馬車の旅を始めて四日、魔獣などに襲撃されることもなく弥生達は馬車の終着点である船着き場へ到着した。
この四日間、弥生はラシェルと一緒に男達に混じって夜を越した。既に成人した男女が恋人でもないのに寄り添って眠るのは常識的にいかがなものかと内心溜め息を零した。そんな弥生を余所に周囲は誰一人として咎めることなく、むしろ微笑ましい表情で許容されたのは一重に小柄さと童顔の賜物だろう。
それはともかく、船着場は現在いるカルトフリーオ国の端で、次に行く新たな国との境(さかい)でもある。国境の関が船着き場と併合して設けられ、森の中に石造りの頑丈な建物が並んでいた。
何より弥生を驚かせたのは船着き場の向こうに広がる光景だった。船と言うからには海があるものだとばっかり考えていた予想は裏切られ、果てしなく続く空が途切れた陸地から先を彩り、巨大な木製の船がオールとも羽根ともつかないものを左右下部に何十枚もくっつけて空中に浮かんでいる。それが魚のヒレのように動く様は何とも壮観だ。
「あれ、どうやって浮いているんですか?船体だけでも相当な重さですよね」
飛行機やヘリコプターとも違い、海を航行していそうなフォルムはどこからどう見ても船だ。
通行門から伸びる旅人の列に加わり、隣りに立つラシェルへ疑問を投げかける。保護者は一度船を見た後に弥生へ視線を落とした。
「あの下に沢山付いてる羽根みたいな部分を翼(よく)って言って、風石を使っているんだよ」
「ふうせき?」
「魔石の一つ。魔石は精霊が触れることで魔力が宿った特殊な石、あれは風の精霊が触れてその力が移ったものだから風石。質の良い物は親指くらいの大きさで人が一人浮くよ」
「…じゃあ翼が壊れたら船は墜落する、と?」
「そうなるね」
そんな話は一度も聞いた事がないし、早々壊れないから心配ないと思う。ラシェルのその言葉を信じて弥生はそれ以上深く考えるのをやめた。怖がったところで大陸間を渡るためには船に乗る以外、移動手段は他にないのだ。
船から通行門へ視線を下げれば鎧を身に纏った人々――王城の騎士とは違って、こちらはまさに兵士といった風体だ――が、手に少し厚みのある手鏡にも似たものを持っていることに気付く。その上部には小さな縦穴が空いており、そこへ旅人達が首に下げた身分証を差し込む。鎧を着た人は暫し手鏡を見て「通って良し」と言った。
弥生にはどこからどう見ても丸い手鏡にしか見えないが、あれが身分証を読み取る装置らしい。
鎧を着た屈強な男達と手鏡はミスマッチ過ぎて、状況を知らなければ盛大に笑っていただろう。
それと同時にどんな仕組みなのかが気になった。バーコードやICタグのような感じにも見えるけれど、自分の首にかかっている身分証は乳白色の表面が綺麗な虹色に輝くだけで何かが刻まれている様子は見受けられない。科学とは全く異なる技術は時に恐ろしく感じるものの、こういった不思議なものと出会うと好奇心の方がつい勝ってしまう。
ウズウズしている弥生に気付いたのか、ラシェルは早々にその好奇心の種を摘み取った。
「身分証を調べるあの確証鏡(かくしょうきょう)は関の門番しか使用出来ない物だから、許可無く触ると処罰されるよ」
詰まる所、弥生にはあの手鏡らしきものは扱えないし、下手に触れることも出来ないのだ。全く残念である。
そんな話をしている間にとうとう弥生とラシェルの番が回って来て、服の中から身分証を取り出し、それぞれ門番の持つ手鏡の上部へ差し込む。少しの間の後に通行の許可だ出た。他の人よりも許可が出るのが早かった気がするのは、やはり後見人に一国の王が名を連ねているお陰だろう。首から下がる身分証のツルリとした表面を指先で軽く撫でて服の中へ仕舞う。
後ろに続く旅人が身分証を確認される姿を名残惜しく思ったが保護者に促されて門を潜り、船へ乗る橋に足をかけた。耐久性があるにしても木製は見た感じの古めかしさが不安を煽るので勘弁して欲しい。もし万が一にでも板を踏み抜いたりしようものなら、十中八九宙へ放り出されてしまう空恐ろしい木橋をややへっぴり腰で渡る。
船内には幾つも部屋があるそうで出入り口で人数を聞かれた後、数字を告げられ、ラシェルが壁に貼られた船内図を見て歩き出す。お世辞にも広いとは言えない廊下を進み、やがて言われた番号が大きく書かれた扉の前で立ち止まった。数字なら読める。部屋は六十八番だった。
「此処が今日から寝泊りする部屋だ、間違えないでね」
「はい」
中へ入ると四畳半ほどの部屋に二段ベッドとテーブルが一つ、椅子が二脚置かれているだけの簡素なものだった。しかしながら、それなりに掃除が行き届いているようで埃っぽさはない。荷物をベッドの脇に置いて、ふと保護者と目の前の家具とを見比べて思う。
これサイズが合わないんじゃない?
ラシェルは長身で、身長が百五十そこそこの弥生が首を上に向けて見なければいけない程度には背が高く、椅子に腰掛けている時は長い足を大抵組み、話の最中もよく猫背になって顔を覗き込んで来る。弥生には十分なサイズでも、それ以上に大きな保護者には寸足らずなように見えた。
振り向くと椅子に座ったラシェルは案の定足を組んで、自分の荷物から取り出した本をその膝上に置いて既に読み始めている。
「あの、一つ聞いても良いですか?」
声をかけるとスッと静かに顔を上げ、微かに首を傾げられる。
「このベッド、ラシェルには小さくありませんか?」
「うん、小さいね。でも野宿よりずっと良い」
それは確かにそうなのだが、窮屈ではないのだろうか?眉を顰めるとラシェルは不思議そうに二度ほど瞬きをして今度は反対側へ首を倒す。サイズが合わないことなど欠片も意に介していないらしい。本人が良いなら口出しする必要もないかと首を振って何でもないと告げた。
また読書に集中する保護者を横目に弥生は履いていたブーツを脱いで上段のベッドへ上がる。天井との隙間は一メートルあるか怪しいけれど、飛び起きて頭をぶつける不自由はなさそうだ。梯子から一旦降りてポンチョのような上着を脱ぎ、丁寧に畳んで荷物の上に置くと、もう一度梯子を上る。ベッドへ寝転がれば畳に布団を敷いた具合に似て悪くない。
うつ伏せ状態で膝を後ろへ曲げて素足を前後へ動かすと足が気持ち良い。ブーツは暖かいが通気性が悪過ぎて蒸れるのが少々難点である。だが見た目も履き心地も結構良いので短所と長所的にはとんとんだ。
固めのベッドと素足の気持ち良さを楽しんでいた弥生の耳にパタンと本を閉じる音が聞こえて来た。
柵の隙間から顔を出せば丁度見上げて来たラシェルと目が合う。
「もしかして、もう読み終わりました?」
「うん。暇なら、これから行く国の話でもする?」
「是非!」
「じゃあ下りておいで」
起きて梯子を下りる弥生にラシェルも荷物から地図を引っ張り出した。
素足のまま椅子へ行こうとすると物言いたげに足元を眺められ、それでも足を踏み出せば今度は足から顔へ視線が向く。無言の注意に諦めてブーツを履き直すしかなかった。
テーブルに地図を広げて二人は平面を覗き込む。
この船の向かう先は大小九つの列島からなる細長いエステルノという国。船で二日ほど飛べば到着する。列島が多いのに山がほとんど無い地形は、元の世界の大陸や島と成り立ちが異なるからか。弥生の目には不思議な列島の集まりだ。
「島と島の行き来が大変そうですね。この間も船が出ているんですか?」
「いや、船は出てない。エステルノでは一島(いちのしま)に飛竜屋があって、そこで飛竜(ワイバーン)を借りて移動するんだ。小型の竜だよ」
「危なくないんですか?人間を襲ったり食べたりしません?」
「魔獣だけど交通用に飼われているものは人に慣れているから大丈夫。手綱さえ離さなければ振り落とされたりしない」
それって手綱を離したら死にますよね。なにそれ怖い。
この世界の人って危険に対する感覚が結構低いんじゃなかろうか。船同様それしか足がないのなら乗るしかないが、もう少し安全面に気を付けた乗り物が欲しい。もし落ちた場合は誰が責任を取る――…いや、自己責任か。
弥生の不安を余所に、ラシェルはエステルノの特色について説明を始めた。列島続きの国はそれぞれの島に多くの湖や川があり、水産物に恵まれているのだとか。一島から九島(くのしま)へ向けて気候が変わるそうだ。
「私からすると何でもありって感じで、色々摩訶不思議です」
「ふむ、例えば?」
問われ、先ほどまで考えていた火山や海についてを大まかに説明すると保護者は興味深そうに目を細めた。手元にある本の、閉じられたページの横を指の腹で撫でる仕草は多分癖なんだろう。紙は元の世界のように薄いものではないが、それでもそのうち白い指が切れてしまうんじゃないかと冷や冷やする弥生に気付かず、ラシェルはそれを繰り返す。
「火山はこの世界にもある。ただ発生の原因は違う。火山は火の精霊の住処(すみか)で、余程の事が無い限り噴火はしない。それから‘うみ’って単語は初めて聞く。どんなものなの?」
「海ですか?えーっと、塩分濃度の濃い水で、一日の中でも水が引いたり戻ったりする時間があって水面の高さが異なります。場所によっては栄養があり過ぎたり、酸素が無くて生き物が住めなかったり、寒過ぎて巨大な氷が大陸みたいになっていたり。……海の説明をするには私が生まれた地球という一つの星の成り立ち辺りから始めなければいけなくなりますが、あんまり詳しくないし長過ぎて説明出来ません。海の成り立ちを説明するなら地球の誕生に触れる必要があって、そうなると更に外側の世界である宇宙という場所の話にまで飛んでしまうので割愛させてください」
「へぇ、聞けば聞くほど想像出来ない。塩分を濃く含んだ水でも生物が生きていけるだなんて驚愕の事態だ。それに話を聞く限り、君の世界はこちらよりも様々な技術が発達しているみたいだね」
「魚に自分の体内の塩分濃度を調節できる種がいるんですよ。技術や宇宙については無理ですけど、海についてはまた今度、機会があったら改めてお話します」
深く突っ込まない保護者にホッとしつつ頷いた。
自分に負けず劣らず知識欲の強いラシェルに応えようとしたら、恐らく専門家であっても太刀打ち出来ないかもしれない。申し訳ないが一般人の弥生はその好奇心に答えられるだけの知識を持っていない。同年代の中では物知りな方かもしれないけれど、一つ一つの知識を繋げても深く掘り下げて述べることは無理だ。
逸れた話を思い出したのか、そこで海の話は打ち切られ、エステルノ国の特色へ路線が戻る。カルトフリーオに近い北の一島は寒く、そこから南の九島に行くほど気温が上がり気候も穏やかになる。話の雰囲気からして冬から初夏くらいの違いがありそうだ。たった一つの島でそこまで気候が違うのはこのエステルノ国だけで、他の国は大体気候が一定しているらしい。
弥生が世話になっているカルトフリーオは極寒の北国なので酷く寒い。温暖な地へ行けると聞けば楽しみに感じるのも仕方がないことだった。
「首都フォルティスは一島だし、船着き場に近いから王城はすぐだよ」
「王城って、入れてもらえるんですか?」
「どうだろう。陛下より頂いた書状を渡して蔵書を見せてもらえればとは思っているけど」
そこまで考えていなかった。
ラシェルの言葉に自分がどれだけ考えなしで行き当たりばったりか思い知らされる。陛下もその書状をわざわざ書いてくれたんだ。
目から鱗が落ちる気持ちで弥生は保護者を見るも、ラシェルはそれを期待と勘違いしたのか小さく肩を竦めた。
「あくまで可能性があるだけで、門前払いされるかもしれないから過度な期待は禁物だよ」
「はい」
「駄目だったら、その時は仕方が無い。……後の島は通り過ぎるだけになるだろうけど、一国内で環境が変わるから景色を観るだけでも十分面白いだろうね。二人乗りの飛竜を借りる予定だから君は景色を楽しみなよ」
決して後ろ向きにならない保護者に励まされるように頷いた。
早く元の世界に帰りたいと思う反面、見知らぬ世界の異国の地、触れたことのない文化などはとても胸が躍る。帰る前に様々なことを見聞きしたい。こちらの世界に来て退屈な日など一日もなく、日々多かれ少なかれ新しい知識や経験を得て冒険家になった気分だ。
拭い切れない不安は数え切れないけれど、そんなものを指折り数えて泣くよりも、毎日変わる景色を見ながら可能性を探す方がいい。
地図をトランクに仕舞った保護者が懐から取り出した硬貨の額を確認すると、立ち上がって弥生に手を差し出した。
「到着は早くても明後日の昼過ぎだ。時間はまだあるし、せっかくだから船内でも見て回ろうか」
「はいっ」
明るい返事と共に手を重ねた弥生をラシェルが軽い動作で引き上げる。
先に廊下へ出て、扉の内側にかけられていた鍵を手にした保護者もしっかり戸締りをして振り向く。
「それじゃあ行こうか。何か希望はある?」
「外を見てみたいです」
「なら甲板だね」
歩き出した長身の背を弥生は追いかけた。かなり高い背なので見失うことはまず無いだろう。