弥生が精眼の持ち主だと判明した翌日も変わらず二人は机を囲んでいた。
慣れない羊皮紙と羽根ペンに四苦八苦しながらも昨日学んだことについては書き留めたものがあるので、そちらは読み書きの勉強と一緒に復習すればいいだろう。
何度見ても本にしか見えないこの世界のノートを広げ、インクと羽根ペンを用意した弥生にラシェルも頷く。
「それじゃあ昨日の続きから始めようか」
「よろしくお願いします」
どこまで習ったかノートを確認する。中は日本語で書いているのでラシェルには読めない。
興味があるのか手元に視線を感じたものの、自身が学ぶだけでも精一杯で他人に何かを教える余裕がない弥生はあえて気付かないふりをした。
「第三界層にどの程度の種族が生きているか、というところで止まっていますね」
種族の特徴とその分布というタイトルが書かれたまま、それ以降は白紙になっているノートのページ。
ラシェルも思い出した様子で「そうだったね」と相槌を打って、何冊かの本を山から引きずり出す。
昨日も思ったが大量の本の中からピンポイントで必要な物だけを選別して抜き出せるのはおかしいと思う。もしかしなくても積み上げられたこの本達の中身を全部覚えているのだろうか。
内心で変な汗を掻きそうになりながら、弥生は広げられていく本を見つめた。
「憶(おぼ)えやすいように種族の品位順に説明していこうか」
「品位って強さとかですか?」
「それもあるけれど、強さだけでもないかな。それだと人間が最も底辺の種族になってしまう。品位についての説明は適切な言葉で説明出来ないから省(はぶ)かせてもらうよ」
「はぁ…」
適切が言葉で説明出来ないって…。そんな辞典じゃあるまいし、大雑把にこんな感じというもので構わないのに。
そう思ったものの、既に種族の説明に入ろうとしているラシェルに弥生は感じた呆れを呑み込んだ。
種族は大まかに分けて七つ。御使(みつかい)、魔族、魔、獣人、人間、魔獣、獣。獣人は細かく定義すると更に二種類に分かれるそうだ。獣人は獣の姿にも人の形にもなれるが人獣は人の姿に獣の一部が混ざっているだけで、獣の姿にはなれない。決定的な違いがあるものの結局は纏めて獣人と呼ばれるらしい。神様は種族に分類されない。‘神’には生や死の概念もなく、そもそも‘生物’という枠には当て嵌まらないから関係ないのだろう。
魔獣と聞いてふと浮かぶのはファンタジー世界では定番の幻獣種達だった。
「ドラゴンとかユニコーン、フェニックスって生き物はいたりします?」
「フェニックスというのは聞いたことがないけど、前半の二種はいるよ。ただし彼らは魔族の部類に入る。正確に言うと御使と魔族の中間みたいな種族だ」
「魔獣ではないんですね」
「…それは本人達の前では禁句だから言わないように。彼らの殆どは自身の種族に誇りを持っているから、知能も持たない魔獣と同一視されるのをとても嫌うんだよ」
そして今度は種族の成り立ち講座が始まった。まず神が御使を生み出す。御使だけでは魔力の質が高過ぎて子孫を残せないので次に魔族が生まれる。その間で偶然派生し、両方の特色を兼ね備えた種族がドラゴンとユニコーンで、御使の力がなくて魔族としても魔力が足りない種族が獣人となり、更にその血が薄まりに薄まって人間が出来た。
すると魔――知性と理性を持つ獣の姿をした魔の者達――と人が交わり人獣と魔獣が現れた。獣はかなり最初の過程で生み出されたが、本来他種族の糧という名目で創られた種族であり、魔獣も魔力は有するが知性や理性を持たぬ故に品位はどちらも底辺に近い。
そして区分だが、第一界層は神の領域なので他の種族は誰も立ち入れない。御使は第二界層、獣人は人間と共に第三界層。魔族は第四界層で主に暮らし、最後に魔獣や獣が第五界層となる。
「魔族の方が品位は上なのに、生活している層は下なんですか?品位順でいけば人間より上の界層が生活区だと思うんですけど」
弥生の疑問にラシェルは「もっともな質問だ」と感心するように言って、広げられた本の内の一冊の文字を指し示した。
「まだ読めないだろうけれど、此処に‘魔王’についての記述がある。魔王は人間の王族同様に世襲制で、生まれてくる次代の魔力も先代の王に負けず劣らず強い。ただ、力が強過ぎるんだ」
「強過ぎる?」
「うん、魔力が周囲に影響し過ぎて第四界層――…特に魔王がいる大陸周辺の天気が王の機嫌にかなり左右される」
「……簡単に言うと?」
「魔王の機嫌が悪ければ嵐になるし、良ければ天候に恵まれるってこと」
「…それは確かに強過ぎますね」
魔王の機嫌を測(はか)る分にはある意味便利だが、王一人の機嫌に天気が左右されるってどんだけだ。
感心を通り越して呆れながら弥生は今習った事柄を羊皮紙に書き写していく。ラシェルが分かりやすく教えてくれるのでノートに纏めるのもすごく楽だ。
ノートの脇でつぶらな瞳を瞬かせる火蜥蜴に弥生は顔を上げた。
「精霊は種族に分類されないんですか」
待っている間に本を読もうとしていたラシェルが顔を上げる。
「あぁ、精霊は種族ではないよ。彼らは自然に発生し、生涯を終えると世界に溶け、何処かでまた発生するから生物と言うよりも世界の一部と見なされている」
「へぇー」
君は世界の一部なのか。ぱちぱち瞬きをする火蜥蜴の鼻先を羽根ペンでつつくと、くすぐったそうに首を竦めてラシェルの方へ逃げてしまった。
世界の一部でも何でもいい。ものすごく癒される貴重な存在だ。
そんな火蜥蜴を見送り、疑問が解決した弥生は再度ノートへ向き合う。
図式で種族の品位を書き、その特徴も書き込んでおく。ついでとばかりにドラゴンとユニコーンの説明文の脇に‘魔獣扱いは禁止’と付け足しておいた。
書き終えるのを待っていたラシェルがタイミングよく口を開く。
「次の勉強の前に、精眼と精霊についての話をしておこうか。君にはとても重要な内容だからね」
それに弥生も居住まいを正して頷き返す。
昨日言われた‘精霊に答えてはいけない’という言葉がずっと引っかかっていたのだ。それがどういう意味で、どの程度の行為をそう呼ぶのか弥生には分からない。
「精眼はもう説明しなくても分かると思うけれど、精霊を見ることが出来る眼(め)をそう呼び、この持ち主は歴史を紐解いてみても片手に足りる程度しか存在は確認されていない。それも精眼の持ち主は皆、緑人(みどりのひと)として生き、そして死んでしまった」
「緑人は?」
「精霊と魂の契約を交わした者の総称だよ。魂魄(こんぱく)――…魂も肉体も精霊と交わり、その存在自体が精霊と等しくなった人々のこと。彼らについて書かれた書物によれば、精霊と契約すると髪や瞳が深緑色に変化してしまうためにそう呼ばれているらしい」
精霊と契約して、魂も肉体も精霊となる。ファンタジーな内容に‘それは凄いことなんだろうなぁ’という感想しか思い付かなかった。正直ピンと来ない。
どこか他人事のように話を聞いていた弥生が目を細めて自分を見るラシェルに気付くことはなかった。
「もし君が精霊に答えてしまったら元の世界には戻れなくなる。何故か分かるかい?」
「待ってください。精霊との契約は魂と肉体が同じものになる……あ、下手に答えて契約が成立してしまったらこの世界の一部になってしまうから…?」
「そういうこと。緑人になってしまったら恐らくこの世界から離れることは不可能だと思う。精霊と交わした契約は破棄出来ない。それを回避するために、君は何があっても精霊の願いに応じるべきではない」
答えるなというのは何かお願いをされても、その願いを聞き入れるなということか。
弥生はいつの間にかラシェルの肩へ移動していた火蜥蜴を見つめた。この火蜥蜴といい、中庭で見た水の精霊といい、姿は見えてもその声を聞いたことはない。
話せるのかどうかも分からないが、精霊の願いなんてそもそも人に叶えられるものなのだろうか?
「精霊の願いとは何なんですか?」
「精眼の持ち主との同化だ。自分のことが見える数少ない存在だからこそ愛し、共にいるために交わることを望む」
つまり精霊の願いはそのまま弥生にとっての最悪となるのだ。
「それなら、きっと大丈夫です。絶対とは言えないけれど、元の世界に戻りたいと思っている間はその願いを聞き入れることはないと思います」
元の世界には両親がいて、友人がいる。他にも会いたい人や仲の良い人が沢山いる。目を閉じた弥生の瞼の裏にその人達の顔が入れ替わり浮かび、そして最後に帰りたい気持ちが強く胸の内に広がった。
「その言葉を忘れないで」
たった一言、ラシェルの言葉は弥生に重く圧し掛かる。
詰まった息を吐き出すように「はい、」と返事をするしか、その言葉に答えることは出来なかった。
重たい空気を払拭するためか、ラシェルの手が読みかけの本をパタンと閉じた。
「それ以外で精霊と触れ合う分には構わないよ。僕としても色々と興味があるしね」
どこか柔らかくなった場の雰囲気に弥生も気持ちを切り替えるために小さく笑みを浮べる。
ラシェルは「さて、勉強を再開しようか」と懐から鍵束のようなものを取り出した。ただし金属製らしき輪にかけられているのは鍵ではなく、縦が三センチで横が一、二センチくらいの小さな金属板が何枚も重ねられている。輪を通すための小さな穴が開いたそれをラシェルが輪から引き抜いて机に並べ出す。
ネックレスのプレートみたいだ。弥生もその手元を覗き込む。
置かれたのは金、銀、胴のプレート。金板は一枚、銀板は十枚、銅板は二十五枚。
「この世界の通貨だよ。まだ教えてなかったよね?」
「はい、初めて見ました」
「そう。触ってもいいよ」
どうぞと手で促されてそっと胴板に触れる。ヒンヤリとした冷たさと金属らしい硬さだ。持ち上げてみると以外にも軽い。本当にネックレスのプレートに出来そうだ。
ラシェルが説明を始める。金をORO(オーロ)、銀をPLATA(プラータ)、銅をCOBRE(コーブレ)と呼び、金(オーロ)一枚は銀(プラータ)十枚、銀一枚は銅(コーブレ)二十五枚。一番低い通貨はやはり銅。
「パン一つで二から三コーブレ、本一冊で十から十五コーブレくらいかな」
例えに頭の中で軽く計算してみる。
こちらの食事で出てくるパンは人の頭くらいの大きさで丸く、十字の切れ込みが入ったもので味も食感もパン・ド・カンパーニュによく似ている。元の世界でそのくらいのパンを買うと一つ三百から五百円程度。価格に差があるとしても銅一枚が百五十ないし二百円くらいなのだろう。銀一枚が四千から五千円とすれば金一枚も四、五万くらいか。細々とした買い物をするには少々不向きな通貨だ。
「大きな買い物や小さな買い物の時は不便な気がするんですけど、金……えっと、オーロ以上やコーブレ以下はないんですか?」
「ないね。五十オーロ以上になると嵩張(かさば)るから宝石に換金して持つのが普通だよ。物々交換も珍しくないし、そもそもコーブレ以下の物を単体で売ること自体ない」
「なるほど」
輪に通貨を戻すラシェルに礼を述べて手にしていたお金を返す。
何気なく目にした輪に通っている通貨は銀や銅もそこそこあったが半分近くは金色だ。
…あれ、もしかしなくてもラシェルって結構お金持ち?
思わず目を瞬かせたものの黙っておくことにした。この保護者が金銭に頓着するかは分からないが、金に関することで口出ししても良いことはない。それは恐らくどの世界でも共通だろう。
懐に通貨を仕舞って服を整えたラシェルが顔を上げ、時計を見た後に弥生へ視線を滑らせた。
「もう昼食の時間に近いし、ある程度この世界についての話もしたから今日の勉強はここまでにしよう」
「はい、ありがとうございました」
「どう致しまして」
頭を下げる弥生にラシェルも小さく頷く。
通貨についてノートに書いてしまおうと羽根ペンにインクをつけていると、蔵書室の扉が開けられた。
ここで勉強をするようになってから初めての訪問者だった。
何気なく顔を向ければ見覚えのある服装の男性が二人ほど立っている。あれは騎士服だ。
こちらが気付くと同時に向こうも机で向かい合って座っている二人にすぐ視線を定めた。だが、ラシェルは本の山を整理するばかりでチラリとも彼らを見ない。彼らが机の傍まで来てようやく振り向いた。それに合わせるように騎士達の足が止まったので弥生は目を丸くして双方を交互に見た。ラシェルが騎士へ問う。
「何か用かい?」
「国王陛下より、御二人に御会いしたいと言付かって参りました」
「そう。…どうする?国王陛下に御会いしてみる?」
散歩に誘うような気軽さで流れるように問われ、一拍の後に意味を理解して悲鳴にも近い声を上げてしまう。
その原因を作った本人は「蔵書室では静かにね」と前日にした注意を一言一句間違えずに弥生へ再度投げかけた。