ベッドの上に、すやすやと健やかに上下するシーツの塊があった。
起こした上半身を横向きにして片肘を付きつつ、その中を覗き込むように眺めていたヴェルノは、そこから見える幼い寝顔の頬を意味もなくつつく。
そうして、ふわふわと乱れた黒髪を指先で撫で梳かす。
子供の髪の如く細く柔らかで、くるりと癖があるそれは潮風に晒されながらも良い手触りを保っていた。
何度も指を通していたからか、不意に真白の眉が寄り、体を捩ってぐずる。
安眠を妨げてしまったらしい。
ヴェルノは喉の奥で音もなく笑い、黒い前髪を軽く掻き上げて触れるだけのキスを落とした。
片手で頬を包み猫にするように顎下と首を優しく撫でる。
手の温かさ故か、慣れた感触故かは分からないが顰められていた眉が戻り、ほぅ…と淡い紅色の唇から安堵の溜め息が漏れた。
頬を手に擦り付けてくる姿に暫くの間ゆるゆると撫で続ける。
満足したのかまた深く寝入った真白の呼吸を聞いて、そっと手を離した。
窓の外は既に明るく太陽もそれなりに高い位置にある。普段ならばもう起きている時間だ。
眠気はないし、腹だって空いて空いている。
しかしシーツの中で眠る真白を一人部屋に残して食堂に行こうとは思わない。
自分が抜け出ている間に目を覚まして動くに動けない体で室内をチョロチョロされたら困る、というのが理由の一つ。
後は眠っている間に手触りの良い髪を撫でたり、ちょっとした悪戯をしてその眠りを邪魔してみたりするのも存外楽しい。
シーツを肩まで引き上げてやりながら昨日のことを思い出していた。
真白の妹だと言う白い熊のヌイグルミを船に置くことになったけれど、ヴェルノは真白の妹にはこれっぽっちも興味が湧かない。
死のうが生きようが、どうでもいい。
ヴェルノにとっても、この船にとっても乗せたところで何か利点がある訳でもなし。
だが殺そうと思う程煩わしい訳でもなく、次の島で降ろしてしまおうくらいに考えていた。
ただ真白は絶対に拒否するだろうから、酒を飲ませて潰し、食堂に向かったのだ。
結果としては潰し切れていなかった真白の乱入により、船に乗せることになってしまったが。
「まぁ、悪くない条件か。」
恋人をからかう楽しさが増えて、唇が弧を描く。
‘名前を呼んだら自分から口付けをする’
そんな戯れにも似た条件はヴェルノからしてみれば可愛らしいものなのだが、幼さの残る恋人には難しい要求らしい。
やや渋りつつも名前を呼ぶ度に顔を寄せて来た姿を思い出してシーツごと抱き締めた。
真白の願いは二つ。
一つは昨日決まったこの船に乗せること。
もう一つは、もう二度と足を踏み入れるつもりのないあの場所へ向かうこと。
何か考えるところがあるようで、その黒い瞳に確信に近い光を宿してヴェルノに頼み込んできた。
悲しげな、けれどそれが正しいと信じて疑わない様子で愛する恋人に‘お願い’されてしまったら頷くしかない。
普段は自由気ままに感情に従っている真白が今回は自分の思いを全て押し込めている。
妹のためにそこまでする姿を見るのは酷く面白くない。
真白がヴェルノを好きだというのは事実だ。
そしてヴェルノ自身も真白に並々ならぬ愛情を感じている。
しかしながら、まるで存在するのに掴めない雲みたいに真白は気の向くまま、あちこちへ心を飛ばしてしまう。
もっと…――そう、それこそ自分から視線すら外せなくなるくらい依存しろと願うヴェルノの想いなど全く気付いていなさそうなのだ。
自分だけのモノにならないなら他の誰かに気が行く前に殺してしまいたい。
そうすれば真白は二度と自分以外のモノになどならない。
…だが、そんなことをしてしまえば二度と真白の笑顔も声も、その柔らかな温かささえも触れることは出来なくなる。
これまでに数え切れない程の人間を殺してきた癖にたった一人の少女だけは殺せない。
そうなってしまった自分を甘いと思う反面、その変化を心地良いと受け入れる己にもヴェルノは驚いていた。
「クソッ、面倒臭ェな…。」
真白は殺したくない。だが悲しむのも、嫌われるのも自分の望むところではないから、恋人に近付く人間も殺せない。
‘優しさ’なんて気紛れは当の昔に捨て去ったはずなのに。
堂々巡りの思考に苛立ち何も巻いていない頭をガシガシと乱暴に掻く。
その揺れが伝わってしまったようで抱き寄せていたシーツの塊がもそもそと動いた。
続いて意味を成さない唸り声が少しだけ聞こえて来る。
頭を掻く手を止めて覗き込めば、案の定真白の瞼が持ち上がり薄っすらと開く。
ぼんやりとあまり焦点の合っていない黒い瞳が暫しヴェルノを見て、ふにゃんと緩む。
「おはよー、なのです…。」
昨夜のせいか少し掠れた声で内緒話のように挨拶をかけてくる。
返事の代わりに額へ唇を押し当て、名前を呼ぶ。
「真白、」
「?――――…あ!」
数拍後に要求を理解したらしく、ぱちりと黒い瞳の焦点が合って頬が赤く染まった。
それでも素直に顔を寄せて来て頬にその唇が触れ、すぐに離れてしまう。
ヴェルノはベッドから起き上がりシーツごと真白を抱き上げて浴室へ向かった。扉を足で押し開け、その向こう、ふかふかと毛足の長い敷物の上に下ろすと寝癖の付いた黒髪を一撫でして扉を閉める。
ベッドの周りに散らばった服を拾いソファーの背に乱雑にかける。
どうせ世話焼きな己の右腕が後で勝手に片付けるだろう。
机の上に出しっ放しだったパイプを掴み、その中に火を灯して軽く吸う。
前は葉巻の方が好きだったのだけれどパイプのあの甘苦い独特な香りの方が真白は好きだと気が付いてから、葉巻を吸うのは止めてしまった。
パイプ片手に読みかけの本を引き寄せてページを開く。
浴室から相変らず悲鳴なのか文句なのか分かり難い声が聞こえてきて、自然と口元がつり上がってしまう。
暫く読書をして過ごしていると浴室の扉が開いた。
視線を向ければ体に少し厚手の大きな布を巻いただけの真白が扉にしがみ付くようにして立っている。
どこか恨みがましげな視線を無視して本を閉じ、パイプを置いて周囲に漂っていた煙を軽く払い、歩み寄って真白を抱きかかえた。ベッドの縁に腰掛けさせてから真白用のチェストを開ける。
「何色だ?」
「青です!」
詰め込まれている服達は多色過ぎて、並べられている様子は色鮮やかだ。
言われた通りその中からヴェルノが青いワンピースを取る。別の引き出しからは襟にレースがあしらわれた白いワイシャツを引っ張り出す。
それから小さい引き出しの中に収められていた肌着も出して、全部を真白へ投げ渡す。
「着替えとけよ。」
「はいなのです、ごゆっくりどうぞですよ!」
机の上に置いてあったパイプの火を消して背の高い棚の最上段へ仕舞う。
そのままにしておいたら真白が興味本位で手を出し兼ねないのだ。
背後から聞こえた残念そうな溜め息に呆れつつ、ヴェルノは浴室の扉を後ろ手に閉めた。