船の中は外観に違わず広く、そして入り組んでいた。
弥生が両手を伸ばして丁度指先が両側に触れる幅の廊下は頑丈な木の板を使っているのか、ブーツで踏み締める音が響かない。木目が綺麗に揃えられた床はそのままに、壁と天井は白い塗料を薄く塗られていて所々に擦ったような傷が残っている。両側の壁を見ると部屋の扉が向かい合わせにならぬよう交互に配置されていた。
その廊下を歩いていると自分達と同様に乗船しているのだろう人々とたまに擦れ違ったが、大抵は保護者に道を譲るか脇に避けられた。長身で精巧な人形のみたいに整い過ぎた顔を見れば大抵の人は気圧される。当の本人は自身が周囲にどう思われているのか全く頓着がないらしく、道を譲られる度に礼を述べている。
「――…逸れるよ」
擦れ違った女性から痛いくらい嫉妬の混じった視線を受けて足が止まっていたらしく、保護者が立ち止まって振り向く。かけられた声に顔を前へ戻すと三メートルほど離れてしまっていた。
「すみません」
駆け寄って謝る弥生にラシェルは緩く首を傾けた。
「何か気になるものでもあった?」
「いえ、特にないです」
「そう」
歩き出したラシェルをまた追う。乗船してから部屋に行くまでの道のりとは異なり何度か階段を上ったが、正直一人で船内をうろつくのは無理そうだ。逸れてしまえば即迷子になってしまう。
そこでふと疑問が浮かんだ。前を行くラシェルは地図を持っていないのに別段迷う様子もなく廊下を進んでいる。
…まさか船内を把握してる?
この保護者が船の案内図を確認したのは最初に乗り込んだ時だけだ。思い返せば弥生へ説明を行う時以外で地図を開いている姿など見たことがない。鞄には入れているが、もしかしなくても‘一応’持っているといった程度の感覚なのかもしれない。
浮かんだ疑問を投げかけるか迷っている間に保護者が立ち止まった。それに合わせて弥生も止まる。
ラシェルが観音開きの扉の片方を内側へ引いた途端、ぶわりと肌寒い風が体を包んだ。先に出た長身に続いて扉を潜る。
「うわぁ…!」
遮るものが何一つない甲板には、果てしなく透き通った青が広がっていた。奥行きすら分からなくなりそうな冴え渡る青に真っ白な雲が点在し、鮮やかなコントラストが美しい。
吹き抜ける風が船の進む速さからくるものか、それとも空を吹く風本来のものかは分からないけれど、弥生の短い髪がその流れに洗われていく。
「……絶景ですね」
呟きを拾った保護者は頷いた。
「そうだね」
どちらも船の進行方向へ視線を投げかけたまま広大な空を暫し眺め続けた。遠くに見える鳥の群れは風に乗って天上の遥か彼方へ上昇し、雲の切れ間へ消えて行く姿はいつまでも眺めていたい気持ちにさせる。
耳元を掠める風の唸りを黙って聞いていた弥生が思い出したようにくしゃみを零した。我に返れば冷えた体が小刻みに震え、腕を摩ろうと触れた服はヒンヤリしている。
上着を忘れたのは失敗だったなぁと思う弥生の肩に何かがふわりとかかり、背中に感じる温もりに首を捻ればラシェルが着ているコートの裾を弥生の肩へ広げていた。
「君に上着を持たせなかったのは失敗だったかな」
自分と同じ内容を保護者も考えていたらしい。
落とされた言葉に弥生は笑って頷く。
「次は気をつけます。私の上着もそうだけど、これって保温性抜群ですよね」
肩にかかるコートを体の前まで引き合わせ、俗に言う二人羽織りに近い格好になる。間の抜けた見た目になってはいるがコートで隠れた部分は風を感じず、背中から伝わるじんわりとした温かさが冷えた体に染み込んだ。
「質が良いからね」
顔ばかりは致し方ないとして、保護者の上着と体温で暖をとりつつ、そのまま小一時間ほど地平線のない天空の景色を弥生は楽しんだ。
本音を言うならばもう少し留まっていたかったのだが、寒いし時間的にも良い頃合いだから昼食にしようとラシェルに促されて船内へ舞い戻り、食堂へ行くこととなった。
道を覚えようとしてみた弥生の努力も空しく、目印となりそうなものがない通路を保護者に先導されて歩いて行った。
食堂は広い部屋で雰囲気はファミレスに近い。各々の客達が丸いテーブルを囲んで食事を摂り、給仕係の人々が忙しなくあちらこちらに動き回る。出入り口で待っているとウエイトレスが一人、申し訳なさそうな顔でやって来た。
「すみません、相席となりますが宜しいですか?」
「だって。僕は良いけど、君は?」
話を振られて弥生は頷いた。
「私も構いません」
「ではこちらへどうぞ!」
ニッコリ笑顔で案内されたのは食堂のやや奥まった所にある四人掛けのテーブルだった。
二人の先客は正反対な風貌をした傭兵姿の男性達で一方は線が細くて物腰穏やかな見目の良い青年、もう一方は大柄な体つきに無精髭を生やした屈強そうな中年男性である。一見すると不釣り合いな組み合わせだが、不思議と彼らは互いに馴染んだ雰囲気があった。
ウエイトレスに相席を申し出されたその二人はラシェルと弥生を見、快く了承してくれたので空いていた席へ腰掛けた。座りは弥生から見て右隣りに青年、正面に中年男性、左隣りにラシェルとなった。
「またお会いしましたね」
「そうですね」
そのやり取りに、隣りに座る保護者の肘を軽く引くと黄茶の頭が傾ぐ。長髪の隙間から覗く耳に弥生は顔を寄せた。
「お知り合いですか?」
相手に聞かれて困る話でもないが、何となく囁き声で問う。
ラシェルは緩く頭を振り、眼鏡越しに見下ろされる。長い前髪とレンズの陰になって色が判らない瞳が一度瞬いた。
「知り合いではないよ。彼らとは王都から今までずっと一緒にいたけど気付かなかった?」
「え、」
王都から…?それじゃあ馬車の旅の間もいたってこと?
二人組を見遣れば青年は苦笑を零し、中年男性はニヤニヤと意味深な笑みを浮かべている。万遍(まんべん)なく二人の顔立ちを観察する弥生に中年男性が言った。
「この魔法士の兄(あん)ちゃんは見た目のわりに良い食いっぷりだったよなぁ」
どこか聞き覚えのあるからかい口調の言葉に、あっと声を上げた。青年は見覚えがなかったが、中年男性の方は初日に大量の夕食を消費したラシェルの食べっぷりを見て楽しげに絡んできた人物だった。言葉を交わさなかったことと、顔をきちんと見る機会がなかったため、ヒントを貰うまで同一人物だと分からなかった。
「えっと、覚えてなくてすみません…?」
「いえ、お気になさらず」
疑問形な弥生の謝罪に青年が軽く頭を振る。
そこで漸く話が途切れ、ラシェルが卓上に置かれていたメニュー表を手に取ったので横から覗き込む。相変わらず芸術性を感じる文字が並んでいて、いくつか分からない言葉は飛ばして読める範囲にだけ目を通す。鳥、牛、豚、魚など様々な料理があるらしいが単語は読めても料理の中身は不明だ。
一通り眺めた後に、鳥やチーズなど材料を読み取れたメニューを無難に指差す。
「私はこれにします」
「そう、じゃあ僕はこっちにしようかな」
ラシェルはよく分からない料理の名前に指を滑らせた。
そうして振り向き、軽く手を上げると先ほどのウエイトレスが小さなメモ帳を片手に寄ってくる。
保護者は表を見ながら自分と弥生の分のメニュー、それから二人分の水を注文する。それを一度復唱して内容に間違いがないことを確認したウエイトレスは足早に厨房へ去って行く。その背を見送った弥生は問う。
「‘こかとりす’ってなんですか?」
ラシェルが頼んだ料理の原材料は聞き覚えのない名前だった。
「鶏と蛇を合わせた感じの魔獣」
想像がつかない。しかし分かったことは一つ。
「……ゲテモノ?というか魔獣って食べられるんですか」
「食べようと思えば、多分どの魔獣も一応食べられるんじゃないかな。でも君が言う所の‘下手物’ほど美味しい場合もある」
本当なのかと若干疑いの目を向けてしまう。確かに見た目に反して美味しいものは元の世界にもあったけれど、残念ながら弥生は一度もそういった料理と対面したことがないので話を聞いてもイマイチ腑に落ちない。
「そうだぜ、嬢ちゃん。コカトリスはどこの森にも大抵居るし、煮ても焼いても結構イケるんだぞー?」
「えぇー…」
鶏と蛇が混ざり合った変な生き物を煮たり焼いたりする場面を想像した弥生は眉を下げた。よっぽど情けない顔だったのか青年と中年男性が笑う。
暫くしてやって来たウエイトレスがテキパキと卓上に料理を並べ、浅くお辞儀をして離れていった。
弥生の前にはグラタンみたいな料理、ラシェルの前にはパンとサラダ、それから唐揚げらしきものが広がっていた。美味しそうなそれの中身がコカトリスだろう。食欲をそそる良い匂いがする。
心の中でいただきます、と食事の挨拶を済ませてからグラタンらしきものを口に入れた。……美味しい。シチューに似た味で一口大に切られたパンとよく煮込まれた野菜が中に入っている。
そっとラシェルを見れば無表情に唐揚げを口にしており、その表情から味の良し悪しを読み取ることは出来ない。弥生の視線に気付いた保護者が小さな唐揚げを刺したフォークを向けてくる。
「そんなに気になるなら食べてみたら」
唐揚げとラシェルの顔を交互に見た。
「食べ慣れないとお腹壊す、なんてありませんよね?」
「僕は一度も無いよ」
「…じゃあ、お言葉に甘えていただきます」
意を決してフォークの先に刺さった唐揚げへ弥生は食いついた。
外側がパリッと揚がったそれを咀嚼する。中は柔らかくて肉汁が少なく、鶏肉のようでいて他の何かのような――…少なくとも弥生の記憶にはない不思議な味だ。だが文句なしに美味しい。口の中のものを飲み込んで素直に感想を告げる。
「ビックリするくらい美味しかったです」
「それは良かった。もう一つ食べる?」
「はい!」
嬉しそうな返事に保護者はさっきよりも一回り大きなものを選んで弥生の口へ入れる。フォークを抜き取り、自身も唐揚げを消費していく。
もぐもぐと口を動かしながら弥生が正面へ顔を戻すと同席している二人がこちらを見ていた。片や困惑気味のやや照れた表情をし、片や含みのある厭(いや)な笑みに口元を歪め、どちらも物言いたげな視線を向けてくる。ラシェルは全く気に留めていない。
何だろうと内心で首を捻りつつ、油っぽくなった口内の口直しに水の入ったカップへ手を伸ばす。陶器で作られたカップは厚みがあって重く、落とさないために両手で持ち上げて口元へ運ぶ。弥生が水を飲み始めたところで青年が聞いた。
「失礼は承知の上でお聞きしたいのですが、お二人はご夫婦か恋人同士で?」
ごふっ、と返事の代わりに咽(むせ)る音が卓上に響く。
音の発信源は言うまでもなく水を飲みかけていた弥生である。
「大丈夫?」
「…っ、ぅ」
「ほら、息吸って」
トントンと背を叩かれ、なんとか咳が治まった弥生は即座に叫ぶ。
「恋人でも夫婦でもないです!ラシェルもきちんと否定してくださいよ!」
「うん、そういう関係ではないね」
「遅い!!」
マイペースに曖昧な否定文を紡いだ保護者の脇腹に肘を打つと「それは痛いよ」と申告されるが、変化のない表情では本当かどうか怪しいものである。
溜め息を零して椅子に座り直した。
そうして自分が世間知らずなこと、勉強のためにラシェルが教師兼保護者として旅に同行してくれていることなど大幅に色々省かれた内容を伝え、弥生が上手く説明出来ない部分は横の保護者によって不自然にならない程度に補足が入った。少し緊張する。全てではないものの、やはり故意に他人(ひと)へ嘘を吐くのは落ち着かない。後ろめたい気持ちが滲む。
そんな弥生の内心に気付いた様子はなく、青年と中年男性は納得したのか深く追及してこなかった。
「だから恋愛的関係では全然全くありません」
最終的に最初の質問へ戻ってキッパリ断言した弥生と、異性として意識されていないと言い切られても平然としているラシェルに中年男性が微妙な表情で己の頬を掻く。年頃の若い男女とは思えないくらい互いの性別に頓着していない二人はいっそ清々しい。
「あー、なんだ、ただ単にアンタ等は気にしない性質(たち)なのか」
「「?」」
「夫婦か恋人でもなきゃ、普通は男と女が同じ食器で食べないだろ?」
そこで漸く何故青年と中年男性がラシェルとの関係を勘違いしたのか気が付いた。
唐揚げをもらう時に保護者の使っていたフォークから食べたことが原因らしい。正直弥生にそういった感情は欠片もない。ラシェルも同様に「ああ、そういうことか」と声を漏らす。
高校大学では部活やサークルなどで性別に関わらず友人関係を築いていただけに、余計疎くなっていたのかもしれない。自分に限らず他の人達も異性の友人と普通にやっていたことなので考えもつかなかった。
男女が仲良く‘あーん’をしていたら、何も知らない第三者としてはその男女が恋愛関係にあると思うのは至極当然な流れだっただろう。
「ラシェルはそういうの気にします?」
「見知らぬ誰かなら別かもすれないけど、今回は特に気にならなかったかな。君は?」
「右に同じくです。なんていうか、身長も相まって私達って保護者と子供な感覚に似てません?」
「それだ」
ポンと握り拳を手の平に当てて納得する保護者と、的確な表現が出来てスッキリした顔をする弥生に中年男性が小さく「つまんねぇなぁ」とぼやいた。
咎めるように青年が肘で軽くその腕を突いてから、勘違いに対して謝罪の言葉を述べる。
そう誤解させるような行動をしたこちらにも非があったので、ラシェルと弥生も首を振って気にしていないことを伝えた。
食事を終えた弥生達は、まだ食堂に残る青年達と別れて迷路のような廊下へ出る。
若干衝撃的な質問をされたり未知の食べ物に気を取られたりしたせいか、割り当てられた部屋へ戻る道順はすっかり頭の中から抜け落ちてしまっていた。歩き出した保護者を追いかけ、その背に問いかける。
「部屋に戻りますか?」
「まだ甲板と食堂しか回ってないけど、もう戻るの?」
「あ」
船内を見て回っている最中だったことを思い出す。
立ち止まった弥生にラシェルが振り返る。
「どうする?」
答えが分かり切った問いだった。
「まだ見て回りたいです」
「うん」
「素通りはダメですよ?」
「善処しよう」
それから二時間ばかりかけて船内を見て回った。操舵室や船員の居住スペース、食糧などの備蓄庫は立ち入れなかったものの男女別の浴場や談話室など様々な場所があった。
風呂好きな日本人としては浴場があるのが何よりありがたい。馬車の旅だから仕方ないとは言え外で服を脱いで軽く布で体を拭くくらいしか出来ない状況に比べたら天国である。
途中から弥生の頭の中は浴場のことで頭がいっぱいになっていた。
保護者は何も言わなかった。