第十幕


『古武流剣術一迅の太刀』は神代に捧ぐ舞踊から生まれたものとされ一子相伝と伝承されている。故に、その剣を扱うことを許されるのは唯一人のみ。
庚の実父は橘家の長子でありながら、その土地に根付く『古武流剣術一迅の太刀』を極める為に家督を継がずに家を出た。その為、橘家を継いだのは実父の腹違いの弟となった。

庚の実父は厳格で寡黙な男であったが、この弟は商売女であった母親に似たのか、神経質で利己的な男であった。性格からして対照的なこの兄弟は、仲が良いとは到底言えたものでは無かった。
実父が家を出て数年の時が過ぎた頃、赤ん坊の庚を連れた実父が弟夫婦の元に訪れた。当然、実父と不仲である弟夫婦は良い顔をしなかったが、実父は「どう育てようと構わん。好きにしろ」とだけ言って、弟夫婦の了承を得ずに一方的に赤ん坊である庚を置いて出て行った。

弟夫婦は、あの実父の子である庚を娘として育てる気は起きなかった。同じ家の下で面倒をみるとしても、その扱いは下働きをする雇われ娘のようなもので、立場の違いを徹底的に教え込んだ。
迅はこの弟夫婦の長子であり庚より五歳上の従兄であった。五歳を迎えていた迅は、弟か妹を欲しがっていた。例え従妹だとしても迅にとって庚は、実の妹だと喜んで兄として優しく接した。例え、両親が庚にきつく当たろうとも迅は常に庚を気遣い大切にして愛してくれた。庚にとって迅は唯一の味方で、唯一の家族だった。

だが――

全ては、あの日、あの時、実父から『古武流剣術一迅の太刀』を受け継ぐ為の試練が、迅と庚の運命を大きく狂わせることとなった。

*****

―――は死んだ。

「これからはお前が正当な継承者だ」

死んだ。
そう……、死んだ。

「男子に剣を、女子に巫女舞を。だが、私の目に狂いは無かった。お前は歴代に類をみない新たな継承者だ」

雨が酷く降りしきる中、刀の切っ先に滴り落ちる血は誰の血か。
継承者に与えられる名刀を片手に、泥で汚れた二度と動かない身体を背負って家路に着く。そして――
実父の残酷な言葉に弟夫婦は大きな悲鳴を上げた。

「ああッ! そんな! 何故、何故……!?」
「貴様! よくもッ! よくも……!!」

実父の後ろで震えながら佇む者に、慟哭と激怒の声が折り重なるようにして襲い掛かる。

「育てて貰った恩を仇で返すなんて!」
「庚! わしらの仕打ちに対する仕返しか!!」

 わしらから息子を、迅を殺して、お前は満足か

「「庚!!」」
「ッ……」

震えたまま俯く顔を左右にブンブンと振るって否定をしても、許されることは決して無く、迅の弔いを許されないまま実父と共に橘家を出て行くこととなった。





実の父から距離を開けてトボトボと歩く。どこに行くのかもわからないまま歩を進める庚は、先を歩く父の背中をじっと見つめていた。
迅が死んだ時、父の口元が僅かに笑みを湛えていた。迅では無く実子である庚が有能であったこに対する喜びなのか、弟《叔父》に対しての感情なのか、何に対するものだったのかはわからない。実の父親だとしても赤ん坊だった自分を捨てたような男だ。

――父《この人》を決して信用してはいけない。

庚がそう思っていると、父がふと足を止めて振り返った。自分に不審な目を向ける実の娘に、父は表情一つ変えないまま喉をクッと鳴らして静かに笑った。

「なかなか良い目だ」
「……」
「私と同じだな」
「……おな…じ……?」

神代に捧ぐ太刀を携える者に相応しくない恨みの籠った眼差しだ――と、父は言った。それを自分と同じだとも言う。その意味をこの時の庚にはわからなかった。
それから数カ月後――。

父が生涯で唯一愛した女《ひと》は、産まれた赤ん坊を抱くことも無く、命を落とした。

そう聞かされた庚は呆然としていた。そして、目の前で語る父の雰囲気がどこかおかしいことにも気付いた。続けて最後に父はこう言った。――「妻を殺したお前が憎い。お前は生まれながらに人を殺す才に長けた殺人鬼だ」と。
深い森の中、父は殺気を滲ませて刀の柄を握った。庚は継承者に与えられる刀を咄嗟に手に取って脱兎の如くその場を逃走した。
足元が悪く暗い闇の中を必死に走った。どこを走っているのか、どこに向かっているのか、全くわからない。後を追って来る気配が感じられない。それなのに長い時を只管走った。
父から、母の死から、迅の死から――ただ、逃げるように……。





息を切らしながら見つめる先に海があった。
雲一つ無い夜中に浮かぶ月が海面を照らして、浜辺に打ち寄せる波をキラキラと輝かせた。

「迅……」

視線を落としてトボトボと歩く庚の脳裏に、過去の記憶が断片的に浮かんだ。

――幼い庚にはまだ難しいとされた巫女舞を見事に舞ってみせると「凄いじゃないか庚! もうそんなことができるのか!」と、迅は我が事の様に喜んで褒めてくれた。

「……迅……」

――橘家に訪れた父に『古武流剣術一迅の太刀』の継承を勧められた迅は、強い決意を語った。

「私は、いつかきっとこの剣で多くの者を救い、助け、守れる立派な剣士になってみせる。そうすれば、武士の家系とは言え身分が低いという理由だけでこんな苦しい暮らしを強いられる父上や母上、そして、お前に、良い暮らしをさせてやれるかもしれない。私は兄としてお前の為に頑張るよ」

橘家の長子として、そして、兄としての強い思いがあった。

「……迅ッ……!」

――虫の居所が悪かった弟夫婦に無実の罰を着せられて仕置き受けた。泣けば余計に酷い仕打ちを受けるから必死に耐えて謝って、作った笑顔をみせる。

「庚、無理はするな。泣きたければ泣けば良い。辛いなら辛いと言いなさい。父上や母上がお前に厳しく当たっても私はお前の味方だ」

傍に寄り添って抱き締めて慰めてくれた。
とても優しくて温かい、大好きな兄――。

――『古武流剣術一迅の太刀』
男子に剣を、女子に巫女舞を。それが通説だった。しかし、幼くして難しい舞を見事に舞ってみせた庚に、父は通説を破って庚に剣術の師事を始めた。

 その剣を扱うことを許されるのは唯一人のみ

最後の日、父は残酷な試練を二人に与えた。どちらが継承に相応しいのか、決闘して生き残った者が継承者だ――と。

「迅…兄…様……」

青い顔をした庚が構えた刀の切っ先が震える。否、全身が震えている。心臓が激しく脈打ち呼吸が上手くできなくて苦しい。
対する迅の表情は、憂いを帯びてはいるものの自分と違ってどこか涼し気で、とても静かだ。

―― 怖い。嫌だ。やりたくない。

教えられたことを上手に熟したら、迅だけでなく父でさえも喜んで褒めてくれた。もっともっと頑張ったら、いっぱい喜んでくれて褒めてくれるのかなって、そう思ったから必死に頑張っただけなのに……。

呼吸をヒュッと吸い込んで息が詰まる。思わずギュッと目を瞑ると涙が零れた。そんな時、迅が慰めてくれる時にいつも見せてくれていた優しい笑みを浮かべた。

「庚、私はお前を生かしたい。私はずっとお前の幸せを願って来た。だから庚……――」

迅の言葉を遮るように「始め!」と父が声を上げた。その声に庚はビクリと肩を震わせ、迅は弾かれるように地面を蹴って間を詰めると庚に剣を振るった。

「ふっ…!!」

断ち切る感触が手先に伝わる。一生忘れることの無い、嫌な感触。そして、血の臭いが鼻を突いた。

「ッ……!!!!」

どさっと倒れる迅の身体から夥しく血が流れ出していた。自分の持つ刀には、迅の血が付着していて切っ先からポタポタと赤い滴が落ちていた。
躱そうとか、ましてや斬ろうなんて思ってなんかいなかった。ただ、死への恐怖に駆られて勝手に身体が動いた。そんな感覚だった。

「なんで……、そんな……」

刀を落として迅の傍に歩み寄った庚は、震える手で迅の身体を抱えた。血色が失せて生気が薄れて行く迅は、それでも口角を上げて笑みを浮かべた。

 ――良いんだ。これで……良いんだ――

口が僅かに動く。声にならない言葉はそう言っていた。

「待ってよ……、迅兄様……、待って……」

庚の涙が迅の顔を濡らして行く。迅の瞼が閉じて、僅かに動いていた口は力を失い動かなくなった。そして――

迅は、死んだ。

――橘の家で、迅の亡骸を抱いた義父は涙を流して恨み節を零し続けた。

「これで我が家も終わりだ。全て終わりだ。庚、お前が全てを壊したんだ」

義母も声を上げて泣き続けて恨み節を零した。

「こんなことになるのなら引き受けなかった。こんな結果になるのなら育てたりしなかった。酷い子……。憎い子……。迅がどんなにお前を愛したことか、なのにお前は、その手で迅を、私の息子を殺した。返して……。迅を返して!」

もし、ここに立っているのが迅だったら……。その亡骸が庚だったら……。――どんなに良かっただろう――そう思った。

最初から迅は庚に勝とうと思っていなかった。最後の日、父から与えられる試練の内容を察していたのだろう。試練の前に迅は「全てが終わった後で開いて」と、小さく折った紙を庚に手渡していた。

『生きてさえいれば、いつか必ず、心から笑える時が来る。だから、生きろ、庚』

橘の家を後にしたその日の夜、月明りが照らされた場所でその紙を開けて、大きな声を上げて泣いた。

*****

「……そう、……死んだのは私」

苦しい。
助けて。
私は、生きてる。

本当に生きるべきは迅だった。
だから――

*****でも――、だけど――*****

迅じゃない。
私は庚。
本当は庚。

なのに――

誰も庚を見てくれない。
誰も庚に触れてくれない。
誰も庚を――

*****アイシテクレナイ*****

〜〜〜〜〜

「うあああああッ!!!!」

蹲った身体を起こすと同時にジンは悲鳴にも似た声を上げた。そして、両手で頭を抱えると何度も床に額を打ち付けて苦しみ始めた。

「ジン!? 何やってんだ! 落ち着けよい!!」

驚いたマルコが咄嗟にジンの肩を掴んで制止させたが、ジンの呼吸は荒く苦し気で目の焦点が合っていない。ボロボロと涙が零れて頬を伝い、顎先から足元へと落ちて床を濡らした。

「おい、ジン!」
「ああああああッ!!!!」

マルコがその涙を拭おうとしたが、ジンは顔を振って拒否をした。そして、慟哭は一向に収まらない。

「ジン」

マルコは落ち着かせようとジンの頭を抱き込むように彼の額を自身の胸元に押し当てて抱き締めた。

「落ち着け、大丈夫だからよい」

頭や背中を撫でながら何度も何度もそうやって声を掛けた。そうすると次第にジンは落ち着きを取り戻し始めたようで声を上げなくなった。
くしゃっと優しく頭を撫でて抱き締める手を緩めたマルコは、ジンの顔を覗き込もうとした。

「!」

しかし、それを拒むかのようにジンはマルコのシャツを掴んで離れようとしなかった。
思いもよらないジンの行動に戸惑ったマルコだったが、また緩々とした手付きでジンの頭や背中をゆっくりと撫でた。
それから少しして、ジンの顔が徐に上げられた。そのジンの顔を見るなりマルコは目を丸くした。

「お、お前……」

表情がこれまでのジンとは一線を画して別人に思えたからだ。

恐れ
切なさ
悲しさ
寂しさ
憂い
儚さ

それらが混沌と混じった瞳に強さや気高さは無く、揺れる瞳は未だに涙が溢れてポロポロと頬を濡らし続ける。

「そうか……、お前がカノエ……だな?」

カノエの頬に手を添えて指で涙を拭ってやりながらマルコがそう問い掛けると、ジン――いや、カノエは小さく頷いた。

「うっ、ふっ…、ううっ……」

目を伏せて咽び泣くカノエに「なァカノエ」と、白ひげが声を掛けた。カノエが白ひげに顔を向けると白ひげは真っ直ぐ目を見据えて言った。

「お前ェ、おれの娘になる気はねェか?」
「!?」

白ひげの言葉にカノエは驚きに満ちた表情を浮かべた。それに白ひげはニヤリと笑うと「あァ、違うな」と独り言ちてから再び口を開いた。

「カノエ、おれの娘になりやがれ!」

改めて強い語気で放たれたその言葉に、カノエは身体を震わせて膝を突き、手を口元に当てると床に額を押し付けて再び泣き始めた。

―― 私の事を何も知らないのに、どうしてそんなことを言ってくれるの?

言葉にできない疑問を胸に抱くカノエを見透かすように白ひげは穏和な表情を浮かべた。

「カノエ、おれがお前の親になるんだ。泣きたい時は遠慮無く泣け。辛い時は辛い。苦しい時は苦しいと素直に言いやがれ。いつでも聞いてやる。何でも受け止めてやる。だから、お前ェが背負っている”重荷”を親であるおれに寄越しやがれ!」
「!」
「カノエが嫌になるぐれェの愛情をおれがくれてやらァ! グララララッ!!」

白ひげはそう言って大きく笑った。カノエの側にいて慰めるように優しく背中を撫でていたマルコも笑みを浮かべて頷いた。

「カノエ、お前のその重荷をおれも背負ってやるよい。だからもう泣くな」
「ッ、……マル…コ…さん……」
「ハハ、嬉しい時は素直に笑うもんだよい」

ずっと傍にいて慰めるように優しく背中を撫でてくれるマルコに、カノエは涙で濡らした目元を拭った。そして――
ぎこちなく、それでも精一杯の笑みを浮かべて頷いた。

白ひげはカノエを見つめながらレイリーの話していた『心を失くした』という意味を思い出していた。

―― 色々と複雑な事情があるんだろうが……。

まるで”二人いる”ような、そんな感覚だ。しかし、ジンとして立っている時、女《本人》であるカノエは身体こそあれども心が生きていない。――そんな気がした。

「マルコ、カノエを休ませてやれ。腹の傷が心配だ」
「あァ、わかったよいオヤジ」
「あと、隊長連中に集まるように声を掛けろ」

白ひげの指示を受けたマルコは頷いた。そして、カノエの腕を掴んで立ち上がらせると床に置かれた長刀と脇差を拾い上げて船長室の扉の方へと歩き出した。

「あァ、マルコ」
「ん?」
「お前は来なくて構わねェ」
「なんでだよい」
「カノエの傍にいてやれ」
「!」

口角を挙げてニヤリと笑みを浮かべる白ひげにマルコは目を丸くした。察しやがれバカ息子――とでも言いたげな目だ。
マルコはガシガシと頭を掻いて苦笑を浮かべると船長室の扉を開けた。そうして船長室から出て行こうとしたのだが、通路に出る前にカノエが身体を反転して再び白ひげへと向き直す動きに気付いて足を止めた。カノエは何も言わずに白ひげに向けて深々と頭を下げた。そして、マルコに続いて船長室を後にした。
それを見届けた白ひげは扉が閉まると深い溜息を吐いた。

「まさか、あれ程の拒否反応を見せるとは思わなかったが……」

マルコのお陰で落ち着きを取り戻すことができたといったところだった。それに――、無意識の内にカノエの心がマルコを受け入れているかのように思えた。

「カノエ、マルコのその手を離すんじゃあねェぞ」

もし離すようなことがあれば、生きることを忘れた心は恐らく粉々に壊れてしまうだろう。
それはきっとカノエだけではなく、ジンの心も共に――。

「これほど人の幸せと安寧を切に願う日が来るたァなァ」

どこを見るでもなく、誰に告げるでもなく、白ひげは目を瞑ってそう独り言ちた。


〆栞
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