翌朝、弥生が目を覚ましたのは完全に日が昇った後だった。
二段ベッドの上で上半身だけ起こして柵へ両脇を乗せ、しょぼつく目を擦りつつテーブルを見下ろせば、ラシェルが昨日と変わらぬ姿で同じ様に本を読んでいる。その肩には暫し姿を見なかった火蜥蜴がいつの間にか帰っていた。
寝起きの空っぽな頭で眺めていると視線に気付いた保護者は顔を上げた。
「おはよう」
「……おはよう、ございます」
夢現(ゆめうつつ)な声で挨拶を返した弥生は何とかベッドから下りてブーツを履く。
手で寝癖のついた髪を撫で付ける一方で欠伸を噛み殺し、部屋の隅にある荷物を漁って取り出した櫛で改めて髪を整えると振り返った。
「顔洗いに行ってもいいですか?」
読みかけの本がテーブルへ置かれる。
「僕も行くよ」
昨日の今日で迷子になっては堪らない。
実は浴場と部屋との道のりがまだ曖昧なので、ありがたく申し出を受け取った。
「是非お願いします」
しかし立ち上がったラシェルは扉へ向かわず、いざ行こうとしていた弥生は小首を傾げて向けられた視線を見返した。
「どうかしました?」
「ちょっとね。君、あんまり魔法が好きではないみたいだけど、防御の魔法をかけても良いかい?」
「防御?」
「うん、もしもの時に少しでも身を守れるものがあった方が僕としては安心出来る。勿論、君が嫌だと思うなら無理強いはしないよ」
これまでの道中でラシェルが弥生へ使った魔法は服の汚れを落とすものくらいだったが、それは服へかけられるものであって弥生自身に干渉する類ではなかったから拒否しなかっただけだ。ちなみに火蜥蜴の件は構える前に行動を起こされてしまったのでカウントしないことにしている。
かと言って四六時中一緒にいるのも無理な話。多少嫌でも意地を張って後で迷惑をかけるよりはと考え直し、無意識に顰めていた眉を解いて渋々頷いた弥生に保護者の手が軽く両肩に触れる。
抑揚のない声が不思議な響きを湛えた魔法の詠唱を始めれば、硝子にヒビが入るようなピキパキとした音がして、弥生を中心に透明の薄い綺麗な球体が形成されていく。長い詠唱が切れ、仕上げとばかりに球体は一瞬煌めいて空気に溶け消えた。
離れていく手に知らず詰めていた息を吐く。
「気分は大丈夫かい?」
「何ともないです」
「そう。持続性のものにしたからある程度は防げるはずだけど、万能ではないから気を付けて」
「そうなんですか?」
意外そうな声を上げた弥生に「術者の力量や防ぐ対象によって異なるよ」と保護者は言う。
魔力の強い者が力を込めて使えば相応の防御力になるし、物理や魔法、あるいは特定の現象を防ぐように定めれば部分的に特化させるだけなので色々と応用が利くらしい。今かけた防御魔法も‘守護対象への悪意ある攻撃現象’は跳ね返すが、偶然飛んで来た物やたまたま人とぶつかったりするのは防げないそうだ。全てを防ぎたいなら自身で向かってくる攻撃を見極めて防御魔法を駆使するか、攻撃魔法で相殺なり弾き返すなりするしかない。
「でも私を狙う人なんていますかね?」
この世界の人々と比べれば少々珍しい顔立ちや肌色をしているかもしれないが、平々凡々でどこにでもいるような人間をわざわざ選んで襲わないと思う。
「物盗りや追い剥ぎは誰彼構わず襲って来るよ」
「ああ、なるほど」
そっちを生業にする人々からしたら身を守る術のない弥生は格好の餌食だろう。
元の世界でそんな目に合ったことがなかったので、完全に頭の中から抜け落ちてしまっていた。
「君のいた世界は此処よりずっと平和なのだろうね」
「うーん、確かに世界的に見れば私の生まれた国はかなり治安が良いと思いますが、それでも毎日何かしら事件が起きていましたし。まあ、普通に生活している上で命の危機を感じるようなことはありませんでしたから平和と言えば平和だったかもしれません」
不意に両親や友人達の顔が脳裏を過ぎり、言いようのない寂しさや悲しさに胸が痛んだ。
皆は自分を心配して探してくれているだろうか。叔父や叔母は心を傷めてはいないだろうか。睦月が行方知れずになった時の憔悴し切った二人の姿を思い出すと申し訳なさで居た堪れない気持ちになった。
目を伏せた弥生の背を大きな手が気を逸らす風にポンと叩く。
「ついでに朝食も食べようか」
「…そうですね、お腹ペコペコです」
おどけるつもりで腹部当てた手の平の下からタイミング良く小さな音が鳴った。
まさか本当に鳴るとは思ってもみなかった弥生は自身の腹を見、顔を上げた先でしっかりこちらを見ている無表情と目が合って頬に熱が集まるのを自覚してしまうと、殊更恥ずかしさに拍車がかかる。
「す、すみません…」
「別に謝ることはないよ」
廊下へ出て代わり映えのしない道を浴場へ向かう。
一旦分かれて中の洗面所で顔を洗い、サッパリした気分で備え付けの布を拝借して水気を拭い取る。ちょっとパリッとした肌に、いい加減化粧水の一つでも買わないとと思考の片隅に欲しい物をメモしておいた。
廊下でラシェルと合流し、食堂へ行けば朝食のピークを過ぎているお陰か人影は疎らで席も空いており、厨房に近いテーブルの一つへ通されて座るとすぐにメニュー表を開く。それを横からラシェルが覗き込む。お腹が空いているとは言えど朝から沢山食べられるはずもなく無難にサラダとスープを弥生は選び、保護者はサンドウィッチを頼んでいた。ちなみにこのサンドウィッチもコカトリスの肉が使われているらしい。
短時間で届いたそれらに食事の挨拶をしてから手をつける。スープは昨夜の塩辛い肉が入ったオニオンスープのようなもので、サラダは見た目が明らかに‘葉’というものばかりだったが味はなかなかに良いものだった。
* * * * *
食事くらいしか楽しみのない船旅も三日目の昼頃にはエステルノへ到着してしまう。
借りていた部屋で荷物の整理と忘れ物がないか確認を済ませて後は船が接岸するのを待つばかりの弥生とラシェルは、部屋のテーブルで顔を突き合わせてのんびりとしていた。
テーブルの上の使っていないランプに何時の間にか出てきた火蜥蜴が乗っかっている。その鼻先を指先で突いたり背中を撫でたりする弥生の手を保護者が興味深げに目で追いかけ、段々それが気になり出した弥生が耐え切れずに話題を振った。
「この後は馬車に乗るんでしたっけ?」
前髪と眼鏡に隠れた瞳がテーブルから上がる。
「そうだよ。首都のフォルティスまでは半日位馬車に乗るから、何をするにしても明日以降になるだろうね」
また硬い椅子と揺れる馬車の世話になるかと思うと一瞬憂鬱になったものの、これから訪れる首都がどんな場所か直に体験出来るという期待も相まって気持ちも逸る。
そこでどことなく予定が決まっていそうな雰囲気の声に首を傾げた。
「街へ行ったらしばらくは図書館で調べ物三昧になりそうですね」
「まあね。でも行くのは王城だよ。街の図書館は物語や歴史物ばかりだし、大した文献もないから城の蔵書室で閲覧出来る場所を開示してもらおう」
「えっ、お城に入れるんですか?」
平然と他国の城へ入る気でいるラシェルに弥生が驚いた。
「君の後見人が誰か忘れたのかい?」
「…あ」
指摘されてやっと弥生は自身の後見人がカルトフリーオの国王であることを思い出した。これほど信用に値する人物もいないが、逆を言えば下手なことをして騒ぎを起こせば後見人へ迷惑をかけてしまう。その辺りを踏まえて城での行動は気を付けなければならないだろう。
船の底から地鳴りのような音が響き、さあ到着だと立ち上がった保護者に続けば廊下には弥生達同様に気の早い乗客が既に出始め、それぞれが荷物を手に押し寄せる波のごとく船の出入り口へ向かう。長身のラシェルの前を歩きながら流されるように船着場へ下りるとカルトフリーオと変わらない鬱蒼とした森が広がっていた。
船着場には馬車が何台も停まっていて、そのうちの一つへ料金交渉を済ませたラシェルと共に乗り込む。やはり奥の一番隅に弥生、ラシェルの順に腰を落ち着けた。馬車はすぐに乗客でいっぱいになった。
「着いたらすぐに宿を取って名産品の料理でも食べに出ようか?」
観光客さながらの提案は大変魅力的ではあったが弥生は首を振る。
「いえ、宿で食べられるなら宿の食事で十分です……あ、もしかしてラシェルは何か食べたい物があったりします?」
「特にはないよ。君がそれでいいなら今日はそうしよう」
あっさり否定したラシェルが随分黄ばんでしまった本のページを指の腹で擦る。
エステルノの名産は海産物だったけ。海と呼ぶべき場所がないので正確には川や湖などの魚介類となるのだが、弥生は最近口にしていない郷土料理を思い出した。
「お刺身食べたいなあ」
「オサシミ?」
「生魚を薄く切って食べる料理です。さっぱりしていて美味しいですよ」
「虫がいるから基本的には生で食べないだろうけど…うん、食べて見る価値はありそうだ」
その辺りは普通に川魚を食べるときなどの注意点と同じようだ。ラシェルが思考を巡らせるためか視線を宙へやり、何か着地点を見つけたらしく数度頷いて納得した様子を見せる。
生魚の食べ方について聞かれたので、そのまま生で食べたり炙って食べたり、醤油という豆を醗酵させて作ったタレにつけて食べるんだということを語った。まだこの世界で米を見たことがないため寿司については控えておいたがこちらで言う風変わりな食べ方に興味が沸いたのか、切り方や醤油の作り方――これはさすがに分からない――、食べる魚の特徴についてを事細かに聞かれた。
食べ物の話で話題が盛り上がり、それが一段落したところで馬車が休憩を取るために停まった。
一度馬車から降りて凝り固まった体を伸ばし解していると後から来た馬車も道の端へ停まって馬を休ませ、後ろから乗っていた人々が和気藹々と出て来る。その中にクライヴさんとコーネリウスさんが混じっていて、こちらに気付いた二人に手を振られて同じく返す。
二つ後ろの馬車なので行くことは出来ないがあちらに疲れた様子はない。
水筒から水を飲んで軽いストレッチをすれば休憩時間もあっという間に終わって再度馬車へ乗る。
ガタゴトと揺れる車内を改めて見回してみれば様々な職業の人が乗っていることに気付く。商人数人に吟遊詩人らしき人、弥生達と同じ旅人にコーネリウス達のような傭兵と全て前に‘恐らく’が付くが大体はそうだろう。
「色んな人が乗っていますね。…あれ?でも商人の人は売り物が…」
「これから買い付けに行くんじゃないかな。物売りが商いの主柱であるのは変わらないけれど、契約の取り付けや商人同士の仲介も立派な商売だよ」
居眠りをしている商人らしき乗客を横目に、商人は元の世界の商社マンに近いのかなと考える。契約先を探し、商品を揃えて納め、金を受け取る。または商品を買ってくれる顧客を探して売り込みに行く。経済の根本はどこもやはり変わらないらしい。
そこでふと欲しい物があったことを弥生は思い出した。
「そうだ、お刺身どうこうよりも化粧品が欲しいんでした。顔を洗うとパリパリで結構辛いんです」
「そういえば君は持っていなかったね。僕もそろそろ新しい本が欲しいし、宿を取ったら買い物にでも行こうか」
「そのうち鞄が本でいっぱいになったりして…」
「持っていてもかさ張るだけだからこれは売り払うよ」
黄ばむほど長く持ち、読み込んでいるというのにラシェルは売ると言い切った。思い切りが良いと言えば聞こえはいいが執着心がなさ過ぎるのも些かどうなのだろう。
「そんなに古くなるまで持ってるくらい好きなんですよね、その本。いいんですか?」
「うん、手放す機会がなくて持っていただけだから」
「そうですか」
本の内容を聞いてみると昔の偉人が書いた魔法論文の写しなのだとか。ページも見てみたが大半は解読出来ない単語と説明の羅列で、これをきちんと理解している保護者はさすが魔法学者である。きっと中身も暗記しているに違いない。
その後の道中もつつがなく馬車は進み、ラシェルが言っていた通り半日程度で首都に着いた。
日が既に落ちてしまっていたが宿屋も周囲の店も客で賑わい、弥生は欲しかった化粧水類を、ラシェルは売った本の代金で新しい本を買ってそれぞれの戦利品を手に宿へ戻っていった。