どれだけ時間が経っただろうか。世界地図から始まり六つの国の関係や種族など、ラシェルは弥生が理解しやすいように簡単ながらも根気よく教授した。
元々宗教や歴史などに興味を持っていた弥生は価値観の違うそれらが酷く目新しく感じられ、高校大学で学ぶものとはまた違った面白さに胸が躍った。独特の文化は見知らぬ土地への不安を純粋な知識欲へ変えるのには十分だった。
疑問に思ったことをすぐ質問する弥生に文句一つ言わず、分かりやすく噛み砕いて説明してくれるラシェルはまさに教師に相応しい人物である。
「――…ん?」
ラシェルの話を聞きながらふと本が見難いことに気付く。
顔を上げて周囲を見回し、その理由に考えがいった。何時の間にか薄暗くなっていた。
壁にかけられた時計の数字は読めないけれど、元の世界と同じように数字が十二あるので、そのまま読むと今は夕方の四時半過ぎくらいだろう。
どうりで本が読みにくい訳だ。薄暗くなった蔵書室にラシェルも気が付いたのか部屋を見渡した。
「あぁ、暗いね。気付かなかった」
「私もです」
弥生は熱中していたからだが、ラシェルの場合は気に留めていないようにも思えた。
「さすがにこれだけ暗いと本が読みづらくなりますね」
そう弥生が言った途端、二人の間に置かれていたランプにポッと火が灯った。
驚いて見るとランプの中にはあの赤オレンジ色の蜥蜴が一匹、火中からこちらを見つめている。
「え、燃えてる?!」
ランプの蓋を開けようと手を伸ばせば、別の手にガシリと掴まれた。ラシェルである。
「君、今何かした?」
「してません!というか、良いんですかこれ!蜥蜴が燃えてますよ?!」
「蜥蜴?」
今だ揺らめく火の中にいる蜥蜴を指差した弥生にラシェルが聞き返した。
一緒にいるのは今日で三日目だが、彼のハッキリと抑揚のついた声に弥生も驚いた。
そして何度も頷きつつ手を離してもらい、ランプをラシェルの前へ移動させる。
「ほら、火の中に赤オレンジ色の蜥蜴が!」
ラシェルは目を細めてじっくり火を観察し、ランプから顔を離すと首を振った。
「残念だけど僕には見えない」
「ええっ?!だってこの子、ラシェルの肩に今日一日ずっと乗ってましたよ?!」
「そうなの?とりあえず落ち着こうか。声が大きい」
蔵書室では静かにね。というもっともな指摘を受け、弥生は一度深呼吸をしてから改めてランプの中を覗き込んだ。やっぱり蜥蜴はそこにいる。熱くないのか。
それ以前にラシェルの口振りでは彼にこの可愛くも不思議な蜥蜴は見えていないらしい。
……本当に君はなんなの?
首を傾げた弥生にラシェルは脇に退けていた本の山から一冊取り出した。この世界についての話を聞いていた時に使われた本だ。確か世界図と第三界層――人間が主に生きている層――の地図が載っているやつだ。
パラパラとページを捲くり、あるページで手を止めて弥生にも見えるようにランプの下へ置かれる。
「これ見て」
とん、と綺麗な指がページの一部分を叩く。
挿絵には火、水、風、土が描かれていた。今日勉強した中にあった精霊の話だ。この世界には火、水、風、土の精霊がいる。あと光と闇の精霊もいるらしいのだけれど、その二つの精霊はかなり稀有なのだとか…。そこまで考えて弥生ははたと止まる。
「まさか、この蜥蜴が火の精霊ということですか…?」
「恐らくね。僕には見えないけど、火の中にいて平気ならそうじゃないかな」
ちょっと投げやりにも聞こえる言葉に弥生はランプの中をマジマジと見つめた。
赤オレンジ色の蜥蜴は弥生の視線に応えるように二又の舌を出す。精霊ってこんな可愛いくて人懐っこいの?普通に朝起きたり夜寝たりする時に撫でてたんですけど。
「あ、じゃあもしかして昨日中庭の噴水にいたのも精霊なんですかね?」
「どんなだった?」
「淡い青色で半透明の女の人達が三人いました。噴水に足を入れて遊んでましたよ。普通の人には見えないんですか?」
「普通どころか魔法士にも本来精霊は見えないよ。それは水の精霊だろうね。……そうか、君は精眼(せいがん)の持ち主なのか」
納得した様子で頷くラシェルに弥生も脱力した。
蜥蜴が肩に乗っても気にしなかったんじゃなくて、見えないから気付いていなかったんだ。見えないものには気付かない。まさしくそれだった。
蜥蜴改め火の精霊はランプの中で丸くなっている。こんな可愛い生き物が見えないだなんて勿体ない。
そう思っていると、ラシェルが思考の海から戻ってきたのか顔を上げた。
「君の‘視覚’を借りてもいい?」
「シカクヲカリル…?」
「そう。ちょっと目を閉じててくれればいいよ」
言われて目を閉じる。ふわりと少し冷たいものが瞼の上に触れた。形と感触からしてラシェルの手だろう。それが微かに温かくなったと思うと、目を閉じているはずなのにパッと視界が開けた。
思わずビクリと肩が跳ねれば目の前に見える人物の肩も跳ねる。そこでその人物が弥生自身であることに気が付いた。
勝手に視線が動いてランプの中を見る。視界に入る黄茶と薄い硝子に、ようやく視界の主がラシェルなのだと理解した。
「あぁ、シカクって‘視覚’のことですか」
意味も分かりホッとした反面、不思議な感覚がどうも落ち着かない。
視界が勝手に動くし自分で自分を見るというのは少々居心地が悪い。
「へぇ、これが火の精霊か。本当に蜥蜴だね。想像していたより小さいけど、個体差はあるのかな」
「それは私には何とも言えません。この子以外は見てませんから」
「そう。……ありがとう、もう十分だ」
言われて手が離れる。今度こそ瞼を押し開ければ、目の前には椅子に座り直すラシェルがいる。
やはり自分の視点で見るのが一番いい。何度か目を瞬かせていたからか「気持ち悪かった?」と問われ、首を振った。映画を見ているみたいな疎外感が強かっただけで不快さはなかった。
「私の疑問も解決しました。赤オレンジ色なのは火蜥蜴(サラマンダー)だからだったんですね」
「サラマンダー?」
「元の世界でも、空想の話にですが精霊が出てきます。火の精霊は火を纏った蜥蜴の姿だからサラマンダー、水の精霊は綺麗な半透明の女性でウェンディーネ、風の精霊はシルフ。シルフは姿は見えませんが少女だと言われてます。土の精霊は小人でノーム。光や闇の姿は基本的に出てきませんね」
「そうなんだ。精眼の持ち主なんてほとんどいないから精霊の姿は誰も知らなかったんだけど、うん、」
一つ頷いたラシェルが真っ直ぐに弥生を見た。無表情だ。
「改めて思った。君はとても興味深い」
それは本人を前にして言うことだろうか?
この保護者は良くも悪くも素直な人物なのだと、三日しか顔を合わせていない弥生にも理解できていた。その興味というのが男女の関係などではなく純粋な好奇心からきているのも分かっている。興味があるから観察するとハッキリ言い切られ、その堂々とした態度に少なからず呆れもしたが弥生は同時に好感も持っていた。
弥生自身もわりと物事をハッキリ言うタイプだからかもしれない。嫌とは思わなかった。
「えっと、ありがとうございます?」
「どう致しまして」
一応褒められたような気がして礼を述べると返答が返ってきた。
本を閉じて山へ戻したラシェルが使い途中だったものまで片付けたため、今日の話はもう終わりなのかと弥生もノート代わりの本とペンを仕舞う。
「君が精眼の持ち主だということを国王陛下に報告しても構わないかい?」
「それはまぁ、仕方がないですね。養ってもらっている以上は元より隠し事をするつもりはありませんし。……あ、睦月は見えないんですか?」
「さぁ、そんな話は聞かないから多分見えていないと思うよ」
弥生は異世界人であり、その精眼という目が特別なものなら当然だ。何かあってからでは遅いので報告しておくに越したことはないだろう。
初日に弥生を怒らせたことがあるからか、ラシェルは何かと弥生に許可を求めてくる節があった。
「寄って来る相手が好奇心だけとは限らないし、精霊が見えることは他言しない方が良い」
「分かりました」
見えないはずの精霊が見えてしまうことはラシェルの様子からしても余程重大な力なのだろう。
他者と違うということは特別であると同時に異質でもある。どれほど優れていようとも、素晴らしい力であったとしても、異質なものは大抵の場合においては排除されるものだ。
「あと、精霊に話しかけられても答えないように」
「話しかける分にはいいんですか?」
「うん。元の世界に帰りたいなら、絶対に精霊の問いに答えてはいけないよ。いいね?」
念押しするように言われて弥生は頷いた。無表情なせいか妙に怖い。
立ち上がったラシェルがバラバラになっていた本を重ねていくのを弥生も手伝う。
やはり今日の勉強はこれでお開きのようだ。精霊に関しても中途半端で聞きたいこともあったが、ラシェルが何やら考え事をしているようだったので弥生は疑問を仕舞いこんだ。
本を抱えるラシェルの足元を照らすようにランプを掲げれば、その中で火蜥蜴(サラマンダー)が弥生の気持ちを代弁するかのようにポッと小さく火を噴き出した。
* * * * *
暗い廊下を歩きながらラシェルは考えていた。
内容は一つ。異世界より招いてしまった少女をどうするべきか。
精眼の持ち主であると分かってしまった以上は国王に報告しなければならない。
それは彼女の身元引受人となった際に口頭ながらも受けた‘王命’に従った結果でもあり、黙っていても何時か知られてしまうなら、先に話して対策を練る方が得策でもあったからだ。
豪華な造りの扉の前には二人の騎士がいる。警備を務めている騎士達はラシェルを見、すぐに視線を逸らした。
もう慣れたことなので気にせずラシェルは目の前の絢爛な扉を叩いた。
中から入室を許可する声が聞こえてきて扉を押し開ける。
「ああ、御主か」
静かな、それでいてよく通る低い声と共に中年の男性が机から顔を上げた。四十代半ば程の男性は質の良い服を身に纏い、ついていた肘を下ろす。
「このような時間に失礼致します」
「良い。礼を欠かねばならぬ程の事があったのだろう」
片膝を付いたラシェルに男性は鷹揚に頷き、手でソファーへ座るよう促した。
それに立ち上がったラシェルが従って腰掛けると男性も向かいのソファーへ移動した。
「それで、何か問題が起きたのか」
「はい。どうやらヤヨイ――…異世界より招いてしまった少女ですが、彼女は精眼の持ち主のようです。確認しましたが間違いありません」
「何と…、」
ラシェルの口から出た内容に男性は暫し言葉を失くす。
精眼の持ち主はこの世界に残る最古の文献を調べても、片手で足りる程しか存在していない。そして、その殆どはそれ故に命を落とした。
‘寄って来る相手が好奇心だけとは限らない’
ラシェルは自身が弥生に告げた言葉を一瞬頭の中で思い出す。
精眼の持ち主は多かれ少なかれ精霊に愛され、それを利用しようとする輩は掃いて捨てるほどいる。見えることを公(おおやけ)にすれば弥生が周囲からどのような目で見られるかは考えるまでもなかった。
彼女を保護する立場なら最悪の事態を防ぐ責任がある。
興味が無いと言えば嘘だが、好奇心に任せていては彼女はあっという間に傷付けられてしまう。生まれ故郷へ帰すまで、それは決してあってはならないことだ。
まだ彼女に読めないだろう王印付きの証明書にもそれは記載されているし、ラシェルもその責務は真っ当するつもりだ。
「他言せぬよう言ってあるのか?」
男性の静かな問いに頷きを返す。
「明日改めて詳細を説明するつもりではありますが、他言無用の理由は本人も理解しているようです」
「そうか…」
暫し男性は眉間を押さえていたが、やがて顔を上げるとラシェルを見やった。
そこにもう驚愕はなく、むしろ厳しいとさえ言える顔付きで口を開いた。
「この件は余(よ)の手には余る。魔法や精霊については御主の方が理解がしているだろう。何(いず)れ様子を見て他の王達にも話さねばなるまいが、それまで暫くの間はそちらに任せておく」
「分かりました」
立ち上がったラシェルが部屋を出ようと扉に触れかけた所で声がかかる。
「案ずるな。この国の政(まつりごと)に、その娘を巻き込むつもりはない」
口にせずとも考えていた別の可能性を否定され、ラシェルは胸に手を当て深く頭を下げる最高礼で感謝の意を示すと今度こそ部屋を出て行った。
これで良かったのかは分からないが、少なくともあの魔法学者(ラシェル)であれば精眼の持ち主を私利私欲に扱うこともないだろうと男性は溜め息を零す。
「…此方も、一度会わねばならんな」
一人残されたカルトフリーオの国王はまだ見ぬ少女の行く末を思い、再度小さな溜め息を吐き出してソファーより立ち上がった。