どこまでも続く水平線は空と海の青を分け、波飛沫でキラキラと水面が輝いている。
甲板の隅に追いやられていた木箱の縁に腰掛け、あたしは見るともなく果てしない青を眺めていた。
やや離れた場所では先程食堂で会ったモノクルの人が何やら船員達にあれこれと指示を出し、忙しない足音や声が聞こえてくる。
ワザと近付かないのか周りには誰もいない。
姉とも話したいのに姿が見えない。太陽は既に天上に昇っている。
やることもない状態で、何の変化もない景色を眺めるのにもそろそろ飽きてきた。
副船長さんには止められているけれど、あの男の部屋へ突撃してしまおうか?などと考えるくらいには、待つのにウンザリしている。
ずっと背中に感じている視線にも溜め息を零してしまう。
同時にフッと周囲に影が落ちた。
「…?」
なんだろうと首を上に向け、思わず固まってしまう。
この船の船長が真後ろに立ってあたしを見下ろしていたのだ。
やや湿っているらしい青い髪を風に遊ばせ、鋭い金色の瞳で興味なさげに見て、子供にするように抱き上げていた真白をあたしの隣りに下ろす。
そうして真白の頭を軽く撫でてモノクルの人の方へ行ってしまった。
「って挨拶もナシな訳?」
「おはようなのです!」
「真白のことじゃないんだけど――…おはよ。」
あたしと同じく木箱に腰掛けて足をプラプラさせながら真白はニコニコしてる。
そんな姉を見ていたら何だか怒るのも馬鹿らしくなってきた。
真白に抱き上げられてその膝に座ると優しく頭を撫でられる。
すると、それまで誰も近付いて来なかったあたし達の傍を船員達が通るようになった。
クッションを持って来たり、挨拶をしたり、わざわざ日傘のようなものを差していく人もいて、姉は一人ひとりに返事を返す。お互いに慣れた様子で交わすやり取りはごく自然なものだ。
「真白はココにいて幸せ?」
答えを聞く必要もないくらい嬉しそうな笑顔に胸が痛んだ。
「幸せです。」
「そっか、」
「でも、時々すごく寂しくもなるのですよ。お母さんやお父さん、真雪ちゃんやお友達の皆と会いたくて仕方ない日だってあります。」
「そうなの?」
困ったような顔で真白が見下ろしてきた。
キュッと抱き締められ、視界は姉の着ている服で埋まってしまう。
「ヴェルノさん達も優しくしてくださいますが、私の大切な家族は真雪ちゃん達だけですから。」
僅かに震える体にあたしも腕を伸ばして姉の肩を軽く擦る。
あんまりにも馴染んでいるから違和感を感じなかったけれど、姉はこの世界に知り合いも家族もいない。海賊である船長や副船長さんにもしもの事があったら真白は本当に独りになってしまうだろう。
生まれてからずっと一緒にいた人達と離れて平気な訳がない。
「…それでも帰る気はないの?」
「はい。何より、向こうに‘私’はもういないので帰りようもないのです。」
この姉はマイペースでのんびりしていて天然で、昔から芯があってちょっと頑固な部分もあった。
そういうところは姉妹なだけあって似てるねと友人や両親に何度も言われた記憶がある。今更ながらにあたしと真白はやっぱり姉妹なんだな、と思う。
体が離れると真白はあたしを膝に戻し、意を決した様子で「あのですね、真雪ちゃん、」と改まった声音で切り出してくる。
物凄く嫌な予感がした。姉が改まって何かを言うときは大抵あたしの意思に反する場合が多いから。
「真雪ちゃんには元の世界に帰ってもらいたいのです。」
それは死刑宣告みたいにあたしの中で反響する。
…元の世界に帰る。あたしだけ…?
「っ、それはあたしが邪魔ってこと…っ?」
二度と会えないと思っていた。だけど、また会えた。もう大切な姉を失いたくない。
あたしの問いに真白は驚いたように目を見開き、しかし否定も肯定もしなかった。
「そういう事ではありません。真雪ちゃんの体がヌイグルミさんだということは、まだ向こうの世界の真雪ちゃんは生きているのです。…真雪ちゃんまでいなくなったらお父さんとお母さんが悲しむのですよ。」
「そんなの真白がいなくなった時だって同じだった!」
「だからこそ真雪ちゃんには元の世界で、私の分までお父さんとお母さんと一緒に居てあげて欲しいのです。」
「嫌だ、あたしは帰らない!勝手に決めないでよ!!」
姉の言っていることは正しいのかもしれない。でも、それじゃああたしの気持ちはどうなるの?
振り払った腕の中から勢い余って床へ落ちてしまい、ボテリと木の板に顔面をぶつけ、それが余計に悔しくて伸びてきた真白の手をすり抜けて走り出す。
後ろから名前を呼ぶ声がしたけれど立ち止まることは出来なかった。
重心の悪いヌイグルミの体は走るとフラフラと頭が左右に揺れて何度も転びそうになる。
それでも薄暗い船内の通路をめちゃくちゃに走った。
泣きたくなって喉が震えるのに涙が溢れてこない。
悲しみだとか、怒りだとか、寂しさだとか、様々な感情が押し寄せてきて頭の中がぐちゃぐちゃになってしまう。その癖、頭の片隅では姉の言う通りにするべきだと冷静に考える自分がいる。
――――分かっているからこそ悔しかった。
「っ!」
「あら?」
ドン!と壁のようなものにぶつかって体が跳ね返る。
既に聞き慣れ始めていた独特な口調の声が頭上から降り、転がったあたしを副船長さんがサングラス越しに見下ろしてきた。
角を曲がってきたところでぶつかってしまったらしい。その後ろには今まで見た中で一番若い男の子が目を丸くしてこちらを覗き込んでいる。
男の子はどこか見覚えがあるような気もしたけれど生憎思い出せなかった。
「ごめんなさいね〜、大丈夫だったかしら?」
ニコリと笑いあたしを立たせ、パタパタ付いてしまった埃を払ってくれる。
お礼を言おうと思って開いたはずの口から零れたのは子供みたいな泣き声だった。
泣きたいのに泣けなくて。分かっているのに分からないフリをしたくて。なのに結局は全部自分の我が儘なんだって理解してる。
………ただ一緒にいたいだけなのに。
大切なものって、どうして何時も手の中に残らないんだろう。
蹲って馬鹿みたいになき続けるあたしの頭を大きな手が黙って撫でてくれる。
その手付きがあまりにも優しすぎて、余計苦しかった。