第八幕


船が停泊しているという海を目指して――、ジンはマルコとサッチの後を少し距離を置いて歩いていた。そうして鬱蒼とした森を抜けると景色は一変して青い空と海が臨める広大な世界が一面に広がっていた。陽の光を遮るように手を翳しながらジンは目を細めた。
ジンが意識を取り戻した時は夜。鬱蒼とした森の中を駆け抜けて、再び意識を失い助けられた先もまた鬱蒼と生い茂る森に佇む屋敷の中で――。
このように異国の空を眺めることは一度たりとも無かったと、ジンは足を止めて感慨深げな表情を浮かべながら空を見上げた。

―― 異国の地と言えど、空は変わらないな……。

立ち止まったジンに気付いたサッチが振り向いた。

「おーい、どうした?」
「……」

ジンは視線を落として無言のまま小さく首を振った。そして、広大な海をゆっくりと見回した。

「ジン、あれがおれ達の船だよい」

マルコが指を差した先に大きな帆船が停泊していた。

「……」

特に何を言うでも無くジンはただ頷くのみ。それにマルコは密かに溜息を吐いた。

―― 酷く警戒されたもんだ……。

海賊ということを告げた時、ジンの様子が明らかに変わった。自分達に対して強く警戒し始めたのだ。何も言わず、何の反応も示さず、ただ後を付いて歩くジンではあったが、警戒による敵意が滲み出ていた。
もしジンと敵対することになったとしたら、恐らく本気で対峙をしなければ殺されるのはこちら側だ。
マルコは本能的にそう察した。それはサッチも気付いていたようで、お互いの目が合った時、言葉を交わさずともお互いに理解して、どちらともなく小さく頷き合った。
そして――
停泊する船に到着して甲板に上がると大勢の船員達がそこかしこにいた。

「お帰りなさい!」
「漸くお戻りで!」

船員達はマルコとサッチに挙って声を掛けた。しかし、二人の背後にいたジンの姿を見るなり一転して警戒心を露わに鋭い眼差しを向けた。

「客だよい」

マルコの言葉を受けた彼らは、ジンに向けて小さく頭を下げた。
だがそれは、ただ表向きの挨拶に過ぎないことをジンは理解していた。彼らから放たれる警戒と敵意は消える事無く自分に集中していることが手に取るようにわかる。
ジンは、船員達からマルコとサッチへと視線を戻した。自分も疑心を抱いて警戒と敵意を持った。船員達から受ける敵意と同じものを恐らく二人も察していただろう。そして、視線が自ずとマルコに止まる。

―― 特に……、マルコという男は厄介だ……。

神経が尖ったあの状況下で、意図も容易く背後を取られた上に、刀を手にした腕を掴まれたのだ。それを許すこと等、これまで決して無かったというのに、ましてや身体に触れられること等、初めてのことだ。普通なら斬り落としていたはずだ。しかし、身体が全く反応しなかった。

―― 何故……?

ここに来るまでの道中、様々なことを想定して考えてみたが、どうにも消化できないでいる。あの瞬間の記憶を呼び起こすと――ズクリ……――と、必然的に走る胸の痛みに不快感を覚えて、今も再び胸に痛みが走った。

―― ッ……。

表情にこそ出さなかったが、ジンは無意識に手を胸に当てて小さく息を吐いた。その時、船内から一人の見覚えのある男が姿を現した。

「おお、どうやら無事だったようだな」

サッチは「おう」と声を上げ、マルコは軽く手を上げるに止めた。そうして男が笑みを浮かべるとジンへと視線を移した。少し目を鋭くしつつも口角を上げた笑みを浮かべたままジンの元へと歩み寄る。

「腹の傷は酷く深かったが、あれだけ動いて尚も平然と立っていられるところを見ると、お前さんはなかなか大した精神力の持ち主だな」
「……」

顎に手を当てて笑みを浮かべながら話す男にジンはそれこそ儀礼的に頭を軽く下げた。

「しかし、また随分と髪を短くしたものだな」
「確か……レイリー……だったな?」
「そうだ。覚えてくれていたのだな」
「助けてくれたことは感謝する。だが、」
「カノエ」
「――ッ……」

ジンの言葉を遮るようにレイリーは名を呼んだ。ジンは一度口を噤んだが再び口を開いた。

「私の名はジンだ。カノエでは無い故、その名を呼ばれても返事はできん」
「ほう……? よし、わかった。では、ジン。君は初めて会った時もそうだが、大勢を前にしてその鋭い殺気を隠そうともしないところをみると余程腕に自信があるようだな」

ジンは眉をピクリと動かした。

「まるで今にも私の首を掻っ切らんばかりの殺気だ」

レイリーはそう言って軽く笑った。
そのようなことを笑って吐くのだから、腕に自信があるのだろうと言った彼の科白をそっくりそのままお返しする――と、ジンは思った。

「君にとって”この世界の人間”の誰もが敵に見えるかもしれん。君を助けた私でさえもな」

ジンの考えを見透かしてかレイリーは目を細めつつ言葉を続ける。

「だが理解して欲しい。この船の人間に君をどうこうするような輩はいない。いずれは心から信頼できる者達となろう。これからこの船の船長と会うだろうが、君ならきっとわかってくれると信じている」

レイリーの言葉に周囲にいた者達がざわつく一方でジンは小さく頭を振った。

―― 武器を手にしながら警戒心を剥き出しにしする彼らをどう信じろと……?

その時、ジンの表情を読み取ったサッチは船員達を諫めようとした。だが、サッチの肩を掴んだマルコが黙って成り行きを見守るように小さく言った。

「いや、けどよ……」
「ここはレイリーに任せろ」
「――ッ……」

サッチは口を噤み、視線をレイリーとジンに戻した。レイリーは相変わらず微笑を浮べていた。しかし、突如として鋭い視線をジンにぶつけた。俄かに覇気が込められていることに周囲の人間は気付いて表情を強張らせた。だがその一方――
覇気を直に向けられたジンは表情を一切変えることは無かった。無言のままレイリーをじっと見つめている。その様子に驚く者がいても何ら不思議では無い。

『冥王の覇気』

例えそれが本気で無くとも冥王の覇気を当てられた者は、余程の強者でない限り通常ならば気を失うか、恐怖で身体を支配されて動かなくなるかだ。しかし、ジンはそのどちらでも無く、顔色一つ変えずに至って自然体のままだ。

「レイリー殿……」
「何かな?」
「あなたは私をどのように見ておられるのか何となく察するが、私は無闇やたらと人を斬る辻斬りでは無い」

レイリーは「ほう……」と小さく漏らしながら片眉を上げた。

「そのような外道の者と同じに見られるのは心外であり屈辱に等しい。私の手は確かに人の血で汚れてはいるが必然のもと止むを得ない結果だ」
「そうか。だが私からすれば大差無いように思えるのだがな。殺される者と殺されない者の命の重みは同じだろう?」
「まるで私が命を軽視しているかのような物言いだな」

ジンは顔を俯かせて小さく溜息を吐き一呼吸置いた。

「意見の相違だ。話し合って解決できるのならば結構。しかし、武力行使となれば此方とてそれ相応の行動を執るまでのこと。戦場に身を置く者は、命を取るか取られるか。その覚悟が無い者は、端からその場には立たん。私は、志を成す為に戦ってきた。それをただの『殺戮』というものに置き換えられることは、侮辱以外の何ものでも無い故、訂正して頂きたい」
「……」
「それから――」

ジンは自らの殺気を抑えると顔を上げて改めてレイリーを真っ直ぐ見つめた。

「先程から私を測るつもりでいるのだろうが、殺気を向けるのを止めて頂きたい。でなければ、私とてそのような殺気を浴び続ければ自ずと防衛の為に動いてしまいそうになる」

ジンがそう言うとレイリーは少しだけ目を丸くした。

―― 激情家ではと思ったが……どうやら的が外れたようだ。

「あァわかった。いや、すまない。ハッハッハッハッ!」

レイリーは覇気を収めると笑い出した。そのレイリーに対してジンは相変わらず無表情ではあるが、少しだけ眉を顰めた。

「いや、そう警戒するな。カノエ……いや、ジン。君は理性的な人間なのだな」
「顔を突き合わせて話をしたことも無い人間を己の見立てや憶測だけで決めつけるのはあまり感心しないな」
「あァそうだな。私は少し君を見誤っていたようだ。許せ」
「わかって頂けたのなら結構だ」

ジンが小さく頷くとレイリーはクツリと笑った。

「感情に任せて動くような者であれば白ひげに申し訳無いと思っていたが、私は安心したよ」
「白ひげ……、確かこの船の長だったな」
「そうだ。これからお前が会う男だ。名はエドワード・ニューゲート、通称白ひげだ。この船の連中は彼を『オヤジ』と呼んでいるがな。私にとっては旧友と言うべきか……」

レイリーはマルコとサッチの方へチラリと見やると軽くウインクした。するとマルコとサッチは目を丸くして一瞬だけ呆けた。

「旧友だって……?」
「まァ、”今は”間違っちゃいねェ……と思うよい。たぶん……」

二人はそう零して苦笑を浮かべた。

「ジン、”この世界”は君が思っている程に残酷なものばかりでは無い。きっと、君にとっては大きく意味のある大切なものを見つけられる世界であるということを断言しよう」
「先程から”この世界”という言葉が妙に違和感を感じてならない。それだけでは無い。最初から疑問に思っていたことだが――」

ジンがそう言い掛けるとレイリーはニコリと笑った。

「そこから先は白ひげのところで聞くと良い。私はそろそろ帰らねばならんのでな」

レイリーはそう言うとスッと手を伸ばした。そして、ジンの頭にポンッと乗せてクシャリと撫でた。

「!」

驚いたジンは咄嗟にレイリーの手から逃れようとした――が、レイリーの手はジンの肩へと移動して掴んだ。

「こうして触れらることを恐れるな。慣れなさい。ジン、君は少し人を恐れ過ぎる」

レイリーは笑みを消して真剣な表情へと変えてそう言った。すると、これまで崩すことの無かったジンの表情が僅かに変わった。レイリーの手を払おうとしたが、レイリーの言葉と表情にジンは動きを止め、ただ目を見開いて固まった。

―― 何故……? どうして”また”そのような目を……。

〜〜〜〜〜

「落ち着きなさい。暴れては傷が開く。ここに敵はいない。いいかね? 敵はいない」

〜〜〜〜

意識を取り戻した時に見た。
とても強くて優しい、安堵感を与える目――。

―― ッ……。

癒えていない傷にツキンと痛みが走った気がした。

「哀れみか同情かは知らんが……」

ジンがポツリと言うとレイリーは少しキョトンとして直ぐに微笑を零した。

「それこそ心外だ。確かに哀れに思うことはあったがな。言うなればこれは”慈しみ”だよカノエ」
「!」
「ジンでいることは君にとって大事なことかもしれん。だが、それに縛られることはもう止めなさい。ここには君を縛るものはもう何も無いのだから」
「……」

レイリーの言葉にジンは押し黙った。そして、視線を外して俯き加減に軽く溜息を吐いた。

―― この者の科白に深い意味は……無い。死に掛けた者を助けたというだけの情けによるものだ。

少し難しい表情を浮かべながらそう思った時、ふと何かを思い出したかのようにハッとして息を呑んだ。会津のあの場所でジンを引き摺り込んで崖下に落ちた男がいたことを思い出したのだ。
ジンは勢い良く顔を上げた。それにレイリーは思わず目を丸くした。
これまで感情一つ灯さない無表情のそれとは違い、どこか情が通った人らしい表情がそこにあったからだ。

「一つ、聞きたい」
「なんだ?」
「私を助ける際、周囲に似たような男はいなかったか?」
「似たような男?」
「姿格好がだ。私はその者と共に崖下に落ちたのだが……」
「いや、君だけだったよ」
「ッ……、そうか……」

あの時、衣服をしっかりと握られていた感覚があった。絶対に離さないという強い意志が手に宿っていたと記憶にある。ならば、自分が倒れていた周辺にその男がいてもおかしく無いはずだった。しかし、レイリーの答えは否だ。それを聞いた時、ジンの目が僅かに左右に揺れたのをレイリーは見逃さなかった。

―― ふむ……。怜悧冷徹というわけでも無いのだな。寧ろその逆か……。心配する程でも無かったかもしれんな。

レイリーは顎鬚を軽く触りながら小さく頷いて笑みを浮かべた。そうして視線をジンから外してマルコへと向ける。

「マルコ、後はお前に託すが構わんな?」
「あァ……、わかったよい」

マルコの返事に満足したようにレイリーは軽く手を挙げ、去り際にジンの肩を改めてポンポンと軽く叩いて笑みを浮かべ、何も言わずに船から降りていった。
ジンは声をグッと押し殺して黙っていたが、去って行くレイリーの背中に向けて頭を深く下げた。
そのジンの行動を見た船員達は、お互いに顔を見合わせると静かに武器を収め、警戒と敵意を徐々に消していった。
それに気付いたジンは顔を上げて振り向いた。周りに視線を向けると苦笑を浮かべた強面の男達がいて、目が合うと彼らはジンに向けて軽く頭を下げた。

―― ……なんだ?

先程まであった警戒と敵意がどんどん消えていく。驚いて目を丸くするジンに、マルコとサッチは顔を見合わせると軽く肩を竦めた。

「ハッハッハッ! いやァ、どうなるかと心配しちまったけど、丸く収まったってェ感じだな!」

両手を後頭部に組んで満面の笑みを浮かべたサッチは、心底から安堵した表情を浮かべていて、船員達もサッチの心情を察したのか、殺伐とした空気を吹き飛ばすかのように和やかに笑い始めた。
それに対して――何を笑うことがあるのか――と、少し訝し気な表情を浮かべたジンにマルコが声を掛けた。

「ジン」
「!」
「今からオヤジに会わせるからついて来い」
「あ、あァ……」

片眉を上げた笑みを浮かべながら顎で促す様な仕草を見せたマルコが船内へと歩き出した。ジンは少し戸惑いながら船員達に軽く頭を下げ、足早にマルコの後を追うように船内へと姿を消した。
マルコとジンを見送った後、甲板に残った船員達の中の一人がサッチに少し気まずい表情を浮かべながら声を掛けた。

「サッチ隊長」
「おう、どした?」
「あの子が例の子っすよね?」
「んー?」
「マルコ隊長が連れて来た重傷者って……」
「あァ、そうそう。……え、なんで?」
「いや、その……なァ?」

キョトンとするサッチに船員は隣にいた仲間に顔を向けた。サッチも釣られるように視線を向けると隣にいた船員は少し口をモゴモゴしながら言った。

「なんて言うか、話に聞いてたのとイメージが違うっていうか……」

船員の言葉を聞いたサッチは目をパチクリさせるとポリポリと頬を掻いた。

―― あー、そういうことね。あいつら、いらねェ先入観を植え付けやがったな?

船員達の言わんとすることを察したサッチは溜息を吐いた。
昨晩の内に先に船に戻ったハルタやラクヨウ辺りが船員達に話をしたのだろう。大凡のところ負のイメージを印象付ける碌でも無い話を――だ。だからこそ、人伝に聞いただけの話を鵜呑みにした船員達は、ジンの姿を見るや否や警戒と敵意を向けたのだ。

―― 気持ちはわからねェわけじゃねェけどよ……。

サッチもまたジンの為人を知らずして警戒した身だ。敵意が無かったと言えば嘘になる。危険な女であることは先刻の戦いを目撃して確信したが、少しだけ言葉を交わせば案外真面で誠実さがそこにあった。男として生きることを望んだと言っていた割には、『可愛い』等と女を褒める様な言葉を投げ掛ければ素直な反応を示していた。

〜〜〜〜〜

「顔を突き合わせて話をしたことも無い人間を己の見立てや憶測だけで決めつけるのはあまり感心しないな」

〜〜〜〜〜

先程のジンが言った科白を思い出した。

―― 耳が痛ェなァ。

頑なな所があって疑り深いのは、過酷な戦場に身を置かなければならなかったからだ。劣悪な環境から解放してやれば、頑なで疑り深い凝り固まった心は少しずつ解けて柔らかくなるかもしれない。そうしていつかは女として生きる道を歩くようになるかもしれない。

―― んー、おれっちもまだまだ人を見る目がねェってわけだな。反省、反省。

「本当のことは自分で直に見てみねェとわからねェってこと。良い教訓だってんだ」

サッチはそう言って船員の肩をポンポンと叩いた。それに苦笑を浮かべて「反省します」と答える船員達に笑みを浮かべたサッチは、おれっちも本業に戻らねェとな――と、軽く蹴伸びをして首を左右にコキコキと鳴らしながら船内へと足を向けた。
ジンの傷付いた身体に精の付くものを食べさせてやろうと意気込んで――。


〆栞
PREV  |  NEXT



BACK