第十一幕


とある街道の宿場でのことだ。

「橘迅っちゅうんはおまんか?」

見知らぬ顔の男が突然声を掛けて来た。警戒しながら「あなたは……?」と問い返すと、男はニカッと笑って「わしは坂本龍馬っちゅうもんじゃ」と、名乗った。

「坂本…龍馬……」

後々この男は、薩摩と長州の間に立って同盟へと結び付ける大役を担い名を馳せることになるが、この時はまだ無名で、迅は初めて聞く名を辿るように呟いた。

「橘殿は『人斬り』をやっちゅうらしいのう?」

右手を顎に当てて顔をマジマジと見つめながら問われた迅は眉を顰めた。

「それが何か……?」
「げに、まっこと、ほんまかえ?」
「………どういうことです?」
「思っちょったんとちっくと違ぉて、なんともおぼこい顔しちゅうきに拍子抜けぜよ」
「おぼこい…って……」
「あーなんじゃ……、子供! そう! 子供っぽいっちゅう意味じゃき!」
「……」

坂本龍馬と名乗った男は、快活に「かっかっかっ!」と笑った。そして、一人で食事をしていた迅の部屋に酒を持って同席してきた。初対面だというのに、他人の懐に土足でズカズカと踏み込んで来る無礼な男だと思った。そして、こんな無礼な男とはこの時ばかりだけで二度と顔を会わすことは無いだろうとも思っていた。しかし――、
後に久坂や桂と共にいる際にその機会は度々あって、人の縁たるや不思議なこともあるものだと思った。
ある時、坂本龍馬と二人だけになったことがあった。その時、何時に無く真剣な面持ちで坂本が忠告をしてきたのを覚えている。

「わしの知り合いで人斬りに身を落とした奴がおってのぅ、そいつは岡田以蔵っちゅう気の良い奴で、剣の腕がとにかく誰よりも秀でた奴やったぜよ」
「……」
「けんど、人斬りになってからは人が変わってしもてのぅ……。最後は酷い様やったっちゅう話を聞いたがじゃ」

どこを見るでもなく酷く神妙な顔付きで溜息混じりに語る彼が何を言わんとしているのか、何となく察しは付いた。それでも、何も言わずに次の言葉を待っていると、彼は目を細めて視線を迅に真っ直ぐ向けて口を開いた。

「橘殿。……いや、橘迅。おまんは以蔵みたいになったらいかんぜよ」
「……」
「自分っちゅうもんを大事にするがじゃ」
「私は……」
「あと、女じゃいうて引け目を持つんもやめェ」
「!!」

坂本はニィッと笑みを浮かべて迅の頭に手を置いた。そして、二、三度程ぐりぐりと回すように乱暴に撫で付けた。
何故それを知っているのか――と、迅が問えば坂本は胸元の襟裾に手を突っ込んでボリボリと掻きながら楽しそうに笑った。

「松陰先生んとこでおまんの話をちっくと聞いとったがじゃ。理由は聞かん。色々あるじゃろうきに。けんど、おまんはちっくと自分を縛りすぎちょる。男じゃ女じゃいうんは関係無ェぜよ」
「女の身で……、武士として戦うのはおかしいと、あなたは仰らないのですか?」
「わしがかえ?」
「……」
「はっはっはっ! わしの周りには男より肝が据わっちゅうごっつい女子《おなご》が二人もおるがじゃき! そん二人に刀ァ渡して戦え言うたら、まっこと男より強ぅて誰も勝てんぜよ!」
「そ、それは事実の話では無いですよね?」
「んー、刀の下りは例えじゃが……。まっこと怖い女子の話はほんまの話じゃき」
「お知り合いですか?」

迅の問いに坂本は視線を途端に遠くを見つめた。

「………わしの姉貴じゃきに………」

何故かどこか哀愁染みた表情を浮かべている。それだけでどれ程の怖い女性なのかを迅は何となく察した。

「あとの一人はおりょうっちゅうて、わしの女ぜよ」

それも二人もいるのか――と、迅は何となく「ご愁傷様で……」と胸の内で同情の言葉を送ると、坂本が改めて迅に目を向けた。

「橘殿、おまんは真面目過ぎぜよ。もうちっくと気楽にしたらどうがじゃ?」
「それが性分です」
「わしはおまんのことが心配じゃきに、づつのうて(気になって)たまらんぜよ」

そのお気持ちだけで十分だと、迅がそう答えようとした時、迅の言葉を掻き消すように坂本は「笑え」と言った。

「――え?」

迅が目を丸くすると坂本は口角を上げて言葉を続けた。

「おまん、ちっくと笑え。笑っとったら、あー、胸の内のー……何じゃ……、あァ、心。そう! そん心が少しは救われるっちゅうもんじゃき」
「……」
「一人で何でもかんでも抱え込むんはいかんぜよ。もうちっくと周りに頼ること覚えェ」

そうせェ!と坂本は目を細めて笑った。

「ご忠告……、有難く頂いておきます」

特にあまり表情を崩す事も無く、とりあえず気持ちだけでもと言った具合で迅が頭を下げると坂本の笑みは途端に消えて頭をガクリと落とした。

「はァ……。おまん、固い」
「え……?」
「あー……、まっこと困ったのー、どーいたもんかのぅ……」

坂本龍馬は溜息を吐くと途方に暮れたような表情を浮かべてブツブツとぼやき続けた。

感情のままに表情をコロコロと変える様や思ったことを素直に口にする彼を見つめて、どこか羨ましいと思う自分がいるとは、この時は微塵も思っていなかった。彼が死んだ後になってこの時のことを思い出した時、胸の内にあった”本当の自分の気持ち”に初めて気付いた。そして、彼がくれた言葉は、全て心の底から慮ってくれた素直な気持ちを現わしたものであることを、手元に届けられた彼からの手紙で初めて知った。

――橘迅、いや、橘庚殿。
 わしはおまんをこん国に縛るんはいかん思っちゅう。わしはいつかおまんを連れて海に出て、世界っちゅうんはこじゃんとおっきくて広いんじゃっちゅうことを見せてやりたいがじゃ。したら、おまんの心に巣食うもんがどだい小さいもんであるかっちゅうのがわかるきに!
 あと、わしの姉貴とおりょうにも会わせたいと思っとるぜよ。おまんもびっくりするがじゃ。あんの二人の気の強いこと、おまんよりまっこと倍は恐ろしいもんぜよ。
 庚、笑うがじゃ。まっことだらしぃ(しんどい)ことがあっても笑うがじゃ。そいがおまんの心が壊れんで済む救いになると、わしはそう信じとるぜよ』

真面に話をする機会など二、三度程しか無かったはずなのに、坂本龍馬という男は顔を会わせる度に迅を気に掛けてくれていた。
言葉を交わすことが無かった時でさえも、誰の目にも留まらないところで頭や肩にポンと手を置いて笑みを見せた。まるで凝り固まった迅の心を和ませてゆとりを持たせるかのように――。
こんな人がいるのかと思った。そして、もうこんな人と会うことは二度と無いのだと――迅は手紙を握り締めて涙を流した。

〜〜〜〜〜

「一人で何でもかんでも抱え込むんはいかんぜよ。もうちっくと周りに頼ること覚えェ」

〜〜〜〜〜

坂本龍馬のその言葉に呼応するかのように二人の声が木霊する。

――「お前ェが背負っている”重荷”を親であるおれに寄越しやがれ!」
――「お前のその重荷をおれも背負ってやるよい。だからもう泣くな」

頭の中はぐじゃぐじゃで、胸が痛くて苦しくて、どうにかなってしまうのでは無いかと思って狂うように声を上げた。
この時、とても懐かしい声が身体の中から全身に響き渡った。

*****

庚、彼らを信じて良いんじゃないかな。――私は、お前が私を想って迅を名乗り生きてくれたことをどうこう言うつもりは無い。でもね、私は庚が庚として、自らの意志で生きて欲しいと、心からそう願っている。

庚、すまなかった。

私が負けたのは、私が弱かったからに他ならない。私は逃げたんだ。自身の運命や先のこと。家族から、そして――庚から……。だから負けたんだ。

その結果、お前に全てを背負わせることになってすまない。
すまなかった、庚。

*****

青い衣が赤黒く染まる。
血の気の無い兄に愕然とする自分。

彼が本当の橘迅。
兄と慕いながら迅を斬ったのは紛れも無く妹の――庚。
本当の自分が、橘庚。





目が覚めるとカノエは、「はッ、はァ…、はァ…、」と、呼吸を荒くしながらがばりと起きた。嫌な汗が額から頬へと伝って顎先からポタリと手の甲に落ちた。

―― ここは……?

部屋を見渡して記憶を辿って――あァ、そうだ――と、部屋に通されると同時に気を失って倒れたことを思い出した。
額に手を当てて深く息を吐いた。
部屋は暗くて誰の気配も無い。
ふとベッド脇にあるテーブルに目を向けると刀と脇差が置かれていた。

「……」

気怠い身体を動かしてベッドから下りると、少し乱れた衣服を整えて腰に刀と脇差を差した。丁度その時、部屋の扉が開く音がして顔を向けた。

「目が覚めたかい?」

安堵したような笑みを浮かべるマルコが部屋に入って来た。そして、カノエの側に歩み寄ったマルコは、カノエの顔を覗き込みながら徐に手を伸ばした。

「ッ…!」

マルコの指先が頬に触れた瞬間、カノエは少し身体を強張らせた。しかし、そこから伝わる温もりが不思議と気持ちを和ませて落ち着きを与えてくれたような、酷く懐かしく思える感覚に、強張った身体から力が自然と抜け落ちていった。

「顔色が良くなったみてェで安心したよい」

手をスッと引いて小さくほっと息を吐くようにマルコは言った。カノエは妙に胸が詰まる感覚に少しだけ眉を顰めた。

「腹減っただろい? ここで食べても良いが……、食堂に行くかい?」
「何故……?」
「ん?」
「何故……、あなた方は私にそこまで気遣いしてくださるのか……」

戸惑い気味にそう口にして視線を落としたカノエの表情は暗くて硬いままだ。それにマルコは軽く溜息を吐くと微笑を零した。

「カノエ、難しく考えるなよい。重く捉える必要も無ェ。ただ単純にお前を助けたいと思った。それ以外に理由はいらねェだろい?」

そう言ってマルコはカノエの頭にポンッと手を置いてくしゃくしゃと撫でた。それはまるで凝り固まった心を和ませてゆとりを持たせるかのようで――。

「ッ……!」

彼の人の温もりと優しさを思い起こさせた。もう二度と無いと思っていたのに、この渇き切った奥底の心が打ち震える感覚は、今までに感じた事が無い程の喜びにも似た感情に思えた。
このような類の感情を現す言葉が見つからなくて、カノエには例えようが無かった。ただ、その心のままに顔を綻ばせれば、自然と晴れやかな気持ちになって、少しだけ表情から固さが抜けた気がした。

「食堂で食べます」
「……そうか。なら案内するよい」

異国だと思っていたここは自分がいた世界とは全く異なる世界であることを知った。
最初は愕然として奈落の底に突き落とされた気分だった。全てを失った気持ちで絶望にも似た心境に陥った。

きっと橘迅ならば、自分の置かれた状況を知ったら焦ると同時に帰る方法を躍起になって探すだろう。急いで戻らなければと思うのだろう。
しかし――
もう良いのだ。もう無理をすることも無い。ある意味でやっと解放されたのかもしれない。
この気持ちはきっと橘庚が思う心なのだろう。

「私はもう……、カノエとして生きて良いのだろうか……」

カノエがポツリと言葉を零した。その途端、額にパチンッという音を鳴らして痛みが走った。

―― え……?

咄嗟に手で額を押さえたカノエは、目の前で眉間に皺を寄せて睨んでいるマルコに気付いた。

「な、何を……」
「お前はお前だろいカノエ。この世界にはもうお前を縛るもんは無ェ、自由の身だ。だからいつまでもウジウジしてんじゃねェよい」
「マル…コ…殿……」
「あー、あと、その『マルコ殿』ってェ呼び方は止してくれ。オヤジも言ってたが、そう呼ばれると背中がむず痒くなる。おれ達は海賊だからよい」

少しげんなりした表情を浮かべるマルコにカノエはハッとして口元を手で覆った。そして、反省するかのように眉尻を下げて「すみません」と謝った。

「で、では、マルコ……さん」
「”さん”付けもいらねェ」

バッと顔を上げたカノエは「流石にそれは!」と首を振った。

「まァ、カノエの気が収まりそうに無いみてェだから、それは許してやるよい」

マルコはクツリと笑った。

「す、すみません」

カノエは謝りながら未だに痛む額を擦った。

―― 一体……、何をされたのだろう?

マルコの手が直ぐ目の前にあったことから、この痛みを与えたのはマルコで間違いは無い。しかし、一体どのような手を使って額の一点だけに痛みを与えることができたのか。それが不思議で仕方が無い。

「あと、それから」
「あ、はい。な、何でしょう?」
「飯を食った後でオヤジの所へ行くが、良いかい?」
「え?」
「ほら、カノエが助けたい子がいるってェ話があったろい?」
「あ、はい……」
「詳しい話はオヤジの所でするが結論だけ先に伝えておく。悪ィが手は出せねェ。相手が天竜人となると簡単な話じゃねェんだ」
「そう…ですか……」

この世界の事情というのもあるのだろう。無理は言えない――と、カノエはコクリと頷いて「すみません」と呟いた。
彼らからすれば異世界の人間である自分を受け入れるだけでも相当の覚悟がいるはずだ。それも多くの人を斬り殺してきた人斬りをだ。勿論、助ける手立てがあるのなら助けたい。目を瞑ればあの子の顔が脳裏に浮かぶ。しかし、どうすることもできないことも世の中には沢山ある。
自分はこの世界の事情を何も知らない。単独で動くにしても、きっと彼らが、白ひげを始めマルコ達が許してはくれないだろう。出会って時間はそう経っていないけれど、もう既に深く関わってしまったのだから――。

「意外だよい」
「?」
「もう少し、反論するかと思ってたんだが……」
「反論すべきでしたか?」
「いや、反論されてもどうにもできねェよい。時間的にも手遅れだ。今頃はもうマリージョア行の船の中だろうから手出しはできねェ。この船に乗ってる連中に危険な橋を渡らせるわけにも行かねェしよい」

首筋に手を当てながらマルコはそう言った。

「無理は言いません。私とてこの船に拾われたようなものですから……。勿論、あの子を助けたいと思う気持ちは変わりませんが、仕方が無いことだと割り切って己に納得させます」

カノエは「お気遣い頂いて、すみません」と頭を下げた。

「あーのよい……」
「はい」
「さっきからどうしてそんなに謝ってんだ?」
「……へ?」

眉間に皺を寄せて首を傾げるマルコに、カノエもまた何故そう言われるのかよくわかっておらずに釣られるように首を傾げた。

―― 謝るって……?

「あ、えっと、すみません。マルコさんが何を仰っているのかよくわからないのですが……」
「ほら、それだ」
「え?」
「さっきから『すみません』ってェ謝罪の言葉を何度も口にしてるじゃねェか」
「……ん?」

マルコに指摘されてカノエは少し考えた。

―― あ、あァ、そうか。

謝っているのではないのだが、彼らからすればそうなのかもしれないとカノエは納得した。

「癖……?」
「癖?」
「えェ、癖みたいなものかと」

頭をポリポリと掻いたカノエは苦笑を零した。

「なら、その癖は治すことだ。悪くもねェのに謝られてばかりじゃあこっちも居た堪れない気持ちになるからよい」

マルコが微笑を浮かべるとカノエはコクリと頷いて「すみません」と、また口にした。その瞬間、カノエは「痛ッ!?」と思わず声を上げた。

「言った側から言うって、学習能力ねェのかよい」
「す、すみ」

ズビシッ!!

「――ま”ッ!?」

マルコの右手の中指がカノエの額を襲う。カノエは思わずくぐもった声を漏らして両手で額を押さえた。

「これからその言葉を口にしたら容赦なくデコピンをお見舞いするからな」

わかったな?と、少し悪い笑みを浮かべるマルコに、カノエは涙目で額を擦りながら「で、でこぴんと言うのか……」と呟いた。

―― ん?

たかがデコピンで、どうしてそんな真剣な顔を浮かべるのか。マルコはキョトンとして首を傾げた。

「お、恐ろしい技だ」

カノエは未だに痛む額を擦りながらそう呟いた。

「は……?」
「しかし、技の名にしては間抜けな気がして、どうも気抜けがしてしまう。もう少し良い名は無いものか」

腕を組んでブツブツと呟いたカノエは、マルコに「そう思われませんか?」と真面目に問い掛けた。そして、顎に手を当てて『デコピン』に代わる名前を考え始めるカノエに、「いや、違っ……」と、マルコは言葉を失って口を噤んだ。

「ん……?」

若干引き気味のマルコに気付いたカノエは、どうしたのだろうと首を傾げた。

―― 何かおかしなことを言っただろうか?

これは後にカノエの持つ常識とマルコ達の持つ常識に大きなズレがあることが発覚し、カノエはそれをネタにこの船の船員達から暫く遊ばれることになる――等と、この時のカノエは一切予想だにしていなかった。

ハッとしたマルコはコホンッと一つ咳払いをして「じゃ、行くか」と踵を返してドアへと向かった。カノエも続いて部屋を出るとマルコの後を追うようにして歩を進めた。

「……」

こんなに穏やかな気持ちでいられるのは何時振りだろうか。
こんなに何の憂いも持たずにいられるのは何時振りだろうか。

〜〜〜〜〜

「庚、笑うがじゃ」

〜〜〜〜〜

笑えるようになるだろうか。
何の憂いも怪訝も無く心から笑えるようになるだろうか。

この出来事は、本来の自分と向き合う良い機会なのかもしれない。

時間は掛かるだろう。
けれども、少しずつ、少しずつ――。

ふと自分の右手を見つめた。開いたり閉じたりを繰り返してからギュッと握る。
この手は今でこそ綺麗だが、血に塗れて黒く汚れた多くの命を奪った罪深い手だ。

これから先、この手で何を為すべきか、この手をどのように生かすのか、命を奪って来た者達への償いにはならないかもしれないが、それでも何かをせずにはいられない。ただ、今は、心の整理に気を向けることにしよう。

自分というものを大事に、そして、心にゆとりと静養を――。
今は少しばかりの穏やかなこの時を大切にしよう。

異なる世界だが海を行く船に乗る。
異なる世界だが広大な世界を渡る。

嘗て海を渡る船に乗せて世界を見せてやりたいといった彼の思いが、図らずともこうして叶えられることになるとは、誠に不思議な縁が為すものだなとカノエは感慨深くそう思った。


〆栞
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