けられる多くの視線。
警戒心や苛烈な敵意を宿しているのを肌身に感じる。しかし、だからと言って、それを牽制するつもりは更々無い。此方から仕掛けなければ何もされないことを理解している――と、どことなく雰囲気がそう物語っているようで、カノエは無反応で酷く大人しい。それに対して、どちらかと言うと人伝に聞いていた印象と大きく異なる様子に、船員達の方が軽く動揺していた。

カノエの視線はこの船が行く先の海へと向けられた。その先に広がる世界は真っ青な空と海があり、その果てには水平線が見える。本当に途方も無く広いこの世界は、本来なら自分が存在し得ないはずの世界――なのだが、この程の青さは無いが、似たような景色は日本の地にいても見たことがある。例え世界が異なるとしてもこういった目に映る自然的な風景というものは同じなのだなと、吹き付ける潮風が肌身を優しく撫でる感覚に目を細めたカノエは思った。

―― 何とも心地が良い。

静かにゆっくりと息を吸って深く吐く。まるで一つ区切りをつけるかの様に――。そうしてカノエは漸く自分に視線を向ける者達へと顔を向け、無言のまま彼らに対して礼儀正しく頭を下げた。それに戸惑う船員達を他所に、シルクハットを被った男だけが歩み寄ってカノエに倣うように丁寧に頭を下げた。

「おれは5番隊の隊長を務めるているビスタだ。以後お見知りおきを」
「私はタチバナカノエと申します。ビスタ殿、私のような物にご丁寧にご挨拶をして頂き誠に痛み入ります」

改めてビスタに深々と頭を下げたカノエに、ビスタは目を丸くすると、やはり自分達が勝手に想定した人物像とは異なるようだと安堵に似た溜息を小さく零しつつ笑みを零した。

多くの人が乗る船であるだけに、カノエに対する印象は良いも悪いも両極端にあるようで、船員達の反応は様々であった。だが、ビスタのように自らカノエに接しようとする者はいなかった。
しかし、カノエは然して気にはしていない。寧ろ、あの時の光景とよく似ていると、甲板にいる人の数には遠く及ばないが、初めて長州を訪れた時のことを思い出して懐かしく感じた。
吉田松陰の塾生達もこのように好意的な者とそうでない者と二つに割れてカノエに接していた。久坂や高杉はカノエに好意的であったが、入江辺りからはあまり好ましく思われていなかった。理由は知らないが、今思えば『長州の人間では無い』ことがそもそもの要因だったのかもしれない――と、船員達を見つめながらカノエはそう思った。

「おう」
「!」

群衆から一歩前に出て声を掛けたのはラクヨウだ。

「話によると強ェんだってなァ?」
「……」

ラクヨウはカノエの前に立つと睨み付けるようにして言った。

「ラクヨウ、カノエをここに連れて来たのは訓練の見学をする為だよい」

マルコはラクヨウを制止するように咄嗟に腕を掴んだ。だがその傍らでカノエは表情を一切変えること無く、ただただラクヨウをじっと見つめていた。

―― またしても面妖な頭だ。

緊迫した空気が流れる中で、カノエはそれとは一線を画して思考が他に飛んで、視線をラクヨウから外してマルコを一瞥した。よく考えるとマルコもまた変わった髪形をしている。そうして自分に対してあまり良い気を放っていないもう一人の童顔の男へと視線を移すと目が合った。彼は僅かに一瞬だけ眉間に皺を寄せたが、直ぐにフッと笑みを浮かべて歩み寄って来た。

「訓練中だったし丁度良いじゃん。手合せしよう」
「私と……ですか?」
「ハルタ、彼女はまだ傷が癒えていなはずだ。無理をさせるようなことはするな」

ビスタがハルタを諌めたが、「元気じゃん」とハルタは聞く耳は持たないと言わんばかりに笑った。そんなハルタに倣う様に、12番隊の隊員達も武器を手にして意気揚々と声を上げ始めた。

「隊長の言う通り元気そうじゃねェか!」
「なァ、おれ達と手合せしようぜ!」
「あァ、強いって話も本当かどうか確かめるには良い機会だしよ! 一戦交えようぜ!」
「女の身でこの船に乗るんだ。それなりの覚悟があってここに来てんだろ!?」

隊員達はカノエを挑発するように好き放題に言葉を投げ掛けた。ラクヨウもマルコの手を払い退けるとカノエに笑みを浮かべて「やろうや」と挑発する。そして、7番隊の隊員達もそれに続けとばかりに武器を手にしながらカノエに挑発する声を上げ始めた。

「おい、お前ェらいい加減にしろ!」

そんなつもりでカノエをここに連れて来たわけでは無いんだと、マルコが額に青筋を張りつつ一喝するが、血気に逸る彼らを収拾することはできなかった。
カノエに対して敵意を向ける彼らは、訓練を名目に彼女を力でねじ伏せ、この船から追い出す気でいるのだ。甲板にいる者達の大部分が同意見なのか、誰一人とて止めようとしなかった。
ビスタの隊の者達だけは、ビスタが好意的に接したことから大人しく動向を見守ることにしたようだが、それでもカノエを良く思っていない者が複数いる。黙って見つめながらも武器を持つ手に僅かばかりに力を籠め始めた。
そうして挑発する声が重なる中で、ある言葉だけが、明確にカノエの心に刺激を与えた。

 てめェの腰に差してるもんはただの飾りかよ!?

ドクン……――と、鼓動が大きく唸るように脈打った。

この時、カノエに背を向けてラクヨウを始め隊員達を制止するよう説得を試みていたマルコは、瞬間的に空気を変えたカノエの気配を感じ取って振り向いた。

「!」

先程とは明らかに異なる表情がそこにあって目を見張った。

―― まさか、ジン!?

カノエの目は明らかに暗い影が落とされていた。初めてレイリーの元で会った時と同じだとマルコは思った。

「承知した。そこまで仰るのであれば相手を致そう」

怒号のように浴びせる彼らの声とは対照的にとても静かな声でカノエは言った。普通ならば怒号に掻き消される程の小さな声音。しかし、まるでそれは怒号に一閃を与えて斬り捨てるかのような鋭さがあった。
荒れた怒号は一瞬にしてピタリと止んで静まり返った。そうしてカノエの手が腰に差している刀へと動く。

「待て! おれはそんなつもりでここに連れて来たわけじゃねェ!」

ハルタやラクヨウ達の視界からカノエを隠す様にマルコは間に入って制止するように言った。しかし、刀に手を掛けながらカノエは静かに口を開いた。この刀は命より大事な私の誇り故、飾りと言われては黙っているわけにはゆかぬ――と。

「カノエ!」

カノエの腕を掴もうと手を伸ばしたマルコに、カノエは「それから、」と更に続けた。

「心配なされるな。私は……、大丈夫だから」
「――……!」

一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、カノエはマルコに向けて笑みを浮かべた。それは明らかにジンとは違うカノエの笑みだった。マルコは伸ばした手をピタリと止めた。

「悪ィ……」

ハルタやラクヨウ達を止めることができずにこのような事態になってしまったことに申し訳無く思ったマルコは、思わずそうポツリと零した。

ペチンッ!

「ッ!」

額に走った軽い衝撃にマルコは目を丸くした。どうやらカノエがマルコに見様見真似でデコピンをしたようだ。

「謝る必要は無い。……ですよ」
「カノエ……」

徐に額に手を当てると溜息混じりにマルコは「わかった」と返事をするだけに止めた。
これがジンであればどうあっても止めるべきだが、先程見たジンの顔は既に無く、今はカノエそのものだ。ならば大丈夫だろうとマルコは自分にそう言い聞かせた。

カノエは一歩、二歩と歩みを進めた。そうして甲板の中心地に立つと、挑発していた隊員達、そして、ハルタとラクヨウが己が武器を手に身構えた。それに対してカノエは、腰に差す長刀を鞘ごとゆっくりと引き抜き、刀身を鞘に収めたままで剣先を彼らに向けた。

「何それ? その状態で戦うってわけ? 凄く舐めてんじゃん。やっぱり嫌な奴だ!」

ハルタが顔を顰めて思わずそう愚痴った。

「ハッ、おれ達に刃は必要ねェってか。そんな半端な覚悟でおれ達と戦えると思ってんのか!? つけあがってんじゃねェぞクソガキが! おれ達は訓練だからって一切手加減はしねェから覚悟しやがれ!!」

隊員の一人が怒声を張った。

「ガッハッハッ! 面白ェ……、それで後々痛い目みるのはそっちだぜ?」

ラクヨウはクツリと笑った――が、気に喰わねェとばかりにギロリとカノエを睨み付けた。

甲板に流れる異様な空気に船内にいた船員達が気付いて、何だ?どうした?と、物見遊山で甲板に集まり始めた。
船内から出て来る船員達の中に混じってサッチとイゾウ、そしてジョズやフォッサ等の隊長達と、偶々そこに通り掛かったナースが数人いた。

「お、おいおい、ちょっと何してんだってんだ!」

カノエに対して大勢が武器を持って敵意を剥き出しにしている光景にギョッとしたサッチは、近くでそれを見ているマルコの姿に気付いて慌ててマルコの元へと駆け寄った。

「お前ェ何してんだ!? 早く止めさせろ!」
「……」
「おいマルコ!」

マルコが返事をしないどころか顔すら向けないことにイラついたサッチは、マルコの胸倉を掴もうと手を伸ばした。だが、その手を制止するかのように肩をガシッと掴まれたサッチは、止めた男に目を向けた。

「止めておけサッチ」
「ビスタ……」
「今は止めに入るのは得策では無い」
「な、何言ってんだ? カノエは怪我だって治ってねェんだぞ!?」
「それは……多分、大丈夫だよい」
「!」

ビスタに怒鳴るサッチの声に漸くマルコが答えた。サッチは視線をビスタからマルコへと移した。

「どうして大丈夫って言い切れんだよ」
「無理な動きはしねェよい。カノエはそこらの剣士と格が違うことぐらい、サッチも知ってンだろい」
「そ、それは……、そう、だけどよう……」

マルコの言葉にサッチは先程の勢いはどこへやら、しどろもどろに視線を泳がせた。

「心配なのさ」
「イゾウ!」

サッチに遅れてやって来たイゾウはプカリと紫煙を吐いて甲板の光景を見つめた。

「カノエが以前の人斬りに戻るんじゃねェかって心配してんだよ。大方そんなところだろう?」
「そう、そういうことだ。お兄ちゃんが妹を心配して何が悪いってんだ」

うんうんと頷いて鼻息荒くしながらサッチは言った。

「「「……」」」

一瞬、四人の間に沈黙が流れた。

「うん、気持ちはわかるぜ。けど、三人同時に嫌悪感丸出しの顔するとかサッちゃん傷付くってんだよ!」
「黙ってろよい、サッちゃん」
「うむ、静かに見守れサッちゃん」
「……」
「流れ的にそこで無言は違うと思うわけ……。あ、うん、もう何も言わねェ」

ごちゃごちゃと宣うサッチに無言で睨んだイゾウは、マルコの側に歩み寄ると難しい表情を浮かべたままカノエへと視線を向けた。普段は決してそう見せることの無いどこか不安気な表情に、片眉を上げたマルコは、イゾウもサッチと同様に心配してんだなと微笑を零して、視線をカノエに戻した。

確かにあれはジンの気配だった。そう思って止めようとした。しかし、表面に顔を出そうとしたジンをカノエが自ら押さえ込んだように思えた。ひょっとしたら普段から無意識の内にカノエの人格とジンの人格が主導権を握ろうと鬩ぎ合っているのかもしれない。ぎこちない笑みも、不器用な人付き合いも、意識の大半が精神の内側に向けられているからなのかもしれない。これはあくまでも推測の域だが――と、マルコはそう考えた。

「これは訓練ということ故、鞘から刀を一切抜くことはせぬ。手加減もそれなりにするつもりではあるが……、下手をすれば骨を折ることになるやもしれん。怪我をしたくなくば武器を振るわず身を引くことを勧める。覚悟無き者は今直ぐに身を引かれよ」
「「「!!」」」

カノエの忠告染みた言葉に、隊員達は怒り心頭に怒声を上げて、弾かれるように一気にカノエへと攻撃を仕掛けた。

「いかん!」
「これでは多勢に無勢では無いか!」

ジョズやフォッサが慌てて止めに入ろうとした。それに気付いたマルコは咄嗟に動いて二人の前に立ち塞がった。

「今行けばお前ェらも巻き添えを食っちまうよい」
「しかし!」
「な、何を馬鹿な!」

それはジョズとフォッサがマルコに気を取られた一瞬の出来事だった。
攻撃を仕掛けられたカノエがそれに呼応するように地を蹴るとフッと姿を消した。それに誰もが驚いていると、いつの間にか自分達の間合いに入り込んだカノエの姿があった。
気付いた時には華麗に無駄の無い最小限の動きで繰り出される太刀が、隊員達を次々に襲っては吹き飛ばしていく。
傍目では一度の振りで二、三人――いや、四、五人は優に弾かれているように見える。そうして次から次へと地に伏して行く。
物見遊山で見ていた他の船員達や隊長達は挙って目を見開いて絶句していた。

「ま、まさか、ここまでとは……」
「人斬りの名は伊達じゃないってことか……」

ビスタとイゾウも茫然としながらカノエの動きを見つめていた。
先の隊長会議にてカノエについて、戦いぶりを実際に見たサッチが事細かく報告したが、直に見ると聞くとでは大違いだ。

もし鞘から刀を引き抜いて本気で戦っていたとしたら――。

甲板に大勢が倒れて行く光景を見つめながらビスタとイゾウは俄かに震えて脅威を感じた。

「ば、化物! く、来るな!!」
「ひィッ!? あ、あんなの倒せるわけねェ!!」

まだ太刀を浴びていない隊員達が恐れ慄いて尻餅を突きながら手にしている剣をブンブンと振り回し、涙目で訴えた。そんな彼らに目を細めたカノエは、振り上げていた刀を下ろして彼らに背を向けた。

「う、うああああ!!」

その瞬間に彼らは襲い掛かった。しかし、まるでそうなることがわかっていたかのように、カノエはクルリと回って攻撃を往なすと反撃に転じて彼らの胴体を攻撃した。

ドゴッ――!!

低く鈍い音と同時に「ぐふっ!」と呻き声を上げ、彼らはどさりと倒れて気絶した。

「恐怖に駆られた時点で武器を振るうは愚か。己の精神を制御出来ぬ未熟者は戦場に立つ資格すら無し」

カノエは静かにそう言いながらハルタとラクヨウへと身体を向けた。

「ッ……」
「チッ!」

ハルタとラクヨウは酷く緊張した面持ちで身構える。その一方で、カノエは表情一つ変えずに更に言葉を続けた。

「武器を手にして戦うは命を懸ける覚悟が必要。武器を手にして相手を殺すは命を背負う覚悟が必要。半端な覚悟で戦うは未熟者か愚か者がすることだ」

カノエはハルタとラクヨウに向かってゆっくりと歩みを進める。そして、静かに強く凛とした物言いで尚も呟く。

「武器は人を殺める為に作られた道具にすぎぬ。それを用いて脅しの為に振るう等、ましてや飾りで身に付ける等とは以ての外。もしここが戦場であれば命を奪うまでも無いが腕を切り落としている。二度と戦場に立てぬようにな」
「ハハ、それだって十分に脅しじゃんか」
「あァ違いねェ……」

カノエの言葉にハルタとラクヨウが反論するとカノエは静かに目を瞑って一呼吸置いた。

「斯様な軽薄な心構えで戦場に立つ等、命を懸けて戦う者達に対して無礼だと申している!!」
「「ッ……!」」

突然声を張り上げて一喝するカノエに、ハルタとラクヨウは目を見張って言葉を飲み込んだ。それは攻撃を受けて痛みで顔を歪ませ倒れている者達も、物見遊山で見ていただけの者達も同じだった。

「私が差すこの刀を飾りかと申したな。私は武士だ。武士にとって刀とは魂そのものであり命だ。そして誇りでもある。それを軽い気持ちで侮辱する等、私が生きた世では決してあり得ぬことだ」

カノエは足を止めて俯いた。

「私は人斬り故に多くの命を奪った。故に、ただの殺人鬼と呼ばれてもそう変わりは無い。だがそれでも私は、敵であろうとも敬意を持って戦ってきた……」

刀を持つ手が俄かに震えているのが見て取れる。ハルタもラクヨウも武器こそ構えてはいたが、カノエを見つめたまま攻撃を仕掛けようとしなかった。
カノエの怒鳴った声が、言葉が、耳に残って離れない。そのせいなのか、何故か攻撃する気が削がれてしまって身体が硬直して動けないでいる。それに、目の前に立つカノエが見せる小さな震えはまるで、悲しみに暮れて泣いている幼子のようにしか見えなかった。

「私は決して相手を軽視することも、侮辱することも、ましてや命を軽いと思ったこと等、一度たりとも無い。故に私は、斬り殺して来た者達の一人一人の顔を鮮明に覚えている。彼らの顔を、二度と、決して、……忘れることは無い」
「「ッ……!」」

カノエは刀を握る手に力を籠めるとその刀を腰に差し戻した。そして、その場に膝を折って正座をすると地面に両手を突いて額を擦り付けるように頭を下げた。
カノエの突然の行動に、ハルラとラクヨウは驚いて周囲の者達も唖然として見つめた。

「カノエ! 何してんだよい!!」

カノエの元に駆け寄ったマルコが腕を掴んで身体を起こそうとした。だがカノエはそれを拒んで尚も頭を下げた。

「万人に自分の行いを認めてもらおうとは思ってはおらぬ! 仲間内から疎まれる事にも慣れている故、敵意や警戒の目を向けられようとも一向に構わん! 船を出て行けと言うのなら、あなた方から船長殿に頼んで頂きたい! 私は保護を受けた身で勝手は出来ぬ! だがあなた方の望みを船長殿が受け入れるのであれば、私は直ぐにでもここから立ち去る!」

カノエの腕を掴んでいる手から伝わって来る僅かな振動。

「私は恩を感じている。助けてくれたことを、救い上げてくれたことを、本当に感謝している。だからこそ、私一人が存在することでこの船の平穏が乱れることは望まぬ。恩を仇で返したくは無い故――」

声音にも震えが混じり始めて、マルコは眉間に皺を寄せた。

「私は、もう、大丈夫……。不安はあるが、何とかやっていけるであろう。どこかの島に着いたのなら、私はそこで降りる。それまでの間、ほんの少しの間だけ、世話になることをどうかッ……」

最後には声を詰まらせて言葉を口にすることは出来なかった。

 ―― 許して欲しい(赦して欲しい)――

その言葉を口にすることは苛まれ、赦さない。赦されない。赦すべきではない。――声に出せなかった。
納刀しているとは言え、刀を振るう度にカノエの心は悲鳴を上げた。光の世界を知らない心は、いつまでもいつまでも転がり続けて、ジンとして生きていた暗く重たい奈落の世界へと堕ちて行く。
赤黒い血に染まって汚れたこの身が死んで滅びるまで、きっと誰も許(赦)してはくれない――そう、思った。

新しき世を、新しき日本を作る為、戦い続けて血に染まりながら生き抜いてきた。志半ばで死んでいった久坂や高杉、入江ら同志達の遺志を汲んで必死になって戦い抜いてきた。
なのに――
この世界で何をしろというのだろう。この世界には必要とされていない。何の為に必死になって、何の為に戦って、何の為に血に染まってでも生き抜いて、何の為に……。

どうしてここにいるのだろう。
どうして生きているのだろう。

ただ欲しかっただけなのに――
優しさを、温もりを、心を寄せる縁を、ただ欲しかっただけだ。自分の存在を認めて欲しくて、ただ、ただ、それだけだった。
生まれて来て良かったと、たった一度でも、たったの一度だけでも――そう思いたかった。

今いるこの世界は、どこまでも深く青い空と、それを映した広大な海は、あまりに綺麗で美しくて――血で汚れた自分が存在するにはあまりにも――勿体無い。

そう、思った。


〆栞
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