第十二幕


マルコと共に食堂を訪れたカノエは、大勢の視線が自分に集中するのを感じた。
驚きの眼差しを向ける者、奇異なものを見るような眼差しを向ける者、未だに警戒と敵意の眼差しを向ける者等、様々だ。誰もカノエが食堂に来るとは思っていなかったようだ。それだけでは無く、同じ空間にいることを拒否するような空気さえ感じられる。

―― ったく、どいつもこいつも露骨に態度に出すんじゃねェよい。

眉間に皺を寄せたマルコが軽く睨み付けると誰もが顔を青褪めてサッと視線を外して距離を取った。先に帰ったラクヨウやハルタ辺りが、カノエの人物像を相当悪辣に伝えたのだろう。レイリーとのやり取りを見た者達は、少し印象を良くしたかもれしれない。しかし、それを知らない者達にとっては、カノエに対する印象は頗る悪いと言っても良い。

小さく溜息を吐いたマルコは、多くの船員達でごった返している食堂を見渡した。所々空席はあるが一人分しか空いていないように見える。だが、隅の方に目を向けるといくつか空席があった。
マルコはカノエを連れてそこに移動すると椅子を引いて座るように促した。

「あの、自分の分は、」
「おれが取って来てやるから座って待ってろ」
「……はい……」

ここは素直に従っておいた方が無難だと思ったカノエは遠慮がちにコクリと頷いた。素直に従って椅子に座ったカノエに、マルコはほんの少しだけ微笑を浮かべた。

「直ぐ戻る」

小さな声でそう告げて、マルコは二人分の食事を取りにその場を離れた。その時、まるで見計らっていたかのようにカノエの背後に近付く人の気配があった。だがカノエは、敢えて気付かないふりをして振り向くことはしなかった。

「てっきり部屋で食事するもんだと思ってたんだがな」

そう声を掛けられて、カノエは漸く後ろへと振り返った。その途端にカノエは目を丸くした。背後に立っていた人物を頭から足の爪先まで視線を二、三度ほど上下に往復してまじまじと見つめる。自分とは真逆な装いをしている女形の和服姿――。

「似たような服を着るおれがそんなに珍しいかい?」
「ッ! あ、い、いや……」

声音が男であったことに、カノエは軽く戸惑い呆気に取られた。一方、彼はカノエを観察するように見つめて少しだけ目を細めた。

―― へェ……、もう少し澱んだ目をしているかと思ったが、思いのほか澄んだ目をしているじゃねェか……。

徐に懐から煙管を取り出すと、カノエの視線がその煙管に向けられた。その目の動きに彼は確信を得たように微笑を浮かべた。

「おれはイゾウって名だ」
「――!」

イゾウという名を聞いたカノエは、嘗て耳にした土佐藩出身の人斬りの名を思い出した。でも彼は、女形の格好をしているのみで刀を腰に差してはいない。

「い、イゾウ…さん……ですか……」

これはただの偶然なのだが、カノエは同じ”生業”で生きる者の名と同じだったことに驚いて声が少し上擦った。しかし、それに然して気にするでも無く、イゾウはくつくつと笑うと煙管を持っていない空いた手をカノエに差し向けた。

「え?」
「握手」
「あ、そ、そうか。これは失敬」

カノエは慌てて差し出されたイゾウの手を握って握手を交わした。

「お前さんには興味があったんでな、色々と話をしてみたいと思って声を掛けさせて貰ったんだよ」
「は、はァ……」
「この船に乗船する連中の誰よりも共通の話題ができるだろうさ。着物や酒に煙草……とかね」

そう言って煙管を軽く回して腰帯に差し込んだイゾウは、満足したようにニコッと笑った。そして、マルコが向かった方へと歩いて行った。

―― ……岡田以蔵と同じ名前で驚いた。

自ずと深く息を吐いて胸を撫で下ろしたカノエは、頭を左右に小さく振った。そうして、ある考えがふと頭に過る。――自分と同じようにこの世界に身を落とした者が他にもいるのではないかと。

共に崖下に落ちたと思われる会津藩士の男は何故いなかったのか。
どうして自分だけがここにいるのか。

疑問を抱き始めると次から次へと湧いて出て来る答えの無いそれに、カノエはテーブルに両肘を突いて両手を組みながら皺を寄せた眉間にトントンと軽く当てて目を瞑った。――もし、同じような境遇の人間がいたら――と、そう思考が動き出した時だ。

「よう!」
「!」

新たに別の男が側に来て、カノエに声を掛けた。これは聞き覚えのある声だ。目を開けて顔を上げると男がニコッと笑みを浮かべた。

「サッチさん……でしたね」
「おォ、嬉しいね〜。おれっちの名前をしっかり覚えてくれてたんだな」
「え、えェ……」

カノエの前の席に腰を下ろしたサッチは、カノエの手を何気に取って嬉しそうに喜んだ。そんなサッチを前にしてカノエの視線は自ずとサッチの頭に向けられる。

―― その面妖な髪型が、忘れようにも忘れられない故……。

覚えていた理由がそれだけに、何だか申し訳無い気持ちがカノエの胸の内に去来して、視線をそっと外して誤魔化す様に苦笑した。

「んー、素直になるとなんだか余計に可愛」

ドカンッ!!

右から放たれた誰かの足がサッチの左の蟀谷にめり込んだ。

「――へぶッ!?」

瞬間的に妙な悲鳴を上げたサッチが左へと凄い勢いでフェードアウトして、視界からサッチの姿が消えたことに驚いたカノエは思わず「へ……?」と、何とも間抜けな声を漏らした。一方、吹き飛ばされたサッチは壁にしっかりと人型の痕を残して地面にズルズルと崩れ落ちると、突っ伏したままピクピクと痙攣していた。

「カノエ、サッチに気を許すんじゃねェよい」

驚き固まっているカノエにそう声を掛けたのはマルコだ。食事が乗ったトレーをテーブルに置いたマルコは、先程までサッチが腰掛けていたカノエの向かいの席に座った。

「あいつに気を許してると、いつか孕まされちまうぞ」
「は、はらっ〜〜ッ!?」

カノエは思わず顔を赤くして絶句した。その一方、痙攣して突っ伏していたサッチがガバッと起き上がるとマルコの隣の席に急いで腰を下ろした。そして、青筋を浮かべながらも笑みを浮かべるサッチが「今のは流石におれっちでも聞き捨てならねェ」と、マルコに取り消せとばかりに迫った。

「冗談にも程があるってんだよ」
「事実だろ?」

片眉を上げてサッチを見やるマルコに、サッチは頬をヒクリと引き攣らせた。

「あのね、おれっちは全ての女の子に対して紳士なだけだってェの!」
「どの面下げてそんなことが言えんのか全く理解できねェよい。紳士っつぅ言葉は、ビスタの為にあるようなもんだ」
「ハッハッハッ! そりゃあ南国果実のお前には理解でき」

ズガンッ!!

「――プギャッ!?」

マルコが無言でサッチの脇腹を蹴飛ばした。そうして吹き飛ばされたサッチは、先程と同じ場所に見事に激突して再び地面に崩れ落ち、ピクピクと痙攣を起こしながら突っ伏した。

―― な、なんだこの激しいやり取りは……。仲間ではないのか?

目の前で行われる二人のやり取りに、カノエはただただ呆然とするばかりだ。

「カノエ」
「ッ! は、はい!」
「さっさと食わねェと飯が冷えちまうぞ」
「は、はい!」

慌ててスプーンを手にしながらつい「すみません」と口走った時、瞬間的な速さでデコピンがカノエの額を襲った。

「うぐ!?」

激痛が走った額を押さえたカノエの目に自ずと涙が浮かぶ。その目でマルコを睨み付けるも何食わぬ顔でマルコは食事を続けていた。

―― 腹の怪我以前に、私の額がまず持たないかもしれない。

カノエはマルコから視線を外して食事をしようと料理に目を向けた――が、直ぐにピタリと動きを止めた。

―― これは味噌……では無い。なんだこの不思議な色は……。

スプーンをスープにつけて軽く混ぜる。ゆらゆらと渦を巻くスープの水面をじっと見つめ、その隣に置かれていたお皿に乗った物体に怪訝な表情を浮かべる。外側が茶色の皮で、中身はほんのり黄みがかった白地の塊。それは俗に言う『パン』なのだが、パンを知らないカノエからすればとても奇妙な物体にしか見えない。

―― なんとも面妖な……。

更に反対側には見慣れない葉物が盛られた皿がある。

―― これは山菜……では無いな。

ただのサラダだ。しかし、カノエにとっては不思議な葉物でしか無く、眉間に皺を寄せたままスープに視線を戻した。まずはスプーンで掬ったスープを恐る恐る口に運んでみる。そうして口の中に温かいスープが注がれるとコクリと喉を潤して胃へと落ちて行く。
カノエは目をパチクリしてスープに視線を落とした。

―― は、初めての味だ。でも……、美味い。

不思議な表情と動きを見せながら食事をするカノエを周囲で見ていた船員達はポカンとした表情を浮かべていた。だがやがて「プッ!」と誰かが噴き出した。それに連動するように「クッ、クク……!」と耐え切れなくなった船員達の誰もが笑い始める。しかし、彼らが雑談して笑っているだけだと思っているカノエは食事に集中していた。

眉間に皺を寄せて恐る恐る手を伸ばしてパンを取る。思いのほかフワフワと柔らかい。これは果たして食べ物なのか?と疑義の目で見つめる。だが、こうして出されているということは食べ物なのだろう。

―― たぶん……。

手の中でフコフコと軽く遊ばせて、更に怪訝な表情を浮かべて見つめる。

「くっ…くくっ……」
「ん?」

声に釣られてパンから意識を離して視線を上げた。食事をしていたマルコが肩を揺らして笑っていた。そして、食事の手を止めて笑うのを止めるように軽く息を吐いたマルコがカノエに声を掛けた。

「まさかと思うがパンは初めてか?」
「ぱん? これはぱんと申すのか?」
「貸してみろ」

カノエが手にしていたパンを受け取ったマルコは、それを千切り始めた。そうして千切られたパンを皿に乗せてカノエの前に置いた。

「ほら、食ってみろ」
「ほ、本当にこれは食べ物なのか……?」
「不安ならスープにでもつけて食べてみると良い」

カノエは小さくなった一切れのパンを手に取ると、スープにちょんちょんと軽く浸してから恐る恐る口に入れた。

「ん……、なんだか、妙な…触感だ……」
「不味いか?」
「い、いや、不味くは無い。……んン、腹を膨らませるには、良い食べ物であることはわかる。うん」

カノエはもう一切れ取って再びスープに浸けてから口に入れた。

「サラダも初めて見たってェ面してたが」
「さ、山菜なら食べたことはある。しかし、このような形状の葉物は初めて見る故……」
「ここに出て来るもんは全て人が食えるもんしかねェから安心しろよい」
「う、うむ」

戸惑い気味に頷いたカノエは、サラダに対してスプーンで挑もうとしている。それを見たマルコは一瞬だが頬を引き攣らせた。

―― 食事も作法も全く異なる環境ってことか。

こればかりは仕方が無いことだ。しかし、食べ物の形状を見れば、スプーンでは無くフォークを使って食べるものだとわかると思うのだが……。
呆れた顔をしたマルコは、使われていないフォークを手に取った。

「カノエ、こっちを使え」
「ん?」

カノエはマルコから手渡されたフォークをしばしば見つめ、とりあえずサラダにそれを差し込んだ。そうしてなんとか掬えた葉物を口へと運ぶが、途中でパラパラと落としてしまう。

「し、失敬!」
「……」

落とした葉物を慌てて手で掴んで皿に戻したカノエは、再チャレンジとばかりに再びサラダを食べようと試みた。そうして落とす度に「何故……」とか「し、失敬!」等と、声を漏らしては慌てて手で掴んで皿に戻すを繰り返した。

「大変そうだな」
「あ、」

声を掛けたのはイゾウだ。カノエの隣に食事を乗せたトレーを置いて腰を下ろしたイゾウが笑いながらカノエにあるものを差し出した。

「これなら平気だろう?」
「こ、これは――!」

差し出されたそれにカノエはパッと表情を変えた。よく見慣れた箸だ。カノエがイゾウを見やるとイゾウはコクリと頷いた。

「やるよ。使ってねェ新品だから安心して使いな」
「あ、有難い。これならちゃんと食べることができます」
「それはワノ国の……、確か箸っつったか?」
「あァ、そうだ。同じ和服姿だから恐らくそうじゃないかと思ってな」

イゾウはそう言って自らも箸を使って食事を始めた。

「世界は異なるがカノエのいた国とワノ国は文化が似通っているのかもしれねェな」
「ワノ国……?」
「おれの出身地さ」

イゾウから貰った箸を器用に扱いながらサラダを摘まんで口に運んだカノエは、むしゃむしゃと咀嚼を繰り返す内に少しずつ眉間に皺を寄せてサラダに視線を落とした。

「今度はどうしたよい」
「ただの葉物では無い……。妙な味がする」
「そりゃあドレッシングがかかってんのさ」
「どれっしんぐ?」

恐らく不味くは無いのだろう。怪訝な表情を浮かべながらもパクパクと口に運んで食べているカノエに、マルコとイゾウはクツクツと小さく笑いながら食事の手を進めた。
その様子を傍で見ていた船員達は、カノエに対する敵意や警戒心をすっかり失くして好意的に興味を抱き始めていた。その為、カノエが食事を終える頃には周囲の空気がガラリと変わっていた。

食事を終えてマルコと共に船長室へと向かうカノエは軽く首を傾げる。廊下で擦れ違う船員は相変わらず自分に敵意の目を向けて来る。しかし、食堂にいた船員達は最初こそ敵意を向けていたはずなのに食事を終えた頃にはそれがすっかり消えていた。

何故――?その理由がまるでわからない。

疑問を抱くカノエの心情を察したのか、先を歩くマルコはクツリと笑みを零した。天然で世間知らず。そして、思いのほか純真。至って生真面目な性分がそうさせているのかもしれない。カノエ本来の為人に不思議と惹かれるのは、自分だけでは無く食堂にいた者達も同じなのだろう。その場の空気を変える。それは何も戦場だけのことではないのかもしれない。何とも不思議な魅力を持っている――そう思った。

あれだけ警戒していたイゾウでさえも事も無く警戒心を直ぐに解いていた。少なくともイゾウがカノエに声を掛ける寸前までは警戒心を抱く目をしていた。しかし、カノエに話し掛けた途端にそれが微塵も無く消えたのをマルコにはわかった。だからこそ、その後にサッチが気安くカノエに声を掛けて彼女の手に触れてみせたのだ。
こいつはもうおれ達に警戒も敵意も持っちゃいねェ――と、サッチはあの場にいる船員達にそういうメッセージを込めて示したのだ。
ただ、そうとわかっていながらも気楽に手を握り合う様を見せつけられたマルコは何故か沸々と腹を立てた。多分それは――相手がサッチだったからだろうということで結論付ける。

―― ……。

ポリポリと頬を掻きながら胸の内に何とも言えないものを感じたマルコは、眉間に皺を寄せて軽く溜息を吐いた。


〆栞
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