やや筋張った細い指が、本のページ横部分を腹で撫でる。
一回、二回、三回――…遅過ぎる。ラシェルは紙面から顔を上げた。
「お風呂に行ってきます」
夕食後にそう宣言して意気揚々と部屋を出て行ったきり、弥生が戻らないのだ。既に一刻以上は経っており、長風呂にしても流石にそろそろ帰って来ても良い頃合いだ。普通の者ならば大して気に留める必要もないが、それが彼女となると話は別だ。
ふっと軽く息を吐いたラシェルは本をテーブルの上へ置き、扉の内側にかけられていた鍵を片手に部屋を出る。
扉に施錠を済ませると浴場へ足を向けた。
もしかしたら途中で鉢合わせるのではという淡い期待に反し、ラシェルは誰とも擦れ違わぬまま浴場へ辿り着いてしまった。浴場の出入り口付近で暫し待ってみたが、出て来るのは見知らぬ者ばかり。
仕方なく通りかかりの女性に弥生の特徴を伝えて中を確認してもらうも、やはり出た後らしく、見当たらないと告げられた。女性に礼を述べたラシェルの脳内に‘迷子’の二文字が浮かぶ。
…そんなに複雑な道順だったろうか?
小首を傾げつつ元来た道を引き返そうとした。
「よぉ、また会ったな。魔法士の兄ちゃん」
聞き覚えのある声に踏み出しかけた足を止めて振り返る。
夕食の席を共にした二人の傭兵が歩み寄ってきた。どうやら彼らも浴場を利用していたようだ。
「貴方も湯を浴びに?」
青年の問い掛けに首を振る。
「いえ、連れを探しに来ただけです。彼女を見かけませんでしたか?」
ラシェルの言葉に傭兵二人は戸惑うように顔を見合わせ、先に声をかけてきた中年男性が眉を下げた。
「上に行こうとしてるのは見かけたけどよ」
「それも浴場へ入る時、半刻も前の話ですから…」
どこへ行ったかは分からない。
濁された言葉の続きを読み取り、ラシェルは頷く。
「ありがとうございます。とりあえず行ってみます」
軽く会釈をすると足早にその場を後にする。
船の上層、浴場より更に上となれば食堂か談話室、甲板くらいのもので、一カ所ずつ行って確かめるしかなさそうだ。
着いた食堂内をグルリと見回してみたが探し人は見付からない。湯浴みのために幾らか貨幣を持たせてあったけれど、食堂で何かを頼むには少々足が出てしまう程度の額だったので、彼女がいないのは当然と言えば当然である。
疎らな人影を再度確認して次に談話室へ向かう。しかし、そこにも弥生の姿はなかった。遅い時間帯ではないにしろ、ほとんどの人々は宛(あて)がわれた部屋に戻っているのか談話室は静寂に包まれていた。
残った甲板へ歩きながら、見付けたら一言注意しなければとラシェルは思う。
逃げ場のない船上で愚行を犯す輩など滅多にいないが、その滅多な出来事に弥生が巻き込まれては困る。彼女は魔法どころか戦いすら出来ない。抗う術を持たない者がこの世界でどれほど危ういか理解していないのだろう。
甲板へ続く扉を押し開ければ、肌寒い風が滑るように流れ込んできた。扉を閉めて周囲を見回し、ある一点で巡らしていた視線を止める。
――…見付けた。同時にその向こうに広がり光景に瞠目する。
紅と蒼の満月が天空を明るく照らし、色鮮やかな虹が橋の如くかかっている。
ラシェルは僅かの間それに見惚れていたけれども、すぐに我へ返り、空を見上げ続ける小さな背に近付いた。
「そんな薄着だと湯冷めするよ」
余程驚いたのか勢い良く黒い頭が振り向く。
「ラシェル?どうかしたんですか?」
「いつまで経っても戻って来ないから探しに来たんだ」
弥生の顔にしまった!と言いたげな表情が浮かび、やがて申し訳なさげに眦(まなじり)を下げた。
「ちなみに、どのくらい経ってます…?」
「君が部屋を出てからなら少なくとも一刻は過ぎてるかな」
「一刻っていうと……ええっ、二時間以上?!うわぁ、ごめんなさいっ!」
数拍の間を置いて理解したらしい弥生が驚いた後、間髪入れずに謝罪を口にする。
「ずっと甲板にいたの?」
「いえ、えっと、最初はただの迷子だったんですけど、うろうろしてたら甲板に出てしまって…」
尻窄(しりすぼ)みになった言葉の先は聞くまでもない。虹に気を取られて時間を忘れていたのだろう。
肩を落として反省する姿にそれ以上責める言葉を重ねられず、項垂れる黒い旋毛(つむじ)を数回軽く叩いた。
「何もなくて良かった」
黒い瞳がラシェルを見上げ、うろうろと宙へ彷徨い、やがてまた甲板の床に戻る。すみません、と俯く彼女の顔は身長差のせいで窺い知ることは出来なかったが、袖口から覗く手は強く握り締められていた。どこか見覚えのあるこの状況に記憶の糸を手繰り寄せる。
ややって、ああと思い出した。今の彼女はまさに叱られた子供のそれだ。
もしかすると迷ったことや帰って来れなかったことを責められていると思っているのだろうか?
そうだとしたら、それは勘違いである。心配こそすれどラシェルは怒ってなどいなかった。
「ところで、随分熱心に虹を見ていたね」
我ながら上手いとは言えない話の逸らし方に彼女がこちらを見上げて目を瞬かせた。
「あ、はい、夜の虹は初めて見たので珍しくて」
「虹って夜に出るものじゃないの?」
問い掛けに黒い瞳が今度は丸くなり、それから少し考えるように視線を落としたかと思うと周囲を見渡し、甲板に誰もいないことを確認して抑えた声音で言った。
「私の生まれた所では基本的に昼間にしか見れません。場所と条件によっては夜でも見られるそうですが、虹は太陽の光が空気中の水分に当たった際の屈折具合でその色が見える現象なので、光の少ない夜は普通見えません」
「それは興味深い。この世界の虹は強い力を持つ精霊が通った後に残る足跡みたいなものだけど、ここまでハッキリ見えるのは珍しい。僕としては光の屈折云々の方が気になるよ」
「……私も詳しくことは分からないので説明出来ないです」
「それは残念だ」
心からのそれが可笑しかったらしく、彼女が小さく笑った。
その様を見下ろしつつ指を擦る。先ほど触れた髪は大分冷えていた。早く戻らないと風邪を引くだろう。
「そろそろ中に入ろう」
そっと背中を押して促した。
* * * * *
「探しに来てくれて、ありがとうございます」
「どう致しまして」
欲を言えばもう少し夜の虹を眺めていたかった。
しかし体も冷え、盛大なくしゃみも見せてしまった今、それは無理だろう。
船内へ戻ると暖かな空気にホッと息が漏れる。二人分の足音が響く廊下は静かだ。
一歩前を行く長身の背に申し訳なく思う半面、帰りが遅い自分を探しに来てくれたことがとても嬉しかった。
軽くなりがちな足取りを意識して落ち着けていた弥生にラシェルが顔だけで振り返る。
「部屋に戻る前に、何か温かい物でも飲んで行こうか」
ありがたい申し出に一も二もなく弥生は頷いた。
その足で食堂へ行くと夕食の時間帯を大分過ぎているからか客足は疎らで、ちらほら居る人々もゆったりと談笑に興じている。
さて、どこに座ろうかと呟きながら辺りを見渡したラシェルの目が不意に止まった。視線を辿れば見覚えのある顔が二つ。
「あれ?あの人達って、」
向こうもこちらに気付いて持っていたジョッキを掲げる。歩み寄ると正反対な二人組は揃って笑みを見せた。
「よう、兄ちゃん。捜し物も見付かったみてぇで良かったな」
「はい、先ほどはありがとうございました」
目礼する保護者と中年男性に‘?’と弥生は首を傾げた。
ラシェルの捜し物、さっき――…見付かって良かった…?
中年男性と青年の目は弥生を見ていて、否応なしに‘捜し物’が何だったのか理解してしまう。チラと隣りにいる人物を見上げればバッチリ目が合った。
「…気をつけます」
「うん」
何を、とは言わずもがなであった。
居心地の悪さに身じろぐ弥生と、そんな弥生を静かに見下ろすラシェル。
その穏やかな様子に青年が微笑を浮かべて空いている席を手で示す。
「こうして何度もお会いするのも何かの縁、せっかくですから御一緒にいかがですか?」
「是非」
誘いを受けて席に座り、メニュー表を覗き込む。
「何か飲みたいものはある?」
「うーん…、とりあえずお酒以外でお願いします」
「分かった」
どれがどんなものだか分からないので任せておこう。
一つ頷いたラシェルが少し離れた所にいたウエイターに声をかけ、いくつかの品を注文する。ウエイターはキビキビした動きで厨房へ戻って行く。
「挨拶が遅れちまったけど、俺はクライヴだ」
「私はコーネリウスです。傭兵をしながら各国を回っています」
差し出された手をラシェルがそれぞれ握り返す。
「改めて僕はラシェルといいます。こちらはヤヨイ。昼間話した通り、彼女の見聞を広めるために旅を始めたばかりです」
紹介に今度は弥生も軽くお辞儀をしながら立ち上がってテーブル越しに握手を交わした。どちらも皮が固く、所々にタコがある少々かさついたそれに、これが剣を扱う手なんだなと感心しつつ椅子に座り直す。
どことなく打ち解けた雰囲気になったところで頼んでいた物が運ばれて来た。
飲み物が二つと大きめのピッチャーが一つ、それから干した肉を薄く切って豪快に盛ったものが一皿。渡された飲み物は蜂蜜のような透明な色味をしており、果物の甘い香りが湯気と一緒に漂ってくる。
クライヴが持っていたジョッキを掲げ、コーネリウスとラシェルも同様に上げたため、弥生も倣って自分のものを上げたがかなり熱かった。
続いてそれぞれがジョッキを仰ぐ。
流石に熱い飲み物を一気に口に出来るはずもない弥生だけは両手で包んだカップの中身に息を吹きかけて冷ます。オレンジティーみたいな香りが鼻をくすぐる。
「お二人はエステルノに着いた後は王都へ?」
「ええ、色々見て回ろうかと思っています」
「そりゃあ良い。あの国は飯も旨いし景色も悪くねぇし、嬢ちゃん連れて観光するには打ってつけだろうよ」
ああ、湖とか山が多くて食べ物が豊富だって言ってたっけ。でもきっと魚を生で食べる習慣はないんだろうな。お米も醤油もないみたいだし。
慣れ親しんだ味を思い出しながら、そっとカップに口をつける。
オレンジとリンゴを合わせたような味がした。微かな酸っぱさ、サッパリした甘さ、最後にまろやかな苦みとも渋みともつかない後味が一層果物の香りを引き立て、それが胃に落ちると体が内側からじんわり体が温まる感じがしてホッとする。
ミルクを足したら苦みや渋みはなくなるかもしれない。暑い日に冷やして飲むのも美味しいだろう。
まだ熱いがもう一口、と飲んでいた弥生へ声がかかる。
「気に入ったみたいだね」
「はい、サッパリした甘さでとっても美味しいです」
「それは良かった」
言って、薄切りの干肉が山盛りになっている皿をラシェルが勧めてきた。小さなフォークが一緒に乗っており、それで刺して食べるのだと思う。
「これも美味しいよ」
勧められるまま、端っこの一枚をフォークでざっくり刺して食べる。
少し獣臭い気はするけれど思ったよりも脂っこさはなく、しかし単体で口にするにはかなり塩辛い。しっかり乾燥させてあるお陰で固い肉をよく噛んで飲み込む。
「…しょっぱいけど、お酒には合いそう…」
「そういう物だからね」
数枚の肉を刺して食べるラシェルを横目に更に一、二枚食べたものの、やはり塩辛過ぎて後は丁重に断った。
やや温くなったカップの中身をちびちびと飲みながら、同席する三人の会話をぼんやり聞く。
携帯やテレビ、ラジオなどの情報源がない故に道中の危険な箇所や噂といった内容が大半を占めており、飛び交う単語の半分以上は初めて耳にするものばかりで分からない。興味があっても理解出来なければ覚えるのも難しく、言葉は右から左へ通り抜けていった。
結局、弥生とラシェルは数回飲み物を頼み直し、コーネリウス達と分かれたのは夜も更けた頃だった。