青年が脇腹を押さえて片膝を付けば、ラシェルも剣を適当に地面へ刺して弥生に振り返る。
騎士達とは違い足首まで裾のある鬱陶しそうな格好にも関わらず、それによる弊害を全く感じさせない一連の動きに開いた口が塞がらなかった。
その腕前が‘時々使う’などというレベルでないことくらい初めて見る弥生にも分かる。息一つ乱していない男は相当の手練(てだれ)だろう。だが当の本人は自身の力量などどうでも良さそうな様子で服を払いながら戻って来た。
後ろで悔しそうに歯噛みしてラシェルの背を睨む青年には申し訳ないが、きっと彼がどれ程技術を学び、また磨いたとしても、この人には到底敵うまい。そう思わせるほどの歴然とした差がそこにはあった。
「学者の条件の一つって、剣が得意なことだったりします?」
ズレた眼鏡を直していたラシェルが一度目を瞬かせた。
「それは初耳かな」
「じゃあ何であんなに強いんですか」
「強くはないよ。相手の剣筋が見えて、後は動きに体が追い付けば誰でも出来る」
それが出来ないから皆練習してるんですよ。
至極真っ当なことを述べているようでいて、けれどよくよく考えてみると実は無茶苦茶な理論だ。
涼しい顔で「次は来賓室だったね」と案内を続行する背を追いかける。
……もし剣を習うとしても、絶対にラシェルには頼むまい。長身の背を見ながら弥生は固く誓った。
城に戻ったラシェルと弥生は今度は来賓室へ向かう。
弥生がその部屋を使う予定も訪れることもまず無いだろうが、他に国賓が来た場合、不用意に近付いてしまわないように前以って教えておきたかったらしい。弥生としても国の重要な人物とは偶然であっても関わり合いにはなりたくないので道を頭の中に叩き込む。
来賓室と謁見の間も距離は近いようだ。言われてみれば客が国王と会うのに延々と長い廊下を歩かされる訳もなく、来賓室から謁見の間へは呆気ないほど早く着いた。
天井近くまである縦長の観音開きの扉は大きさだけでなく施された美しい装飾も他の扉とは異なり、左右に鎧を纏った騎士が二人立っていた。通り過ぎるラシェル達には目もくれずに直立不動でいる様に、いつだったか元の世界のテレビで見たとある国の兵隊達を思い出した。
「…なんだか瞬(まばた)きすらしなさそう…」
「流石に瞬きくらいは彼らもするよ」
ぽつりと零した感想を聞き拾った保護者の訂正に弥生は少し恥かしい気持ちになる。
きっちり訂正を入れた方は特に馬鹿にするでもなく謁見の間から離れて行く。
残るは先を行くラシェル本人の部屋だけとなった。
「ラシェルの部屋は本だらけな気がします」
ただの想像だが、当たらずも遠からずではないだろうか。
「否定はしない」
それだけ言って黙々と歩く。とにかく本がありそう。でも、それ以外は想像が出来なくて逆に好奇心が掻き立てられる。どんな部屋なのだろう?期待が混じりワクワクする。
異性の部屋だという事柄については既に頭から抜け落ちていた。
機嫌良さげに後ろを歩く弥生にラシェルもこれと言って注意をしない。
謁見の間からだいぶ離れた場所――…けれども弥生にとっては案内のかなり始めの方で見た覚えのある景色を目にして首を傾げる。
現在弥生用になっている部屋へ繋がる廊下だ。
そこから二つ三つ角を曲がった先の螺旋階段を上ったところにある部屋が、ラシェルの自室だった。
他の部屋と違い随分古ぼけた扉を開ければ蝶番が小さく悲鳴を上げる。
ラシェルの脇から顔を覗かせた弥生は広がる光景に目を丸くした。
まず目を引くのは床から天井まである本棚だ。隙間なく本が詰められたそれが左右に四つ程、壁と平行して並べられている。
入り口正面には大きめのテーブルと三、四人がけのソファーが向かい合わせに二つ。ソファーの片方には毛布がかけられている。ちなみにテーブルの上はよく分からない文字がみっちり書かれた羊皮紙が山積みだったり散乱したりしており、他に物を置くスペースが見当たらない。
空気は頻繁に入れ替えているようで埃っぽさはないが、本独特のインクの匂いが微かに弥生の鼻を掠め、部屋の隅には棚に入り切らなかっただろう本が一メートル以上の高さでいくつか積み上げられている。
部屋の主の後に続いて入ると隠れていた部分も見えた。
テーブルセットの向かって右側には様々な石やら道具やらが棚に収まっていて、反対の左側には二メートル近い大きさのやはり見慣れない物だらけの机、その前にある一脚の椅子は所々焦げたり汚れたりしてしまっている服が背もたれにかかっていた。
「生活感皆無ですね」
とりあえず一番感じた感想を告げてみる。主はあっさり頷いた。
「部屋と言っても寝るか研究くらいだから」
「あえて聞きますがベッドは?」
「何時もそこで寝てるよ」
「やっぱり!」
毛布の乗ったソファーを指差されて弥生は声を上げた。
これは無関心とか無頓着とか言う以前の問題である。寝るか研究するかの部屋にしても、何故二つしかない主な使用方法の片方に必要なベッドがないのだ。おかしい。テーブルセットとベッドを置き違えている。
テーブルの上にある羊皮紙達を纏めながら「これでも前より物は増やしたんだけどね」と事も無げに言うラシェルに頬が引き攣る。引受人なのに、この人の方が保護者が必要そうだ。
「……ベッドで休んだ方が体に良いと思います」
紙の束を抱えるラシェルが首を傾けると、肩の辺りからパキリと乾いた音が響く。
軽過ぎて存在を忘れていた赤オレンジ色の蜥蜴が何時の間にかその手に持つ紙の山の上に鎮座し、それをテーブルの隅へラシェルが移す。
「隙間が出来たら設置を検討する」
「そういうのって、結局置かないままになるんですよ」
「そうかもしれないね」
不便を感じていないからこそ考えるだけで終わってしまう。
政治家みたいな返事にその流れを読み取った弥生は呆れ気味にその背中へ歩み寄った。
* * * * *
「それじゃあ、まずはこの世界の一般的な常識から勉強していこうか」
重過ぎる音を立てて置かれた数冊の分厚い本と、それを持ってきた保護者を弥生は思わずじっとりとした目で見つめてしまった。
城を案内してもらった翌日、あれから懐いたのかあの赤オレンジ色の蜥蜴はラシェルの肩にくっついたままだった。今現在も彼の肩に乗り挨拶でもするように二又の舌をペロリとする。
「まさかこの本を全部読め、なんて言いませんよね?」
「まだ文字も習っていない相手にそんな無茶は言わないよ。中の挿絵や地図を使うのに持ってきただけ」
「それを聞いて安心しました」
文字に関しては従姉妹である睦月がこの世界に来た時に作った教材――単語帳や簡易の辞書――で勉強することになったのでラシェルのお世話になることはなさそうだった。読み書きの勉強は空いている夜の時間にでもやればいいだろう。
弥生の向かいに座ったラシェルが重ねられた本から一冊抜き取ってページを捲くる。そこには何かを輪切りにしたみたいな絵が描かれており、更に隣りのページには地図らしきものが載っていた。
「これがこの世界の大まかな図だ」
「え、これがですか?」
試験管の先に似た円筒形で底が丸い線の中に、幾つか区切られた空間が書かれ、中央に細い支えのようなものがある。底は何だかよく分からないが黒く塗り潰されていた。
「世界は層で区分されているんだ。界層は全部で五つ。上から順に第一、第二となっていて、僕達が生きているのは此処の第三界層と呼ばれる空間になる。下の第四界層は魔族の生きる界層だよ」
「魔族もいるんですか」
まさにファンタジーな世界に閉口してしまう。
だがすぐに気を取り直して弥生は疑問を投げかける。
「魔族と人間って仲が悪かったりします?」
「悪くはないけど余程のことがない限り、不干渉かな」
「そうなんですか。あ、この第五界層は何がいるんですか?」
「そこは獣や魔獣の住処だよ」
界層ごとにある程度種族が分けられることで、それぞれの種族が滅びないよう抑えているんだと続けられて弥生はへぇと声を漏らした。
この世界はなかなか機能的に創られているらしい。
ただ世界に名前が無いというのには驚いた。しかし言われてみれば確かに元の世界にも名前なんてない。国や土地と違って世界は比べるものがないので‘世界’としか言いようがないのだろう。
一応それぞれの空間が分かれているので不便が無いように界層は第一、第二と呼んでいるに過ぎないのだとか。
「世界の成り立ちはどんな風に伝えられているんですか?」
第三界層の地図を取り出してきたラシェルにそう問えば変な顔をされた。
「それは神しか知らないから僕も分からないよ」
「調べたりしないんですか?というか、ラシェルは神様の存在を信じているんですね」
「信じるも何も、存在しているものを否定することは出来ない」
「…?」
なんだかお互い会話が噛み合っていない。
向こうもそれを感じていたのか眉を片方上げると弥生に向き直った。
そのせいでラシェルの肩にいた蜥蜴が後ろに転げ落ちる。
ラシェルの説明によると、この世界の神は必要以上に干渉せず、在るがままに見守り、眺めているだけだそうだ。人の生死や国の歴史などには自ら関わらない。そしてその神に会う方法があるという。それはとても辛く困難で、例え会えたとしても、願いを聞き入れてもらえるかどうかはまた別の話らしい。
つまり、この世界にいる神は宗教的な存在でも想像から生まれた存在でもない本物の神なのだ。生き物という子供達に対して非常に放任主義な親、という印象を弥生は受けた。
「神様が確実にいるって何だか不思議な気分ですね」
「そう?君がいた世界に神はいないの?」
「分かりません。私は居ても居なくてもいいかな、くらいにしか考えてなかったので。宗教によってはきちんと神様はいると信じている人達もいましたよ。信じている人には神様は居るし、信じていない人には神様はいないんじゃないかと思います。私の世界では神様に会う方法はありませんから」
「なるほど。存在の有無を確認出来ないなら仕方ないね」
一つ頷いてラシェルは地図を広げた。元の世界の地図に少し似ているような気もしたが、大陸は異なっていた。国は六つ。特産物があったり観光地があったりと、隣り合った国でもやはり特色があるそうだ。
「僕達がいる国はカルトフリーオ。六つの国の中で最も寒くて環境も厳しい国だ。だけどその代わりに魔力を持った人間が生まれやすい国でもある」
「他の国よりも魔法を使える人が多いってことですか?」
「そうだよ。今は城の中だから分からないだろうけど、この国の夜はとても寒い。国民は眠る時に自身の家に魔法をかけて気温が下がり過ぎないようにするんだ。城の敷地内は王族付きの魔法士が交代で魔法をかけているからそこそこ暖かいけれどね」
示された国を地図の上から指先でなぞりつつ弥生は変わった国だなと思う。
だがラシェルの口振りからするに、そのこと自体はごく当たり前のことのようだ。気温を維持しなければいけないということは、夜中になると氷点下近くまで下がるのだろうか?夜に窓を開けたら寒かったことを弥生はふと思い出した。
「ちなみに魔法をかけ忘れたらどうなります?」
弥生の問いに無表情のまま「凍死するね」という返答があった。凍死。思わず腕を擦った弥生にラシェルは目を瞬かせた。
「そんなに気にしなくても、忘れなければ良い話だ」
それでも魔法一つかけ忘れただけで死ぬなんて嫌過ぎる。同時に何故魔力を持つ人間が生まれやすいのかも納得出来た。魔力が無ければ夜を越せない国ならば、嫌でも持って生まれて来るだろう。
よくよく聞けばこの世界に四季はないらしい。ここは年がら年中極寒の国ということだ。
時折話を脱線させながらも、この世界について語るラシェルの言葉に弥生は必死に耳を傾ける。
保護者曰くの‘何て事ない’ことで命は落としたくなかった。